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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
17. 疑いという毒
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王妃の変化 アンドラーシ

 アンドラーシは王の招きで王宮の奥へ足を踏み入れていた。職人が手間暇をかけて整えた庭園、その新緑や花々が盛夏の陽光に映えて、無骨者の目をも楽しませる。王宮の中でもこれまでに訪れたことがない一角だから、なおのことそう思えるのだろうか。


 一応は王の信頼を受けて側近と呼ばれる身だから、彼が王宮にいるのは珍しいことではない。今日のように王の命で呼びつけられることもあるし、進言したいこと、彼が見聞きして王に報告したいことがあって拝謁を乞うこともある。だが、多くの場合に招き入れられるのは王の執務室を始めとした王宮の表の部分、あるいは、今はクリャースタ妃と呼ばれるようになった元王女がやって来てからは、彼女に与えられた離宮ばかりだった。今回に限ってはそのいずれでもなく、王妃の居室を指定されたのに内心首を傾げながら進んでいるところなのだ。


 ――何かお叱りを受けることがあったかな……?


 彼が王妃の父のリカードを嫌っているのは周知の事実。更に、父親に都合の良いだけの愚かな女として王妃を快く思っていないことについても同様だ。全く相手を選ばずに、ではないが周囲に対してもその思いを隠そうとはしていない。だからまあ不敬にはあたるのだろうしリカードの方でも彼を嫌っているらしい。だが、それが呼び出された理由ではあるまい。


 何しろ、彼の王妃に対する言動はこの十年来変わっていない。王も苦笑しつつ目溢(めこぼ)しをしているくらいだし、王妃自身も臣下の感情など知る機会はないだろうから咎められる理由にはなりづらい。第一、グルーシャと結婚してからは妻やその実家を慮って以前よりも口を慎んでいるつもりなのだ。今さら過去のことを持ち出して叱責するような理不尽を、王がするとも思えないのだが。


 ――ま、すぐに分かるか。


 王と王妃に目通りさえすれば、呼び出された理由は知らされるはず。じきに分かるはずのことを今思い悩んだところで無駄というもの。そう結論付ければ足取りも軽くなる。もやもやとした気分をさっさと終わらせるには、早く目的の場所に行くのが良いだろう。


 考えながら歩くうちに、王妃の住まいも大分近づいてきていた。もう少しだ、と大股に足を踏み出そうとした瞬間。アンドラーシは、ふと周囲の騒がしさに気付いた。高貴な女性だけがいるはずの場所には相応しくない、ばたばたと走り回るような音と、高い声。王妃に仕える侍女たちのものか――それに、子供の声もするような。


「やだぁ、行くの!」


 何事か、と身構えたところに、アンドラーシの目の前に小さな影が飛び出した。姫君らしからぬ大声に、走って衣装の裾を乱して。風のような勢いで駆けるその少女は――


「マリカ王女!?」


 名を呼ばれて、王女はアンドラーシの方を見ると顔を顰めた。邪魔だ、とでも言いたげに睨め上げる青灰の目は意外と父である王に似ている。つまりは可愛らしさよりも敵に対峙した時の闘争心に似たものを感じさせる。


 ――何なんだ?


 小さな狼が目の前に現れたような気がして、さすがに対応に困る。と、王女は素早くアンドラーシの左右に目を走らせている。すり抜けて逃げる道を探しているのだな、と思ったところに、やっと意味が分かる言葉が降りてきた。それも、彼の主君の声で。


「アンドラーシ、丁度良い。捕まえろ」

「は? は……っ!」


 王の命令だ、と認識した瞬間には身体が動いていた。忠実な臣下の身であれば当然のことだ。低い位置を駆け抜けようとする子供は捕まえにくくはあったが、そこは幼い少女のことだ。腕を捉えてしまえば大人の男の力には敵わない。


