始まりの夜 エルジェーベト
夜会にでも出かける時のように、エルジェーベトは念入りに身支度を整えた。
もちろん、彼女の身分では着飾って晴れがましい場に招かれるようなことはこれまでなかった。それに、今夜身に纏うのも夜に紛れるような地味で飾り気のない衣装にすぎない。それでも久しぶりに女の装いをするし、薄くはあっても化粧も施す。あまりにもみすぼらしい姿だと、かえって人目に留まってしまう恐れがあるから。
無残に断ち切られた髪もきちんと梳いて、衣装と同じく暗い色の布で隠した。かつてマリカから賜った大切な香油をほんの少し使えば、ほのかな芳香に心も浮き立つ。
まるで逢引に赴く若者のような――という喩えは、あながち間違っている訳でもない。エルジェーベトは、今夜マリカに逢いに行くのだ。王によって完全に閉じ込められてしまう前に、逃げる道があるのだと。父君であるティゼンハロム侯爵リカードはあの方を見捨てたりはしないと。希望を、教えて差し上げに行くのだ。
最近、王妃に仕える者の幾人かが王宮を去った。衣装を担当するお針子や、使用人というよりは話し相手に近い――かつてあのバラージュ家の娘が務めていたような役目の者。下の方では厩舎や厨房を担当する者も。年齢も性別も様々な者たちに共通していたのは、リカードの口利きでその役目を得たということ。侯爵家との血縁や、かつて仕えていた人脈によって、中にはマリカが幼い頃から見守って来た者もいた。
職を辞した理由は、表向きは様々だ。若い娘は縁談を得た者もいるし、老齢や病気のために役目を他に譲った者もいる。しかし実は王の圧力に屈したのだということを、リカードから聞かされてエルジェーベトは知っている。というよりも、傍目にも明らかなように王の方で仕向けているということだった。
――マリカ様を、何だと思って……!
王の狙いはある程度分かる、と思う。リカードと本格的に剣を交えることになれば、マリカたちの存在は人質になり得るから。その際に密かに逃がしたり、侯爵家との行き来を装って情報を受け渡したりするのを警戒しているのだろう。事実、ラヨシュを利用して同じことを試みているのだから、正しい懸念ではある。
だが、それをマリカがどのように感じているかを思うと、腸が煮えくり返る思いをするのだ。信頼できる者たちが周囲から去って、夫はもうひとりの若い女にかまけている。王自ら反乱を焚き付けているかのような、表の世界でのリカードとの対立はあの方は知らないだろうけれど。でも、どれほど不安に、心細く思っておられることだろう。
更に、ラヨシュの手紙も捨て置けないことを伝えてきていた。
「王女に親しく接する使用人の子供」に王が眉を顰めて、親元に帰すか王の認めた者に師事させるかのどちらかを強いられることになった、という。
母に再会するという望みよりも、もちろん王妃たちに仕え続けることを選んだ、と誇らしげに綴る息子の筆致は、母の賞賛を強請っているようでやや鬱陶しかった。侯爵家とマリカたちへの忠誠を忘れなかったのは良いとして、ラヨシュが王の手の者に見張られることになれば、マリカとリカード――それに、エルジェーベトの連絡の手段はごく限られてしまうのに。その問題の重要性を今ひとつ認識していないように見えるのは、やはり子供ゆえの浅はかさなのだろうが。
とにかく、王との衝突がいよいよ近いと見たリカードはついに決断した。
『マリカを助け出すことで、反乱の狼煙とする』
その言葉を、エルジェーベトはどれほど待っていたことだろう。マリカから引き離され、遠くからその身を案じることしかできなかった日々ももう終わる。そして、マリカを裏切り傷つけた王も、リカードが討ってくれるだろう。
『いよいよ、なのですね……』
『うむ』
力強く頷いたリカードの顔には、しかし、疲れがはっきりと濃い影を落としていた。この間、王に対抗する勢力を持つこの老人を責め立てていたのは、エルジェーベトだけではなかったのだ。なぜ早く立たないのか、早く王に立ち向かえ、と。あるいはいきり立ち、あるいは懇願するように縋りつく者を、エルジェーベトは数多くこの屋敷の奥に通してきた。ティゼンハロム侯爵家に連なる者たちを、それほどまでにあからさまに王は冷遇し始めているのだ。
ブレンクラーレやミリアールトとの連携もままならない中では迂闊に動くことができず、ともすれば王に忠誠を誓う者たちに対して私闘を仕掛けかねない血気に逸る者たちを抑え。一方で慎重に情勢を見極め、中立を保とうとしている者たちには誘いをかけて。気力はともかく、肉体は衰えているリカードにとっては魂を削るように消耗する日々だったに違いない。
だが、一度やると決めてしまえばリカードが躊躇うことなどない。だからエルジェーベトに命じる言葉に淀みはなく、その内容も端的なものだった。
『次の新月の夜に、闇に紛れて王宮に行け。マリカたちを連れ出すように、息子に話を通しておくのだ。その時に、とはいくまいが――心の準備をするようにと言い聞かせておくのだ』
『はい』
――マリカ様……しばらく、恐ろしい思いをさせてしまうかもしれないけれど。
父と夫の対立を間近に感じさせられて、しかも父の叛意を知った後でも夫に対して黙っていることを強いられる。心優しいマリカにとって、それが重荷になるであろうことだけが懸念だった。腹芸などできない方のこと、秘密の重さが挙動にも出て王に不審を抱かれることもあり得るだろう。
――でも、父君のためですもの……!
