忍び寄る噂 シャスティエ
最近のシャスティエにとって、眠るとは気づいたら意識がなくなっているということだった。夜、寝台に横たわって目を閉じても安らかな眠りなど訪れてはくれず。それで昼間は頭がぼんやりとしてしまって、身体ががくりと崩れることで長椅子に座ったままうたた寝していたことに気付かされるのだ。もちろんその程度の睡眠では身体を休めることもできなくて、血色の失せた頬といい目の下の隈といい、ひどい顔になってしまっていると思う。
「クリャースタ様、何か召し上がりますか? 朝もほとんど何も……」
「いいえ、いらないわ。――お茶ならいただこうかしら」
案じる表情で尋ねてきたイリーナに首を振ると一層悲し気な表情になったので、シャスティエはとりあえず何かしら口にすることにした。イリーナの若草色の目がずっともの問いたげに主を窺っているのは、気付かない振りで。
イリーナには、レフと話したことの全てを打ち明けてはいない。ティゼンハロム侯爵と組んでいること、さらにその背後にブレンクラーレのアンネミーケ王妃がいること。いずれもあまりにも重大なことすぎて、親しい同郷の侍女にすら伝えることができなかったのだ。
――秘密を知る者は少ない方が良いはずよ……。
もしもイリーナの挙動から秘密が漏れてしまったら、ただひとり生き残ってくれていた従弟の命を脅かしてしまうから――というのは、言い訳に過ぎないだろうと思う。シャスティエは、イリーナが彼女自身も抱いた疑問をぶつけてくるのが怖かったのだ。
レフは何をしようとしているのか。ティゼンハロム侯爵やあの摂政王妃と組んで、シャスティエやフェリツィアにまで危害を及ぼそうとしているのか。今やシャスティエの夫であるイシュテン王を、本気で討とうとしているのか。それによってシャスティエの復讐の願いが絶たれ、娘にまで危害が及びかねないことをどう考えているのか。
それに何よりも祖国ミリアールトのこと。レフもよく知るはずのグニェーフ伯のことを、なぜ彼はあのように悪し様に語っていたのだろう。ミリアールトで伯が何をしているのかさせられているのか、王はシャスティエに教えていないことがあるのか。
いずれの問いに対しても、答えが欲しくてたまらないのに決して得ることはできないのだ。もしもイリーナからも同じ問いを投げられたら、何も分からないということに耐えられそうにない。それはつまり、何をすれば良いのか分からないということでもあるのだから。
「クリャースタ様、どうぞ」
「ありがとう。……美味しいわ」
イリーナが淹れてくれた茶は香り高く、温かい湯気が疲れ切った心と体をわずかではあっても癒してくれるような気がした。眠らなければ食べなければとは思うのだが、不安に思うことが多すぎて胸も喉も詰まってしまっているようなのだ。
「お菓子も。召し上がってくださいませ……」
「ええ。ありがとう」
だから、心配顔の侍女に菓子を勧められても口をつけるのは形ばかり。手の甲を目の前にかざせば肌はすっかり張りを失っていて。フェリツィアのことを思うと、乳母を雇える身分で本当に良かったと思う。このように痩せ衰えた身体では乳ももうまともに出ないし、赤子の世話を焼く余裕もなかっただろうから。
――ただの市井の女だったら……こんなに恐ろしい思いはしなくても済んだのでしょうけれど。
溜息と共に、味のしない菓子を無理に飲み込む。ミリアールトの女王であること、その誇りは、これまではずっとシャスティエの中の芯であり彼女を支えてきたものであったけれど。今、このような状況に置かれてみると、祖国ばかりでなくイシュテンの将来にまで深く関わってしまった自らの身の上が恐ろしくてならなかった。
それでもシャスティエだとて何もしないままでいたのではない。
『ブレンクラーレの様子は、今は……どのようになっているのでしょうか』
