母たちの恐怖 ウィルヘルミナ
刺繍をする手を休めてウィルヘルミナがふ、と溜息を吐くと、新参の侍女が心配顔で覗き込んできた。
「王妃様……さぞお気が塞がれていることでしょうね。このように閉じ込めるような扱いで……それもあんな者が護衛だなんて……!」
「いえ、そういう訳でもないのだけれど」
エルジェーベトの、そして最近彼女の周囲を去った者たちの代わりに迎え入れた女だが、夫が警戒しているにも関わらず、この物言いからすると父の影響を完全に排することはできなかったらしい。それとも、ウィルヘルミナが今の境遇を不満に思っているに違いないと信じ込んでいて、同調してくれているつもりなのだろうか。いずれにしても、夫が信頼してつけてくれたアンドラーシを悪し様に言われては、心穏やかでいるのは難しい。
――そもそも私がお願いして来てもらったのに……。
アンドラーシが――父とは関わりのない者が傍近くにいてくれるということは、ウィルヘルミナにとっては息苦しさどころか一抹の安堵を与えてくれることだった。アンドラーシが父を嫌っていることは鈍い彼女にさえも明らかで、そのせいで心が痛むこともあるけれど。でも、そういう人ならば父が彼女に接触してこないように、しっかりと見張ってくれると思うのだ。
ウィルヘルミナは、エルジェーベトとまた対峙するのが怖いのだ。彼女のために危ないことなどして欲しくないのに、エルジェーベトも息子のラヨシュもウィルヘルミナに無償の献身を捧げてくれる。決してそのような忠誠には値しない愚かで無力な女に過ぎないのに。
父の手の者が接触できない状況にしてもらえば、少なくともエルジェーベトは罪を重ねなくて済むだろう。ラヨシュも、母の指示がなければおとなしくアンドラーシの下で鍛錬に励んでくれるかもしれない。
「王妃様、どうかお心の裡を明かしてくださいませ。新参ではございますが、お力になれれば、と思っておりますの」
「本当に大丈夫なのよ」
どこかへ行ってくれないかしら、とウィルヘルミナは侍女に対して少々不躾に思ってしまう。主の機嫌をよく読んで、放っておいて欲しい時には黙って距離を置いて見守ってくれていたエルジェーベトとは違って、今彼女を取り囲む者たちは、それほど彼女の扱いに慣れていない。王妃の気鬱の本当の理由がどこにあるのか――慮ろうとはしないし、自らを売り込むことばかりに必死なのだ。
――エルジーも……私の気持ちを分かってはくれなかったけど。
侍女の話を聞く気がないと示すために、自分でも何を縫い取っているか分からない針を動かしながら、自嘲する。
父よりも夫を選んだこと。父が王である夫に背くのは止められなくても、せめてエルジェーベトとラヨシュには逃れて欲しかったこと。姉妹のように育った相手だと思っていたのに、いずれもエルジェーベトは決して理解してくれなかった。そして恐らくは、血を分けた肉親たちも。
実家のティゼンハロム侯爵家からは、母の容態が悪いという報せが来ている。だから娘と孫に顔を見せて欲しい、と。
字を読めるようになってきたマリカはその手紙を読んでおばあ様に会いたいとせがむし、ウィルヘルミナとしても気が気ではない。でも、同時に多分嘘なのだろうということも分かってしまうのだ。だって、以前にも同じことを言われて実家に戻ったのに、けろりとした顔の母に迎えられたことがあったのだ。あの時ならば、無邪気に母の無事を喜んで、娘気分で実家で羽根を伸ばすこともできたけれど。――今は、そのようには思えない。
結局、父も母もエルジェーベトも、ウィルヘルミナを心底侮っているのだと思う。この期に及んでも父と夫の確執には気づかないで、母を人質のようにすればすぐに飛んでくるのだとでも思っているのだろうか。確かに、少し前までの彼女なら、父たちが思った通りに動いていたのだろうけれど。
最近見聞きすることの全てに自身の無知さ無力さを突きつけられて。彼女をそのように仕立て上げた父たちを恨む気持ちが生まれた一方で、実家からの呼び出しに応えない不孝はウィルヘルミナの胸を刺す。このまま父と夫の争いが本当に始まれば、母たちにはもう二度と会えないのかと思うとなおのこと。
――ああ、でも、実際に戦う方たちに比べれば私の苦しみなんて……!
