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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
16. 迫る恐怖
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再会 レフ

 闇の中を進むのは、レフにとってはもう馴染みのことになっていた。


 最初にイシュテンに潜入していた時に棲み処にしていた娼館では、客たちの噂を聞こうと思えば、自然と行動するのは夜が多くなっていた。次にこの国に足を踏み入れたのはティグリス王子の乱に加担するため――彼にとっては、王子を程よく負けさせるため――だったが、人目についてはならない任務を負ってのこと、やはり闇に紛れて動くのが常だった。

 夜の荒野に馬を駆けさせる危険な道行きを思えば、使用人たちが使う裏道とはいえ王宮の一角を通る道はあまりにも平らか、星明りだけの下であっても彼の歩みは滑らかだった。


 ――本当に、聞いていた通りだ……。


 ティゼンハロム侯爵が王妃の傍に忍び込ませたという間者の働きは確かだった。庭園の分かれ道や、目立った木の枝の形に至るまで、今のところは聞かされた通りの特徴を示している。その知識や心構えも、レフの足取りの助けとなっているのだが――同時に、不安にもさせられる。これほどに王宮を知悉し、かつ密かに人を送り込める者が、従姉の敵となっているのだから。


 ――こんなところにシャスティエを置いておく訳には、いかない!


 警備の兵が通りすがる、その手に携えられた灯りを目にして木の陰に身を潜めながら、思う。ティゼンハロム侯爵の情報が正しければ、次の見回りまでには時間がある。その隙を掻い潜って従姉のもとへと近づくことができる僥倖には感謝しつつ、良からぬ意図を持つ者に侵入されたら、と思うと心臓が凍る思いがした。もちろん、一切の隙間なく兵によって囲まれていたらいたで、従姉が監禁されているかのような不快を感じていたのは間違いないのだが。


 とにかく、ここは従姉がいるべき場所ではない。立場が祖国ミリアールトを抑えるための人質だろうと、イシュテン王の側妃だろうと同じことだ。たとえ――文化の遅れたイシュテンなりに、という但し書きがつくが――伝統と格式があり、贅を尽くした王宮だとしても、彼女にとってこの場所は巨大な牢獄に過ぎないのだ。それも、閉じ込められていれば身の安全が保障されるようなものでもない。ここで、父や兄、叔父や従兄を殺した男の妻にさせられて、彼女の心身がどれほど擦り減っていることか。そう思うと、残りわずかな距離を駆けだしたい衝動を抑えるのも難しかった。




 次の新月の夜、女王の王冠が中天に掛かる頃。離宮の庭園の(ニレ)の木の下で。




 ティゼンハロム侯爵の侍女に、レフはそのように書いた手紙を託していた。署名はしていない――彼の立場を考えれば決してできなかった――が、従姉が読んでさえくれたなら、書き手のことは分かってくれるはずと信じている。何しろ彼と彼女が文字を学び始めたのはほぼ同時、読むのも書くのも、幼い頃からしばしば並んで教わってきた。お互いの筆跡を見誤ることなどあり得ないのだ。

 文字だけでも、彼の生存は彼女に伝わる。そして彼が生きていると知ったなら、彼女は必ず来てくれる。彼はそう信じていた。彼女にとって、彼はこの世でただひとり血を分けた存在になってしまったのだから。


 星明りのもと、目を凝らして木々の枝葉の形を見分ける。左右に折れ曲がりながら伸びる枝に、丸みを帯びながら縁はぎざぎざとした葉――見つけたそれらしき楡の木は、確かに目印にするのに相応しい高さを誇っていた。当然、幹の太さもそれなりのもの、彼が近づのとは反対側に既に彼女が来ているかどうか、レフの目で確かめることはできなかった。


 ――シャスティエ……とうとう……!?


 ミリアールトの星座を使って伝えた時刻は、ごく大ざっぱなものだった。ティゼンハロム侯爵はイシュテン王を足止めしてくれているというが、彼女が現れるまでにどれほど待てば良いのか、誰かに見咎められることはないのか。実際に従姉の姿を見るその瞬間まで、懸念は尽きない。


 緊張のあまり、下生えや落ち葉を踏みしめる音がやけに大きく耳に聞こえた。唾を飲み込む音が頭に響き、心臓の脈動もうるさいほど。否、それらの音は気のせいではなく思いのほか大きく響いていたのかもしれない。彼の立てる音に反応してか、じりじりと距離を縮める楡の木の陰から、絹が擦れ合うさざ波のような音が上がる。そして、何度となく夢に見た、懐かしく美しい澄んだ声が。


「……レフ……!?」


 我慢できずに大股に足を踏み出す。盛り上がった木の根に足を取られるのももどかしく楡の木の幹の裏側に回り込んだ瞬間、辺りが一段明るくなった気がした。()()が肩に羽織ったショールからこぼれた金の髪が、星明りに輝いているのだ。


