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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
17. 疑いという毒
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会合 ファルカス

 非常に腹立たしい醜聞が思いのほかに広がっていることを受けて、ファルカスは関係する者たちを呼び集めた。もしかしたらこの動きさえいらぬ邪推を呼ぶかもしれない恐れを承知してはいるが、何も手を打たないという訳にはいかなかったのだ。




 密談ではないという体を見せるために、場所は側妃の離宮ではなく王宮の表の部分の一室にした。とはいえ執務室を使うには王の私事に偏り過ぎた案件だから、少人数の会食などに使われる部屋を整えさせた。政務にひと区切りをつけたところで、先にその部屋に入って、待つ。

 執務室に密かに人質時代の側妃を呼びつけた時とは違って、侍従たちを引き連れて行かなければならないのが面倒だった。王たる者がひとりでこそこそと動いてはそれこそ新たな噂の火種になりかねないから仕方がないが、呼び集めた者たちもそれぞれに従者を連れているだろうから執務室ではやはり手狭になっていただろうか。


 と、約束した時間が訪れるとほぼ同時に扉が開き、侍従が来客の訪れを告げる。


「陛下。俺は――」

「言わずとも良い。座って待て」


 席を外している間の王妃の警護は他の者に任せてきたのだろう、まず入ってきたのはアンドラーシだった。いつも薄く微笑んでいる顔が、今日はさすがに引き攣っている。ファルカスの顔を見るなり何か言いたげに口を開くが、内容は大体想像がつくのでとりあえず黙らせて席につかせる。

 次いでその妻としてバラージュ家から嫁いだグルーシャが、主に従って入室する。夫と交わす目線もやはり、慌ただしく(せわ)しないもので甘さなど欠片もない。


 そして、順番としてはグルーシャの前に立っていたものの、ファルカスは敢えて側妃の表情を確かめるのを最後に回した。フェリツィアを置いて離宮を出るのを、大分渋ったと聞いている。しかし無論赤子を意味もなく連れ回す方が危険だし、(やま)しいところなどないのだと衆目に見せるためにも堂々と姿を見せた方が良いと言い聞かせて引っ張り出したのだった。


「――参上致しました」

「うむ」


 痩せて色を失くした頬は相変わらず。ただ、碧い目に燃えるような怒りの色がはっきりと浮かんでいて、いっそ懐かしいような感慨に囚われる。以前は可愛げがないだの生意気だのと思っていた眼つきだったが、最近の消沈ぶりを考えると、たとえ怒りであっても生き生きとした感情が見えるのは良いことのように思われた。




 四人で円い卓を囲む。ファルカスの右に側妃、左にアンドラーシ。その間をグルーシャが占める。それぞれの妻は夫にやや近く座ったので、円を均等に四等分するというよりはふた組の夫婦で対面するするような形になった。


 それぞれの前に茶が出されたのを見計らって、ファルカスは切り出した。


「今日集まってもらった理由は分かっているな――」


 が、最初のひと言を述べたところで方々から上がった声によって遮られてしまう。


「全て嘘偽り、根も葉もないことでございます!」

「これは何のためのお召しでしょうか。まさか、噂を信じていらっしゃるのではないでしょうね?」


 狼狽えたように早口で(まく)し立てたアンドラーシと、氷の刃で切って捨てるように冷ややかに問うてきた側妃と。口調も言葉の内容も異なるが、いずれにしても王の言葉を遮るほどに動転しているのは同じのようだ。


「分かっている。まずは落ち着け」


 ――俺が不貞を疑っていると思っていたのか……。


 ことがことだから狼狽して当然、無礼を咎めるつもりなどない。だが、妻に信用されていなかったと見せつけられて、ファルカスはほんの少し不本意に思う。


 彼にしてみれば、アンドラーシの忠誠も側妃の貞節も疑う必要のないものだったから、呼び出す理由を特に説明をしていなかったというだけだ。側妃については愛などと甘ったるい理由ではなく、この女の復讐のためには子の出自に疑いがもたれるようなことはしないだろう、というごく現実的なものだったが。意趣返しというなら、王家以外の男の血を引く子を王位に就ける、というのもありそうではあるのだが――この女の気性では無理だというのも分かっている。


「疑ってなどおらぬ」

「陛下……」


 いや、不本意などと思ったのは傲慢だったかもしれない。ひと言告げただけで側妃の表情は目に見えて和らぎ、彼の気遣いが足りなかったためにいらぬ気苦労をさせたのだと分かってしまったから。

