星空の下 シャスティエ
シャスティエが庭園を歩いている間、フェリツィアはおとなしく寝ていてくれていたらしい。離宮を訪れた王が寝台のすぐ傍まで寄っても気づかないようで、安らかな寝息を立てている。先日の騒動を忘れたかのような穏やかで幸せそうな笑顔に、母としてもとりあえず息をつくことができた。
「遅い時間に、悪かったな」
庭園で転んで土や泥に塗れた衣装を着替え、髪を梳き直して化粧をして。すると、王を迎える時には、シャスティエは時刻には不釣り合いに着飾った姿に見えるようになってしまった。王もそれに気づいたのか、珍しく気遣うようなことを言ってくる。
「いいえ、起きておりましたから。散歩に出ていたところですの」
フェリツィアの寝室のすぐ外で、お互いに声を抑えながらのやり取りだ。王はフェリツィアの寝顔を見るだけで満足したようだが、それだけで追い返す訳にもいかないだろう。酒肴でも出して、少しは昼間の様子も聞かせれば喜ぶだろうか。……その間、不審に思われないように言葉や態度には気をつけなければならない。
「お前がフェリツィアから目を離すなど珍しい」
「……申し訳ございません」
「いや、別に責めている訳ではないのだが」
だが、早速王の首を傾げさせてしまったことに気付いて、内心慌てる。レフと語った一時を後ろめたく思うからこそ、意味もなく謝罪が口をついて出てしまったのだ。
――落ち着かなくては……。
緊張に火照る頬を掌で包めば、その感触がまたレフの手を思い出させて胸をざわめかせる。そんなシャスティエの様子には気づかないかのように、あるいは気づいた上で間を持たせようとでもしてくれているのか、王は何気ない口調で尋ねてきた。
「今日は新月だったか。何が見えるという訳でもないだろうが、気晴らしにはなったか?」
「はい。星は良く見えましたから」
確かにシャスティエは星の動きをじっと眺めていた。女王の冠――レフが手紙で指定したミリアールトの星座が中天にかかる時刻を待って。無論、王にその意味が分かるはずもないのだけど。でも、重大な秘密を何でもないことのように話そうとすると、心臓が腹の方へと重く沈み込むような思いがした。
「星か……」
「ミリアールトと星の並びは変わらないのだな、と……今さらですが思っておりました」
王の顔色を窺った視線の先で、相手が軽く眉を寄せたので、シャスティエの心臓は跳ねた。沈黙を恐れるあまりに、おかしなことを口走ってしまったのかもしれない、と思ったのだ。
だが、王はシャスティエの不安とは全く別のところに気を留めたらようだった。
「ミリアールトの様子が気になるのか」
「いえ……」
これもまた珍しく、彼女の心中を慮るような言い方に戸惑う。頷いては王の手腕を疑うことにもなりかねない、と誤魔化そうとした瞬間に、でも、レフの声が蘇った。
『あの老いぼれがミリアールトで何をしているか君が知ったら――』
従弟の声に滲んだ怒りと憎悪は尋常ではなかった。かつてはどちらかというとおっとり、のんびりとした性格だと思っていたのに。その彼をしてあそこまで言わせるほどの何が、祖国で起きているのか――それを思うと不安に首を絞められるような思いで。だから、気付いたら口が動いていた。
「……はい。でも、小父様──イルレシュ伯もあちらにいらっしゃるのでしょう。きっと、ミリアールトの民を宥めて、イシュテンの兵を抑えて……滞りのない治世のために尽力してくださっていると信じておりますから」
――だから大丈夫、なのでしょう……?
