拒絶② シャスティエ
「ティゼンハロム侯爵……!?」
高く叫んだつもりの声は、実際は恐怖と驚愕に喉を締め付けられた喘ぎのような音にしかならなかった。深夜とはいえ、王宮の庭先で王以外の男と会っている状況を、誰にも知られてはならないのに――声を抑える警戒さえ咄嗟に忘れてしまったから、思うような叫びが出なかったのは運が良かったと言えるのだろうか。
薄々予感してはいたことだった。しかし、実際に従弟の口からその名が出たことは、心臓を直に掴まれるような衝撃をもたらした。
――どうしてレフが……あの男と……!
初めから、候補は限られていたはずではあった。
レフが生きていたとして、シャスティエを助けてくれようとしていたとして。イシュテンの誰を頼ったとしても耳を貸す者はいないだろう。ミリアールトの、イシュテンによって滅ぼされた国の王族に連なる者なのだから。それも、シャスティエのような女ではなく、戦うことのできる成人した男となれば、殺されて首を王に届けられるのが当然だ。少なくともまともな臣下であればそうするはず。
まともな臣下ではない――滅びた国の王族に、好き好んで助力する者。それも、王宮の奥深くまで手紙を届ける術を持った者。いずれもごく限られる、というかシャスティエに心当たりはひとりしかいない。だから、その名を聞いたとしても驚くべきではなかったのかもしれないけれど。それでも、その名――ティゼンハロム侯爵という音の繋がりはシャスティエの息を止めさせた。
なぜなら――
「どうして、よりによってティゼンハロム侯爵なの!? あの男は王の敵なのに!」
「王というのがイシュテン王のことなら、そいつこそミリアールトの敵だと思うけれど」
詰るように、今度こそ――闇の中で人に気付かれない程度に声を抑えて――叫ぶと、冷ややかな目で迎えられた。彼女によく似た従弟の、顰められた眉。それでいて口元は引きつったように笑みに似た形を浮かべている。仄かな星明りの下でもはっきりと見えるのは、肌の白さが夜に浮き上がるようだから。それに、彼の顔も表情も、瞼の裏でも思い浮かべることができるほどに、記憶の底に深く焼き付けられているものだから。
「でも……」
子供のころから口喧嘩程度ならしょっちゅうだった。原因となったのはどちらが多いとは言えないけれど、何日も口を利かなかったことだって一度や二度ではない。でも、レフの怒り方はいつもはもっと分かりやすかった。頬を赤くして何かしら言い募ってきたり、顔を背けて見せたりして。こんな風に、口元だけで嗤って鋭く睨みつけてくることはなかった。故郷の冬がイシュテンにもたらされたかのような、身を切る寒さがシャスティエの身体を芯から震えさせる。
――私が、裏切ったと思っているのね……。
従弟の態度の理由に、心当たりは重々あった。
レフの険しい目は、かつてミリアールトで乱を起こした諸侯らがシャスティエに浴びせたものと同種のものだ。雪の女王の化身、と。人の身には恐れ多い言葉を捧げられるシャスティエは、その立場を利用して彼らを説得したのだ。だが、女王が敵に屈したように捉える者もいるだろう。あの場にいなかったレフなら、なおさらのこと。
心臓が凍えて沈んでいくような思いを味わいながら、シャスティエは自らを奮い立たせた。上手く回らない舌を必死に動かして、言い訳めいた言葉を紡ぐ。
「でも──でも! 王は、ミリアールトを虐げないわ。イシュテンと同じく、領地の一部として遇してくれると言っているの。だから、これからも脅かされ続けるよりは、イシュテンの中でのミリアールトの地位を高めた方が得策よ」
従弟は、きっと彼女を見損なったと思って怒っている。折角生きていてくれたのに、こうして再会することができたのに、誤解されて憎まれるのは辛い。だからシャスティエはかつてグニェーフ伯らに述べたことをレフに対しても並べた。それにこれは、彼女の復讐を自らに思い出させる意味もあるのだ。
「それに……私の婚家名は聞いたでしょう? 私は復讐を誓う――復讐を名乗る女が生んだ王子がイシュテンの王になれば、後の世の者も分かるはずよ。ミリアールトはただ侵略者に屈した訳ではないのだと。だから私はこのままで良いの。私のために危険なことなんてしないでちょうだい」
――そうよ……レフだけでも、ちゃんと無事なところへ……。