マリカが父を王に売り渡すはずがない。血の繋がりは夫婦の愛に勝るはずだ。しかも王は側妃に子を生ませたことでマリカの愛を裏切っている。もはやあの男はマリカに愛されるに相応しくない。
それに、何といっても秘密を伝えるのはエルジェーベトなのだ。マリカのために罪を犯して、表向きは死を賜って、生き延びるために全てを捨てた。彼女の忠誠を前に――そして乳姉妹として親しく育った情を前に、エルジェーベトを再び死なせることなどあの方にできるものか。
だから、もうすぐ、なのだ。マリカに会うことさえできれば全て上手くいく。王の不実と側妃の高慢は報いを受けて、エルジェーベトはマリカを取り戻すことができる。
今夜は、そのための第一歩になるはずだった。
エルジェーベトは、王宮に日々出入りする商人の馬車に紛れて忍び込むことになっていた。王や王妃といった貴顕に捧げられるような品ではなく、使用人や家畜のためのものも含めて、毎日膨大な量が消費される食糧や燃料の類を届ける者に変装するのだ。そのような類の者ならば、人目を避けるように深夜に出入りしてもおかしくはないから。
そういう訳で、侯爵家の門に用意された馬車も、日ごろ使われるような、あの十三の光条の太陽の紋章を掲げた豪奢なものではなく、荷車のような粗末なものだった。今夜のエルジェーベトの装いに似つかわしいものでもある。ただ、その傍らに似つかわしくない金色の輝きを見て、知らず、彼女の眉が寄せられる。
「いよいよだな」
わずかな星明りによってさえ眩しく金の髪――それを戴くのは、あの女によく似たあのミリアールトの公子だという青年だった。遥かな北国から肉親を追って旅してきた執念がようやく叶うとあって高揚しているのか、紅潮した頬に浮かべる微笑みが忌々しいほど美しい。夜の闇に浮かび上がる白い顔は、エルジェーベトと同じく下賤の者の扮装をしてなお、整いすぎていて目立つのではないかと思われるほど。
「はい。このように身を窶していただくのはご身分には合わないことですが――」
「構わない。必要なことだと分かっている」
苦い思いを隠して声を掛けると、相手は鷹揚に微笑んだ。目上の者が下の者の不始末を赦す寛容さだ。国を滅ぼされ、異国でその王に仇なす謀に加担してもなお、この青年は根っからの王族なのだ。その自然な高慢さもあの女によく似ていて、エルジェーベトは浮かれていた気分に水を差すむかつきが腹の底に凝るのを感じた。
馬車が動き出しても、車内は沈黙が支配していた。使用人と親しく言葉を交わそうなどと考える貴顕は珍しい部類に入るだろうから当然のことだ。エルジェーベトは、彼女から顔を背けるようにして窓を眺めている青年の細い顎の先を密かに盗み見る。月のない深夜のことだから、それに、そもそも人には見られてはならない一行のこと、窓は木の板で塞がれているから、外の景色が見える訳でもない。だから青年の碧い宝石の目に映っているのは、あの女の面影、ということになるのだろうか。
――あの女も、喜んで我を忘れるということがあるのかしら……?
