高慢の代償 シャスティエ
フェリツィアが泣き止むまでにかなり長い時間が掛かってしまった。
シャスティエが抱いて揺らしても、侍女たちと交代しても。乳母が乳を含ませてみても、お気に入りのはずの玩具を持たせてみても。いつもならば効果のあるはずのこと一切が、今日に限っては娘を宥めてはくれなかったのだ。
顔を真っ赤にして背を反らして泣き喚く娘の姿は哀れなもので、つんざくような高い声が――耳だけでなく――シャスティエの胸にも突き刺さる。
「大きな声を出してしまったからね……私のせいだわ」
「驚かれただけでしょう。すぐに落ち着かれますわ」
「そうだと良いけれど」
しきりにもがくフェリツィアを侍女に渡す頃には、シャスティエの腕はすっかり鈍く疲れてしまっていた。けれど、身体の痛みなど何ということもない。それ以上に耐えがたい痛みを胸にもたらすのは、娘を怯え泣かせてしまったこと。言葉の分からない赤子でさえ感じ取るほどの、険しく鋭い声を上げてしまったこと。……かつてのこととはいえ、娘の危険、娘へ向けられる敵意に無頓着だったこと。
――私は……何ということをしようとしていたのかしら……。
懐妊した当初、身体の変化に怯えて。フェリツィアを出産してからは、赤子という弱々しい存在を持て余して。シャスティエはミーナに養育を委ねることを考えていたのだ。あの方の方が慈しんでくださるだろうから、と。
そのように心から信じていたし、王妃から王を奪った後ろめたさを誤魔化そうとしてのことでもあった。
だが、それはもっぱらシャスティエの心の重荷を除こうという身勝手な考えにすぎなかった。ミーナはともかく、ティゼンハロム侯爵の手の者にフェリツィアを渡していたら一体何をされていたことか。赤子のか弱さを日々実感している今だからこそ、もしも、の未来を考えると血が凍る思いになる。
「フェリツィア、ごめんなさい……」
小さな身体で泣き続けるのも疲れるだろうに、娘は全身で息をするようにして声を上げ続けている。汗で貼りついてしまった髪を撫でながら、シャスティエは囁くような声で娘に詫びた。
娘を見捨てようとしたことだけでなく、ここ最近の浮かれようも、親としてはあってはならないことだった。権力を巡って相争う思惑が渦巻くイシュテンの状況は、何も変わっていないのに。ティゼンハロム侯爵は、今も王とミリアールトを引き裂き、シャスティエと――フェリツィアをも、亡き者にしようとしているかもしれないのに。
――あれは、侯爵の差し金だったのかしら。
悔しげに悲しげに、唇を噛んで俯きながら帰っていったマリカ王女のことを思うと、シャスティエの心臓は石のように凝り、沈み込むよう。あのように険しい顔と声をして、脅かすつもりはなかったのに。いつも朗らかな王女のむっつりと拗ねたような表情は、見ているだけでも息苦しくなるように哀れなものだった。その原因が自分自身と思えばなおのこと。
マリカにフェリツィアを傷つけようという気があって言ったことではないと思うし、ミーナもそのようなことを言わせる方ではないのは分かっている。でも、だからこそマリカの言葉が気にかかるのだ。
『お父様、何でもおねだりを聞いてくださるって言ってたのに……』
小さな子供のたったひと言に、シャスティエは頭をひどく殴られたような衝撃を受けた。王が娘の機嫌を取ろうとして言ったのだと思えれば良かったけれど、驚いた王の表情から、そのようなことではないと分かってしまったから。ならば、王女に父への影響力、王をも動かしかねない可愛らしい手管を教えたのは、一体何者だと言うのだろう。
王女を利用してシャスティエの娘を害そうとしている者が、王宮に潜んでいるかもしれないのだ。
恐怖で息も詰まりそうな思いをしている――そのこと自体が、シャスティエにとっては例えようもなく恐ろしかった。
ミリアールトの王宮で、叔父たちの首を前に剣を抜いた王と対峙した時。ティゼンハロム侯爵の狩りで、無礼な者たちに狩りの獲物にされかけた時。ミーナの代わりに毒の杯を煽った時。祖国の乱の報せを受けて、並み居るイシュテンの諸侯の前で王を説得した時。
どの場合も、恐怖を感じなかった訳ではない。死を覚悟した瞬間もあったし、肉体に傷を負ったこともある。だが、今のように恐ろしさのあまりに身動き――どころか息をするのさえままならないような思いをしたことはなかったと思う。
それは、自身の正義に照らして、間違ったことをしていないと確信していたからだろう。矜持に悖る行動をするくらいなら、潔く誇り高い死を選ぶ、と。どこかでそのように思っていたのではないだろうか。それが間違っていたとは思わないけれど、でも、フェリツィアのことを考えれば、もうかつてのような無謀に及ぶことなどできはしない。彼女が死ねば、フェリツィアを守れる者がいなくなってしまうのだから。