「……離してよっ!」


 ――そう言われてもな。


 マリカ王女は激しく身をよじって無礼者の手から逃れようとしている。あまりの激しさに両肩を抑えれば、空いた足でアンドラーシを蹴ってくるほどの暴れよう。別に痛いということはないが、一応は王女を相手に、どうすれば礼を失せずに取り押さえられるかは頭の痛い難事だった。


「よくやった。助かったぞ」

「……恐れ入ります」


 だから王が姿を現して娘を彼の手から引き取った時には、アンドラーシは心からほっとした。さすがに父親だけあって、王は遠慮なく王女を抱え込んでいる。


「お父様の意地悪! どうしてダメなの!?」


 王女は父に抱き上げられてもまだ暴れて、その胸を小さな拳で叩いていたが。何か見てはいけないもののような気がしたので、アンドラーシは王女からは目を逸らしながら主君に尋ねた。


「何事でございますか」

「別に大したことではない」


 王女の白く細い脚が衣装から覗かないように手で抑えながら、王は軽く肩を竦めた。


「おばあ様の見舞いに行きたいのだと。ならぬと言ったら部屋を抜け出してこの騒ぎだ。荷物に紛れ込むつもりだったか厩舎で馬を調達する気だったのか……」

「それはそれは」


 王宮の敷地の中で捕まえられて良かった、と呟く王に、臣下としてはかける言葉を持たない。とんでもない王女だな、などとは口に出すことはできないのだから。


 ――()()()()、か。それはもう歳だろうから弱ることもあるのだろうが……。


 マリカ王女の祖母で存命なのは、母方のみ――つまり、王妃の母でリカードの妻でもあるティゼンハロム侯爵夫人だ。夫の陰に隠れて為人(ひととなり)は良く知らないが、要するに夫の命令に従う普通の女だということなのだろう。ならば、仮に病気だの孫に会いたいだのと言ったところで文字通りに捉えることはできない、と王は判断したのだろう。だが、幼い王女にはどうやら理解できなかったらしい。


 ――母親が何か吹き込んだからかもしれないが。


「まあ、それはどうでも良い。――来い。ミーナも待っている」


 王女と、その背後に見える王妃に皮肉っぽい目を向けるアンドラーシには気づかぬように。あるいはあえて無視をして。王は王女が飛び出してきた方を顎で示した。




 王妃の居室に通されると、アンドラーシは跪いて挨拶を述べた。そして立ち上がる許しが与えられる前に、王妃のひどく感激したような声が降ってくる。


「マリカを止めてくださって、本当にありがとうございました……!」

「臣は陛下のご命令に従っただけでございます……」

「目を離した隙に姿が見えなくなってしまって。最近思いつめていたようで心配だったのです」


 ――犬か猫が逃げでもしたかのような言い方だな。


 小さなつむじ風のようだった王女の姿を思い出して、伏せた顔の陰でアンドラーシは密かに嗤う。王女は同じ部屋にはいないから、どこか別の場所に閉じ込められたのだろうか。今度こそ侍女だか召使だかがしっかりと見張っておけば良い。前々から王は王女に対して甘いと思っていたが、この様子だと母親も大した躾をできていないようだった。


「まあ、あの様子を見られたからには話は早い」

「と、言いますと……?」


 王が指先で顔を上げよと示したのが目の端に映ったので、アンドラーシは主君のやや不機嫌そうな顔を見上げた。王妃に促されて茶菓が用意された席に着くと、ようやく彼の疑問への答えが与えられる。


「最近何かと()()()()だろう。ミーナも不安なようで、護衛を増やして欲しいと言ってきた。お前にはその役に当たってもらいたい」

「……お待ちください」


 改めて間近に見て見れば、王妃の白い顔は確かにくすんで(やつ)れていた。だから心労を感じているというのは嘘ではないだろう。だが、そうと知っても感じるのは哀れみよりも苛立ちだ。