「シャスティエ!」

「レフ……貴方なの!?」


 大声を出してしまうのを抑えようとするかのように、口元を覆って立ち竦む彼女の姿。金の髪はもちろん、碧い宝石の瞳の輝きも、人質としての囚われの日々の中でも損なわれてはいなかった。白い頬の滑らかさも、華奢な肩の線も首筋も、記憶にある姿そのままに美しい。


 「イシュテン王の側妃」の噂は何かと聞こえてはいたけれど、彼女に実際会った者の話を聞くことはできなかった。ティゼンハロム侯爵の侍女が唯一の証言者と言っても良かったけれど、あの女が最後に彼女の姿を見たのは王女が生まれる前だったという。それも、王妃付きの侍女の立場では、側妃が本当はどのような扱いを受けているかなど分かりはしまい。

 だから彼はずっと恐れていた。イシュテン王が彼女を虐げてはいないかどうか。気高い彼女の矜持が折れてしまってはいないかどうか。父たちの仇の子を体内に抱えさせられたことが、彼女の心にどれだけの影を落としたのか。


 ――でも、何も変わっていなかった……!


 従姉に会うことができたら、語りたいこと、告げたい言葉は幾らでもあったはずだった。今までのことを案じ労わる言葉をかけてあげたかったし、共に喪われた命を悼みたかった。何より、これからのことも話さなくてはならない。でも、実際にその場面になってみると、感動が胸を塞いで言葉が出てこない。ただ、唇を半ば開き、手を彼女の方へ差し出して――でも触れることはできずに指先を震えさせるだけ。


 だから、最後に残ったわずかな距離を詰めたのは、彼女――シャスティエの方だった。白い指が彼の頬へと伸べられる。彼のものと同じように、わずかに震えて。夏とはいえ深夜の涼しさの中で待っていた彼女の指はひんやりとして心地良く、彼の裡に不思議なざわめきを呼び起こした。


「……痩せてしまったのね。それに、少し背が伸びたかしら」

「そう、かな……色々あったから、そうかもしれない」


 お互いにぎこちない言葉を交わす。ミリアールトでならば、身分や男女の違いに気兼ねすることなく言いたいことを言い合っていたような気がするけれど。でも、国を滅ぼされた後、数多の苦難を越えての再会とあっては、どのように従姉と向き合っていたかを思い出すのはすぐに、という訳にはいかなかった。


 何より、彼女がこのように潤んだ目で彼を見上げてくるのは、以前にはなかったことだった。彼女の顔が記憶にあるより少しだけ遠いような気もするから、確かに背も伸びたのだろうか。この二年ほど、以前からの知己と並んで言葉を交わすことはなかったから気づかなかったが。

 とにかく、涙が今にも溢れそうな彼女の表情は――彼と会えたためだと思うとどこか誇らしいような、得意な気分もあったが――いつもの強気とは似合わなくて落ち着かない。だからレフは、わざとらしく冗談めかした言い方を選んだ。


「逞しくなった、とは言ってくれないかな。もう女の子のようではないだろう?」

「そうね……そう、だわ……」


 彼が狙った通りに、シャスティエの唇が弧を描いて微笑んだ。けれど同時に頬を真珠のような涙が伝ってレフを慌てさせる。


「シャスティエ。どうしたの」

「だって。まさか生きてるなんて。手紙も、もしかしたら罠かもって……」


 白い手に覆われて、碧い瞳が隠れてしまう。声も震えて、最後は嗚咽のような音が漏れるのを放っておけずに細い身体を抱きしめる。従姉弟といえども、それなりの歳になってからこれほど近くに彼女の身体を感じたのは初めてだった。

 温かくて柔らかい――けれどか弱い。いつも気丈で誇り高く強いと見えていた従姉は、こうして腕の中に収めてみると驚くほどにただの少女だった。


 ――こんなに細いのに……ずっと、ひとりで耐えて……!


 抱きしめる腕に力を込めても、シャスティエは振り払うことをしなかった。それどころか彼の胸で涙を拭おうとでもいうかのように顔を寄せられて、レフの心臓は先ほどまでの緊張とは違う理由で高鳴っていく。


「でも、来てくれたんだね」

「本当に貴方だったら、と思ったら……無視するなんてできないじゃない……!」


 き、と顔を上げて睨んでくる姿さえ可愛らしくて愛しくて。レフはシャスティエの耳元に唇を寄せた。鼻先をくすぐる甘い香りに、鼓動が一層早まるのを感じながら。


「もう大丈夫だ。助け出すから。協力してくれる者がいるんだ。イリーナも一緒に……」

「――え?」


 だが、囁いた瞬間に腕の中の愛しい温もりは遠ざかってしまった。シャスティエは彼の胸に腕を突っ張って、身体を強張らせている。眉を寄せた表情には見覚えがあった。共に学んでいた時に、彼が何か的外れな回答をした際に彼女がよく見せた呆れたような表情だ。勉強に関しては、彼はほとんど同い年の彼女の背を見てばかりで、従姉のそんな表情は彼の心をよく抉ってくれたものだったが。