王がフェリツィアの様子を見に来た時に、恐る恐る切り出してみたのだ。王宮の奥の閉ざされた世界に棲むシャスティエにとって、王は外の様子を聞くことができるほとんど唯一の相手だったから。もちろん、突然隣国の様子など口にして、王が不審に思うのも覚悟の上で。
『ブレンクラーレの……? 特に変わりない――フェリツィアの少し前に王太子に男児が生まれたというから祝いは送ったが。なぜ今そのようなことを?』
――王太子の御子……マクシミリアン殿下の御子ね……。
もはや別の世界のことのように遠く思えるけれど、ブレンクラーレの王太子マクシミリアンはシャスティエの夫になるかもしれない人だった。ティグリス王子のお陰でその為人を垣間見ることができたから、その人の妻になれなかったことを惜しいとは思わないけれど。でも、ブレンクラーレの王位を継ぐべき王子となれば、さぞ大切に何の不安もなく育てられているのだろうと思えば、我が娘の境遇と比べてしまった心が痛んだ。
ともあれ、ティグリス王子はシャスティエに多くのことを教えてくれた。イシュテン国内の根深い確執や、非情な気風について。それに、彼が関わった忌まわしい企みについて。兄王に叛旗を翻した乱で、あの可哀想な人が仕掛けた策の残酷さ卑劣さはシャスティエも王から聞かされている。イシュテンの矜持を叩き折ろうとするかのような行いには彼女も薄ら寒さを感じたものだ。
でも、あの人のことを知っているからこそ、王に対しての言い訳もできた。
『いえ、ふと不安になりました。あの、ティグリス殿下の乱にはかの国が関わっておりましたでしょう……? 摂政王妃ともあろう方が簡単に諦めたのかどうか……。ティゼンハロム侯爵と争えば、外に対しては隙ができましょう?』
『ふん、確かにな』
王は苦々しい顔で頷きながら、そっとシャスティエの髪に触れた。髪を梳く、というほどのものではない。最近、王が彼女に触れるやり方は以前からは考えられないほど優しい。こちらの反応を窺いながら、嫌がったり戸惑ったりする素振りがあればそれ以上は触ってこようとしないのだ。
男の強すぎる力に怯えさせられることがなくて安堵する一方で、濃い触れ合いがないのが不安でもあった。シャスティエには、王の息子を生むという務めが残っているのだから。ティゼンハロム侯爵を斃してから、と王は思っているのかもしれないけれど――痩せ衰えた姿を晒すことで、女としての魅力が減じてしまっているのでは、と思うと怖い。王からの関心を失えば、復讐が叶わなくなるのはもちろんのこと、フェリツィアの未来も暗くなってしまう。
だから、近頃は努めて王の前では微笑むようにしている。でも、王はシャスティエの精いっぱいの笑顔を一顧だにせず、どこか――もしかしたらブレンクラーレの方角なのか――を睨んで、独り言のように呟いた。
『今のところ女狐めに動きは見えぬ。リカードの乱に乗じる可能性は考えてはいるが、かといってあからさまに国境に兵を置けばかえって介入の口実を与えることになりかねん。リカードを前に、本当に動くかは分からぬブレンクラーレへの対策を手厚くする訳にもいかないし……』
『ティゼンハロム侯爵がブレンクラーレと結ぶようなことは……?』
ここまで踏み込むのは、シャスティエとしては非常に危うい賭けではあった。ティグリス王子がそうしていたからティゼンハロム侯爵も、というのはいささか突飛な思い付きだ。娘の身を案じるあまりに愚かなことを口にしていると思われかねない。
でも、シャスティエは愚かな女を演じることしかできないのだ。謀に加担する者から直接聞いた、と言えば何よりの証拠になるのだろうが、それが何者か、いつどのようにして聞かされたのか、シャスティエは絶対に明かせない。
――ミリアールトの王族の生き残り……見逃してもらえるはずがない……!