アンドラーシがどこか冷ややかな目で彼女を見るのに、さすがのウィルヘルミナも気付いている。実の父が王に背こうとしているのに、娘が諫めることができないなど、傍から見たらおかしいとしか思えないのだろう。
『恐れながら、王妃様に危害を加えるような不届き者はいないかと存じますが』
アンドラーシが言ったことは全く正しい。シャスティエに比べれば実際の危険は何もないのに、護衛などを頼んで図々しい女だと思われたことだろう。そしてそう思われても仕方ないのだ。エルジェーベトのことを夫に言いつけることもできず、閉じこもって自分だけでもほんのわずかな安心を得ようとしているのだから。
「あのアンドラーシという者、大した門地もないくせに不遜な態度で――苛立たしく思っている者も多いのですわ」
ウィルヘルミナの懊悩にはやはり気づかないままなのだろう、新参の侍女はなぜか得意げに話し続けている。
「今日はあの者がおりませんで王妃様もお心安らかでいらっしゃいますでしょう。きっとあの男、今頃陛下からお叱りを受けていますわ」
「……なぜ? どういうこと?」
初めてウィルヘルミナが正面から目を合わせたので、相手は彼女の関心を惹けたと思ったらしい。それこそ不遜なほどにふてぶてしい笑みを深めて、何事か言おうと息を吸う――が、恐らくは聞くに堪えないであろう言葉をウィルヘルミナが聞くことはなかった。
「王妃様、陛下のお召しでございます。お支度を、どうか早く……あの、側妃様の離宮へ――」
ひどく慌てた様子の侍女がひとり、王妃の居室へと駆けこんできたのだ。夫の呼び出しに加えて、呼ばれた場所がウィルヘルミナの胸を波立たせる。
「シャスティエ様のところ……? なぜ、何があったの……?」
夫があの方を訪ねているのは当然のことだ。あの方こそ――ウィルヘルミナの父のせいで――御子ともども命の危険に曝されている。夫が気遣うのは当然のこと、嫉妬など覚えてはならないはずだ。だが、そう自分に言い聞かせようとしても、やはり嫌な予感は拭えない。マリカがフェリツィア王女に不用意に触れてしまったあの件以来、ウィルヘルミナは離宮を訪れることをまだ許されていないというのに。
「陛下から直接お話がありますから、どうかお急ぎください。王女様にはくれぐれも気づかれぬように」
最初に駆け込んだ侍女よりもはるかにしっかりとした、そして更に張り詰めた声で告げたのは、アンドラーシだった。確かに今日は夫に呼ばれたからと傍にいないことを詫びられていた。その彼がここに来たということは、夫との間に何があったというのだろう。しかも、わざわざ娘にも言及するなんて。
――シャスティエ様も、いらっしゃったのかしら……? それに、マリカがどうしたというの……?
「……はい。分かりました」
悪し様に言っていた当の相手が現れて、先ほどまで話していた侍女は固まってしまって動いてくれそうにない。そもそもこれほどの急かされよう、着替える暇も許されないだろう。
普段着に下ろした髪の姿でシャスティエの前に出る――その予感を憂鬱に思い、さらにその思いを後ろめたく思いながら、ウィルヘルミナは針を置いて立ち上がった。
ウィルヘルミナが側妃の離宮へ着くと、アンドラーシ同様に強張った面持ちの夫に迎えられた。
「来たか」
「はい。何があったのですか」
そして夫に凭れるように、シャスティエもいる。その距離の近さ、寄り添うようなふたりの姿にまた胸を刺され、更にシャスティエの顔の白さ――雪の色を通り越して青白いとさえ見える顔色の悪さに息を呑む。友人と思っている方の容態よりも、夫との距離に動揺してしまった自身の浅ましさが悲しかった。
とはいえ今起きている何事かの前に、ウィルヘルミナの想いなど些末なことであるらしい。シャスティエが椅子を勧めるのさえ待たずに、夫は鋭く切り出したのだ。
「マリカはどうしている。部屋で大人しくしているか」
「はい……。あの、相変わらずむくれてはいるのですけど。でも、出歩いたりはしていませんわ」
「そうか……」
