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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
17. 疑いという毒
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復讐の意味 ナスターシャ

 ()グニェーフ伯――現在はイシュテンで得た爵位でイルレシュ伯と名乗る男がミリアールトに戻って数か月。ナスターシャはやっとその男に彼女の屋敷を訪れることを許した。元々は夫の屋敷であったものを彼女の、と表現しなければならないこと自体が悲しく(いきどお)ろしいことなのだが。国が滅ぼされ、言葉まで奪われた後では、一介の老人の称号が変わったことも未亡人の感傷も、大したことではないのだろうか。


 イルレシュ伯を迎えたのは、()王都――これもまたかつてと変わってしまったことだ――郊外の別荘だった。イシュテンの統治に不満を持つ者たちと話さなければいけないことが多くて、ナスターシャも亡夫の領地奥深くに篭っているという訳にもいかなくなってしまっていた。身分の貴賤を問わず、イシュテンの横暴を嘆き訴えてくる者たちと会うことで、夫と息子たちを亡くした悲しみに浸るのを妨げられているのか、それともしばしの間だけでも忘れさせてもらえているのか、ナスターシャには区別のつかないことだったが。


 ともあれ今日迎える客について言えば、確実に彼女の心を乱すことが分かっている。イシュテンを憎む者ならば、たとえ多少礼儀がなっていなくても同志として接することができるけれど、イルレシュ伯はそうではない。それどころか、誰よりも先にイシュテン王に膝を屈した男、美しい姪――ミリアールトの誇り高い女王を敵の慰み者に売り渡した男なのだ。

 何度も会いたいと要請してきたのは、言い訳のためか侵略者に協力しろと彼女を説得するつもりだったのか――いずれにしても、絶対に思い通りにしてたまるものかと思っていたのだけれど。でも、姪からの手紙を携えていると聞いては、無視する訳にはいかなかった。




 ――シャスティエの様子を知りたいだけよ……何を言われようとも耳を傾けるつもりはないわ……。


 それこそ雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)のように、裏切者に対しては冷たく毅然として接するのだ、と。ナスターシャは心も身体も身構えてその男を待っていた。かつてのように親しく語り掛けてなどやるものか、と。

 だが、相手の姿を見た瞬間に、彼女はその決意も忘れて声を上ずらせていた。


「どうなさったのですか」


 久しぶりにあったイルレシュ伯は、会わなかった間の年月以上に疲弊して老け込んでいるようだった。それだけならば、祖国を売った者への当然の報いだと冷静を保つこともできただろうが――相手のこめかみの辺りに、赤黒い瘡蓋(かさぶた)が大きくその存在を主張していたのだ。


「大したことではございません。石を投げられました」


 ――心配している訳ではないのに。


 淡々とした表情で答える老人に、早くも動揺を見せてしまった気まずさもあってナスターシャはわずかに反発を覚える。ミリアールトの重鎮でありながらイシュテンに寝返ったこの男を、憎む者もいるだろう。話を聞いてみれば、胸がすく思いこそすれ、案じてやる必要など全くないことだった。それよりも彼女の胸に浮かんだのは、石を投げた者が不当に重い罰を与えられなかったかどうか、だ。


「下手人は――」

「逃げ足が速い者でしたので。捕えることはできませんでした」

「そうですか」


 ――見逃してやったとでも言いたいのかしら……。


 老人の答えに安心しても良いはずなのに、ナスターシャはやはりどこか満足できなかった。結局、この男は祖国の矜持を貶めることに加担し続けているのだ。半端に温情を見せたところで、どうして素直に感謝することなどできるだろう。


「大事がないとのこと、よろしゅうございました」


 心中の波を完全に抑えることができないまま、ナスターシャはごく大ざっぱに話題を変えた。


「では、シャスティエの――私の可哀想で可愛い姪からの手紙を見せてくださいませ」




 老人を客間に通し、侍女が茶や菓子を供するのも待ちきれずに、ナスターシャは相手からその書簡を奪い取るように受け取った。そしてそれを広げるなり、落胆の溜息を吐く。


「本当にあの子が書いたものなのでしょうね?」


 内容は、まだ一語たりとも読んでいない。それでも、ひと目見ただけで分かる。手紙はほぼ全文をイシュテン語で記されていた。レフのブレンクラーレ語の筆跡ならばまだ見分けることができたけれど、この野蛮な国(イシュテン)の言葉も雅な女性が書いたのだと思わせるものではあるけれど。でも、シャスティエがイシュテン語を(したた)めるところを彼女はほとんど見たことがなかった。


