醜聞 レフ
例によって深夜――ティゼンハロム侯爵邸を訪ねると、レフを出迎えた侍女は頬を青黒く腫らしていた。侍女といっても髪を短く切って男装した姿だから役目をどのように呼んだものか迷うところだが。それでも肌の白さや線の細さで性別は見た目に明らかだから、顔に残された傷がひと際哀れで痛々しい。あの新月の夜、王妃を説得できなかったと報告したために、侯爵に役立たずと罵られて罰せられた跡だ。
何日も残るほど殴られた侍女のことを、気の毒には思う。しかし、レフの胸に湧くのは、単純に彼女への同情ではない。彼にとって重要なのは――あの夜手ひどく拒絶されたとしても、なお――常に従姉ただひとりなのだ。
――やはり、イシュテンは野蛮だ……!
命令に失敗したとはいえ、女に容赦も躊躇いもなく手を上げることができる気質は理解しがたい。この女を王妃のもとに遣わしたのは、侯爵の判断でもあったのだろうに。実の娘の性格を見誤った落ち度を、使用人に押し付けたようにしか思えなかった。国の重鎮たる侯爵がこのありさまでは、王も、従弟に対してどのように振る舞っているのか知れたものではない。
――あの時、力づくでも攫ってしまえば良かった。
一瞬だけ抱きしめた彼女の柔らかさと温もりを肌に思い出すと、血が燃えるように熱く滾った。愛しい人にやっと触れることができた高揚に加えて、レフを灼くのは身を削るような激しい苛立ちと焦燥だ。
ティゼンハロム侯爵の乱に呼応して、ミリアールトもイシュテン王に背くだろう。彼自身が母にそのように唆したし、ミリアールトの言葉を禁じられたことで祖国では怒りと不満が溜まっているだろうから。シャスティエを助け出すことさえできていれば、イシュテン王が三方――ティゼンハロム侯爵、ミリアールト、そしてブレンクラーレ――から攻められるのを良い様だと嗤って眺めることもできただろうに。
王女が生まれたばかりの今はまだ、王も彼女に対して優しさを見せているのかもしれない。あのシャスティエが絆されてしまう程度には。国を滅ぼされて以来の苦難の連続で、王女の誕生はやっと側妃としての立場を固めることができたのかもしれない。逃げた場合に祖国が王の怒りを被ることを考えると、身体が動かなかったのかもしれない。そう思うと、彼女を責めることはできないけれど。
でも、このまま乱が起きれば王は何をするか分からない。そもそも――シャスティエが必死に、けれど空しく訴えていたのと違って――まともな結婚ではなく人質の名前を変えただけのような扱いなのだ。ミリアールトが背けば、人質はその報いを受けさせられるという状況に変わりはないのだ。
だから、ことが起きる前にシャスティエを助け出さなければならない。そのために、彼はティゼンハロム侯爵に働きかけにきたのだ。
侯爵邸の暗い廊下を歩む間に、侍女がぽつりと呟いた。
「殿様はご機嫌が優れないご様子です。お話をされても無駄かと存じますが」
「侯爵の機嫌が良くなるようなことを話してやるつもりだ。気遣いはいらない」
殴られた頬が痛むだろうに、女は明瞭に言葉を紡いでいた。どのような辱めを受けたとしても、傍目には悟らせないのがせめてもの意地、なのだろうか。
侯爵に乱暴を働かれているのを見たのは一度ではないが、今ひとつ哀れみきれないのはこの頑なさが原因かもしれない。それに、どこか周囲を見下す空気を感じるのだ。ブレンクラーレのアンネミーケ王妃もティゼンハロム侯爵も、レフを若造と侮っている節は感じるし無理もないことだと理解もするが、使用人の女からそのような態度を感じるのは不快だった。
「……ご随意に」
この答えも、勝手にしろ、と言いたいのを繕ったのかのよう。侯爵が計画の失敗に苛立っているなど誰にでも分かることだろうに、彼をそこまで愚かだと思っているのだろうか。
――その程度のこと、承知の上で来ている……そうは思えないんだな。