あの女が青年と会っているところに王が踏み込むように密告しては、と。エルジェーベトは閨でリカードに進言してみたこともある。いつも氷のように冷たく取り澄ましているあの女も、肉親が命を懸けて助けに来たとなれば、駆け寄って口づけるくらいのことはするのではないか。その瞬間を王が見たならどうなるか――赤子が眠る傍らで不貞を働いた淫売の汚名を着せてやるのも、面白いと思ったのだ。密通ということになれば、青年はもちろん、あの女も相応の罰を受けることになるだろうし。
だが、リカードは青年の考えの方を面白いと思ったようだった。つまり――
『ふたりの妻のいずれにも去られた男の顔――さぞ見ものだろうな』
例によって蕩けるような笑みで青年がそう呟いたのを、採用したのだ。
確かに、警備の厳しい王宮から王の妃たちを攫うなど、普通は不可能。今回は、マリカに対してもあの女に対しても、ごく親しい相手が直接出向いて迎えに行くからこそリカードも可能だと判断したのだ。王の妻たちは、夫に背を向けて自らの意思で王宮を去る――それを知った時の王の顔は、怒りと屈辱に赤く染まっているのか、それともあの男が悲しむこともあるのだろうか。確かに見ものではあるだろうけれど、エルジェーベト自身が見ることが叶わないのではつまらない。
――せめて、あの女が泣き叫ぶところは見たいものだわ。
月のない夜を行く車内の暗がりの中、エルジェーベトは目の前の青年にあの女の面影を重ねようと目を凝らした。生き残った肉親に助け出されたと安堵したところで、白刃に取り囲まれたら。目の前で赤子を踏み潰してやったら。マリカを傷つけ貶めた分には足りないかもしれないが、幾らかの償いをさせてやることができるだろう。
昏く愉しい空想に耽るうちに、馬車は王宮の門へと着いた。厳かな造りの表の門ではなく、使用人や商人、泥にまみれた車が出入りする裏門へと。
「ここから……?」
王宮という名から想像できる壮麗さとは無縁の、むしろ雑然として薄汚れてさえいる一帯に、青年は首を傾げている。高貴の生まれの者には、表向きの美しさの陰にそれを支える無数の無名の者がいるのは意外なことなのだろうか。
「はい。側妃様のお住まいへは打ち合わせた通りに。警護の兵の隙も覚えていただいていておりますね?」
ここからは、エルジェーベトはマリカの元へ、青年はあの女の元へと別れて行動する。息子が書き送って来たことを図面に起こして、王宮に出入りしたことがある者にも詳しく立ち木の様子などを証言させて。闇の中でも十分に動けるように青年は道順を覚えているはずだった。
「ああ。問題ないと思う」
「王は侯爵様が遠ざけてくださっております。が、何があるとも分かりませんから、くれぐれも手短に要件だけをお伝えしてくださいませ」
王が妃たちを訪れては全てが水泡に帰してしまう。だからリカードはここにも手を回している。
ティゼンハロム侯爵家が庇護する何某という領主が、最近隣の領と境界について揉めたことがあった。当事者同士の話し合いでは収まらず、ことは王の裁定を乞うところまで縺れた。公平な裁きを下すべき立場にあるはずの王は、だが、当然のように相手方に有利なように境界を定めさせた。ティゼンハロム侯爵に与すること自体がその者の落ち度であるとでも言うかのように。
一方的な裁定はもちろん不満を呼び、その領主に泣きつかれたリカードの口添えもあって、改めて抗議に行っている……はずだった。
「分かっている」
目下の女にくどくどと言われるのを嫌ったのか、青年は美しい顔を歪めながら頷いた。愛するあの女に会える喜びを損ねられたとでも思ったのだろうか。それは、エルジェーベトにとっても同じなのに。
――早くマリカ様に会いたい……!
青年が冷静さを保てるかどうかについて不安はあったが、エルジェーベト自身にも焦りがある。夜の時間が限られているのも変わらない。
「……ご武運を、お祈りしておりますわ……」
だから、青年が早足に闇に消えるのを見送ると、エルジェーベトも約束の場所へと足を急がせた。
足元を照らすのは布をかぶせた角灯のほのかな灯りだけ。逸る心はあっても転倒して灯りを失ったり怪我をしては元も子もないから、急ぐといっても歩みはじれったいほど鈍い。イシュテンの王宮は、こうして深夜に侵入する身になってみると途方もなく広い。広さと闇のおかげで、見張りの目を掻い潜る余地も生まれてくれるのだが。
一歩ごとに足元を探りながら、闇の中を進むことしばし。やがて、木々の並び方や道の曲がり方、うっすらと窺える建物の陰にも見覚えがあるものが増えてきた。愛する主人に会える時が近づいていることを感じて、緊張のためだけでなくエルジェーベトの心臓はうるさいほどに高鳴っていく。
そして――庭園の隅、星明りを浴びて、その輪郭を闇から浮かび上がらせる東屋にたどりついた。そこに佇む、大小三人の人影。少し離れて他のふたりを守るような構えを見せているのは、息子のラヨシュ。一番小さいのは王女のマリカだろう。そして、娘の手を引いているのは――
「――エルジー……!」
「ああ、マリカ様……!」
久しぶりにその方の声を聞いて、エルジェーベトの心からは自制が消し飛んだ。転ぶかも、見つかるかもという恐れもかなぐり捨てて、彼我を隔てるわずかな距離を駆ける。相手も、同じように他のふたりを置いて走り出しているのが見えた。
「エルジー……本当に、生きて……?」
「ええ、私はここにいます。マリカ様のために……!」
ふたり、ぶつかり合うようにして抱き合う。その身体の柔らかさに、涙ぐんで震える声の優しさに、エルジェーベトの視界も濡れて滲み始めていた。
念願叶って愛する人に再会した――エルジェーベトにとって、それは、無上の幸福の瞬間だった。