側妃の怯え アンドラーシ
王女のお気に入りのラヨシュとかいう子供は、王の御前だというのに大層反抗的な眼つきをしていた。
「そなたの教育はこの者に任せることにした。アンドラーシ・フェケトケシュ――王妃と王女の役に立つようよく学べ」
「卑賎の身に、過分のお心遣いと存じます。感謝の言葉もございません」
名乗るほどの姓も持たない身分の割には、声変わり前の高い声で答えた言葉は堂々としたものだった。それに、露骨に疎まし気な目で見下ろす王に物怖じしないのも、ただの子供とは思えない。なるほど、王女に仕えるのを名誉と考えているとはこういうことか、と分かる気がした。先ほどのマリカ王女の様子からすると、父について、祖父母に辛く当たって母や自身にも理不尽を強いているとでも思っていそうだった。この子供も、王女に倣って王の仕打ちを恨んででもいるのだろうか。
「あのね、ラヨシュ……この方の言うことをよく聞いてね。貴方のためにもなることだから……」
「ありがとうございます、王妃様。承知しております」
その証拠に、少年がおずおずと口を挟んだ王妃に答える表情は優しく、力強く頷く姿からも信頼と忠誠が窺えるようだった。もしこの子供があと五年も年長だったら、王妃に対してあらぬ想いを抱いているのではないかと邪推してしまいそうなほど。倍以上も歳が離れている以上は、さすがにそのようなことはないのだろうが。王女の方ならば年回りは似合いだが、今度は相手が幼すぎる。
――やはり、よく分からんな……。
そもそも使用人の子供を王と王妃の御前に召す状況自体がおかしいのだが。王もできればすぐにも叩き出したいと表情で語っているのに、それを実行しないのは王妃への遠慮があるからだろうか。父親とは命を懸けた争いをしようとしているのに、その娘の我儘は叶えてやるとは――
「陛下は王妃様にとても寛大でいらっしゃいますね」
そう述べた瞬間に、少年がきっと睨んできたので、アンドラーシは口元を歪めて嗤った。甘い、と言おうとした本音を聞き取ったなら、この子供は案外察しが良いのかもしれない。それに初めて会った大人の男、しかも自身の教育を委ねられた者に対して良い度胸でもある。性根の叩き直し甲斐がありそうだった。
妻に対する態度を臣下に指摘されて、王も少し嫌な顔をした。とはいえこの程度の口の利き方はアンドラーシにとってはいつものこと、王も軽口で応えてくれる。
「臣下に対しても寛大であろうと考えているが」
「陛下のご命令とあらば、どのような難題もお受けする覚悟でございますが」
「思ってもいないことを……」
彼の王妃嫌いをよく承知している主のこと、若干の後ろめたさはあったのだろうか。王が顔を顰めるのは、単に王妃への不敬を不快に感じる思いからだけではないようだった。だが、アンドラーシとしては王がそのように彼に心を砕いてくれていると分かるだけで十分だ。
「本当に、気にしてなどおりませんよ」
それは、できることならば王妃よりはクリャースタ妃の護衛を仰せつかった方が喜んでいたのだろうが。とはいえリカードが娘と接触したり、内通を試みたりしないかという恐れは確かにある。ラヨシュとかいう子供の守りは面倒ではあるが、礼儀と王への忠誠を叩き込んでやると思えば良いだろう。何なら王が密かに願っているらしいように、泣いて逃げ出すまで鍛えてやろう。
密かな決意を込めてラヨシュに微笑みかけてやると、さすがに彼の真意までは読めなかったのだろう、相手は怪訝そうに顔を顰めた。ただし長い付き合いの王には分かったらしく、苦笑の色を深めている。
「とはいえ忠誠には報いてやらねば。――お前の妻に会って行くが良い。フェリツィアにも目通りを許す。そろそろ人に慣れさせたいと言っていたからな」
「よろしいのですか」
まさしく寛大で慈悲深い王の言葉に、アンドラーシの声は弾む。離れて暮らしている妻が恋しいのはもちろんのこと、クリャースタ妃にも彼は長らく目通りしていないのだ。最後にあの美貌に間近に接することを許されたのはいつだったか――思い返せば、結婚が決まって祝いの言葉を頂戴した時ではなかっただろうか。あの頃は、フェリツィア王女は生まれてさえいなかった。
「あちらはあちらで息が詰まる思いをしているようだ。お前のような者が顔を見せるのも気分が変わって良いだろう」
――俺のような……? 気心が知れていると仰りたいのかな?