女のような容姿といい、彼が弱々しく見えるのは承知している。かつてならば見た目や若さで見くびられるのを屈辱と感じていただろうが、今はそうでもない。侮られている分だけ、利用する隙になるということだから。
「――状況は何も変わっておらぬ。娘も――側妃めも、王宮の奥深く、警備は一層厳しくなっている」
だから、ティゼンハロム侯爵の部屋に通されて飢えた狼のような剣呑な目を向けられても、レフは怯むことはなかった。それどころか微笑みを浮かべることさえできる。侯爵が、打つ手がないと思っているのならば願ってもない。彼の進言を受け入れる余地は大きいだろう。
王宮のふたりの貴婦人たちの説得に失敗したあの夜、彼もティゼンハロム侯爵も翌朝にも王が軍を向けることを覚悟した。シャスティエも王妃も、助けとなるはずの手を断って、夫の方を選んだ。ならば当然王にそのことを訴えるだろうと思ったのだ。
だが、結果はそうはならなかった。王は相変わらずティゼンハロム侯爵の一門を冷遇して、乱へ仕向けようとしているが、それは迂遠な策に過ぎない。王妃もシャスティエも、肉親を売り渡すほど王に盲目ではないということだ。ならば、また会って話をすることができれば、説得の余地は大いにある――と、レフは考えていた。
――ミリアールトで何が起きているか言えなかったから……王の仕打ちを知れば、きっと……!
だが、シャスティエを助けたいと喚くだけでは侯爵の心を動かすことはできない。他人を動かすためにはその者の利益を提示して望んで動くように仕向けなければならない。これは、アンネミーケ王妃とやり合ううちに学んだことだ。
「まだ挙兵することはできないか。建前を守るのも大変だな」
「――何の用だ。王宮に押し入って側妃を助け出せというなら無理だ」
苦り切った声と苛立った表情が侯爵の余裕のなさを伝えてきて、レフの笑みは深くなる。多分、侯爵もそれを一度は検討したのだろう。もちろん助け出す相手はシャスティエではなく血を分けた王妃と王女だろうが。
イシュテンが長く築いてきた評判からすると非常に意外だが、諸侯は思い立ったからといってすぐに乱を起こすものではないし、王も理由もなく気に入らない臣下を処断するようなことはないらしい。野蛮と囁かれる国であっても、王は王。廃するためにはそれなりの大義が必要だし、臣下に対しても公正を求められるということのようだ。ティグリス王子の場合は、乱の首謀たる王子自身に王位継承権があったが、ティゼンハロム侯爵が擁立しようとしているマリカ王女はいまだ王宮の中、王の手の内だ。この状況で挙兵するのはまだ分が悪い――それもあって、王妃たちを救出しようとしていたのだろうが。
「それは分かっている。だから、側妃に接触しやくする策を考えた」
「何……」
侯爵は眉を上げてレフの顔をまじまじと見てきた。が、まだ食いついてきたと言えるほどではない。若造が何を言い出すのか、と。苛立ちを皮一枚のところに秘めた不審という程度にすぎないだろう。
思い付きでも、感情に駆られた無謀でもないと誇示するため、レフは悠然と笑って見せる。
「同時に、王の評判を下げることができるかもしれない。王に足りぬ者だと諸侯に思わせることができれば討つ名分もできるのだろう?」
王と侯爵は、今我慢比べの最中だ。王は敢えて侯爵を支持する諸侯を冷遇することで、相手が激するのを待っている。一方の侯爵は、中立の者が見ても眉を顰めるほどに王が横暴を重ねるのを待っている。王が我慢できずに度を越えた真似に及べば、暴君として――あるいは自身の非力を忘れた報いとして――多くの臣下が背くだろう。そして侯爵の行動が早すぎれば、主君に仇なす逆臣の謗りは免れない。
無事に王妃たちを手中に収めることができていたなら、レフがかつて言ったように、王にふたりの妻のいずれにも背を向けられた夫という汚名を着せることができていたのに。
――シャスティエ……なぜだ……!?