――どうしよう……。
シャスティエが躊躇いを持たなかったのは、敵意を買うことに関しても、だった。
ティゼンハロム侯爵家に縁の貴婦人たちは、人質の元王女が側妃になって王妃を脅かす可能性を見て取ったのだろう、シャスティエに幼稚な嫌味を繰り返してくれた。かつてのシャスティエは、彼女たちに堂々と反論してささやかながら溜飲を下げていたのだ。侯爵自身に対しても、高慢と取られかねない態度を取ったことがある自覚はある。
どちらの場合も、当時のシャスティエは、国は滅びたとはいえ王族の誇りを保ったつもりだったけれど。
側妃になって王の子を孕んだ以上、そして王とティゼンハロム侯爵の対立が日々深まっている以上、結果は同じだったのかもしれない。でも、これまでの振る舞いは確実に――必要以上にシャスティエへの憎しみを煽ってきたのではないのだろうか。
自分だけのことならば、誇りに殉じるのは本望とさえ言える。でも、母親の高慢の代償を、生まれたばかりの娘が払わされることになったら。
「また、私が抱くわ」
娘を失う恐怖に耐えられずに、シャスティエはまたフェリツィアを抱こうと腕を伸ばした。温かい重さを受け取って安堵したのも一瞬のこと、すぐにいつまでこの愛しい温もりを感じられるかに思い至って息が詰まる。
泣き止ませる役には立たないのを承知で、シャスティエは娘を胸に強く抱きしめ続けた。
フェリツィアが泣き疲れてやっと寝付いた頃に、王はまた離宮を訪れた。
「フェリツィアは――」
「落ち着きました。静かに寝かせてやってくださいませ」
先日の時のように、王に寝顔を見せてやろうという気分にはなれなかった。王が何をしたとかしなかったとかいうことではなく、涙の跡も痛々しい娘の姿は、父であっても人目に晒すのが忍びないと思ったのだ。
「そうか」
王も頷いただけで、娘の寝室へ行こうとしなかったのは、さすがに気遣ってくれたということだろうか。非常に珍しく、疲れた顔をして襟元を緩める姿は、どこか窶れてさえ見えて落ち着かない気分にさせられる。
「……お酒でも召し上がりますか」
だからついいらぬ気遣いをしてしまって――そんな自分に、驚く。
「……もらおうか」
シャスティエの言葉に驚いたのは王も同じだったらしく、頷く前には軽く目を瞠っていた。王の接待は侍女に任せきりで、彼女から何か提案するということはなかったから当然だ。
――ミーナ様と私の間を往復することになってしまったのだし。
薬草を浸した甘く苦く強い酒を舐める王を眺めながら、言い訳のように思う。
フェリツィアが生まれる前、ミーナがシャスティエの懐妊を始めて知った後も、このような構図があったのを思い出す。ミーナが離宮を訪ね、思いもよらないことが起きてすぐに帰る。王は妻たちの機嫌を窺って広い王宮の中を行き来することになる。
あの時のことは、率直に言って王の配慮が足りないせいで起きたのだと思うし、ミーナの心中やシャスティエ自身のいたたまれなさを思うといまだに腸が煮える思いがする。だが、今日のことに限って言えば、王でさえも予想していなかったのだろう。ただ、マリカ王女の無邪気な言葉を、親たちがその通りに受け止めることができなかっただけ――そう思うと、王を憐れむのに似た気分も湧いてくるのだ。
「マリカは――」
時間を掛けて杯を空けた後、王はそれを卓に置くことはせずに手の中で弄びながら口を開いた。
「使用人の子供に言われただけだとミーナは言っていた。フェリツィアと遊べないのが不満そうだったから、機嫌を取るためだったのだろう、と」
「機嫌を取るため……本当に、それだけでしょうか」
「その子供はマリカとは会わせないように言った。親元に帰すか、俺の信頼の置ける者に預けるかどちらかにしろ、とも。マリカに対しても、リカードとのことは話していくつもりだ」
――マリカ様と使用人の子供……まさか……。
シャスティエの脳裏に、何度か見かけた少年の姿が過ぎって心臓が不穏に跳ねた。あの少年の母親は、フェリツィアの命を狙った女だったはず。
だが、すぐに恐れに捕らわれてありもしない妄想を抱いているのだ、と自らに言い聞かせる。あの女――本当に死を賜ったのかはティゼンハロム侯爵しか知らないが、少なくとも大手を振って空の下を歩ける身の上ではない。親元に帰そうにもその親がいないのでは、そのような話にはならないはずだ。ならば、お転婆な王女は王宮のあちこちに遊び相手がいるのだと考えるのが自然だろう。
――王宮のあちこちに……フェリツィアを狙う者はどれだけいるのかしら。
今回の者は他意がなかったとしても、王女の純粋さを利用しようとする者が他にいないとも限らない。
