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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
17. 疑いという毒
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新しい生活 ラヨシュ

 ラヨシュは彼の師としてつけられたアンドラーシという男のことが最初から好きではなかった。

 この最初から、というのは実際に顔を合わせる前からという意味だ。王の側近の中には、ティゼンハロム侯爵家や王妃のことを快く思わない者もいるということは母や侯爵邸の使用人たちから聞かされたことがあったし、アンドラーシといえばその筆頭として名前が挙がる者だった。


『臣下の分際で不遜なこと……!』


 母が嘆くように憤るように言っているのをしばしば耳にしていれば、その相手に対して良い感情を抱くのは難しい。事実、初めて対面した時もアンドラーシという男は王妃に対してあてこするようなことを口にしていた。ラヨシュとしては、王が無礼な臣下を強く咎めなかったことにも驚いたし――それこそ不遜なことではあるけれど――不公正ではないか、と憤りに似た思いをしたものだった。


 恐らくは母のこれまでの尽力もあって、王妃が悪意を含ませた言葉に気付いていないようだったのは良かったけれど。でも、この立場になるとラヨシュには母の苛立ちがよく分かった。王も臣下たちも、王妃が何も知らないのを良いことに侮っている雰囲気が感じられるのだ。王と並んで国の誰よりも尊ばれるべき方なのに、この扱いはあまりにひどい。




「……終わりました」


 だから、言いつけられた仕事を終えた報告に赴いた時、ラヨシュが師であるはずの男に向けた眼つきも声も刺々しいものだっただろう。


「早かったな。もう慣れたか」


 王宮の一角、警護の兵たちの詰所でのことだ。王妃の護衛を命じられたアンドラーシは、今では多くの時間をこの場所で過ごしているし、彼に師事するラヨシュも自然とここに出入りすることが多くなっている。今まで過ごしていた王妃と王女の住まいとはかけ離れた埃っぽく汗臭い場所――だが、今のラヨシュにはこちらの方が似合いだろう。ティゼンハロム侯爵の庇護の手を王妃から引き離そうとする王の狙いはさておいて、アンドラーシに命じられた務めをこなしたラヨシュも汗と埃、それに何より獣の臭いに塗れている。今日彼が訓練として言い渡されたのは、厩舎の馬たちの手入れだったのだ。


「はい。お言いつけの通りに。どれも怪我や病気の様子のあるのはおりませんでした」

「結構。では確認せねばな。――少し外すぞ」


 ラヨシュの報告を聞くなり、アンドラーシはその場に控えた兵たちに声を掛けて立ち上がった。厩舎に向かって彼の仕事ぶりを検分するのだ、と気づいたラヨシュは慌てて後を追う。憎らしいほど高いところにあるような気がする相手の顔へ、抗議の声を上げながら。


「信用してくださらないのですか」


 背の高さが違うということは、もちろん脚の長さも違うということ。だからアンドラーシの背を追うラヨシュは、ほとんど小走りになってしまう。彼の足の速さに合わせてもらったらそれはそれで屈辱に思うのだろうけど。でも、彼の存在など眼中にないかのような扱いは面白くない。


 と、アンドラーシが急に足を止めて振り向いたので、ラヨシュはぶつかりそうになる。つんのめった無様なところを見下ろされて、きまり悪さに頬を赤くしていると、笑いを含んだ声が降って来た。


「信用しているかいないかの問題ではない。仕事を与えたからにはその成果を見定めるのが上に立つ者の務めでもある」

「……はい。不心得でございました」


 言われてみれば当たり前のこと、アンドラーシにはラヨシュを侮る思いはなかったらしい。ただし彼の非を指摘する眼つきにはどこか面白がる色がある気がして、謝罪するのに一瞬ためらってしまう。それでも型通りの言葉を絞り出すと、相手は分かれば良い、と言いたげに頷いて踵を返し、また厩舎を目指して歩き出す。


 今度こそ大人しく彼の師であるはずの男の後をついて急ぎながら、悔しさに唇を噛む。やり込められたからというよりも、彼自身の未熟さを思い知らされた気がして居たたまれなかった。