星明りのもと、最後に見た彼女の姿が目蓋の裏に蘇る。それに初めて垣間見たイシュテン王も。もう一度説得できないかとあの庭をうろついていた彼に見せつけるかのように、ふたりは仲睦まじく寄り添っていた。いや、彼女が進んでそうしていたはずはないけれど。誇り高い彼女が憎い相手に媚びを売らなければならないなど、どれほどの屈辱だろう。多分彼女はレフを逃がすために心にもないことを言って心にもないことをしていた。シャスティエがいまだに彼の存在を王に告げ口していないらしいのがその良い証拠だ。
彼自身が愛する人の枷になっているのかと思うと、ティゼンハロム侯爵に対して作った笑みは引き攣る。
「……今度は何を言い出すのだ。儂を煩わせるだけの価値があることだろうな」
もっとも、不機嫌そうに鼻を鳴らした侯爵は、彼の表情の微妙な違いを見分けることはできなかったようだが。
「もちろん。手を打ちかねているようだから、助けになることができれば良いと思った」
下手なことを言えば絞め殺してやる、と雄弁に語る目を真っ直ぐに見つめて、嫣然と、とでも形容されるであろう笑みを改めて纏う。あの侍女が椅子を引くのに対して、わざとゆっくり腰を下ろすのは、相手を焦らせるためだ。口を開く前に、注がれた酒を飲み干して見せるのも。
「王妃の警護を任されたのは、王の側近だそうだな? だから王妃に手が出せなくなったと――」
「既に言った通りだ」
さらにレフは回りくどい話の切り出し方でティゼンハロム侯爵を挑発した。何度も言わせるなと言外に唸る老人に苦笑して見せてから、いよいよ本題に入る。
「妻の身近に侍ることを許すくらいだから、王はその男を相当信用しているのだろう。だが、その信頼が裏切られていたとしたら……? 妻からも、側近からも……?」
「マリカは不貞を働くような娘ではない。それもあのように下賤な者を相手に!」
――貞節を守る相手の王を、お前は殺そうとしているのだろうに。
非常に身勝手な理屈で激昂した侯爵は、しかし、レフに彼の考えの正しさを教えてくれる。どこの国でもそうだろうが、特にイシュテンにおいては妻の夫に対する不実は激しく非難され忌避されるのだろう。――思った通りだ。
「そうだろうとも。王を裏切るのは側妃の方だ。事実はどうでも良い、そのような噂が流れたら、王もその男を警護の役から解かざるを得なくなるだろう。そこに隙が生まれるし、側妃に対しても何らかの処分が下るはず。例えば、醜聞を避けてどこかへ居場所を移すとか――」
「王の気性を知らぬな」
丁寧に、分かりやすく並べてやったというのに、侯爵は鼻先で笑い飛ばした。
「貴殿が知らぬのも無理はないが、アンドラーシは王の第一の忠臣として知られている。最近妻を娶ったばかりでもあるし――」
ここでレフは初めて醜聞に巻き込んでやろうとしている男の名を知った。その男の結婚に触れた時、侯爵がひどく苦いものを舐めさせられたような顔をしたのが不思議だったが。王に近しい者の慶事を喜べないほどに、この老人は追い詰められているのだろうか。
「とにかく、ファルカスが取り合うはずはない」
「だが――」
シャスティエだって敵の、それも身分の低い者に身を委ねたりしないのはよく分かっている。ただ、要はそのような噂を流すことができれば良いのだ。だが、彼が反論を紡ぐ前に、横から割って入る声がある。
「世の者はそうは思わないかもしれませんわ」
どこか弾んだ声を上げたのは、影のように部屋の隅に控えていたあの侍女だ。女の、それも使用人の口出しに、侯爵は露骨に顔を顰めた。しかし主の不興を買ってなお、女は訴えるのを止めない。
「何だ、差し出がましい……!」
「あのアンドラーシという男、初めから人質の元王女にひどく執心だったではありませんか」
「それは、あの女を側妃に仕立てるために――」
侯爵はまたもレフの知らない事情を語り、彼の胸を波立たせた。シャスティエの美貌は、人質の立場では彼女に利することはないだろうとは思って恐れてはいたけれど。事実、当初から利用しようとしていた者がいたとは。
「王に献じる前に味見した、と……ありそうなことではありませんか? あの者は何かと人質に構ってもいましたし。妻が側妃に仕えているのも、手引きさせるため、とか……」
女が口を動かすのにつれて、頬の青黒い痣が、何か不気味な生き物のように蠢いていた。そのように思えるほど、女が語る内容はおぞましく、けれど表情は対照的に、生き生きとした笑顔に彩られていた。
――なんだ、この女……!