 とりあえずは落ち着いて矛を収めた側妃とは違って、アンドラーシにはまだそこまでの余裕がないらしい。やや身を乗り出すようにして、まだ舌を止めることをしていない。


「俺が陛下を裏切るなどとあり得ませんし、クリャースタ様にも陛下と同じだけの忠誠を捧げております。それは、(よこしま)な思いを抱いたことが一切ないかといえば嘘になりますが、しかし、俺の手に負える方でないのもよくよく承知しております。妻を持った今ならばなおのこと、陛下の妃でいらっしゃる方に対しての不遜な真似など――絶対に、頭の隅にものぼらせることはありません!」

「分かったから一度黙れ」


 ――邪な思いを、抱いたことはあるのだな。


 側妃の方を窺えば、アンドラーシの長広舌は聞き流しているようだったのでファルカスは一応安心した。あるいは不名誉な嫌疑への怒りで頭が一杯なのかもしれないが、怒りの火に油を注ぎそうな言葉を聞いていなかったならその方が良い。


 ともあれアンドラーシがやっと口を(つぐ)み、場の主導権を取り戻したと見ると、ファルカスは次の言葉を発する前に軽く息を吐いた。全くどうしてこのようなことに、という思いがどうしても拭えなかった。剣を取るだけが戦いではないと分かっていたつもりだが、リカードの採った手段の卑劣さは彼の予想を越えていた。


「この度のこと、リカードの撒いた種だということは分かり切っている。俺は惑わされてなどいないから、そなたたちも軽率な行動は控えよ。今日は何よりもまずそれを言うために呼び出したのだ」


 特にアンドラーシに視線を据えて言うと、手の早いことで有名な男もさすがに神妙な顔で頷いた。釘を刺しておかないと、噂を口にした者を誰彼構わず闇討ちしかねない男だということ、ファルカスはよく知っている。だが、そのようなことをされてはリカードが乱を起こすのに絶好の口実を与えてしまうのだ。


「……あの老いぼれの手段を選ばぬこと、全く呆れる。それだけ追い詰められていると考えられば良いのだが――しかし、こちらも詰めが甘かったのは否めぬな……」


 側妃にはもちろん、薄々は漏れ聞いているかもしれないグルーシャにも敢えては言いたくないことだが、そもそもアンドラーシを重用していることについても大層不愉快な噂があったのだ。見目で側近を選んでいる訳ではなし、アンドラーシの実力を認めさせれば良いこと、と捨て置いてきたのだが――その男に美貌の人質の世話を任せたこと、その妻となったのが側妃に親しく仕える者だったこと。いずれも、側妃やアンドラーシを快く思わない者、下世話な噂を好む者には邪推の余地が大いにあるように見えたのかもしれない。


 ――だからといって信に値する者を遠ざけることこそ愚かではあるが……。


 だが、世間の目というものを今少し気遣っていたなら、このような噂がこれほどに早く広まることはなかったのかもしれない。


 王の子を生んだばかりの側妃が、王の側近と通じている、などと。


 王である彼自身を愚弄するばかりか、臣下の忠誠も側妃の思いも嘲笑うかのような策を良く思いつけたものだと思うと、ファルカスの裡では怒りが煮え(たぎ)っている。


「ですが、そのような――忌まわしい手段に訴えるあちらの方に非があるのは明らかでございましょう? どうしてこちらの方が自重せねばならないのですか? フェリツィアの名誉に関わることでもあります。父として夫として王として――正してくださらないのですか?」


 一度は収まったかに見えた側妃の怒りが、抑えろと命じたことで再燃し始めたようだった。正しいものを正しいと言って何が悪いと言いたげな愚直さは、いっそ眩い――が、それはこの女がいかに大事に真っ当に育てられたかを語るものだ。


 側妃が憤るように、不埒な噂を囁く者どもをことごとく斬り捨てることができればどれほど胸がすく思いがすることだろう。だが――


「……そう簡単なことではございません。もはや噂を囁いているのは、ティゼンハロム侯爵に与する者だけではないのです」


 控えめながらもきっぱりと口を出したのはグルーシャだ。主の言葉を遮る無作法を敢えて犯すことで、王と側妃が言い争う醜態を回避させてくれたのだろう。世間の空気を感じ取っているらしいことといい、貴族の家々の間で立ち回る術をよく躾けられているらしい。


