拒絶① ウィルヘルミナ
暗い色の衣装に身を包んだその人の身体を抱きしめると、懐かしい香りに思わず涙が流れた。恐ろしい事件の後で王宮を去り、死んだと聞かされていたウィルヘルミナの乳姉妹は、確かに生きていてくれたのだ。
「エルジー……私、ごめんなさ……っ」
伝えたいこと聞きたいことは幾らでもあった。シャスティエとフェリツィア王女を狙った事件のこと、父の真意、エルジェーベトはどれだけ知っていて関わっていたか。息子のラヨシュの行く末についても話さなければならないと思っていた。でも、実際にエルジェーベトに会って、優しく温かい声を聞いてしまうと、出てくる言葉はただひとつしかなかった。
ウィルヘルミナの不甲斐なさを詫びる言葉。
この結果を招いたのは、エルジェーベトを生きながら死人の立場にしてしまったのは、彼女自身の無力さに他ならないとしか思えなかったから。
「どうして謝ったりなどなさるのですか」
「だって、私のせいで!」
かつてと同じように、エルジェーベトの声も、髪や頬を撫でる指先もひたすら優しくウィルヘルミナを甘やかしてくれる。でも、それに縋ってはいけないのだ。こうして優しくしてもらって――心地良い温もりに包まれてぬくぬくとしていたのが良くなかった。ウィルヘルミナの幸せの外で何が起きているか、守ってくれるエルジェーベトたちは外の嵐に傷ついていないのか、思い至っておくべきだったのだ。
再会の嬉しさと、エルジェーベトの境遇への罪悪感、何を言えばよいか分からなくなってしまったもどかしさ。渦巻く思いを言葉ではなく示そうと相手を一層強く抱きしめた時――ウィルヘルミナの手が、エルジェーベトの頭を覆う布に触れた。
長く豊かな黒髪だったのに、布の下に感じる毛束の量はひどく少なく、それに柔らかいように思えた。夜道で邪魔にならないようにしっかりと編み込んだのだとしたら、もっと硬い、縄のような感触があるだろうに。
「エルジー、髪が……」
嫌な予感を覚えて恐る恐るその布を取り去ると、果たしてエルジェーベトの髪はばっさりと断ち切られていた。女としてあまりにも無残な姿に、震える手で短すぎる髪に触れると毛先がちくちくと肌を刺した。
「ああ……生きていると知られてはならないものですから、殿様のところでは男の姿をしておりましたの」
「そんなこと……」
エルジェーベトはさらりと言って笑うけれど、そうまでして身を隠す気苦労はどれほどのものだったのだろう。確かにエルジェーベトの罪は死に値するものなのかもしれないけれど、名前も立場も、女としての誇りさえ奪われて過ごす日々は、既に死んだのと同じことではないのだろうか。
――私は、いつも通り過ごしていたのに……。
エルジェーベトのことを案じていたつもりで、実際にどのような生活を送っているかにはやはり想像が及んでいなかった――その後ろめたさに口を閉ざすと、エルジェーベトの微笑んだ唇が頬をかすめて耳元で囁いた。
「お気になさることではありません。マリカ様のためならば、何も惜しむものなどないのですよ」
「――え?」
――マリカ。また、マリカって……。
エルジェーベトの言葉はあまりにも甘くて優しくて、どうかするとまた縋ってしまいそうになるほど。でもそうならなかったのは、エルジェーベトもウィルヘルミナの名を呼び間違えたのに気づいたからだ。
ウィルヘルミナではなくマリカ、と。いつだったか父がそうしたように、夫から与えられた婚家名ではなく、父母が名付けた前の名前で。まるで、ウィルヘルミナが夫の妻ではないかのように。
実家だから前の名前で呼ぶこともあったのか、と思うけれど。でも、ウィルヘルミナの名を授かってからもう十年以上も経つというのに。
なぜ、もう彼女のものでないはずの名で呼ばれるのか。不審と……微かな不快に、乳姉妹と再会した高揚も幾らか醒めた。
「マリカ様?」
ウィルヘルミナの顔が強張ったのが、闇の中でも見えたのだろうか。軽く首を傾げたエルジェーベトはまたその名を呼んで、主の心を波立たせた。
――うっかり、じゃない……! わざとなの……!?
