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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
17. 疑いという毒
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王女の犬 ラヨシュ

【注意】動物虐待の描写があります。

 側妃と王の側近が密通している、との噂は王宮の使用人の間でも盛んに囁かれていて、誰もが自分こそが真実を察していると思っているようだった。いつからだとか、どちらから誘ったのだとか。そして、この醜聞がどのような帰結を見るかについても、多くの人がそれぞれの予想を持っていて、どれがよりありそうか、仕事の合間に声を潜めて語り合う姿がよく見られるものだった。


 その内容はどれも、ラヨシュが母たちの思惑を推測し、自分が何をすべきか考えるための材料になった。


 何人かの若い女性がうっとりとした目で言うように、側妃がアンドラーシに下賜されるということはなさそうに思えた。多くの側妃がいる時代の、寵愛の薄い方のことではなくて、王にふたりしかいない妃のうちのひとりで、王女をもうけたばかりの方なのだから。アンドラーシが既に妻を持っていること、クリャースタ妃もミリアールトの王族の血を引く高貴な方であることからもそのようなことは考えにくい、と。年長の者が(たしな)めるのは、ラヨシュにももっともらしく聞こえた。


 逆に、古い時代に姦通の罪に問われた側妃や寵姫やその間男がいかに恐ろしい罰を受けたかを喜々として語る者もいた。見てきたように語られる血腥く残忍な刑の数々に、相手が鼻白んでいるのも気付かないような姿は、ラヨシュが見ていても気持ちの良いものではなかった。

 母たちの狙いは側妃たちが罰せられることなのだろうか、とちらりと思ったけれど、これもまたなさそうな結末だった。ラヨシュでさえ噂は根も葉もないことだと分かったのだから、王にだって当然分かるだろう。噂を真に受けて妃や側近を処分するような方ではないことは、母や侯爵もきっと承知しているはずだ。


 そうすると、より穏健でありそうな可能性を挙げるのは、そのうち噂も収まるさ、と肩を竦める者たちだった。噂は事実かもしれないしそうではないかもしれないが、王としては認める訳にはいかないだろう。ならば表向きは何事もなかったかのようにされるのだろう、と。

 もちろん使用人の間にまで広まった醜聞だから、何もしないままでは立ち消えになるまで時間が掛かる。人の関心を失わせるために、当事者たちを人目から隠すのがお偉い方々のやり方だ、というのがそういう者たちの言い分だった。


 当事者たちを人目から遠ざける――つまりは、アンドラーシを王妃の護衛から外すとか、側妃をどこか別の住まいに移すとか、ということらしい。それを聞いた時、ラヨシュはこれだ、と思ったのだ。これこそが母たちが望むことに違いない。ならば彼が次に考えるべきことは、どうすればそれが実現するように助力することができるか、ということだ。


 あの新月の夜、王妃は母の手を取ってはくれなかった。王女は心を動かして行きたそうな素振りを見せてくれたようだったけれど、王妃はラヨシュたち母子の方を慮って王宮に留まることを選んだのだ。王は側妃に傾く一方で、あの方も居心地の悪さを常に感じているのだろうに。

 一方で、まだラヨシュが王宮にいることを許されているということは、王妃が母を――ひいてはティゼンハロム侯爵を思う心はなくなっていないのだろう。


 ――だから、もう一度母様に会っていただければ……!


 ティゼンハロム侯爵が何を考えているか、ラヨシュには窺い知れない。多くの者が囁き、アンドラーシが憎々し気に仄めかすように、王に対して恐れ多いことを企んでいるかは分からないし考えたくもない。でも、母が王妃を思う気持ちは心からのもののはず。ならば侯爵の父としての情も信じるべきではないかと思う。


 ――王を諫めるのも臣下の役目、と言うし。


 王妃に気苦労を強いる王は、道を誤っているのかもしれない。王の治世に侯爵家の助力が欠かせないことは、母も常々語っていたこと。王がその恩義を忘れて側妃に溺れるというのなら、ティゼンハロムの力を思い出させるのも倫を外れたことではないのだろう。きっとそうだ。


 全ては王妃と王女のため、母の心に叶うため。


 そう、自らに言い聞かせて、ラヨシュは彼にできることを為すために動き出した。




 今日はアンドラーシは彼の動きを見張ることはできない。王のお召しだと言って慌ただしく去って行った姿から推測するに、例の噂について何らかの沙汰があるのだろう。ラヨシュの予想を裏付けるかのように、厨房では側妃の離宮での動きも漏れ聞こえてくる。クリャースタ妃が侍女を伴って外出したからその分離宮に運ぶ食材を調節するように、と。王は噂に関わる者たちを一堂に集めたということらしい。