「……そうなの?」

「そうだ。既に何人、憂い顔で注進に及んだ者がいるか教えてやろうか」


 ――お前には過ぎた妻だな。


 アンドラーシの方をちらりと見てから、ファルカスは苦々しく唇を歪めて最近の有様を側妃らに語った。




 本気で側妃の不貞や臣下の裏切りを憂えて進言に及んだ者は、その愚かさはさて置くとしても王への忠誠心はある者だ。だから、ファルカスの説明を受け入れる余地があるだけまだマシだった。

 より厄介なのは、噂が陰謀であることを察していながらそれを利用しようとする者たちの方だ。


『そのような不忠者が王妃様のお傍に控えているとは、何とも恐れ多いこと……』


 いかにもミーナを案じるような顔で、アンドラーシの代わりに自分を取り立てろと進言する連中をあしらうのに、そろそろうんざりする頃でもあった。アンドラーシの扱いについてもっと配慮が必要だった、と痛感したのもそのような者どものお陰と言える。ファルカスにしてみれば実力と忠誠に報いた相応の扱いも、一部の者にとっては若く短慮な王が遊び仲間を不当に重んじているように見えたらしい。


 ――重用したいと思わせぬ態度こそ問題だというのに……!


 しかも、足を引っ張られようとしているのはアンドラーシだけではない。リカードがまだ健在だというのに気の早いことだと思うが、我が娘こそ貞淑で気立ても良くて云々と新しい側妃を推す者さえ現れている。さすがに美貌で売り込む者がいないのは、現在の妃ふたりの容姿が知れ渡っているからだろうが。

 それだけリカードが不利と見る者が増え始めてきたという面だけ見れば心強く思えなくもないが――要は日和見の者どもが良い口実を得て掌を返してきたというだけのこと。しかもその切っ掛けがリカードの流した噂だと思えば腹立たしいことこの上ない。


 しかし、リカードとの対決を控えた今、日和見の者どもこそ敵に回す訳にはいかない。少なくとも王の私情で臣下への寵が偏り過ぎていると見えてはならないのだ。

 だから、いらぬ心配だろうと見え透いた下心だろうと、「事態を憂える忠臣」どもの言葉にも、多少は耳を傾ける振りくらいはしなくてはならない。




「そのようなことが……」


 側妃の顔が青ざめたのは、衝撃のためか、それともあまりの怒りの激しさのためか。とにかく彼女が言葉を失った隙に締めくくる。


「声の大きい者を何人か罰するのは問題なかろう。リカードに直接言い含められていそうな者の見当はつく――が、それで噂自体が収まる訳ではない。たとえ形ばかりでもバカバカしくても、何かしら王が対処したという事実が必要なのだ」


 次なる側妃についての進言はさすがに伏せたが、グルーシャは何か耳に挟んでいるのかもしれない。主を宥める表情で、また言葉を添えてくる。


「私がお暇乞いしたのもそういうことですわ。父の領地や財産を狙っていた方も多いものですから、獲物を攫われたように思った方もいたのでしょう」

「でも、貴女がいなくなってはイヤよ……! 信頼できる人はとても少ないのですもの」

「ですが、私がいては噂は収まりませんわ。その、手引きをしているとまで言われているようですもの……」

「……でも……」


 強情に首を振る側妃の聞き分けのなさは、まるで小さな子供のようだった。常に強気で語る言葉も明瞭で淀みなかった女の、この弱気ぶりは痛々しいほど。理由ははっきりとは掴みかねているが、この女は最近何かにひどく怯えているのだ。

 アンドラーシも見かねたのだろう、軽く眉を寄せて側妃を一瞥してからファルカスに向き直ってくる。


「陛下が信じてくださるというのならば、どのような処遇も甘んじて受けましょう。拝命したばかりのお役目ではありますが、他の者に譲ることも――」

「それはならぬ。ミーナを預けるに足る者を見つけるのは難しい。リカードに寝返ることはもちろん、余計な気を回すことがないかも気にかかる」


 多くの臣下にとって、ミーナは王妃であるより先にリカードの娘なのだ。リカードへの敵対する態度を王に見せようとするあまり、ミーナやマリカに不快な思いをさせるようなことがあってはならない。無論ファルカスの目の届くところでそのような真似をさせるつもりはないが、可能性の問題だ。