 王宮のみならず、イシュテンの全土を騒がせているのは、王妃の父のリカードにほかならない。どうせ今この時も王に背くべく企みを巡らせているに違いない。父親が娘を害するはずもなく、王も王妃を――アンドラーシにとっては悔しいことに――廃するつもりはないようだ。ならば王妃が何を不安に感じているのか理解しがたい。護衛が必要だとしたら、それは赤子を抱えたクリャースタ妃の方だろう。


「恐れながら、王妃様に危害を加えるような不届き者はいないかと存じますが。それに――臣などよりも適任は幾らでもおりましょう」


 ――襲われる心配もない癖に甘えるな。どうしてもと言うなら、リカードの手の者に守られていれば良い。


 密かに潜ませた棘は、気付くとしても王だけだろうと思っていた。世間知らずの王妃には言葉の裏を読む能力はない。

 もっとも、王が気付いたとして、不敬として咎められるのも不本意なことだった。クリャースタ妃は今も狙われているであろうこと、彼は王妃よりもクリャースタ妃に忠誠を誓っていること。いずれも王も承知しているだろうに、わざわざ彼を選んでこのような命令を与えるのは、嫌がらせ以外には考えづらかった。


「……仰りたいことは分かります。おと……父のことは、私もお恥ずかしく思っています」


 だが、王妃が消え入りそうな声で呟いたのでアンドラーシは密かに鼻白んだ。分からないと思えばこそ当てこすりを言う気にもなったのに。分かった上で咎めず、かえってこのように殊勝げな態度を取られては決まりが悪い。これでは彼の方が王妃を虐めたように見えてしまうではないか。


「お前が嫌がるのは分かっていた。だから護衛というよりは監視だと思えば良い」

「監視。王妃様を、ですか……?」


 王妃を労わるように、王はその艶やかな黒髪を撫でて、アンドラーシに一層の居心地悪さを感じさせた。同時に告げられたことも、何やら不穏な響きをしていた。


「そうだ。王妃の不安も嘘ではないが、今後のためには父親と接触できないのだと傍目に見せることが必要だと考えた」

「私はファルカス様のお傍にいると決めました。でも、父がそれを分かってくれるかどうか……分からないのです」


 ――何だ。意外とものが分かっているではないか。


 王の補足によって王妃の不安とやらを初めて正しく認識して、アンドラーシは軽く目を瞠った。もちろん、驚きをあからさまにすることもまた、王妃に対する侮りを露にすることだから、それ以上の反応を示すことは堪えたが。


 どうやら、王と王妃はリカードと本格的に争うこと、そしてその後のことまで考えて話し合ったということらしい。

 つまり、反逆者の娘となる王妃が王の傍にありつづけるために、反逆には加担していない証明を今から作ろうとしているのだ。名目が監視であれ護衛であれ、王の側近でティゼンハロムを嫌っていることで知られている彼が王妃の傍に控えていれば、その眼を盗んで父と内通したなどとは言われない――かもしれない。


 ――クリャースタ様に王妃の座に就いていただければ何も問題ない気もするが。


 彼はやはり側妃の方が王に相応しいと思っているので、あちらの方にこそ華やかな場所にいて欲しい。今の王妃は、王の慰めの役にしか立たないのだからそれこそ側妃の立場でも文句はないはずではないか、とも思う。

 とはいえ、リカードの方から娘に接触しようとする恐れもないではない。ならば、重要な役目を仰せつかったと喜ぶべきところらしい。


「――承知いたしました。身に余るお役目と存じますが、誠心誠意務めさせていただきます」

「ああ、ありがとうございます!」


 数秒のうちに思考を巡らせ、結論づけて。恭しく目線を下げて答えると、王妃は大げさなほどに喜んだ。こういう幼く見えるところも、立場に似合わないと思うのだが。


 ――まあ、可愛いのは間違いない、か……?


