冬の訪れ レフ
「綺麗な子ねえ。それに何て白い肌! 妬けちゃうくらい」
女が不躾に手を伸ばしてきたので、レフは思わず身体を引いた。頬を包もうとしていたのであろう指先は目標を失い、整えた爪だけが彼の顔をかすった。
「照れてるの? こういうところは初めて?」
顔を背けた彼に、女は気を悪くした風もなく笑った。
紅すぎる唇、開いた胸元、媚びる目線。どこをどう見ても立派な娼婦だった。あまりにも女を剥き出しにしていて目の遣りどころに困るくらいに。
むせるような香水と脂粉の香りに顔を顰めつつ、レフは口を開いた。
「そういうんじゃない。ここは貴族も来るんだろ? 聞きたいことがある」
イシュテンの王都にたどり着いたものの、従姉の行方は分からなかった。民に尋ねても、居場所どころかミリアールトの王女を捕らえたという話を知る者もいなかった。
敗戦国の姫など戦利品の最たるものだろうと思うのだが、イシュテン王は少なくとも彼女を晒し者にはしなかったらしい。だからと言って人知れず酷い目に遭わされているのではないかという不安は拭えなかったが。
庶民が戦の結果や王侯の去就に無知なのは仕方がない。それならば貴族――それも、できればミリアールトに従軍した者に接触したいが、彼には伝手がないし危険過ぎる。ただでさえ彼の容姿はミリアールト人だと明らかなものなのだから。
苦肉の策として高級娼館に足を向けたのは、果たして良い考えだったのかどうか。艶かしい女を前に、蜘蛛の巣に絡め取られた羽虫のような気分がして、彼は自分の判断に自信が持てなくなっていた。
攫われた姉を探している、という。今や慣れた口上を述べると、今度は女が顔を顰めた。しどけなく長椅子に横たわってはいるものの、先ほどとは違って警戒の色を露にしている。
「どのお客さんから、っていうのは言えないんだけど……」
女はこの国の者に多い暗い色の瞳を眇めると、意味ありげに間を置いた。
「今回の遠征では女を攫うのは禁じられてたらしいじゃない。店主が愚痴ってたわ。毛色の変わった娘が出回るかと思ってたのに、って。競争相手が増えなくて、私たちには良かったかもしれないけど」
人をモノ扱いしておいて、何がおかしいのか女は笑う。レフには不快なばかりだったが。
女の語ったことも初耳で、さらに不快だった。イシュテンが狙うのは財貨だけではない。金の髪や碧い瞳、白い肌を珍しがってしばしば若い娘を攫ってきたではないか。そうやって引き裂かれた恋人たちの物語はミリアールトの者なら誰でも知っている。なぜ今回に限ってらしくない騎士道精神を発揮したのか。
嫌な予感を覚えながら、女の紅い唇が動くのを眺めた。
「私が聞いてる限り、ミリアールトから連れて来られたのは一人だけ。しかもそのお方って、貴方たちにとってすごーく大事な人なのよね?
――貴方って何者なの、王子様?」
王子は公子と同じ単語なので、一瞬正体を言い当てられたかとぎくりとする。しかし、自分の容姿を揶揄しただけだと気付いて僅かに平静を取り戻し――無垢を装って問いかけを無視した。
「あいにく、探してるのは王女様じゃないんだ。……でもその方のことを知ってるなら教えて欲しい。彼女は王宮に勤めていたから。一緒にいるのかもしれない」
彼の言葉は全てが嘘という訳ではない。従姉は王女ではなく女王だし、その傍らには忠実な侍女が、イリーナが控えているはず。金茶の巻き毛の少女を思い浮かべて彼女と呼べば、罪悪感を覚えることもなく口は滑らかに動いた。
「お客さんからの話を他のお客さんに告げ口なんてできないわ」
「王女が連れて来られたと言ったじゃないか。それも客から聞いたんだろ? 彼女の居場所も聞いていないか?」
「王女様なんて言ってないわ。そう言ったのはあんたじゃない。
……いるってだけならまだ良いけど、貴方に居場所を教えて乗り込まれたりしたらこっちも迷惑なの。分かる? そういうお方が閉じ込められる場所よ、忍び込むなんて絶対無理なの」
揶揄うように微笑む女を前にレフは歯噛みした。貴族を相手にする娼婦だけあって強かだ。口を割らせることができるのは、金か暴力か。
女を痛めつける。従姉のためなら自分にそこまでできるのだろうか。彼は不思議に思った。
だがそれは最後の手段だ。まずは金での懐柔を試みる。
「無料でとは言わない。金なら――」
「それにね」
故郷から持ち出した宝石を取り出そうとしたところへ、立ち上がった女の指先に口を塞がれた。女の纏う匂いが一層強く鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになる。
「私のせいで貴方みたいな子が死んじゃったら後味悪いじゃない」
「……何?」
子供扱いに苛立ちつつ女を押しのけようとするが、彼女は巧みに腕を背に回してくる。
「おとぎ話のようにはいかないのよ? 王子様がお姫様を助けてめでたしめでたし、ってね。
若いからって簡単に命を無駄にしちゃダメよ?」
間近に迫った女の顔を見ても、その年頃は良くわからない。彼とそう変わらないようにも見えるし、母親のような歳のようにも思える。こんな生き物は彼の周りにはいなかった。
ただ、こんな仕事の女にも案じられるほどの自分の頼りなさが情けない。船に乗せてくれた商人たちもそうだった。悪いことは言わないから止めておけと、彼らの態度が表情が語るのだ。
女の素肌に触れないように注意しつつ、柔らかく芳しい身体を振り払う。
「無駄死にしたい訳じゃない」
歯ぎしりしながらの抗弁は、我ながら悔し紛れにしか聞こえない。
「それなら私に話し過ぎじゃない? そういうところがお子様に見えるんだけど」
「僕を密告するか?」
「まあしないけど。今は貴方だってお客だし」
女の微笑みは相変わらず掴み所がないが、とりあえず筋は通っている。今の彼には彼女らなりの倫理を信じるほかない。
「……感謝する。じゃあな」
言い捨てて踵を返すと、女は初めて慌てた声を上げた。
「ちょっと――どこ行く気?」
話が聞けないならこの女にもう用はない。追い縋ってくるのがひたすら煩わしかった。
ここで女を脅そうと思えない彼は、多分決定的に甘いのだ。そのことに敗北感すら覚える。
――こんなことではいつまで経ってもシャスティエを助けられない……!