「では、どうなさるおつもりですか」


 ――この女が俺に縋るか……。


 側妃の碧い目が彼に刺さる。娘と名誉を守るために何をしてくれるのか、と必死に問うてくる理由は愛でも信頼でもなく、他に頼る者がいないからというだけだ。復讐を誓った相手に縋るのはさぞや屈辱だろうに、この構図の歪さにも気づかないのか。


「一度、王宮から出るのはどうか。フェリツィアももちろん一緒だし、仕える者たちも丸ごと連れて行けば良い。――王宮は、リカードの手の者も出入りするから恐ろしいのだろう? その方が、お前も楽かと思ったが」


 側妃の表情を窺いながら、ファルカスは努めてゆっくりと優しく言い聞かせようとした。


 この女が今最も心にかけているのは、娘のフェリツィアのことだ。自分自身の命ならば矜持のためにあっさりと投げ出すことができた女が、我が子の命は何にも代えても守ろうとしている。祖国の悲願を背負ったはずの復讐すら揺らいでしまっているのかもしれないほどに。


 王宮の奥深くに守られているとはいえ、表の部分にはリカードもリカードに与する者も出入りしているのだ。懐妊中から狙われていたことに加えて、リカードの影をうかがわせる先日のマリカの言動もある。側妃が怯えを感じるのも、ある程度は無理のないことと思えた。

 事実、不安の深さのあまりだろうか、彼女はファルカスの案を聞いても表情を晴らせることはなかった。


「王宮から……でも、それは安全なのですか? それこそがティゼンハロム侯爵の狙いだとしたら……」

「そちらも万全に守りは固める。それに、リカードが手を出しづらい場所でもある。アンドラーシと離すことができれば噂も落ち着くかと思うが」


 それに彼自身からも離れることができる、とは臣下の手前もあって敢えて言うことはなかったが。王宮を離れれば自然と王と顔を合わせる機会は減ると、そこは自分で気づくだろうと彼は期待していた。


「……噂を認めて逃げたようには見えませんでしょうか。王宮と同じ程度の警護を、本当にしていただけるのでしょうか……」

「謹慎などということはなく、療養ということで扱おう。それに、俺が妻と子の守りをおろそかにするとは思うな」

「はい……」


 とりあえずは弱々しく頷いたものの、側妃の態度はやはり煮え切らない。上目遣いに彼を窺う瞳には、怯えと不安がはっきりと浮かんで、心から納得していないとはっきり伝えていた。


 ――何をそれほどに案じているのか……それとも信用されていないのか……。


 言葉が聞き入れられないことにわずかに苛立ち、けれどそれを表には出さないように努めつつ、ファルカスはさらに説得しようと息を吸った。だがそれを言葉として吐き出すことは叶わない。


「陛下――」


 彼が声を発することができる丁度その前に、扉が開いて侍従が駆け寄って来たのだ。重大な要件だからよほどのことがない限り報告は不要、と言っておいたのにも拘わらず、だ。


「何事か」


 ファルカスが投げた視線が鋭すぎたのか、その侍従は一瞬怯み、目を泳がせた。その視線の先に側妃の白い顔があるのに気付いて、ひどく嫌な予感を覚え――果たしてそれは当たってしまう。


「クリャースタ様の離宮で、その――」

「フェリツィアは!? フェリツィアに何があったのです!?」


 侍従の奏上が最後まで聞き届けられることはなかった。離宮のひと言を聞いた瞬間、側妃が衣装の裾を乱して立ち上がり、扉へと――娘の下へと駆けだしたのだ。ファルカスはもちろん、アンドラーシもグルーシャも止める間もないことだった。


 ――バカ者め。お前も護衛が必要だというのに……!


 あまりに盲目な妻に舌打ちしながら、ファルカスも立ち上がる。とはいえ離宮にいるフェリツィアを思うと、側妃が狼狽するのもよく分かる。仕方なく、呆気に取られたように立ちすくむ侍従を一瞥すると、短く命じる。


「――話は道々聞く。側妃をひとりにさせるな」


 返事は待たずに大股に足を踏み出すと、背後でアンドラーシとグルーシャが続く気配がした。


 ――リカードか? 側妃の不在を狙ってフェリツィアに何か……!?


 側妃を追って、臣下たちを従えて。逸る思いと募る不安を抑えて平静を装いながら、ファルカスも離宮へと足を急がせた。

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