 目の前にいる者が、自分を快く思っていないと分かっているだろうに。父親の取り巻きどもとは違って、気心が知れた相手ではないのだろうに。王妃が喜んでいるようなのが不思議だった。何も知らない分からない女だと思っていたが、父が反逆者になるという恐怖はさすがに身に迫って感じられたということだろうか。父との縁を切ろうとするような態度――冷たいと思えば良いのか、王の妃としては頼もしいと思うべきか、判断しづらい。


「マリカにも言い聞かせてはいるのだが、なかなか呑み込んでくれぬ。だから今日のようなことがないように――そちらの方の警戒も頼む」


 王妃の表情を窺ううちに、王から重ねての下命がある。


 ――またあの子供を取り押さえるのか。


 あのように走り回る姫君などは初めて見た。もちろん小さな子供、それも女の子のことだから捕まえるのは容易いのだろうが、相手は王女だ。腕を捻ったり投げ飛ばしたりということは、さすがにしてはならないのだろう。怪我などさせないように()()()扱うのも、あの甲高い声で詰られるのも、きっと大層面倒なことだろう。


 内心ではうんざりとした思いはあるものの、娘を悪く言われたら王も王妃も確実に不快を感じるに違いない。アンドラーシには頷くほかに選択肢がなかった。


「は」

「それと、もうひとつ」

「まだあるのですか」


 嫌いな王妃の護衛と、苦手な王女の子守。すでに重すぎる役目を負わされたような気がするのに、と。つい漏らしたアンドラーシに、王は少し苦笑した。そう、この方は口答えを一切許さないような主君ではない。だからこそ、アンドラーシの方も分をよく弁えなくてはならないのだ。


「そんな顔をするな。これで最後だ。――子供をひとり、鍛えて欲しい」

「子供、と言いますと……」


 王女のことではあるまい、と聞き返すと、説明を加えてくれたのは王妃の方だった。


「あの、マリカが気に入っている使用人の子供がいるのです。でも、親がいなくなってしまって……役目もないのに王宮にいることはできないから、従者として馬や剣が使えるようになって欲しいの」

「はあ」


 だが、おどおどとした口調の王妃の説明は、どうも要領を得ない。親がいないとは死んだのか辞職したということなのか。剣だの鍛えるだのいうからには男なのだろうが、どうして使用人の身分で王女の寵を得たというのか。アンドラーシがその子供を鍛えたとして、王女の傍に仕えさせるのか。――王は、それを良しとするのか。


 王に疑問の目を向けると、青灰の目が不機嫌そうに細められた。歪められた唇が吐く言葉の語気も、荒い。


「要はマリカの強情ゆえに引き離すこともままならぬ状況だとか。だから遠慮なくしごいて構わない。親元に帰りたいと泣き出すほどに」

「はあ……」


 ――王女のお気に入りではないのか?


 アンドラーシの疑問は解けず、今度は王妃の方を窺うと、やけに思いつめたような表情で頷いていた。


「王女に仕えるのが名誉なことと、思い込んでいるようなのです。マリカもその子も、本当ならば私が説得しなければいけないのですが……。申し訳ないことではあるのですが、どうか道を踏み外すことがないように見てあげて欲しいのです」


 彼を見つめる王妃の黒い目は、濡れたように潤んでいた。甘やかされた女の我が儘ではなく――実際はそうなのかもしれないが、この女なりに真剣に――、心からその子供のことを案じているのが窺えて、アンドラーシにはいっそ不思議なほどだった。このように他人の身を案じることは、かつてのこの女ならしなかったはず。別に冷酷だという訳ではなく、案じるべき状況にいる者がいると、想像できない愚かさがあった。


 ――何か、あったのか……? 陛下と、クリャースタ様……リカードとの間で、何が?


 王妃の変化には、必ず理由があるはずなのだが。涙にうっすらと濡れてなお、美しくきらめく王妃の目からは、その理由を読み取ることはできなかった。

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