言外に念を押す思いを込めて、王を見上げる。それは、祖国の無事を信じたいという甘い思いだけではなく、シャスティエなりに根拠もあることだった。
まず、ミリアールトの離反を王が望んでいるはずがない。ティゼンハロム侯爵との争いを間近に控えたこの時期に、自ら敵を増やすようなことはしないはず。
それに何より、ミリアールトに発つ前にシャスティエを訪れたグニェーフ伯の様子からは、祖国を虐げる命令を受けていた疚しさは見えなかった。フェリツィアを抱いてこそくれなかったものの、赤子に注がれた優しい眼差しは嘘だったとは思えない。王が理不尽な悪政を敷こうとしていたなら、必ず抗議していただろうし、シャスティエにも報告してくれたはず。
だから、レフは何かひどい誤解をしているだけなのだろう。ティゼンハロム侯爵がミリアールトの王族の生き残りを手中にすれば、必ず利用することを考えるはずでもあるし。レフに確かめる術がないのを良いことに、何を吹き込んでいるのか知れたことではない、と思う。
――どうか、大丈夫だと言って。
血を分けた従弟の感情の篭った言葉よりも、復讐を企む相手の言葉を信じるのか、と。心の片隅に暗い影が過ぎるけれど、信じるのは王ではなくてグニェーフ伯だと自らに言い聞かせる。祖国の老臣を良く知り、信頼するからこそ、王の言葉に矛盾がないか判断できるのだ。そう、王の答えは手掛かりに過ぎない。決して、そのまま丸呑みにしたりするものか。
「……そうだな。伯はよくやってくれていると聞いている」
王の声も表情も、どんな些細な変化も見逃さないように、と見つめているのに。シャスティエに読み取れるほどに王は顔を動かさなかった。ただ、口を動かす前に置いた一拍が不穏で心を騒がせる。よく、何をやっているのか――教えてくれるかと思ったのに続く言葉もなかった。
「あの……」
もっと故郷のことを聞きたい。レフの言葉によって乱れた胸を鎮めて、不安を取り去って欲しい。けれど、事実を知るのも怖い。何より、急に煩くミリアールトのことを問い詰めれば、王は不審に思わないだろうか。そう思うと舌は固まってしまって、王の顔を見続けることも叶わない。自然と視線は落ちて、俯いてしまって――すると、ぽん、と頭に柔らかく温かい感触が落ちた。
「星……ミリアールトの星か。あちらではどのような名で呼ぶのか、庭に出て教えてもらえるか」
彼女の頭をそっと撫でるのが王の手だと気づいたのは、王の労わるような声が聞こえてからだった。不気味なほどに優しい声に眉を顰めて顔を上げれば、傲慢な表情ばかりを見てきた男が、やけに神妙な面持ちでシャスティエを見下ろしていた。
――何を言っているのかしら。
似合わない優し気な表情も不思議だったが、言い出したことは更におかしい。共に星を眺める、などと。王の側妃になって一年あまり、外に連れ出されたのは望んでもいない狩りの時くらいだった。もちろん、ティゼンハロム侯爵の手の者によって害される危険もあったからではあるだろうけれど。ずっと、シャスティエの気晴らしなど心にもないような素振りだったくせに、一体どういうことなのか。
まるで、ミリアールトの話をこれ以上踏み込ませまいとでもするかのような。そんな強引さも感じるけれど。でも、それにしてもこんなことを言いだすのは王らしくない。
――外……レフがまだいるなんてことは……?
突然の誘いに戸惑ううちに、ふと恐怖が心臓を掴む。焦り恐慌をきたしたシャスティエの言葉でレフが納得してくれたとは思えない。ならば彼はまだ彼女を助け出そうとしているということだ。もしもレフがまだ庭園に潜んで、また彼女と言葉を交わす機会を待っていたらどうしよう。もしも王に見つかったら――彷徨った年月は従弟を見違えるほど逞しく頼もしくしていたようだけど、それでも手練れの王に敵うとは思えない。
――レフまで殺されてしまったら……!