シャスティエは女で、イシュテンにおいては脅威と見做されない存在だった。しかも未婚で、王の子を生むことができるからこそ側妃として迎えられることもできた。でも、イシュテンに背いてミリアールトを再興できる血筋の者、しかも現に王を脅かす企みに加わっている者を生かしておくなどイシュテンの王が許すはずはないし、許してはならない。シャスティエが王の妃だとしても、最近は幾らか信用されているようだとしても、どれほど願っても聞き入れられないことだろう。
一方で、王に――ひいては祖国とフェリツィアに――迫る危険を思うと、何も警告しないでいるということもできなかった。苦肉の策として、それとなく王が気付いて警戒してくれれば、と。経緯はどうあれ夫となった男への不実は承知で、祈ることしかできないのだった。
『リカードがブレンクラーレと、か……確かに組まれたら厄介ではあるが……』
笑い飛ばされることを恐れていたので、王が顔を顰めつつも彼女の言い分に耳を傾けてくれて、シャスティエはまずは安堵した。だが、その後王が続けた言葉によって、やはり愁眉を晴らすことはできなかった。
『だが、仮定の話を過剰に警戒しても仕方ない。可能性として頭に置いておく以上のことはできぬだろうな』
『そうですね……』
王の総括は全く正しい。証拠もなく臣下と隣国の内通を疑うのは愚かなこと、それよりも実際に気に懸けるべき事案が山積しているのだろう。だが、シャスティエはその証拠を握っていてなお、夫に打ち明けることができないでいる。
ミリアールトとイシュテン、二国の未来とひとりの命。天秤にかければどちらを選ぶべきかは明らかなのに。簡単なはずの選択をするには、シャスティエは既に多過ぎる肉親を失っていて、更に娘を持って血の繋がりの絶ち難さを知ってしまった。
『……随分痩せたな。俺の言葉では安心できぬか』
自嘲するように唇をわずかに笑みの形に歪めて、王がシャスティエを抱き寄せてきた。確かに不安と恐怖は消えないけれど、今に限っては王のせいではないのに。でも、憂い顔の理由を明かすことはやはりできなかった。だから王が信じないであろうことを知りながら、シャスティエはただその厚い胸に頭を預けた。
『いえ……陛下を信じておりますわ……』
彼女から多くを奪ったのは王なのに、今シャスティエが頼れるのはもう王しかいないのだ。
「……伯爵様からのお返事が早く来ると良いのですけれど」
「ええ、そうね」
淹れ直した茶に蜂蜜をたっぷりと入れたものをイリーナが押し付けるようにするのを、シャスティエはわざと気付かない振りをした。侍女に気遣いには重々感謝しつつ、甘いもの滋養のあるもので自分を甘やかそうという気にはなれない。何か悪いことが起きることを予感――というか確信しつつ、何もできない自分が許せなくて。それでもなお動くことができないのが情けなくて。
結局、シャスティエが行動に移すことができたのはミリアールトに手紙を書く許しを得たことくらいだ。それも、諸侯らや叔母に宛てたのではなく、祖国で王の命を受けて動いているというグニェーフ伯に宛ててのことだ。シャスティエの復讐を理解し、イシュテンに背くことがないあの老臣に対してならば、イシュテン語で認めても不興を買うことはないだろうし、だからこそ王も不穏な内容でないか確認できる。
だからシャスティエは手紙で切々と伯に乞うた。ミリアールトがまた血を流すことがないように尽力して欲しい、と。王がティゼンハロム侯爵と争うのを、もしかしたら好機と見る者もいるかもしれないから。そのような動きを抑えるように、女王であるシャスティエの言葉が忘れられることのないようにと繰り返した。王がミリアールトを虐げないと約束し、事実シャスティエもフェリツィアも王の妻子として厚遇されていると女王の名に懸けて宣誓した。――そして、それを叔母であるシグリーン公爵夫人にも伝えて欲しい、と。
――突然叔母様に言付けをお願いしたりして……不審に思われたかしら。