彼を説得できるように祈りを込めての言葉だというのに、レフは無言だった。暗がりの中では鼻梁の陰影が一層濃く刻まれて、白い顔に浮かぶ責めるような表情を際立たせている。陽光の下ならば宝石のように華やかに煌くはずの碧い目も、今はどこか暗い輝きでシャスティエを貫く。その鋭さに、舌も縫い留められるような思いをしながらも懸命に言い募る。大切な肉親がよりによってティゼンハロム侯爵と結んでいるなど、シャスティエにとって悪夢でしかないのだ。
「そんなことより、ミリアールトに帰って。叔母様を安心させて差し上げて。そう、今ならアレク小父様もあちらにいらっしゃるの。相談すれば、きっと隠れる算段も――」
「小父様! 裏切者に対して大層な呼び方だ!」
けれど、レフの嘲り嗤う声に、そこに滲む怒りと憎悪の濃さに、シャスティエの舌は完全に止まってしまった。
「レフ……?」
顔を歪めて吐き捨てる語気の荒さ。それをさせる激しい感情。いずれも、良く知るはずの従弟のものとは思えなくて、シャスティエは思わず後ずさっていた。先ほど夢中になって駆け寄ったのが嘘のように、今は彼が怖かった。彼女の従弟は、こんな人間だっただろうか。変わったのはシャスティエなのか、レフの方なのか。
「君を見捨てて逃げ帰るなんてできるものか。母上だってそんなことは許さないに決まっている。それにあの老いぼれがミリアールトで何をしているか君が知ったら――」
「老いぼれなんて……小父様のことなの!?」
レフのあまりの言い様に――それに、逃げようとした腕を掴まれた力の強さに、シャスティエは悲鳴のような声を上げた。
男の乱暴なのは、恐ろしい。全力で抗っても敵わなくて、笑みさえ浮かべて抑えつけられる屈辱と、恐怖。王によって刷り込まれたあの思いを、従弟によって蘇らせられるなんて。
「そうだ。女王を敵に売り渡してイシュテンで爵位を得た――そんな奴に敬意を払う必要なんてないだろう? クリャースタ・メーシェ妃だなんて……そんな危険な名をわざわざ選んで……!」
「違うわ! 私が言いだしたのよ。側妃になることも全て、私が!」
レフの誤解に気付いて叫びながら、その勢いでどうにか掴まれた腕を振り払う。その隙に距離を取ろうとするけれど、衣装の裾と下生えに邪魔されて思うようにできない。足をもつれさせて倒れそうになったのを支えてもらっても、もうその近さに背が凍る思いしか湧かなかった。
――なんで……こんなことに……?
大声を上げれば、兵を呼ぶことはできるのだろう。しかし無論それはレフにとっての破滅になる。彼にまで死んで欲しくないのに。無事に生き延びて欲しいのに。どうしてティゼンハロム侯爵と結んでまで彼女を助けようなどとするのだろう。
諦めて逃げろと言いたいのに、ぎらつくようなレフの目に迫られて叶わない。腰を抱き寄せられて、間近に囁かれる。
「そんなこと、信じない。君のことだから自分が犠牲になれば良いと思っているんだろう」
「……違うわ……」
声が揺らいだのは、有無を言わせぬレフの迫力に怯んだから。そして図星を突かれたからでもあるし――娘のことを思ったからでもある。復讐だけを考えていたばかりに、罪もない子に生まれた時から敵に囲まれる境遇を与えてしまった。我が身を犠牲にすることは覚悟していたつもりだったけれど、彼女が買った恨みや憎しみが娘にも向けられることまでは考えてもいなかった。
そのことは、母親としてあまりにも罪深い。
「シャスティエ。幸福の名を授かった姫。君には復讐なんて似合わない。きっと助ける――そのためにやって来たんだ」
「ダメよ。私はイシュテン王になる子供を生むの。それしか……」
復讐の道を選んだからには、途中で降りることはできないのだ。既にミリアールトにイシュテンの支配を受け入れさせてしまっている。イシュテンでも、王とティゼンハロム侯爵の対立を深めさせたのは間違いなくシャスティエの存在だ。ティグリス王子は生まれる前のフェリツィアを警戒して乱を起こして、そして殺されてしまった。
ここまでの事態を起こしておいて、自分ひとり逃げるなどとできるものか。だから、従弟の手を取ってはならないし、これ以上危険を冒させてはならないのだ。
レフの腕から逃れようともがきながら、言う。まさかこのまま攫われてしまうのでは、と従弟の意図が読めずに怯えながら。
「だから、貴方は生きて。ミリアールトに帰って」
「できない。愛してるから。全て、君のために――」
――なっ……!?