クリャースタ妃とはイシュテンに来た当初から何かと関りがあるから、それなりに信頼されていると自負しても良いはずだ。王妃とは違って、側妃については身に迫る危険も実際のものだし、訪ねることで気晴らしになれるならば願ってもない。
「フェリツィア様にお目にかかるのは初めてです。忠臣の顔は、是非とも今から覚えておいていただきたいもの」
「父親の顔もまだ朧なようだからな……大して期待をしない方が良いぞ」
いとけないフェリツィア王女のことでも思い出しているのか、頬を緩めた王に対して、傍らの王妃の顔色は冴えなかった。王に侍ってすぐに御子を授かった側妃の羨望か嫉妬か、我が身と引き比べて先に不安を感じているのか。
思い当たる理由は幾らでもあったが――この女は彼が忠誠を捧げる相手でも、その身を案じてやる相手でもないので、アンドラーシはあえて深く考えようとは思わなかった。
王が先触れを出してくれていたこともあって、アンドラーシは側妃の離宮に歓迎された。
「ようこそお出でくださいました。クリャースタ様がお待ちですわ」
客に向けたよそ行きの澄ました笑顔で、でも声や目線にはっきりと愛情を滲ませて出迎えたのは、彼の妻のグルーシャだった。赤子を抱える離宮に仕えるのに相応しく動きやすい衣装を纏っているが、やはり品良く美しいと思う。髪を結いあげたことで晒されている項の白さも匂い立つようで、早く次の休みにならないかと思ってしまう。
思わず後ろから抱きしめてしまいそうになる衝動を抑えて、アンドラーシは先導してくれる妻の背中に問いかけた。
「クリャースタ様とフェリツィア様のご機嫌は? お気が塞がれているようだと陛下は仰っていたが……」
「はい。フェリツィア様は健やかにお育ちですが、クリャースタ様は……。夜もよく眠れていらっしゃらないようなのです」
こちらへ半ば振り向いた妻の横顔に、心臓がどきりと拍を外して高鳴った。憂いに満ちた表情にも色気を感じてしまったのもあるが、グルーシャの声の重さも表情の暗さも不穏だったから。あの誇り高く美しい方がそれほどに窶れているのかと思うと、その心の裡が思い遣られてさすがに心が痛むのだ。
「……ですから、どうか励まして差し上げてくださいませ」
「ああ。そうしよう」
王に与えられた役目は単なる機嫌伺いよりも重いものだったらしい。そうと分かって、アンドラーシは縋るように見上げる妻にしっかりと頷いて見せたのだった。
フェリツィア王女は確かに人見知りが始まっているようで、初めて会う臣下の腕の中でしきりにむずがっていた。が、程よく揺すってやると次第に大人しく落ち着いてくれた。
「意外としっかりと抱いてくれるのですね。安心しました」
「それは、一応甥や姪もおりますから」
といっても彼は長らく赤子になど興味はなくて、王女に拝謁を許される前にと慌てて甥姪で練習させてもらったのだが。既に嫁いで子を持った姉と妹は、自身の子を彼に抱かせるのを嫌がったものだ。子供がいない男に赤子を渡すのはとんでもない、などと言って。今も、姉妹たちと同様にクリャースタ妃は彼に王女を渡すのに躊躇う素振りを見せた。母というものが子を守ろうとする姿勢の必死さは身分の貴賤に変わらないのかもしれない。クリャースタ妃のように実際に身の危険を立場ならばなおさら、ということなのだろうか。
「良い子のところを見せられて嬉しいですわ」
「母君様に似て、美しい姫君になられることでしょう」
「ありがとうございます」
淡い色の瞳で彼を見上げてくるフェリツィア王女は、アンドラーシが知る他の赤子と比べて明らかに目鼻立ちが整っていた。だから心から期待と賞賛の言葉を述べることができたし、クリャースタ妃にもそれは届いたようで柔らかい微笑みを向けでもらうことができた。が、冬の日差しのように穏やかなその微笑みは、やはり寒風の前に吹き飛ばされそうに思うほど弱々しかった。
目の下にははっきりと隈が刻まれて、頬も痩せて。雪のような肌の白さは変わらないだけに、その変わりようが痛々しくて、怖い。
――フェリツィア様を愛しく思われるようになって、柔らかい表情を見せるようになられたと伺っていたが……だからこそ、リカードが恐ろしいと思われているのか……?