彼女のおどおどとした答えに、どういう訳か夫の緊張が一段溶けたようだった。おじい様やおばあ様に会いたいと言っては父を責める最近の娘の態度を、咎められるのかと恐れたのだけれど。
――何が起きたというの……。
先ほどから胸に渦巻くのは同じ疑問。でも、何も分からないままで答えを急かして良いものなのかどうか。シャスティエが今にも倒れそうな様子だけに口を開くことが憚られてしまう。
と、ぐずぐずしているうちに、ようやく馴染みのある金茶の巻き毛の侍女が茶を運び、ウィルヘルミナのために椅子が引かれる。夫もシャスティエも席につき、ウィルヘルミナをここまで伴ってきたアンドラーシは立ったまま控えて。形ばかりは普通の茶会のように整った時――夫は深く息を吸い、次いで吐いた。
「アルニェクが――マリカの犬が死んだのだ。すぐそこ、離宮の庭先で」
「え」
豪胆な夫をして躊躇わせるほどの事態を、身構えていたつもりだった。けれどそれも無駄なことだった。それほどに、夫の告げたことはウィルヘルミナが予期しなかったもので、しかも恐ろしいものだった。
「そんな。どうして……」
ほんの数日前にも、マリカがアルニェクと遊んでいるのを見たはずだ。まだ子供のような若い犬で、毛並みも艶々としていたし元気に駆けていたというのに。
「恐らくは毒のようだ。今腑分けさせて調べさせている」
「そんな……」
ウィルヘルミナも撫でさせてもらったことがある、あの柔らかく温かな毛皮が無残に切り刻まれているというのだろうか。記憶の中の愛らしい姿とその無残な想像が結びつかなくて空しく喘いでいると、シャスティエがぽつりと呟いた。
「侍女たちは、最初はフェリツィアが狙われていると思ったようです。赤子の乳の匂いに惹かれて来たのでは、と」
「そんなはずはないわ。あの子はよく躾けられてて、大人しい子で――」
「ええ! でも牙を剥いて涎を垂らしていたからと……それでも、様子がおかしいとすぐに気づいたようですが……」
悲鳴のようなシャスティエの声を聞いて、その悲痛な響きに娘の犬を庇おうとして不用意なことを言ってしまったことに気付く。赤子のすぐ傍で恐ろしいことが起きて、平静でいられる母親がいるはずがない。それも、シャスティエは以前犬に追い回されたことがある。――あれも、ウィルヘルミナの実家に関わることだった。
恐怖に加えて罪悪感で言葉を失ったウィルヘルミナを他所に、シャスティエは細い手で顔を覆った。
「これは、脅しなのですか? それとも本当にフェリツィアを狙ったもの……!? どちらにしても、こんなに簡単にこんなところまで……!」
「あ……だからマリカも……?」
母としては非常に迂闊なことだが、ウィルヘルミナの喉元にもじわじわと絞めつけられるような恐怖がせり上がってきていた。
マリカがアルニェクと遊ぶ姿は、王宮の多くの者が目にしているはず。王女の愛犬を害したとなればただでは済まないのも自明のこと。――にも拘らず敢えてその犬を手にかけた者は、マリカに対しても手加減をしてくれていただろうか。犬が与えられたのと同じ毒に、マリカも侵されていたら――
シャスティエと同じ顔色になったであろうウィルヘルミナに、夫は苦々しい顔で頷いた。
「そうだ。だが、マリカのいないところでならばまだ良かった。無論、何者が何を狙ってのことかは調べねばならぬが……」
「陛下。侍医と犬舎の者が参っております」
ちょうど、と言って良いのだろうか。やはり蒼白な顔をした男がふたり、侍従によって通されると夫やウィルヘルミナたちの前に跪いた。侍医はもちろん、犬舎で猟犬たちの世話にあたる者もウィルヘルミナは言葉を交わしたことがある。務めに忠実に、そしてそれ以上に犬たちへの愛情を持って職務にあたっていた男で、アルニェクについてもマリカに細かく扱いを教えてくれていた。それがこのようなことになって、どれほど自身を責めていることだろう。
先に口を開いたのは医者の方だった。彼らがほのかに漂わせているのは血の臭いか死の臭いか。いずれにしても不吉で恐ろしい気配に、ウィルヘルミナの鼓動は早まって収まってくれない。これから何を告げられるのか、聞いてしまうのが恐ろしくもある。