 疑いの目を向けられても、イルレシュ伯は動じることなくはっきりと頷いて見せた。その揺るぎなさは、手紙が真実姪の手によるものだからか、それとも重ねた年齢ゆえの老獪さなのか、ナスターシャには区別がつかない。


「イシュテンにミリアールト語を解するものはほとんどおりませんゆえ。万が一にも内通の疑いを掛けられぬように、とのご配慮でしょう」

「……そう。仕方のないことなのですね」


 本心から仕方のないこととは、断じて信じることはできなかったが。それでも言い争うことの無益は分かるので、溜息と共に目線を薄っぺらな紙に落とす。


 手紙はそれなりの分量があったが、ナスターシャは一文一文を丹念に読んだ。本当に姪が書いたものなのか、どこかに偽りの影が見えないかどうか。異国の言葉とはいえ、シャスティエの言葉の選び方や文章のつなぎ方なら、彼女はよく知っているはずだから。

 イルレシュ伯を気遣い労う言葉や、ナスターシャの心中を案じる言葉は、いかにも姪が綴りそうなものだった。何より末尾の復讐を(クリャースタ)誓う(・メーシェ)という署名だけはミリアールト文字で、その見慣れた筆跡に認めざるを得ない。


 ――これは……確かにあの子の手によるものなのね……。


 その事実は重々認めた上で。ナスターシャは姪がこのようなことを書いたとは信じたくなかった。


「――あの子に一体何があったのですか。あの子がこのようなことを書くなんて――」


 生まれたばかりの娘の愛しさを語っているのは、まだ良い。囚われの身のシャスティエに、慰めになることがあるのはナスターシャとしても喜ぶべきことだと思える。だが、彼女に理解できるのはそこまでだった。

 問題はその後――ティゼンハロム侯爵と対立するイシュテン王を憂い、戦乱がミリアールトにまで広がることを懸念している。否、これはまるで、祖国を案じる振りで実はイシュテン王を案じているかのような。しかも許しがたい部分がある。


『イシュテン王はミリアールトを虐げません。王権を抑えようと企む諸侯が渦巻くイシュテンの状況を鑑みれば、同盟者としてすら遇してくれるでしょう。私が育てた私の子を時代のイシュテン王にすることができたなら、イシュテンの気風は更に和らぎ、ミリアールトとの絆も強固なものにすることができるでしょう』


 だからイシュテンに逆らうな、近く起きるであろうティゼンハロム侯爵の乱はミリアールトにとって好機ではない、と流麗な筆跡は続けていて、ナスターシャに吐き気のようなものを覚えさせた。事実ミリアールトは言葉を奪われて矜持を踏みつけにされているのに、姪は一体何を言っているのだろう。


 ――虐げないと……何を持って言うの……!? あの誇り高い子が……!


「シャスティエ様はイシュテン王の政策をご存知ありません。ミリアールト語が禁じられているなどとは、夢にも思っておられないでしょう」


 ナスターシャの視線に、疑問に加えて怒りと嫌悪が混ざっても、やはりイルレシュ伯を動じさせるには足りないようだった。自分ばかりが心をかき乱されて、それを見透かしているかのような氷の色の薄青の瞳に、彼女の苛立ちは募るばかり。


「……ならばあの子は欺かれているというのですね。それを私に見せてどうしようというのですか。女王を売り渡したことを、悔いているとでも仰るのですか」

「確かに悔いてはおります。ですが、それよりもまず、夫人がご存知でないことをお知らせに参りました」

「まあ、何でしょうか。わざわざ教えてくださるとはご親切に」


 あくまでも辛抱強く、説いて聞かせるような相手に対して当てこするように声を高めてしまってナスターシャは内心で惨めな思いを噛み締めた。このように余裕のない態度を露にしてしまうつもりではなかったのに。


 ナスターシャが落ち着くのを待つかのように数秒の間を置いてから、老人はゆっくりと口を開いた。張り詰めて今にも切れてしまいそうな神経を和らげようとするかのような、低く穏やかな声が、響く。


「イシュテン王は、クリャースタ・メーシェの意味を知っております」




 そうと聞いた瞬間、ナスターシャの胸を襲ったのは絶望と――ひと欠片の納得だったかもしれない。


 ――やっぱり……無謀だと思っていたのよ……!