「一晩分の金はちゃんと払う。シャス――姉を探してるだけなんだ」
「諦める気はないのね。あてもないくせに。あんたが死んだら姉さんも悲しむんじゃない?」
女の表情に揶揄の色はなく、本当に心配しているようなのが余計に腹立たしい。
「他にあたる。お前には関係ない」
「ちょっとでも関わった人が無茶しそうだったら止めるでしょ」
「関係ないと――」
不意に抱き寄せられて言葉が途切れる。女の胸に頭を抱え込まれるような体勢で、耳元に囁かれる。
「人の気持ちを考えられないのも子供の証拠。こうと決めたら突っ走るのも。その人が連れて来られて随分経つんでしょ? あんたが焦ってもその人の待遇は変わらないの。ちょっとは落ち着きなさい」
その口振りから、この女はやはり結構歳がいっているのかもしれないと思う。女の胸の柔らかさと暖かさ。その誘惑から逃れようと強引に突き放す。従姉が苦境にあるというのに女に惑わされたりしては自分自身が許せなくなる。
「落ち着けるか。やっとここまで来たのに居場所もわからない。僕の――大切な人が」
従姉とも女王とも言いかねて選んだ表現はひどく気恥ずかしいものになった。
「本当に若いわねえ」
女も呆れたように息をつく。彼女はしばらく考えを巡らすように宙を睨んでから、口を開いた。
「あんた、ここで働いてみない? あんたみたいに綺麗な子なら歓迎よ。
あたしたちからは言えないけど、お客さんの話を聞くことはできるかも。手当たり次第に娼館を尋ねたり、お客さんの帰り道に襲いかかったりするよりは安全だし見込みがあるでしょ」
女が言ったのはまさに彼が漠然と考えていたことで、浅慮を見抜かれたようで頬に朱が差すのを感じた。
そして、何より提案の内容がとんでもない。
「男の仕事があるのか、ここに?」
怒りに燃えた視線を受け止めて、女は苦笑した。
「結構あるわよ。ほとんど雑用だけど、護衛とかね。質の悪いお客さんもたまにいるし。あんた、育ちが良さそうだし剣くらい習ってるんじゃない?」
言われてみればその通りで、またも自分の視野の狭さを思い知らされて唇を噛む。
それにしても、
――僕が娼館で働く!?
亡き父や兄、何より従姉が何と言うだろう。嘆くか怒るか蔑むか。仮にも王家の流れを汲むものが異国の娼館に身を潜めるとは。
しかし、短い滞在の間で良くわかった。一目で異国の者とわかる彼に対して、イシュテンの民の口は重い。滞在している宿に剣や鎧の音が響いて逃げたことさえある。密偵の類と疑われて密告されたのか何なのか、確かめることはできなかったが。娼館とはいえこの地での居場所を確保した方がやりやすい……かもしれない。
「……考えてみる」
釈然としない気分のまま、レフはやっとそれだけを絞り出した。
またね、と言って女は彼を送り出した。また会うことを疑っていない口調が不本意だった。
彼女の申し出を受けるかどうか。考えながら夜道を行くと、頬に冷たい感触があった。雨か、と思って手のひらで受けると、白い結晶が一瞬で水滴へと変わった。イシュテンでは初めて見る雪だった。
――冬が来るのか……。
イシュテンで雪が降るなら、故郷ではとうに積もっているだろう。明けない夜を更に雪が閉ざす、長く暗い冬が来るのだ。ただでさえ辛く厳しい季節なのに、食料や燃料も余裕がある風土ではないのに、侵略者が居座っている状況で無事に乗り切れるのだろうか。出奔した身であっても、心は痛む。
黒い空から降る雪片を見上げると、故郷の言い回しを思い出す。新雪のような、とは未熟を指す表現だ。白く汚れを知らないが、柔らかく崩れやすいという。
彼はまだ舞い降りたばかりの淡雪に過ぎない。
夏にも溶けない万年雪の冷徹さ。踏みにじられ、一度は泥と混じってゆるんでもまた凍る、氷の強かさ。確かなようで容易に砕けて愚者を飲み込む凍った水面の老獪さ。
いずれも彼に足りないものだ。
成長しなければならない。強くならなければならない。いつまでも幼いままでは彼女を助けることなどできはしない。
――手段を選んでる場合じゃない、か。
彼は手のひらに舞い降りた雪片を握り締めた。皮膚を刺す冷たさが決意を後押ししてくれる。
きっと彼はあの女を再び訪ねることになるのだろう。