妻や王から聞いていた最近の側妃の様子と言えば、姫君を大切に養育する幸せな母親そのもの、王女が生まれて落胆していたという当初から考えれば、むしろ心の持ちようは明るくなっていてもおかしくないのに。我が子が愛しいからこそ失う恐怖もいや増した、というのは分からないでもないが。元々の誇り高く気丈な姿を知っている者としては内心で狼狽えずにはいられない。
側妃の手が心配げに王女に差し伸べられている。子供を返せ、と暗に求められているのに気付いてアンドラーシは従った。赤子とはいえかなり重くなってきているフェリツィア王女を、前よりも細くなってしまった腕で支えられるのか不安だったが――そこは母の力なのか、クリャースタ妃はしっかりと娘を抱え込んだ。そして王女の方も、母の胸の方が安らぐのか、猫の子のような高い声を上げて頬をすり寄せる。
麗しくも和やかな母子の姿――と呼ぶには、やはり側妃の顔色の悪さが気になって、アンドラーシは姿勢を正して声音もやや硬いものへと改めた。重要な報告があるのだと、相手に伝えるために。
「――実は、この度王妃様の護衛を仰せつかりまして」
「ミーナ様の?」
「とはいえリカードの手の者がつけ込むことのないように、という監視も兼ねてのお役目です。決してクリャースタ様フェリツィア様をお見捨てしたということではございませんし、離宮の警備の強化にもなりましょう。ですから、どうかお心強く思っていただきたいのですが」
側妃よりも王妃を取った、などと思われるのが彼としては一番だったのだ。だからやや言い訳がましい口調になったかもしれないが、同時に側妃の不安を和らげることができれば、とも思っていた。王妃の身辺に目を配ることで、離宮につけ入る隙が減るのも事実なのだから。恐らくは漠とした恐れに縛られているのであろう側妃に、現実に守られていると見せるのは重要ではないかと思えた。
事実、クリャースタ妃はほんのわずかではあったが微笑んでくれた。フェリツィア王女の頬を撫でてあやす視線も手つきも優しくて、慰めを与えることができたか、と希望を持つことができる。
「ティゼンハロム侯爵の耳にも伝わるでしょうか……」
「はい、必ず。いかにリカードといえども、王宮の内で乱暴を働けば言い逃れはできませぬ。お二方に危険が及ぶような事態は起きませんでしょう。無論、あの老いぼれがどのような暴挙に出たとしても、必ず止めて見せますが」
「……そもそも諦めてくれれば良いのですが。王宮の警備が手厚くなったのを見て、手の者を忍び入らせる隙などないと思ってもらえれば……」
眉を顰めた側妃の表情から、やはりリカードこそが不安の根源なのだ、と悟る。だからアンドラーシは力強く頷いて見せた。
「不審な者は決して見逃すことがないようにいたしましょう。それで捕えることができればしめたもの、リカードの反逆の証人とすることもできるでしょうから」
王とリカードの間で緊張は高まっているものの、まだ実際に乱が起きるには至っていない。リカードとしては乱を起こす大義名分がないからだし、王としては叛意の決定的な証拠を掴んでいないからでもある。日和見を決めようとする諸侯を味方につけるには、理不尽な理由で国に乱を招いたと思わせてはならないのだ。
――どうせ陰では乱の計画を進めているのだろうに。さっさと戦いたいものなのだが。
いっそリカードが何かことを起こしてくれれば良いのだが、と思ったところで、アンドラーシは側妃の顔が強張ったことに気付いた。
「不審な者……」
「あ、もちろん例え話ですが」
「いえ……守っていただけることを、信じているのですが」
信じているが、と。クリャースタ妃が逆説の辞で言葉を濁したのが気に掛かってアンドラーシは身を乗り出す。
「お気に掛かっていることがあるならば、打ち明けてはくださいませんでしょうか。陛下にも良いようにお伝えします。どのような些細なことでも、捨て置かれることはございませんでしょう」
側妃の知見は、しばしばイシュテンの者には見えないところをついてくる。ミリアールトの乱をほぼ無血で収めたのはこの方がいてこそだったし、そもそも反乱の説得などという無謀を王に認めさせた弁舌も見事なものだった。もしも、側妃が気付いたことがあって、王に言い出せないことがあるならば、上手く取り次ぐことこそが彼に求められた役目だろうと思えた。
「…………」
「クリャースタ様?」
青ざめた顔の中で一際目立つ紅い唇が、何かを訴えようとするかのようにわずかに動いて――けれど、結局は閉ざされてしまう。碧い目も伏せられて、側妃が心を閉ざしたのを教えてくる。
「いえ、何も。愚かな女が根拠もなく怯えているだけのことです。ですから、どうかお役目を果たしてくださいませ」
アンドラーシは側妃の後ろに控えたグルーシャに助けを求める視線を送った。が、妻も悲し気な目で首を振るだけ。離宮に迎えられた時の様子からして、側妃はずっとこの調子だというのだろうか。愚かな女、などと。自らを卑下する言葉がこの方の口から出るとは信じられない。
――王妃といい、クリャースタ様といい……。
王の妻たちが過剰と思えるほどに怯え萎縮している理由――それが彼には分からない。ふたりの間に通じる事情があるのか、それぞれに何か抱えるものがあるのかどうかさえ。
――リカードさえ斃せば良い、のか……?
剣を振るっての戦いこそイシュテンの戦士の本懐であり、彼も長く王とリカードの決着を望んできたのだが。
それだけでは解決しない何かしらの問題を感じて、アンドラーシはひたすら困惑していた。