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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
16. 迫る恐怖
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母の強さ アンネミーケ

 王太子に男子が生まれた――大国の血筋がめでたく繋がれることになったとあって、ブレンクラーレの王宮、鷲の巣城(アードラースホルスト)には各地から祝いの書状や品々が届いている。国内からだけではなく、近隣の諸国からも。幾度となく剣を交え、国境を争ってきたイシュテンでさえ、王や幾人かの諸侯からは王子誕生を祝う使者が届いたのだ。


 中には国境を直には接しない遠国からもそのような使者は届く。例えば、遥か北方のミリアールトからも。




 アンネミーケはマクシミリアンと共に、王や王太子宛てに届いた書状を(あらた)めていた。返信や返礼をどのようにするか、どの程度差をつけてどの程度誠意を見せるかはまことに神経を使う一大事で、息子に外交の機微を教える良い機会になるはずだった。

 ただし、途方もない人名の羅列と、それが関わる地名や系図を丸ごと覚える作業にマクシミリアンはやや気疲れしているようで――手跡から送り主の人柄を推察する遊戯に半ば逃避しているようだった。


「これは……」


 そんな息子が摘み上げた一通は、明らかに女性による繊細な手跡で(したた)められていたのでアンネミーケは危うく眉を吊り上げかけた。このような時にまで好色な性を発揮するのか、と。

 だが、その書簡がミリアールト王家の氷の月の紋章を帯びているのに目を止めて、すんでのところで叱責を飲み込む。目敏く懸案の国の紋章を目に留めたのなら、非は息子を過少に見積もったアンネミーケの方にある。


 母の挙動には全く気付いていないのだろう、彼女の息子は手際よくその書簡の封を切ると、送り主の名を読み上げた。


「シグリーン公爵夫人……母上、ご存知ですか」

「うむ。亡きミリアールト王の弟の夫人だったはず。王妃が亡き後のかの国では、最も高位の女性だとか」


 見慣れない、模様のような形の文字をしげしげと目を近づけて見るマクシミリアンに、アンネミーケは教えてやった。息子に対してはより分かりやすい表現もあったのだが、嫌いな者に考えが至るのを避けて敢えてその言い方はしなかった。それに、一応頭の巡りは愚鈍ではない息子は、公爵夫人と既知の者の存在を正しく結びつけたようだった。


「では、例の公子の母君ということになるのですよね。こちらからの手紙は上手く届いたのかな。それとも公子からの方が先だったでしょうか。……それとは関係なく、単に届くのが遅れたということかも……?」


 公爵夫人からの書簡は、署名こそ文様のようなミリアールト文字だったが、本文はちゃんとブレンクラーレ語で記されているらしく、マクシミリアンは呟きながらも紙を広げて文面を目で追っている。文化の進んだ国では教養としてブレンクラーレ語を学ぶ者が多いから当然と言えば当然だが、翻訳の手間をかける必要がないのはありがたい。


「さて、イシュテンを迂回して届けさせたなら時間は掛かって当然だが――」


 アンネミーケ自身、公爵夫人との接触を試みた際は最短の経路――イシュテンを真っ直ぐ北に突っ切ってミリアールトに至る経路――を避けたのだ。周辺の国の複数の国境を越えるのも面倒かつ時間がかかるのは確かだが、万が一にも敵国(イシュテン)に計画が知られる危険を冒す訳にはいかなかったのだ。


 シグリーン公爵夫人が同じ手を使ったとして。その理由は、支配者であるイシュテンから余計な疑いを招かぬためか。あるいは、念のための用心ではなくて、アンネミーケと同じく、余人に知られてはならぬ内容が、書簡に含まれているからか。

 一応かつては国交のあった相手だから、祝辞を送ってくること自体は何もおかしくない。人づてに情報が伝わるのは時間が掛かるから、公爵夫人が王子誕生を知ることが遅れたとしても、それもまた不思議なことではないのだが――


「これは――」


 マクシミリアンが書簡を読み上げるのは早かった。首を傾げながら手渡されたそれをアンネミーケも一読して――ふ、と口元を綻ばせる。


「なるほど。公爵夫人はこちらの手紙をちゃんと受け取ったらしい。喜ばしいこと」


 書簡は型通りの祝いの言葉から始まり、使いが遅れたことを詫びていた。


『雪の女王の御心悪しき折にて、太陽は曇り、天への道も閉ざされていればこそ』


 これは、単に冬が長く暗いために道が険しいという意味ではないだろう。ミリアールトの女王となるべき姫は、イシュテンに攫われて仇の王の側妃にさせられた。雪の女王はそれを怨み、民の心も陰っている、というところか。天への道云々は、睥睨する(シュターレンデ)(・アードラー)の神を奉じるブレンクラーレと通じるのも簡単なことではないということ。


『とはいえ終わらぬ冬がないのは我らが誰よりよく知るところ。長き冬をよく耐え忍ぶのも、我らの倣い。大いなる翼が暗雲を打ち払い、金の獅子の咆哮が太陽を呼ぶ日の来たらんことを』