 ――どうも一々言葉を悪くとってしまう……良くない……。


 アンドラーシは不遜で不敬で軽薄で好きになれない。でも、そんな男にも及ばないほど彼はまだまだ子供でしかないのだ。




 ラヨシュの教育を任せられたアンドラーシがまずやらせたのは、馬の世話の他には走ったり泳いだりといったごくごく基本的な訓練や、そうでなければ武具の手入れのやり方といった地味な仕事だった。彼は最初それを嫌がらせと解釈して抗議したことがある。


『なぜ剣や槍を教えてくださらないのですか』


 だって、王も彼の存在を快く思っていないことは明らかだったから。王妃と王女の手前、彼を王宮に留めることを許してくれただけ、王だけに忠誠を抱くこの男なら、主君の意を汲んで彼がつまらない訓練を嫌がって逃げ出すように仕向けかねないと思ったのだ。

 するとアンドラーシはあの人を食ったような笑みと共にこう答えた。


『陛下をあのように不遜に睨みつけていた者に、武術など教えられるか』


 不遜な男に不遜などと言われて、ラヨシュは鼻白んだ。それに、内心の思いが傍から透けて見えていたことも衝撃だった。アンドラーシの無私の忠誠も、王妃の一途な愛も、王に相応しいとは必ずしも彼には思えないのだが――それでも、王は王だ。不敬な思いを抱いているなどとは他に知られてはならないはずだった。そのようなことは、彼を庇ってくれた王妃の立場を悪いものにしかねないのだ。


『まあ、お前が何を企んだところで陛下を害することなど叶わないだろうが。それに――』


 恥じ入って俯いた彼に気付いているのかいないのか、アンドラーシは相変わらずにやにやと笑いながら続けたものだ。


『お前は今まで甘やかされて育ったようだ。剣を扱うにも馬を御するにも力が足りん。当面は俺の言う通りに身体を鍛える方が早いだろう』

『……はい』


 これもまた、アンドラーシの言葉に理があった。ティゼンハロム侯爵邸でも警護の者の手すきの時などに剣を触らせてもらったことはあるけれど、でも、そのようなものは子供の遊びに過ぎなかった。アンドラーシが何でもないことのように与える課題は、確かに今のラヨシュには簡単にこなせるものではなかった。疲れや筋肉が訴える痛みは不満の理由ではなかったけれど、でも、物心ついた時から訓練を施されている貴族の子弟とは違うのだと、思い知らされてもいるところだったのだ。


 彼の身分で貴族と同じ訓練が受けられるのは、願ってもない好機である僥倖のはず。ならば内心の不服も反発も隠して、できる限りのことを学ぶのが得策だ。だから、従順な生徒を装わなければならない、のだが――


『身体が鍛えられる頃には不敬な性根も少しはまともになっているのではないか』

『……精進いたします』


 あくまでも彼を揶揄うようなアンドラーシの口調に、覚悟を早くも試されつつ、ラヨシュは顔を伏せて引き攣った表情を隠したのだった。




 アンドラーシは彼を鍛えてくれるのだ、と心から思えれば良いのに、この男の言動はどうもラヨシュ()遊んでいるように思えてならない。そのせいで素直に教えを乞おうという気にはなれないのだ。


「……なんだ、何も問題がないではないか」


 今、彼が手入れをした馬たちをもう一度点検した後も。アンドラーシはどこか残念そうに呟いてラヨシュの眉を顰めさせた。まるで、何か落ち度があった方が良かったように聞こえてしまうのだ。そうすれば罰として余計に走らせたり泳がせたりする口実になるのに、と。