結婚した女は、婚家名で呼ぶのが礼儀のはず。どうしてわざわざその倣いに外れるのか、その意味を考えたくなくて、考えるのが怖くて。ウィルヘルミナは慌てて傍についていてくれた少年の腕を取って、その母の方へと押し出した。
「あ、あのね! ラヨシュのことを話さなければいけないと思って」
「母様、あの……」
母が他人と抱き合うのを黙って待ってくれていた少年は、何と寛容で我慢強い子供なのだろう。母に会えない心細さを慮ってやれなかったことにも気づいて、ウィルヘルミナは恥じ入るばかりだ。
「ああ……。ちゃんとマリカ様たちにお仕えすることを選んだとか。良い心がけです」
「はい」
折角久しぶりに会えたというのにエルジェーベトの息子に対する態度は冷静そのもの、ラヨシュの方も大人しく頷く様は親子と言うより主従のようだった。しかもラヨシュが選んだ道――夫が選んだ師についてまたひとり他人の間で暮らすことになる――にあっさりと頷いたのを観て、ウィルヘルミナは慌てて口を挟む。
「でも、そうするとエルジーとは会えなくなってしまうわ。手紙のやり取りだって難しくなるでしょうし……」
エルジェーベトとラヨシュと、よく似た黒い瞳が星明りに煌いてウィルヘルミナを見つめている。ふたりがいっそ不思議そうな目で見てくるのを居心地悪く思いながら、それでも彼女は必死で舌を動かした。
「ラヨシュを引き取って、一緒に暮らして欲しいの。今日はそうお願いしたくて来たのよ。今まで沢山――十分すぎるほど、良くしてもらったもの。ふたりで、穏やかに幸せになって……」
マリカを連れて来たのも――その名はウィルヘルミナにとってはもう娘だけを指すものだ――、懐いていたエルジェーベトと、それにラヨシュと別れる心の準備をさせるためだった。娘も既に十分大人に振り回されてしまっているけれど、せめて、訳も分からないままに親しい人が姿を消す思いを何度も味わわせたくはなかったのだ。
「……もちろん、暮らしに困るようなことはさせないわ。あの、これがあれば、しばらくはどうにかなると思うのだけど――」
「マリカ様」
手近にあった宝石を包んだものを押し付けようとしたウィルヘルミナの手は、しかし、エルジェーベトによってそっと止められてしまった。もう彼女のものではないはずの名で呼んでまた主を混乱させながら、それでも闇に浮き上がる笑みはひたすら優しい。人目を憚るはずの状況とはあまりにもかけ離れていて、いっそ怖いと思ってしまうほどに。
「息子のことまで慮っていただけるなんて、身に余る光栄ですわ。マリカ様がお気に掛けるほどの者ではありませんのに」
「そんな、だって――」
――私のせい、なのに。
頼りない主人を持ったばかりに、この母子にはいらぬ苦労をさせてしまっているのに。どうして当然のことと捨て置くことなどできるだろう。ウィルヘルミナを責めないのはエルジェーベトの優しさなのかもしれないけれど、その優しさこそが一層彼女を苦しめて喉元をじわじわと絞められるような思いがするのだ。
お互いが携えた角灯と、星明り――それしか灯りがないから、ウィルヘルミナの強張った顔は見えないのだろうか。でも、それならばエルジェーベトの笑顔が見えるのはおかしなことだけれど。宝石の包みを握ったままの手が、エルジェーベトの指先でなぞられる。少女の頃から馴染んだはずのその感覚も、今は何か不気味なものに思われて、ウィルヘルミナの肌の内側を騒めかせる。
「でも、そう言っていただけて良かった。私からもお願いがあったものですから。頷いてくだされば、私も息子と一緒にいられます」
「お願い……何なの? 私にできること? どうすれば良いの?」
エルジェーベトの目を正面から見ることができなくて娘の方へ顔を背けると、マリカが母の手をぎゅっと握ってきた。この暗闇の中では、父親に似たはずの娘の目も、ほとんど真っ黒にしか見えなかった。不安げな表情で見上げられるのにも耐えられなくて視線を彷徨わせれば、ラヨシュの真っ直ぐな眼差しに捕らえられる。
一体なぜ、この母子はウィルヘルミナに全てを捧げてくれるのだろう。彼女にそれほどの価値はないのに。無知で無力な、ただの女に過ぎないのに。
「父君様が大変心配していらっしゃいます。最近の王のやりようはあまりにひどいのですもの。だからマリカ様、どうかお屋敷にお戻りくださいませ。殿様と私たちがきちんとお守りいたしますから」
「お屋敷? お父様の……? でも、ファルカス様が」
「王にこのことは言ってはなりません」
エルジェーベトの指先が、そっとウィルヘルミナの唇を塞いだ。子供に口止めをするかのような仕草なのに、悪戯っぽい笑みさえ浮かべているのに、ウィルヘルミナに言い聞かせてくる内容はひどく大それたことだった。
「閉じ込められてしまうに決まっていますもの。ですから、しばらくの間何事もないように過ごしていただかなくてはなりません」
「そんなこと、できないわ!」
「マリカ様、今を逃しては機会がなくなってしまうのですよ」
――また、マリカって……! 私はそんな名前じゃない!