 金の獅子。この一語が特にアンネミーケの目に留まった。公爵夫人は息子の生存を知ったのだ。そして、ブレンクラーレの後援を得たことも。


「ですが……」


 先に書簡を読み終えたマクシミリアンの顔は、しかし、母ほどに満足げな色を浮かべてはいない。それどころか、青空を思わせる晴れやかな表情を浮かべることが多い整った顔には困惑の色が濃い。


「これでは、我らがイシュテンを追い払うのを期待している、くらいにしか読めないのではありませんか? 機を窺って積極的に挙兵してくれるようには、どうも……」

「獅子はレオンハルトのことではなかろう。あの子がイシュテンを斃すまで待つなど、忍耐強いにもほどがある」

「はあ」

「わざわざ金の、と言っているからにはあの公子のことであろう。レオンハルトの誕生祝いにかこつけて、言葉の意味を眩まそうとしたのではないか」


 聞いたことがないのか忘れたのか、マクシミリアンは公子の名の意味に気付いていないようだった。ならば敢えて教えることもあるまい。妻が我が子に、他の男にちなんだ名を付けたなどとは知る必要のないことだ。


 獅子(レフ)という名の意味を知らない息子は、やはり納得がいかないという風にしきりに首を捻っている。


「彼は……獅子という雰囲気でもありませんが」

「確かに優雅な猫とでもいった風情ではあるが。母の目には獅子に見えていたとしても良かろう」


 そもそもミリアールト語に堪能な者は少ないから、公爵夫人も息子の名の意味が異国で通じているとは思っていないかもしれない。アンネミーケの言い訳通りに、新たに生まれた王子の影に真意を潜ませたというだけかも。それでも、彼女は遠き北国の貴婦人と心を通わせることができたような気がしていた。


 なぜなら、夫人の書簡はこのように締めくくられている。やや形式は崩れて、生まれたばかりの王子やその父母というよりは、どうやらアンネミーケに向けて。


『孫子の繁栄を見守るのは、無上の喜びと存ずるところ。この北の地にも、同じ慶びをもって春を寿ぎたいもの』


 ――孫……あの公子と、姫君の間のことでも期待しておられるのか……?


 元王女以外のミリアールトの王族はことごとくイシュテン王によって殺されたと聞いている。つまり、公子の生存を前提にしなければこの一文はあり得ない。無論、そのような未来が簡単に訪れると信じている訳ではないだろうが。それでも、アンネミーケの誘いを蹴って無にするにはあまりに甘い願いではないだろうか。


「母親は息子のためならば何でもするものだ。公爵夫人もそれは同じことであろう。ならば――我が国の、とは言わずともあの公子の良いように動いてくれるはず。とりあえずは上々と言えよう」


 優雅に口元を扇で隠して、アンネミーケは鷹揚に笑った。会ったこともない相手だが、息子を持つ母の情は信じられる。なぜならそれは彼女に大国の政を取り仕切る気力を与えてくれるものだから。


「陛下、失礼いたします――」


 ――だが、アンネミーケの余裕は長くは続かなかった。王妃と王太子の執務室だというのに、無礼にも音高く扉を開けて駆けこむ者があったのだ。


「何事か」


 闖入者はレオンハルトにつけていたはずの女官、それも常ならば影のように密やかな立ち居振る舞いを崩さない者だったので、アンネミーケは思わず腰を浮かした。孫が急な熱でも出したのかと恐れたのだ。


「レオに、何か?」


 マクシミリアンも同じことに思い至ったのだろう、長い脚で大股にその女官に近づいて心配顔で見下ろしている。


「いえ……あの……」


 これもまた珍しいことに、女官は主たちの問いにはきはきと答えることをしなかった。王妃と王太子を数回見比べた後、意を決したように腰を低くし、アンネミーケの耳元に口を近づける。


 女官の奏上を聞いた瞬間に、アンネミーケは扇を音高くぴしゃりと閉じた。


「何ということ」


 苛立ちも露に吐き捨てると、素早く衣装の裾を捌いて立ち上がる。


「母上、何事なのです……?」


 マクシミリアンの惚けた声を背後に置いて、向かう先は王太子妃の住まいだ。


 女官は、レオンハルトがギーゼラに攫われたと言ったのだ。




 夏も盛りの午後のこと、太陽が雲間に隠れた一時を狙って、レオンハルトは女官たちに抱かれて庭園を散歩していたらしい。木々のざわめきや花の色や香りに赤子は興味津々で機嫌も良く、お付きの者たちも微笑んで代わる代わるあやしていたとか。――そこへ、王太子妃も侍女を引き連れて現れたのだ。


『妃殿下が御子を抱きたいと仰せになれば、断ることはできませんで……』


 レオンハルトにつけた者たちと、ギーゼラに従った者たちと。ひとりの赤子を囲むにしては滑稽なほどの人数が、奇妙な緊張感の中、母子の交流を見守った。実母に会うのは久しぶりのはずのレオンハルトも、しばらく前まではその腕に抱かれていた感触を思い出したのか、いつしかギーゼラの胸で眠り――