ミリアールトの王宮で見た叔父たちの首に、レフのそれも並ぶ幻が見えた気がした。折角生きていてくれたのに――熱の篭った眼つきは怖かったけど――確かに血の通った温かさを感じることができたのに。滅ぼした国の王族を、イシュテンの王が見逃してくれるはずはない。
顔と身体を強張らせたシャスティエをどのように思ったのか、王はふと表情を曇らせた。
「……もう疲れたか? 休むというなら俺は去るが……」
「いえ……喜んで。参りましょう」
従弟が殺される恐れに震えながら、それでも頷いた理由はミリアールトのことを深く聞き出せなかったのと同じものだ。王の機嫌を損ね、不審を抱かれることなく強く意を通すだけの、上手い言い訳を思いつくことができなかったのだ。
「あれは、女王の冠と呼びます。雪の女王が戴くのにふさわしい明るい星ですから」
「やはり目立つ星は神になぞらえるのが倣いなのだな。あれはイシュテンでは戦馬の鬣と呼んでいる」
「そうなのですか」
侍女たちにショールを出してもらって、夜の庭園を王と歩く。身体を寄せ合って空を見上げる姿は、傍からは――もしもレフが見ていたら――仲睦まじいと見えるのだろうか。何のことはない、万が一にもまだレフがいて、王が彼を見咎めることがあったらと思うと恐ろしいから、できるだけ上を見てもらうようにしているだけなのだが。
王宮の奥深くに敵が忍び込んでいるなどと、王は想像もしていないのだろう。シャスティエが夜道に足を取られることがないようにとでも言うように、手を取って導いてくれている。星を見たいなどとは話題を逸らすためかとも思ったけれど、一応シャスティエが語るミリアールトの物語にちゃんと耳を傾けてもいるようだ。まるで普通の夫婦の語らいのようで、穏やかさが落ち着かなくもあったけれど。
でも、そうなると濃すぎる暗闇がまた怖かった。漆黒の闇の中で、あの碧い輝きがぎらついていたらと思うと、レフの目に今も責められているような気がしてならなかった。レフにとって、王はあくまでも討つべき仇なのだ。そのような男と寄り添っているところを見たら、一体どのように思われるだろう。
――呆れて見捨ててくれればまだ良いのに……。
従弟まで無残に殺されてしまう結果になることが怖い。でも、彼がこんなにも容易く娘が眠る傍まで近づくことができるのも怖い。そもそも手紙が届けられた時からおかしいと思ってはいたけれど、レフがティゼンハロム侯爵と組んでいるということは、相手はその気になればすぐにも彼女たちに手を伸ばすことができるのだ。
それに、レフが仄めかし、王がちゃんと教えてくれない祖国のことも。王が言わないということは何事もないということなのか。また乱が起きたりしたら王が動かないはずはないのだから、そのように信じても良いのかもしれないけれど。でも、それにしてはレフの様子も只事ではなかったと思う。
「――雪の女王は戦馬の神と寄り添うのですね。……あの、そのようなことをミリアールトに書いて送っても良いでしょうか。私の筆跡で陛下に従うようにと改めて述べれば、小父様の助けになれるかもしれません」
不安が渦巻く胸中を少しでも安らげたくて、星の逸話にかこつけて王に乞うてみる。レフのように、ミリアールトでもシャスティエに対して憤る者がいるのかもしれないけれど、仮にも彼女はミリアールトの王のはず。それも、雪の女王の容姿を持つと謳われてまでいるのだから、その言葉は多少なりとも重みを持って受け止めてもらえるのではないだろうか。
必死の思いで口にしたことだったが、王は軽く眉を寄せた後にやんわりと首を振った。
「形だけでも内容を確かめなければならないだろうが――ミリアールト語を読める者はイシュテンには少ない。かといって検めずに送れば反乱を唆したと言われかねん。止めておいた方がよかろう」
「ですが……」
王に言葉の問題を指摘されて、血が凍る思いをした。ミリアールト語を理解するイシュテンの者を、身近に呼ぶことはできないことに今さらながら気づいたのだ。私は復讐を誓う――密かな願いを込めた名の意味を、王に知られてはならないから。