 馬の嘶きや蹄が厩舎の床を掻く音を聞きながら、ラヨシュは胸を張った。彼をいびろうというアテが外れたなら残念だったな、と思ったのだ。


「申し上げた通りです」

「思ったより物覚えが良いな」


 と、意地の悪い目で見ていると不意に誉め言葉のようなものも投げられるから訳が分からなくなる。とりあえず素直に喜ぶことはできなくて、無難と思われる言葉を返す。


「……恐れ入ります」

「言葉遣いはきちんとしているな、どこで習ったのだ?」


 だが、かえって不思議そうに首を傾げられて、密かに焦ることになってしまう。


 彼は身分の割には厳しく言葉遣いや礼儀作法と躾けられたが、それは母の意向によるものだったと思う。多分、あの方は息子を王妃や王女の傍に仕えさせることをずっと望んでいたのだろう。そのために、ティゼンハロム侯爵邸の人々に彼の教育を頼んでいたのだ。だが、たかが使用人の子供には過ぎたこと、なぜそのような僥倖を得られたのかを深く訊かれたら――母のこと、侯爵家に縁がある者だとこの男に知られては、王宮から追い出されてしまうことがあるだろうか。


「ま、俺が礼儀作法を教えるなど笑い話だ。そこの手間が省けるなら良いのだが」

「あの……王妃様のお傍で色々見聞きするうちに、自然に覚えたのだと思います」

「そうか。ならば王女殿下もぜひそのようになって欲しいもの」


 ――王女様のことまで……!


 彼の振る舞いについての言い訳をしつつ、王妃は淑やかな方だと訴えたかったのに。アンドラーシを納得させることはできたものの、王女のお転婆ぶりを当てこすられるのは不快だった。普通の姫君のようでなくても、マリカ王女は心優しくて勇気がある方だ。そもそも一国の王女のことを、臣下がどうこう言うことこそ不敬ではないのか。


 危うくまた抗議の声を上げかけて――ラヨシュは、彼にも王女にも関心を失ったようにあっさりと手を振ったアンドラーシに救われた。


「――今日はもう良い。休むなり遊ぶなり好きにしていろ」

「……はい。ご指導ありがとうございました」


 深く追及されなくて助かったはずなのに、追い払われるような物言いを面白くないと感じてしまう。やはり彼は子供なのか。恐らく今度は、おとなしく返事をしたように見えたはずではあったけれど。




 厩舎を出たラヨシュは、まずは水場に行って汗と汚れを流した。次いで向かうのは使用人たちの(まかな)いを料理する厨房だ。アンドラーシが揶揄したように、暇な時間が出たからと遊びまわるほど幼くはない――しかも王宮で――が、時刻はすでに夕刻、日もかなり傾いている。空腹を満たすべく何かもらった後、手伝えることがあれば手伝おうと思ったのだ。

 アンドラーシの()()ということで以前と比べれば彼の立場は幾らか確かなものになったが、それでも王宮に不似合いな子供であることに変わりはない。庇ってくれるティゼンハロム侯爵家に縁のある者たちも次第に数を減らしている。王女の贔屓で分不相応な扱いを受けていると思われないようにするためには、役に立つところを見せておいた方が良いのだろう。


「ラヨシュ、熟した梨があるの。食べる?」

「あ、はい。ありがとうございます……」


 ところが、手伝いをするはずが瑞々しい梨を差し出されてしまってラヨシュは気勢を削がれてしまった。使用人の子供の癖に貴族気取りで、と。陰口を叩く者がいるのと同じくらいに、小さいのによく頑張っている、と見てくれる者がいるらしいことは、嬉しくもくすぐったいものだった。


 ただ、彼に良くしてくれるのは純粋な厚意とは限らない。今、梨を渡してくれたのは厨房に勤める若い女だった。


 ――こういう人は、()()()が目的なんだよな……。


「ね、今日は何をしてたの?」

「昼前は水泳で……さっきまでは、厩舎の馬の手入れを」

「アンドラーシ様も一緒?」


 なぜか期待ような色に輝く女性の目を見て、ラヨシュはやっぱり、と思った。


 アンドラーシという男は、性格はともかく見た目は良い――らしい。王妃が美しく王女が可愛らしいことは彼にもよく分かるが、男に対して容姿の美醜を言うことはよく意味が分からないのだが。とにかく、彼があの男に師事している話が使用人の、特に女性の間で広まった結果、アンドラーシの好みだとか言動について訊かれることがよくあるのだ。妻のいる男に何を期待しているのか、それともただの好奇心なのか、それもまた彼にはよく分からないことだった。