レフが生きているのを知る前でも、叔母に手紙を書くことを思いついていても良いはずだった。でもそれをしなかったのは、叔母に憎まれているのではないかと怖かったからだ。グニェーフ伯の乱を収める時にミリアールトの土を踏んだ時も叔母には会えず、そのことに心のどこかで安堵する自分がいたのだ。既に夫と息子ふたりを彼女のために死なせ、更に最後に残ったレフまでも自ら危険に踏み出そうとしている。そのことを母である叔母に言わなければならないのに言えないままで助力を乞うなど、図々しいにもほどがある。それでも祖国と娘の将来を思うと筆を執らない訳にはいかなかった。
「フェリツィア……貴女には頼れる親族をあげられなかったわね……」
シャスティエにとっての父や兄、叔父叔母や従兄弟たちのように守り導いてくれる存在が娘にはいない。腕の中のフェリツィアの重みを愛しく思えば思うほど、娘に与えてしまった危険な境遇が申し訳なく――叔母に対しては我が子を奪ってしまった罪悪感が募っていく。
「クリャースタ様――」
「グルーシャ……?」
と、娘をあやして顔を伏せていたところに声を掛けられて、シャスティエは我に返った。見れば侍女のひとりが何か硬い表情で腰を落とした礼を取っている。
「……どうかしたの。何かあったの?」
近頃、この娘は晴れやかな表情で仕えてくれていた。夫のアンドラーシが王妃の警護を任じられて王宮にいるからだ。もちろん側妃の離宮にしょっちゅう顔を出すようでは務めを果たせないけれど、それでも夫が傍近くにいることをグルーシャは非常に喜んでいたようだったのだ。自身の思いはどうあれ、身近な者の幸せそうな姿はシャスティエにとっても微笑ましいものだったというのに、今の思いつめたような面持ちは一体どういうことなのだろう。
嫌な予感を覚えて、シャスティエはフェリツィアを揺籃へと寝かせた。するとそれを見計らったかのようにグルーシャが口を開く。
「はい。実は、お暇乞いをしたく参上いたしました」
「そんな……なぜ!?」
思わぬ申し出に掛けていた椅子から腰を浮かしながら、頭の隅でどこか冷静に娘を抱いて良かったと思う。フェリツィアを抱いたままだったら取り落としてしまっていたかもしれない。
「……ご家族に、何か?」
縋るように差し出した手をやんわりと拒まれたことにも衝撃を受けながら、まず浮かんだのはグルーシャの肉親のことだった。ティゼンハロム侯爵の企みによって――あるいは王の命令によって――夫を亡くし寡婦となった母。ティグリス王子の毒によって片腕を失った弟のカーロイ。シャスティエが確実に知っているのはそのふたりだけだが、娘であり姉であるグルーシャが常に心を配る相手であろうことは分かる。嫁いだ身ではあるけれど、だからこそ夫の世話をする余力を割くのは血を分けた相手にしたいのかもしれない。
「いいえ。陛下とクリャースタ様のお陰様を持ちまして、母も弟もつつがなく過ごしております」
「では、何があったというの……?」
これが懐妊した、ということなら快く身体を休めるよう命じることができるというのに。アンドラーシに大事な務めが与えられている今はそのようなことはないだろうし、何よりグルーシャの強張った表情が慶事が理由ではないと教えてくる。
「……クリャースタ様のお耳に入れることは、できればしたくないのですが――」
「それで私が納得できると思って? 教えてちょうだい」
黒い目を伏せてわずかに横を向いたグルーシャの仕草は、シャスティエに不安を募らせるばかり。そのようなことまで言われて、どうして黙って引き下がることができるだろう。グルーシャも、言いながら分かっているに違いないのだ。
「……そう仰ると思っていました」
グルーシャは深く息を吐いて、次いで吸うと意を決したように面を上げて口を開いた。
そして彼女から聞かされた噂にシャスティエは久しぶりに不安と恐怖以外の感情――つまり、激しく燃えるような怒りを覚えたのだった。