――書いても良いと言われていたら、危なかった……。
恐怖に駆られて愚かなことを口にしたところを、図らずも王の言葉に救われたことになる。その僥倖を噛み締めつつ、それでもシャスティエは食い下がった。祖国の無事と、従弟の命。そして娘の安全。そのどれもが脅かされつつあるような気がしてならなくて、何もしないということはできそうになかった。
「……では、イシュテン語でも構いません。今の時期にミリアールトが背けば大事でございましょう? ティゼンハロム侯爵との戦いに専念するためにも……」
「ミリアールトの女王がイシュテンの言葉で書簡を記すのも反感を買うだろうな。……だからお前はフェリツィアのことだけを考えていれば良い。俺を信用などはできぬだろうが――」
「そのようなことは……」
ない、とは言い切れないから不安ではあるのだが。それでも、今のシャスティエが頼ることができるのは王だけなのだ。グニェーフ伯は遥かミリアールトにいて、血を分けたはずのレフにも彼女の言葉は届かなかった。王だけが、フェリツィアを守るだけの力と意思を持っているのだ。
「……リカードは間もなく背くだろう。一門のことごとくを冷遇しているからな、抑えるにも限度があるはず。堪えかねて乱を起こせば、堂々と反逆の罪に問うことができる」
「……はい」
そう、今のところティゼンハロム侯爵は罪を言い逃れているのだ。シャスティエに対してもフェリツィアに対しても悪意はなく、王妃の父、王の義父として要職に就いている。そのような男を討つとなれば、形式を整えなくてはならないということなのだろう。
――早く、戦いが起きて欲しい……のかしら?
乱を待ち望むような思いになっている自分に気付いて、シャスティエは震えた。荒れる国土や、父と夫が争うことになるミーナの心中を憂えるよりも、娘のために一刻も早く敵が滅んで欲しいというような心持ちになっていたのだ。何と浅ましくて自分勝手な。
「どうした。冷えたか?」
震えたのを寒さのためだと思われたのか、王に一際近く、抱き寄せられた。先ほどレフにされたことを思い出して身体が強張る――かと思いきや、肌に慣れた王の温もりは思いのほか居心地が良いものだった。少なくとも、この男とこうするのは倫に外れたことではない。
『私はイシュテン王の側妃なのよ?』
従弟に対してあのような言葉がするりと出たのは不思議だった。でも、側妃とはいえ歴とした妻であるという事実はシャスティエの寄る辺になっているのかもしれなかった。それは、フェリツィアとこれから生まなくてはならない王子にイシュテンでの正統な王族という立場を与えてくれるものでもある。
「……陛下にこのようにされると……落ち着くような気がします」
王の胸に顔を埋めて、ほとんど衣服に向かって呟くと、今度は王の方がぴくりと震えた。
「何を言っている……?」
確かにいつものシャスティエらしからぬことではあった。いっそ気味悪がるような王の声が面白くて、密かに笑う。レフと会ったことはもちろん、他の男と体温を比べたことも、夫婦として絆を感じてしまったことも言うつもりはないから何も口にすることはなかったが。
代わりに身体の力を抜いて身を委ねると、戸惑うような一瞬の間の後に王の腕によって抱き止められた。
――私の夫……?
王に触れられることは、やはり緊張する。けれど一方で、シャスティエの身体は確実に覚えている。彼女が知る唯一の男の筋肉の硬さしなやかさ、腕の太さや逞しさ。頬を預ける胸の厚さ。憎しみを忘れた訳ではないし、信じ切っている訳でもない。それでもミリアールトとシャスティエの、そしてフェリツィアの未来はこの男にかかっている。もしも王が斃れることがあれば、シャスティエも同じ運命を辿るのだろう。
心は遠いのに。父たちを殺し、更にレフを殺すかもしれない男なのに。なのに王は誰よりもシャスティエに近い男になってしまった。
そのことが悲しく恐ろしくてならなかった。