 女王とはいえただの少女が、復讐を名乗って敵国に嫁すなど。そのような思い付きを、居並んだ諸侯の誰もが止めることができなかったなど。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)と謳われた、シャスティエの美貌と才知があったこととはいえ、イシュテンに力では及ばないと見せつけられた末のこととはいえ、認めてはならなかったのだ。


「……何ということ……」


 これは報復なのか、というのが真っ先に浮かんだことだった。シャスティエが復讐を名乗ったのは、ミリアールトの民としては全く正当なこととは思うけれど、イシュテン王としては裏切りと捉えてもおかしくはない。一応は妃として迎えた女に騙されていたと知って、ミリアールトそのものへと意趣返しをしているのだろうか。


 だが同時にそれはおかしい、とも思う。そのような意図でミリアールト語を禁じたのならば、真っ先にシャスティエに伝え、ミリアールトでも公布しなければならない。自らの行動のせいで祖国が苦しむのだと知らされて、あの娘が心を痛めない訳はないのだから。


 ――なぜそのことを公にしないの……。ミリアールトをまた攻める余裕はないから? 女に欺かれたのを恥だと思ったから……?


 言葉に出さずとも、疑問の色は彼女の顔に浮かんでいたのだろう。イルレシュ伯は軽く頷いてから続けた。どうにもこの場は弾劾されるべき裏切者が主導権を握ってしまっている。


「臣もシャスティエ様もイシュテンを侮り過ぎておりました。ミリアールト語を解する者が、イシュテン王に注進に上がったのです。――が、王はその進言を聞いてもシャスティエ様を咎めようとはなさいませんでした。憎まれているのは承知していたこと、それよりも今は敵に利用されることを妨げるのだ、と。この度の命令はシャスティエ様の――クリャースタ・メーシェ様の名を追及する者がこれ以上現れぬように、との苦肉の策でございます」

「イシュテン王はなぜそのようなことを……?」


 よくぞ聞いてくれた、とでも言いたげに、イルレシュ伯は微笑んだ。次いで紡いだ言葉はいっそ誇らしげで、何か神聖なことについて語るかのようだった。


「シャスティエ様を守るべき御方として考え始めているから――愛して始めているから、と察しております」

「そんなこと……!」


 おぞましい、というのがナスターシャの率直な感想だった。それに何て図々しい。祖国、肉親、名前、貞操まで。全てを奪っておいて愛しているだの守りたいだの、まともな神経で言えることとは思えない。だが、次に告げられたことは更におぞましく信じがたいものだった。


「そしてシャスティエ様も。御子様を愛しく思われることで、王への想いも変わってきておられるようです」

「嘘よ!」


 ナスターシャは思わず叫ぶと激しく首を振った。イルレシュ伯はまた口を開こうとしている。何を言おうとしているのだとしても、これ以上聞きたくはなかった。しかし手で耳を覆うような子供っぽい真似が許されるはずもない。そしてそれで姪の現状が変わるということもない。


「シャスティエ様は元の御名の通りに幸せになられるべきだと思っております。復讐を誓う名など全く相応しくない――ゆえに、クリャースタ・メーシェの婚家名を名乗るのをお止めしなかったのは臣の過ちでありました。ですが、今からでも、そして相手がイシュテン王であっても、幸せを掴むことができるなら――」

「黙りなさい! 不忠者!」


 一際高く鋭く叫び、椅子を蹴立てて立ち上がると、さすがに相手は虚を突かれたように黙った。大抵の悪口などもう聞き慣れているだろうから、不忠者と呼ばれて傷ついたなどとあり得ないだろうが。


「イシュテン王がミリアールトに、シャスティエに何をしたのか忘れたのですか!?」


 ――こんなこと……ひどい……!