 つまり、離宮では今、赤子のフェリツィア王女が母親の目の届かない状況にあるということだ。


 慌ただしく食事をかき込んで飛び出そうとしたラヨシュの背に、声が掛かる。


「ラヨシュ、今日はどこへ行くの?」

「あ……何も言いつけられてはないのですが、ひとりで鍛錬をしたいと……すみません」

「いえ、特にこちらも忙しい訳ではないの。やることがないんじゃないかと思っただけ」

「何かあったら言ってくださればやりますから」


 恐らくは実際に命じられることがないのを承知で、ラヨシュは声を掛けてきた厨房の女に請け負ってみせた。互いの職分を侵すのを良しとしないのが使用人の常、そして今の彼の第一の務めは王女を守れるように腕を磨くことなのだから。一日の鍛錬が終わって手が空いた時は別として、わざわざ呼び止めて助力を命じられることはないだろう。厨房の者は厨房の者で自らの仕事に誇りをもっているはずでもある。


「いいのよ。頑張ってね」

「ありがとうございます」


 案の定、相手は笑って送り出してくれたのでラヨシュは安堵して笑った。自由に動き回れる時間を手にしたことに加えて、彼は今日鍛錬をしていた、と言ってくれる証人も確保できたのだ。もちろん、彼はそのようなことはしないのだけれど、使用人は皆それぞれの仕事で忙しいのだ。ああ言っていたのだからそうしていたのだろう、と思っていてくれれば十分だ。




 すれ違う相手ごとに()()予定を語りながら、ラヨシュが向かったのは犬舎だった。そこに、彼が唯一利用できる()()がいるのだ。――つまり、マリカ王女の愛犬のアルニェクが。


「退屈していただろう? 遊んでやるよ」


 王妃や側妃や王女たちを巡る一連の騒動で、この犬も割を食ったもののひとりだった。父王に反抗するマリカ王女は、最近部屋に閉じこもって過ごすことが多いらしい。おしとやかにさせたいという王妃の意向もあるのだろうけれど、とにかくアルニェクと遊ぶ機会は減っているのだ。もちろん犬舎の者たちは王女の犬を大切に世話しているけれど、彼らはまず王が猟に使う犬たちを万全の調子に整えなければならない。子供の遊び相手が務めの犬を駆け回らせるところまでは、手が回っていないようだった。


「うわ、こら、落ち着けって」


 だから力を持て余していたのだろう、見慣れたラヨシュの顔を認めるとアルニェクは尾を振って後ろ脚で立ってじゃれついてきた。二本脚で立てば彼の肩に前足が届くほどの大きな犬に全力で甘えられて、よろけないように足を踏みしめなければならなかった。

 でも、これもまたラヨシュの予想通りで、彼に都合の良いことだった。アルニェクは王女に従っていた彼のことをちゃんと覚えていてくれた。本来の主ではないのは分かっているだろうけれど、久しぶりに遊んでもらえる気配に迷わずついてきてくれるようだ。


「ほら、行こう!」


 古布を丸めた(まり)を見せてやってから走り出すと、アルニェクは影のようにラヨシュの後をついて駆ける。人間を慕い、構ってもらえることを喜ぶ姿には胸が締め付けられて息が詰まる。けれど、その苦しさは無視して、ラヨシュは犬を従えて目的の場所を目指す。主が不在の、側妃の離宮へと。




 人目を避けながら、ラヨシュはアルニェクと離宮の庭先までたどり着いた。王女の愛犬とはいえ獣だから、王宮を堂々と泥のついた脚で汚しているのは見られたくない――というのは言い訳だ。彼は今、誰にも見られてはならないことをしようとしている。

 緊張と不安に心臓がうるさいほどに脈打つのを感じながら、それでもラヨシュは警護の兵の目を掻い潜って離宮の建物のすぐそばの草むらにじっと潜んでいる。母の命令で離宮の守りのほどは前からよく見ていたし、実際に手紙を届けるのに成功したこともある。窓の隙間から垣間見たフェリツィア王女は確かに母君に似て愛らしくて、その眠りを妨げないようにと彼は懸命に息を殺したものだった。


 ――でも、きっとお泣きになるのだろうけど。


 自身が手に染めようとしていることの恐ろしさおぞましさに震えて、ラヨシュはアルニェクの黒い毛皮をぎゅっと抱きしめた。


「お前は、王女様にとても可愛がっていただいていた。――だから、構わないな?」


 わふ、と犬が尾を振って答えてくれたのは、声を掛けられたのに反応しただけだというのは分かっている。犬には人の言葉も思いも分からないし、だから、彼が言ったのも罪悪感を誤魔化すための吐き気がするようなおためごかしに過ぎないのだ。