ウィルヘルミナの手をしっかりと握るエルジェーベトの指先が、ふいに枷のように疎ましいものに思えてきた。それこそ娘のマリカを相手にする時のように、聞き分けのない子供に道理を説いて聞かせる口調は、何か理不尽な気がする。ウィルヘルミナだって大人の女なのに。
エルジェーベトがウィルヘルミナを案じてくれているのは分かっている。彼女が今の境遇に堕ちてしまったのもウィルヘルミナのために他ならない。その恩を、忘れてはならないとは思うけれど。でも、だからこそこれ以上危険なことをさせてはならないのだ。
「駄目よ。いいえ、知らない振りができるかどうかではなくて。行かない――行けないわ。私はファルカス様の妻だもの」
「マリカ様! 殿様も――私も、王以上に貴女様のことを案じています。どうか分かってくださいませ」
叱るように声を高めてから、エルジェーベトは器用に懇願の声音も使ってきた。器用に――そう、今のウィルヘルミナにはエルジェーベトが、そして背後にいる父が、あの手この手で彼女を言いなりにしようとしているようにしか聞こえないのだ。彼女は夫につくと決めたから。そして、父たちは夫の敵になってしまったと知ったから。せめて、エルジェーベトには敵の範疇から外れて欲しいと思うのに。
「お母様――」
縋りつくような表情なのに、有無を言わせぬ迫力もあるエルジェーベトと見つめ合っていると、下の方から呼びかける細い声があった。見れば、マリカが不安そうな面持ちで母の衣装の袖を引っ張っている。
「エルジーたち、どこかへ行ってしまうの……? 会えなくなってしまうの? そんなのイヤよ……!」
「マリカ。仕方ないのよ。お父様とおじい様が――」
先日の一件から、ウィルヘルミナとマリカはまだシャスティエとフェリツィア王女に会うことができていない。シャスティエの気も落ち着いていないようだし、姉妹として交流させる前に王と王妃と側妃の立場を――それに、父との確執も――教えておきたいという夫の意向もあってのことだ。でも、娘にとってそれは優しい祖父と遠ざけられ、会いたい人とも会せてもらえないという理不尽に他ならなかった。
だから、最近のマリカは夫とまともに口を利いていない。それどころか、幼いながらに父に対して憤りを持っているようでさえあった。現に今も――
「お父様、本当にひどくて……怖いわ。おじい様にもお会いしたいのに。お父様なんて嫌い!」
「マリカ!」
機嫌が悪い時の父親にそっくりな険しい目で、娘はその父に対する悪態を吐いた。人目を憚る状況も忘れて、ウィルヘルミナは思わず声を荒げてしまう。
娘の非礼を叱るためだけではない。マリカを見下ろした目の端で、エルジェーベトが嬉しそうに笑うのが怖かった。マリカが共に行きたいと言えば、ウィルヘルミナの説得も容易くなるとでも思っているかのようで。
「とにかく……ダメなの。行けないわ。今日のことはファルカス様には言わないから……だから、ラヨシュとどこかへ逃げて。私たちに関わらないで!」
きっぱりと拒絶しなくては、と思うのに。エルジェーベトがまたこのような危険な――ウィルヘルミナにとっても乳姉妹にとっても――誘いを持ち掛けようなどとは思わないようにしなくてはいけないのに。ウィルヘルミナにはシャスティエのように毅然とした声は出せそうになかった。このような震えた頼りない声で、エルジェーベトは諦めてくれるだろうか。
マリカにも、エルジェーベトと手を繋がせてあげたかったけれど。でも、もうそれどころではなかった。懐いていた優しい侍女に抱きしめられたら、娘はもう離れようとしないだろう。
だからウィルヘルミナは言い切ると同時に、マリカの腕を掴んで走り出した。エルジェーベトに背を向けて、暗い夜道に躓きながら。急に引っ張られて娘は悲鳴を上げたけれど、転んで擦りむいたりしないように祈るばかりだ。
「ラヨシュ! マリカ様たちをお守りしなさい!」
エルジェーベトの鋭い、でも抑えた声が追いかけてきた。一瞬の逡巡の後に、ラヨシュが後を追って走り出す気配も続く。
守れ、というのは明るい場所に辿り着く間だけのことではないのだろう。これからもずっと、エルジェーベトとラヨシュはウィルヘルミナたちのために身を犠牲にするつもりなのだ。
それほどの思いを寄せられていることが、自分以外の命を背負わされているのが恐ろしくて、ウィルヘルミナの視界は涙で歪み始めていた。