「犬の吐いたものと胃の中のものを調べました。餌に毒を混ぜて与えたようです」
「どのような種類のものかは分かるか? 特殊な種類のものかどうか……?」
夫の問いに対して沈痛な面持ちで首を振ったのは、今度は犬の世話係だった。
「躑躅か百合か鈴蘭か……庭園に植えられた草花を使ったようです。誰でも摘み取れるようなもの、犬にとっては害になることも多少世話をしたことがある者ならよく知っていることでございましょう」
「アルニェクは普段どのようにしていた? 犬舎から連れ出すことができるのは限られているのではないか」
――いいえ……そうではなかったはず……。
犬におぞましい毒を盛った犯人の手がかりを得ようというのだろう、夫は鋭い口調で縮こまる男を相手に問いを重ねる。だが、ウィルヘルミナが心の中で首を振るのとほぼ同時に、犬の世話係も項垂れて答えた。
「いえ、それが……猟犬のように訓練がいる犬でもなし、きちんと躾もされていましたから、ある程度は自由にさせておりました。犬舎でも、王女様が遊びにいらっしゃった時にはすぐに出せるように入口近くにいることが多くて……」
「誰にでも連れ出せたし、見知らぬ者だからと吠えることもない、か……」
人懐っこい犬の様子を思い出したのだろう、夫も顔を顰めつつ頷いた。その後も夫は更にいくつかの事柄について侍医と世話係とに説明を求めたが、はかばかしい成果は得られなかった。――アルニェクが口にさせられた毒餌は誰にでも用意できるし、王女に仕えるべく決して人に牙を剥かないように躾けられた犬は誰にでも――その命を奪った者に対してさえ、喜んで尻尾を振っていたのだろう。
口止めをされた侍医たちが退出した後、重苦しい沈黙が落ちた。ウィルヘルミナには息をすることさえ憚られるように感じられたそれを破ったのは、アンドラーシだった。
「――臣の責任です。王妃様の護衛を命じられながら、このような事態……お咎めを受けぬわけには参りますまい」
「本来であれば、確かに。しかしミーナを任せられる者が少ないのは先ほども言った通りだ。このことは公にはせぬ。犬は事故で死んだのだ」
「ですが完全に隠しおおせることでもございますまい。噂は……? 明らかに咎がある者を赦したとあっては――」
「分かっている。が、堪えろ」
――噂……何の噂なの……?
いつも朗らかなアンドラーシも今ばかりは声を尖らせて夫に食い下がっている。対する夫も、いかにも不機嫌そうに顔を顰めて――ふたりの間だけに通じる事情が、ウィルヘルミナにはさっぱり見えない。ただ、先ほどの侍女の言葉が思い出された。
『きっとあの男、今頃陛下からお叱りを受けていますわ』
アンドラーシは何か夫から咎められるべきことをしたのだろうか。そして、夫はそれをウィルヘルミナのために見逃した、ということなのだろうか。でも、アンドラーシは彼女を煙たく思っているはずなのに。
――シャスティエ様は……? 私だけが知らないの……?
男たちが女たちに隠し事をしているのか。あるいはまたウィルヘルミナだけが何も知らされていないのか。せめて手がかりを得ようとシャスティエの顔を窺った時――その、色を失った唇が静かに動いた。
「公にはせぬ、とは――フェリツィアが狙われたかもしれないのを見過ごすと仰るのですか」
そして紡がれた声は、いつものように高く澄んだ美しいもの。でも、明らかに夫を責める響きがあって、男たちを怯ませたようだった。
「そうは言っておらぬ。内々にだが、調査は続けさせる」
「でも、犯人が捕まる見込みはとても薄いのですね……」
溜息と共にそう、吐き出すとシャスティエは碧い目を伏せた。そこに湛えられた深い不安と悲しみは、ウィルヘルミナの胸にも迫る。彼女の娘のマリカも、フェリツィア王女同様に危険に曝されていたのかもしれないのだ。
だが、消え入りそうなほど弱々しく見えたのも一瞬のこと。すぐにシャスティエは面を上げて夫を見返していた。その時には、すでに瞳には強い決意が宿っている。
「先ほどのお話、お受けいたします。私は娘とこの王宮から去ります」