「全て、王妃様と王女様のためだから……」


 それでも言わずにはいられないほど、彼の計画は卑劣なもので、最後の一歩を踏み出さなくてはと思うと声も手も震えてしまう。手――彼の手に握られているのは、厨房からもらい受けた肉片や脂などを丸めたもの。先ほどからアルニェクが食べたくて堪らなそうに見つめては涎を流しているもの。でも、材料は犬が好むものだけではない。


 この犬を育てるにあたって、マリカ王女は犬の扱いを詳細に言い聞かされていた。耳や尻尾をむやみと引っ張ったりしないようにとか、逆にどこをどう撫でてやれば喜ぶかとか。そしてその授業には、犬に決して食べさせていけないものは何か、も含まれていた。いかにも幼い少女がうっかり与えてしまいそうな菓子や塩気の多い料理のほかに、当たり前に庭園に生えている草花の中にも犬には毒になるものがあるのだという。

 王女が神妙な顔で頷いていたそのような植物が何だったか――傍らで聞いていたラヨシュも、よく覚えていた。それらをあらかじめ採ってきて、餌に混ぜておいたのだ。


 ――こうするしか、ない……。


 アルニェクの無邪気な目を見返すことができなくて顔を背けながら、改めて自身に言い聞かせる。


 最初は、彼自身が何か不始末をしでかせば師としてつけられたアンドラーシも責任を問われるかも、と思った。でも、その結果ラヨシュの出自を詳しく追及されることがあったら、母のことまで知られてしまうかもしれない。何か抜き差しならない事情で王宮を去ったらしい母と彼――ひいては王妃が繋がっているのだとは、誰にも知られてはならないような気がするのだ。


 そうなると、彼には採れる手段というものがほとんどなかった。辛うじて思いついたのがこのアルニェクを使うことだったのだが――彼自身の保身のためというだけでなく、利点が多い策であるように思えた。


 幼いフェリツィア王女が眠るすぐ外で犬が死んでいたら、側妃はきっと怯えるはず。気丈なあの方のことだから身に覚えのない醜聞に屈したりはしないかもしれないけれど、我が子のためならどこか王宮の外へ出てくれるのではないだろうか。そうすればマリカ王女も側妃や妹君のことを忘れるかもしれないし、王妃も心穏やかに過ごすことができるかもしれない。

 それに、()()が見つかりづらいであろうことも――そう言って良いのか分からないけれど――良い、と思う。側妃の離宮が脅かされて、王が犯人として真っ先に疑うのはティゼンハロム侯爵の介入だろう。しかし、それに使われたのがマリカ王女が可愛がっているとよく知られている犬ならば、王女を悲しませることを侯爵がわざわざするとは考えづらいはず。犬舎を迷い出た犬が、勝手に毒草を食べてしまうことだって絶対にありえないとは言えない。場所が場所だけに疑いを拭いさることはできないだろうけれど、でも、ラヨシュが関わった痕跡は誰にも見られていないはずだ。


「……ほら。美味いだろ?」


 食べても良い、と肉を丸めた塊をアルニェクの目の前に置くと、犬はラヨシュの手まで齧りそうな勢いで貪り始めた。草の臭いを嫌がるのでは、と不安に思って――あるいは期待して――いたけれど、黒い毛に覆われた喉がごくりと動いたのを見れば、すぐに呑み込んでしまったのだと分かる。


「アルニェク、どうだ……?」


 犬は満足げに口をくちゃくちゃとさせ、ぺろぺろと口の周りについた脂を舐めとっている。ラヨシュが集めた量では大きな犬の身体に影響を及ぼすには至らなかったのかも、それともそもそも害のない草を入れただけだったのかも。一抹の落胆と、それを上回る安堵と共に黒い毛並みを撫でた、その時だった。


 アルニェクの身体が跳ねた。しなやかな筋肉が、恐らくは犬の意思とは関係なく皮膚の下で蠢いて、太い四肢をよろめかせる。空しく開いた口からは舌がだらりと垂れて荒い息と涎がとめどなく吐き出される。さっきまで遊んでもらえる喜びに輝いていた目も淀んで焦点を結んでいない。


 成功してしまった。


 そう思うとラヨシュの背に冷汗が伝い、苦しむ犬の様子に胸が締め付けられる。でも、そんな痛みはアルニェクのものに比べれば何でもないはずなのだ。


「あっちだ。行ってこい……」


 離宮の建物の方へとアルニェクを押しやると、もう方向の区別もつかないらしい黒犬はよろよろとそちらの方へ二歩、三歩と脚を踏み出した。低く唸り、牙を見せて涎を垂れ流す姿は、一見すれば赤子を狙う飢えた獣に見えるかもしれない。


 離宮の者の目につくであろう辺りまでアルニェクがよろめき出たのを確かめると、ラヨシュは哀れな犬から目を背けて全力で走り出した。


 彼の背後で、高い女の悲鳴が響いた。

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