不意打ちのような言葉に頭も身体も一瞬動くのを止めてしまった。が、顔にレフの指が触れるのを感じて我に返る。頬から顎までを包むようにして、顔を上向けさせられる。王にも何度もされているから、次に何が起きるかは分かった。というか、彼女自身によく似た顔が近づいてくれば、否でも悟る。子供のころならば、鏡合わせのようだと面白がって似たようなことをしたこともあったけれど。――今は、いけない。
「――何するの!?」
渾身の力で突き飛ばすようにして、逃げる。ほとんど自ら地に転がるような形になったけれど。幸いにも、あってはならない事態を避けることができた。
「……なんで逃げるの」
拗ねたように唇を尖らせるレフの、不満そうな声が降ってくる。まるで、彼女が口づけを受け入れなかったのが意外だとでもいうような。その態度こそ、シャスティエにとっては不思議でならないというのに。
「だって、私はイシュテン王の側妃なのよ? ひとづま、人の妻なの! なのに、どうして……」
地面を這って必死にレフと距離を取りながら、立ち上がる。夜の庭園の下生えはしっとりと湿っていて、衣装にも冷たい夜露が染みてしまった。闇に紛れるために暗い色の服を選んだけれど、泥で汚れてしまっただろうか。
「王を愛してるの? だからミリアールトを捨てる?」
「そうじゃなくて!」
闇の深さに、レフの姿はもう薄らとしか見えない。けれど、一段と低く険しく鋭くなった声から、彼の怒りが分かる気がした。従弟の暴挙に、彼女の方こそ怒りも恐怖もあるけれど――でも、できれば分かって欲しいという思いも、まだあった。
「これが私の復讐なの。私の子をイシュテン王にするためには、王に対して不実があってはならない! それに……娘もいるのよ。長旅なんて無理でしょう!」
「王と王女のため……。それが、僕よりも大事だと言うのか」
「貴方も大事よ。だから無茶はしないでと言っているの!」
闇の向こうから答えはなかった。通じているなどとは期待できなかったが、一縷の望みを懸けて、シャスティエは必死に言葉を重ねた。姿の見えない相手に対して、ひどく空しく無意味なようにも思えたけれど。でも、レフは彼女の血を分けた従弟なのだから。
「フェリツィアが……娘がいるから戻らなきゃ。あの子、私がいないとよく泣くのよ……。子供を持って分かったわ、親の情がどれだけ深いか。今日のことは王に言ったりしないから、だからレフも叔母様のところに帰ってあげて!」
言い終えると同時に、じりじりと後ずさり――そして走る。背後から追う気配がないことに、安堵と悲しみの両方の思いが胸を襲っていた。
敵地の奥深くまではるばるやって来てくれた彼を、シャスティエは拒絶することしかできなかったのだ。
「シャスティエ様!」
「クリャースタ様……!?」
息を弾ませて離宮の建物の中へと戻ると、イリーナとグルーシャ、ふたりの侍女が駆け寄ってきた。彼女たちが血相を変えたのを見て、やはり衣装はひどく汚れてしまっているのだろうと思う。
「転んだだけなの。何でもないから、着替えを用意して」
特にグルーシャに向けて、無理に笑顔を作る。
レフが生きているかもしれない、と知っているのはイリーナだけ。他の者たちに対しては、気鬱を晴らすために星を眺めるのだと無理を言ってひとりで散歩に出ていたのだ。心臓の鼓動が傍からも聞こえるのではないかと思うほどうるさく高鳴っていたけれど、それをイシュテンの娘に知られる訳にはいかなかった。
――まして、あんな……。
頬を撫でたレフの手の感触を思い出すと、胸が一層締め付けられるように痛んだ。夫以外の男性とあのようなことになったのは、シャスティエの心だけに納めておかなければならなかった。従弟だ肉親だなどと、訴えたところで分かってくれる者はいないだろう。そもそも、ミリアールトの王族がまだ生きていること、そして彼女がそれを知っていることからして、王への裏切りと取られかねない。
「あの、王がフェリツィア様の様子をご覧になりたいと……」
必死に心臓を宥めようとしているというのに、イリーナのおずおずとした声によってまた胸に痛みのような恐怖と不安が走る。弾かれたように侍女の顔を見つめると、若草色のイリーナの瞳の中、シャスティエはひどく怯えた表情をしていた。それを見たのだろう、侍女は慌てたように言い添えてくれる。
「遅い時間ですからご都合がよければ、ということですが……お断りしますか?」
「いいえ。是非、とお答えして。……それでは着替えを急がなくてはね」
「シャスティエ様、本当に……?」
レフと何を話したのか――人払いをした後でなければイリーナに打ち明けることはできない。だから、王の訪れを受け入れれば、少なくとも王が帰るまではそのような時間は持てなくなってしまうだろう。
「本当に、大丈夫だから。……そうね、お化粧もちゃんとしなくてはね……」
それでも、心配顔の侍女たちに対してシャスティエは微笑んで見せた。
王に対しての後ろめたさは、ある。それでも、だからこそ、訪れを断って不審を抱かせてはならない。
窓の外から滲んでくるような闇の濃さを、シャスティエは努めて意識しないようにした。
人妻というパワーワード。