「いえ……最後に仕事ぶりを見て頂いただけで」

「そうなの」


 梨の果汁が喉を潤すのを感じながら、それをくれた人の落胆した姿を見るのは何か後ろめたいもので、ラヨシュは意味もなく謝っていた。


「すみません」

「ううん、良いのよ。でも……じゃあ、昼間何をなさっていたかは分からない、わよね……?」

「さあ、兵士の詰所にいらっしゃったのではないかと思いますが」

「側妃様の離宮には? いらっしゃることもあるのかしら」

「分かりません。……なぜですか?」


 女の声に表情に、何か探るようなものを感じてラヨシュは果汁に濡れた唇を舐めた。確かにあの男は王妃よりもあの金の髪の姫君の方へ忠誠を誓っているようではある。でも、アンドラーシに任せられたのはあくまでも王妃の護衛、内心ではそちらを望んでいたとしても、用もなく側妃の離宮に近づくことはないと思う。


 この女は、どうしてそんな分かり切ったことを改めて訊いてくるのだろう。


 ラヨシュの目に不審が宿るのに気付いたのだろう、女は慌てたように首を振ると、足早に立ち去ろうとした。


「何でもないのよ。気にしないで」

「あの、離宮で何かあったのですか?」

「いいえ、何も。忘れてちょうだい」

「待って。教えてください!」


 既にほぼ食べ終わっていた梨の芯を投げ捨てて。ラヨシュは女の手首を掴んで引き止めた。自分がこんなに素早く力強く動けるのが意外なほどだった。アンドラーシに鍛えられた効果が、早くも出ているということなのだろうか。


「あの……気になることがあるなら、明日にでも直接伺ってみますが……どう、したのですか……?」


 教えてくれないなら不審な質問をした者のことを本人に告げ口するぞ、と。女の手首を掴んだままで脅すと、相手は諦めたように目を伏せた。そして彼を物陰へと引っ張ると、絶対に内緒よ、と前置きしてその()()を彼の耳に囁いた。




 ――そんな。ありえない……。


 口止めに明日も菓子をくれることを約束した女が去った後も、ラヨシュはしばらく動けないでいた。それほどに、女が教えてくれた噂――それも既にあちこちで囁かれているという――はあってはならないものだった。


 王女を生んだばかりの側妃と、王の側近が密かに通じているなどと。


 人の倫に外れたこと、妃や臣下として許されないことというだけではない。アンドラーシに不貞を働く暇がないことはラヨシュがよく知っている。兵を采配する合間に彼の訓練にも付き合って。四六時中一緒にいる訳ではないけれど、でも、仕事を怠けて側妃のもとを訪ねる素振りがあるなら分かるはず。


 ならば、これは濡れ衣なのか。でも、それにしてはあまりにもまことしやかに、人によってはさも事実であるかのように語られているというから混乱してしまう。


 ――侯爵様や……母様が……?


 思い当たるのは、陰で糸を引く者がいるのかもしれない、ということ。アンドラーシは王の側近で、さらに王妃を快く思ってはいない。あの男がいるせいで、母とのやり取りも難しくなってしまっている状況だ。だから、母たちの方でも遠ざけようとしていてもおかしくはない。側妃や、もしかしたらその御子まで巻き込んで、ひどいことだとは思うけれど。でも、王妃を味方から遠ざけるような王のやり方だってひどいのだ。


 ラヨシュの耳に、あの新月の夜の母の命令が蘇る。


『マリカ様たちをお守りしなさい!』


 言われるまでもないこと、増して母の命令となれば何としても従わなければならないこと。そしてこの醜聞が母たちの流したものだとしたら、きっと王妃や王女を守ることに繋がるはず。


 ならばどのように動くべきか――よく、考えなければならないだろう。

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