「助け出す? どういうことなの?」

「どうって――」


 だが、今この時に限っては、何を間違えたのかさっぱり分からない。従姉が問うてくることは、彼にしてみればあまりにも当たり前のことで、改めて説明する方が難しいと思えるほど。久しぶりに会った従姉の前では堂々と振る舞いたいというのに、自然、続く言葉はどこか子供っぽいものになってしまう気がした。


「君だってずっとイシュテンに囚われているなんて嫌だろう? それもあのイシュテン王の……その、側妃だなんて。ミリアールトに、帰りたいだろう?」

「それは、そうだけど……でも、どうやって? どうやってここから逃げるというの?」


 ――ああ、無理だと思っているのか……。


 シャスティエの不安を察して、レフは少し余裕を取り戻すことができた。確かに王宮の奥深くに囚われて、たとえそこから出ることが出来たとしても外は知らぬ者ばかりの異国。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)を思わせる淡い金の髪も碧い瞳も、この国では目立ちすぎる。彼女が諦めてしまうのも致し方ないことだと思えた。


「それなら、心配いらない」


 シャスティエの肩に手を置くと、熱いものにでも触れたかのようにぴくりと跳ねた。あるいは、嫌いな人間に触れられた時のように。お互い生きて会えたことを喜んでいたはずなのに、どうしてこのような態度を取られるのか――不審と不安、それに少しばかりの不服を感じながら、レフは努めて笑顔を保とうとした。


「協力してくれる者がいると言っただろう。僕がここにこうして来られたことこそが証拠だ。そいつの力があれば、王宮を抜け出すことはおろか、イシュテン王の追手を逃れて国境に至ることも難しくはない」


 王宮を脱出するまでは、今夜のようにティゼンハロム侯爵の手引きが役に立つ。そしてその後は、アンネミーケ子飼いの間者たちが彼らふたりを全力で守る。イシュテンを憎むミリアールトの主君を擁立するのは、あの女傑の目的のひとつのはずだから。侯爵は娘を脅かしたシャスティエを憎んでいるかもしれないが、ブレンクラーレとイシュテンの国境付近の領地を預かるのは、今は王に与する諸侯らだ。ティゼンハロム侯爵とて簡単に手出しはできないだろう。イシュテン王がティグリス王子の内通を知っているのか、あるいは単に反乱で主が空いた領地を味方に分け与えただけかは分からないが、イシュテンに潜入する時には障害となったことが、出国の際には彼らに利するかもしれなかった。


 だが、そのような説明を最後まで述べることはできなかった。


「協力。それは誰なの」


 シャスティエの視線が声が、みるみる尖ってレフに突き刺さって舌を凍らせるから。確かにこの従姉は怒るとひどく冷たく高慢に見えて、それこそ吹雪をもたらす雪の女王のようにも見えたものだけれど。このように詰問するような口調で迫られたことはあっただろうか。


「貴方の手紙を見た時から怖かったのよ。どうしてイシュテンの王宮の、一番奥深くにいる私()()のところに届けることができたのか。それができるのは何ものなのか」


 ――怖い? この僕が!?


 シャスティエにはもちろん、イリーナに対しても、彼が何か悪意のあることをするはずなどない。あの少女も、レフにとっては幼い頃から親しく学び遊んだ旧友なのだ。気の強い主を持った気苦労を労わり慮りこそすれ、どうしてこのように構えた物言いをされなければならないのだろう。


 むっとして口を閉ざし、恐らく拗ねたような目つきになっているであろう従弟に対し、シャスティエは全く容赦しなかった。彼の思いに頓着してくれないのは昔からのことだったけれど、今――数多の悲しみと苦しみを乗り越えて、罪を重ねた末にやっと出会えた、この時でさえこんな態度を取られるとは。


「貴方は――誰と、何を企んでいるの?」


 多分、それを正直に言うことはこの場を収める役に立たないだろうという気はした。しかし、碧い瞳が燃えるように射抜くように彼の答えを急かしている。彼は、いつもこの目には逆らえないのだ。


 だからレフは渋々と白状した。彼が――仮にではあるが――手を組んでいる者たちの名を知れば、彼女も納得してくれるのではないかと仄かな希望を抱きながら。


「……ティゼンハロム侯爵リカード。それに、ブレンクラーレのアンネミーケ王妃。イシュテン王の力を削ぐためならば手段を問わない連中だ。決して信用しきっている訳ではないが――ミリアールトの解放のため、利用することはできる」


 しかしもちろん希望は儚いものに過ぎなかったらしい。彼が挙げた名を聞いた瞬間、シャスティエの形の良い唇は声にならない悲鳴を上げたのだ。

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