 姪の名を語りながら、ナスターシャの脳裏に浮かんでいるのは末の息子の顔だった。イシュテンの剣から逃れて生き延びて、今も異国で従姉を救うべく身命を賭しているはずの。

 彼の想いは無駄なのだろうか。ミリアールトにいた頃、何事もなく平和なあの頃から、レフがシャスティエを愛していたのは明らかだったのに。子供の頃から身近に育ったあの子ではなくて、全てを奪ったイシュテン王などをシャスティエが愛するなど、あってはならないことだと思えた。


 ――あの子はまだレフに会っていないのかしら……だからイシュテン王に頼ってしまうだけだというの……!?


 命を懸けた思いを捧げながら報われない息子のことが、不憫でならなかった。それだけではなく、夫も上の息子たちも。シャスティエが叔父たちを殺した仇に心を傾けたのだとしたら、彼らの死は何のためのものだったのだろう。


「そしてこの私の夫と、息子たちのこともお忘れですか。グレゴリー、ルスラン、ヴィクトル……レフ。皆、あの子を愛して、あの子のためにイシュテン王に殺されたのです。シャスティエもそのことを忘れてしまったのでしょうか。ミリアールトのためにイシュテン王に嫁いだのは、許せないけれど理解はできます。でも、どうして心も誇りも委ねてしまうことになたのですか」

「シグリーン公爵もご子息方も、シャスティエ様の幸せこそを望まれたことでしょう」

「知ったようなことを言わないでください!」


 自身の怒声の残響を聞き、イルレシュ伯の驚いてわずかに見開かれた目を見ながら、ナスターシャはやってしまった、と思った。この男を迎える前の覚悟など何の役にも立たなかった。姪の手紙に、レフのことが書いてあるなどと期待していたわけではないけれど、でも、手紙の内容もイルレシュ伯が告げたことも、あまりにも受け入れがたいものだったのだ。


 ――それでも、取り乱したところなど見せてはならなかった……。


 今さら遅いとは思いつつも、取り繕うように咳払いをして、努めて穏やかな声を作る。


「……教えてくださったことには感謝申し上げます。シャスティエが――少なくともイシュテン王からは――傷つけられる恐れが少ないということは、安心できることではありますもの。クリャースタ・メーシェの意味がイシュテンの者に漏れないようにすることも、皆様にお伝えしなくては」

「公爵夫人、それだけではなくて――」

「ですが!」


 何事か言おうと口を開いたイルレシュ伯を、ナスターシャは強引に遮った。唇の端だけを持ち上げて作った微笑みは、雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)のような冷たい笑顔にできただろうが。悲しみと憎しみと肉親への愛に引き裂かれて疲れ切った女の、ひきつった表情にしかならなかっただろうか。


「私はイシュテン王を決して許さないし、統治に協力することもお約束できません。ええ、もちろんミリアールトがこれ以上苦しむことがないように、とは願っておりますけれど」

「夫人、ですが――」

「伯爵様がお帰りです。お見送りの支度をなさい」


 イルレシュ伯はまだ何か言おうとしているようだったが、ナスターシャは耳を傾けるつもりはなかった。レフの無事を祈り案じるだけでも心が()し潰されそうだと言うのに、この上姪の変心を聞かされて思い悩まされたくはなかった。

 それ以上は何も言わず客に背を向けると、しばしの沈黙の後に客間の扉が開き、そしてまた閉まる音がした。どうやら諦めて帰ってくれたものらしい。


「ナスターシャ様――」

「大丈夫よ。でも、少し休ませて」


 主を案じてか手を差し伸べようとする侍女を手振りで止めると、ナスターシャは自室へと戻る道を辿り始めた。


 ――レフ……貴方は今、どこで何をしているの……。


 イルレシュ伯と話し、姪の手紙を読んだことで気付いてしまった。彼女の頭を占めているのは、祖国ミリアールトのことではない。彼女の心は、殺された夫と息子たち、そしてただ一人残った末の息子のことで一杯だ。女王である姪のことさえ、彼らに比べればその存在は霞んでしまう。

 だから、復讐よりも祖国の未来のことよりも、彼女が思うのはレフの想いの行く末だ。


 ――シャスティエ。どうかあの子の気持ちを分かってあげて。


 末の息子が父や兄たちの仇を討ち、愛する従姉を勝ち取る――そんな、およそあり得ない夢。希望というにはあまりにも儚いその絵を思い描いて、ナスターシャはほんのわずかでも安らぎと慰めを得ようと努めた。

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