『よく寝てしまっているわね。起こしては可哀想だからこのまま連れて帰ります』


 日頃の弱気からは想像もできない強引さで、ギーゼラはそう宣言したというのだった。




「お義母様、わざわざお越しいただいてありがとうございます」


 急に訪ねたアンネミーケを迎える嫁は、女官から伝えられた話の通りにふてぶてしいとさえ呼べる微笑みを浮かべていた。


「……いいや」


 相対するアンネミーケの方が、笑みを浮かべるのに苦労してしまうほど。王妃と王太子妃との間に諍いがあるなどとは、傍に見せてはならない。まして、孫を母から奪おうとしているなどと思われて堪るものか。あくまでも、最近体調が優れないと称している王太子妃を、育児の労から救うためということにしなければならないのだ。


「レオは重くなっていたから疲れただろう。赤子の鳴き声は身体に障るだろうから、後はこちらで引き受けよう」


 ギーゼラがアンネミーケの前に姿を見せようとしなかったのは、完全に当てつけだけということでもなかったらしい。かつてはふっくらとした頬がこけているのは、子を育むために蓄えた栄養が尽きたということではないだろう。我が子と引き離された心労が、この娘の肉体をも削っているのだ。それを見て取ってなお、アンネミーケも退くことはしない。ブレンクラーレが戴く未来の王の養育は、彼女自身が為さなければならないのだ。


「でも、すっかり落ち着いて揺籃(ゆりかご)で寝付いてしまいましたの。片付けないでおいて良かったですけれど……だから、今日はこのままこちらに泊まらせた方が良いと思いますわ」

「だが――」

「母上、それで良いのではないですか? レオは最初はこちらにいたのですから、皆も扱いが分かっているでしょう」


 ――余計なことを……!


 母の後を追いかけて入室したマクシミリアンの、爽やかな笑顔を睨むこともまた、この場でしてはならないことだった。客観的に見ても、赤子の父親の言うことに異を挟む余地はない。何より、妻の側に立って常に味方してやれとは、ほかならぬアンネミーケ自身が何度も言い聞かせてきたことなのだ。


「ありがとうございます、殿下」


 アンネミーケが黙ったのを見て取って、ギーゼラは勝ち誇ったように笑った。痩せた頬に浮かべる微笑みは、地味な娘にある種の色気のようなものさえ浮かべていた。


「君が出歩けるくらい気分が良かったようで嬉しいよ。今日は親子三人で過ごそうね」

「ええ、殿下」


 優しく妻の手を取りながらも、マクシミリアンはギーゼラの変化には気づいていないようだったが。甘やかされて、生まれながらに何もかも――美貌も地位も、他者からの愛も――に恵まれたこの息子には、それらを得られず足掻く者の思いなど分からないのだ。


 ただ、心の距離はどうあれ仲睦まじく寄り添う王太子夫妻の間には姑の割って入る余地などなく。アンネミーケは、息子も孫も――少なくとも今日のところは――諦めるよりほかになかった。




「陛下、よろしいのですか」

「仕方ない」


 王太子妃の居所から去るアンネミーケを、女官が心配顔で追いかける。忠誠面で案じて見せる小賢しさも、わずかに滲む気がする哀れみも苛立たしいが、それを相手にぶつける無駄はしない。代わりに命じることがある。


「早急に調べて欲しいことがある。王太子妃の周囲を探れ」


 最近引きこもってばかりだったギーゼラがたまたま外出したその時に、レオンハルトに鉢合わた――そのようなこと、偶然であってたまるものか。そんなことを信じるのはマクシミリアンくらいのものだ。

 ならば、ギーゼラにレオンハルトの散歩の予定を教えた者がいるはず。王太子妃と王子、それぞれに仕える者たちや、ギーゼラを訪ねた者の誰か――何としても洗い出して、その目的を探らねば。アンネミーケは密かに心に決めていた。


 王族でもないアンネミーケが政を取り仕切るのを快く思わない者。未熟な王太子夫妻を操ろうという者。単に赤子から引き離された母を憐れんだ者もいるだろうか。心当たりはひとつではないが、ことによっては後の火種になりかねない。小さなものであっても、恐れは除かなければならないのだ。

 かつてのギーゼラならば、義母の顔色を窺って、あるいは自身の判断に自信を持てなくて、すり寄ってくる輩の言葉に耳を貸したりはしなかっただろうが――どうやら、あの娘も変わったらしい。


 ――あの娘も、母になったからか……?


 権力を欲しがるような娘ではないと思ったからこそ息子の妃に選んだというのに。裏切られたような思いと、間近に迫っているのかもしれない危険への焦りに、唇を噛む。


 息子のためなら何でもするのは、アンネミーケに限ったことではないのかもしれなかった。

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