思わず眉を寄せて言葉を失ったレフに対し、ティゼンハロム侯爵は女の進言に感銘を受けたようだった。
「ふむ……。確かにあの若造も見た目は良いからな。いかにも女が好みそうな……」
話を漏れ聞くにつれて、アンドラーシとかいう男に対する心証は悪くなっていった。が、それはそれとして、侯爵が乗り気過ぎるのも不穏なように思われる。もしも王が醜聞を真に受けてシャスティエに罰を与えるようなことがあってはならないのだ。
「あくまでも噂を流すだけだ。事実ではないのは分かっているな?」
自ら言い出した策ではありながら念を押したレフに、ティゼンハロム侯爵は声を立てて嗤った。未熟さを見せてしまったことを悔やむが、侯爵は彼の動揺を見て気を良くしたようだった。
「無論。そしてファルカスが取り合わぬのは同じこと。しかし側妃の貞節を憂える声が大きくなれば、何らかの手を取らざるをえまい。もしもそれを圧殺するようならば、それこそ側妃と寵臣に盲目になって判断を誤ったということ。――王の評判を落とすとは、そういうことなのだろう?」
「そう。謂れのない咎で任を解かれたとあってはその男も王に不服を抱くかもしれないし……」
どちらに転んでも、こちらに利するはずの策だった。もしも王が醜聞を慮って側妃を遠ざければ、また彼女と接触できる機会が見込める。そして仮にそうならかったとすると、王への批判は高まってティゼンハロム侯爵の反逆に対する諸侯の反発も、幾らか和らげられるかもしれない。
その過程で、シャスティエの身に危険が及ぶかもしれないことを度外視すれば。
醜聞を信じた王が不貞を犯した側妃を罰する可能性に、しかし、レフは目を瞑った。あの夜見た寄り添うふたりの姿がそうさせた。シャスティエの心が完全に王に向けられているなどとは思わないけれど、少なくとも王は彼女の美貌に心を揺るがせているはず。ならばそう厳しい罰が加えられることはないだろう。
「諸侯らへ噂を流すのは侯爵に頼みたい。下々の方へは僕がやる。アンネミーケ陛下の手の者は民によく紛れているから」
商人に扮して情報を集めるブレンクラーレの間者たちならば、怪しまれずに町や村の間を行き来することができるはず。そして、人は品のない噂ほど好むものだ。
「やってみよう。――さて、どうなることか楽しみだな……?」
侯爵の下卑た笑みには吐き気すら覚える。彼自身も卑劣な類の策に手を染めて、血を分けた従姉の評判を貶めようとしていることにも。
だが、躊躇いを覚えそうになった瞬間に蘇るのは、あの夜のシャスティエの悲鳴のような声だった。
『私はイシュテン王の側妃なのよ?』
『私の子をイシュテン王にするためには、王に対して不実があってはならない!』
――認めない……!
仇の妻となってその子を生むのが復讐などと、認めるものか。それが彼女の復讐だというなら、絶対に妨げなければならない。少なくとも不名誉な噂が流れているうちは、次の子のことなど考えられないはず。シャスティエが王と抱き合う姿は、悪夢となって彼を悩ませているのだ。だから――そのようなことは、あってはならない。
「そう……楽しみだな」
だから、内心の嫌悪に懸命に蓋をして、レフは侯爵に強く頷いて見せた。