凍えるような恐怖に無理に蓋をして、シャスティエは背筋を正した。膝の上に両手を握りしめて、言う。
「マリカ様に祖父君や母君の御立場をご説明すること、良い考えだと存じます」
「ああ……」
「私やフェリツィアに侯爵が何をしようとしたかも、利用していただいて構いません。それに……おふたりの周囲から侯爵家に縁ある者はできるだけ遠ざけてくださいますように」
「お前……?」
やはり疲れているのだろうか、察し悪く首を傾げた王には多くを言わせず、早口に続ける。
「これまでミーナ様やマリカ様に憎まれるのを恐れておりましたが……それ以上に恐ろしいことがあるのを知りました。フェリツィアが決して脅かされることのないように――ティゼンハロム侯爵を、一日も早く排してくださいませ」
王は既に決意しているはずのこと、今さらこのように焦って見せるのは滑稽かもしれないけれど。でも、シャスティエにとってイシュテンの内紛は長く他人の争いだったのだ。懐妊がティグリス王子の乱を引き起こし、自身にも危険が及んだのは理解していたけれど、どこかでイシュテンの野蛮さがさせるものと見下していた。ミリアールトが侵され傷ついたように、イシュテンも荒れて疲弊すれば良い、とさえ思っていたのかもしれない。
だが、王はもはや復讐の相手というだけではなく、フェリツィアの父で最大の庇護者だ。王の勝利を願うのは復讐を遂げるためだけではなく、娘の無事な成長のためだ。
復讐と、愛しい娘の無事が同時に叶う、と――喜ぶことはまだできない。ティゼンハロム侯爵が生きている限りは。シャスティエが王子に恵まれない限りは。だから、ミーナやマリカに赦されることはもはや二の次だ。
――まずは、敵を除くこと……!
自ら選んだ道がどのようなものか分かっていなかった――愚かな女、愚かな母親の愚かな願いのはずだった。でも、王は嗤うことも嘲ることもしなかった。
「……分かった」
硬い音と共に酒杯が卓に置かれた。王の指がシャスティエの方へと伸ばされ、しかし触れずに引っ込められる。
「使用人についても考えねばな。……だが、お前については言うまい。お前のために戦いを急ぐように思われては後に障る」
「ですが」
「前にも言った通り……お前たちが憎み合うのは俺の本意ではない。お前とは関りなく、全て俺が決めたこと。それに、変わりはない」
似合わぬ優しい眼差しで告げると、王は軽く息を吐き、立ち上がった。
「――政務が残っているから戻る。お前はゆっくりと休むが良い」
「陛下もお疲れでしょうに。もう少し休まれても――」
引き止めるような言葉に王はまた目を見開き、シャスティエ自身も驚いた。そのようなことを言うつもりではなかったのに。なのに、王が去ることを心細く思って――気づいたら、口が勝手に動いていたのだ。
「いや……」
たっぷり数秒の間、シャスティエの顔をじっくりと見下ろしてから。王は戸惑うような曖昧な表情で答えた。
「今日するはずだったことに手をつけられていないからな。お前はフェリツィアを見ていてやるが良い」
「……はい」
そう言われれば、それ以上に言い募ることなどできるはずもなく。シャスティエは夫が去るのを見送った。
――王は政務に励んでくれた方が良いのよ……。
言われた通りに、そして様子が気になるのもあって、娘の部屋へと足を向けながら、シャスティエは自身に言い聞かせた。
武力での戦いならば王が後れを取ることはそうないのかもしれないが、国内の勢力図が変われば不満を持つ者は必ず出るだろう。だから、内政もできる限り盤石に固めておいてもらわなくては困る。フェリツィアについてもらっていても何になる訳でもないし、王が帰ったのは正しいのだ。
なのにどうして、ひとりになると不安が募るのだろう。離宮が女ばかりなのはいつものことだし、外には警備の兵もいるというのに。
「どうかしているわ……」
いるだけで良いから、王に傍にいて欲しい、などと。気の迷いとしか思えなかった。一瞬とはいえフェリツィアが奪われかけたことで、心が弱ってしまっていると思う。フェリツィアがもたらしてくれたのは喜びや幸せだけではなかった。シャスティエは確実に弱くなって、心も迷ってしまっている。
――私が、しっかりしなくては。
娘の寝室にたどり着いて安らかなフェリツィアの寝顔を見て。決意も新たに、思う。今のシャスティエにできることは多くはないけれど、娘のためにも判断を誤ることがあってはならないし、王へも正しい進言をするようにしなくては。埒もないことを言って煩わせる女だなどとは思われないように。
何も媚びようという訳ではない。話をちゃんと聞いてもらえるよう、状況を教えてもらえるように関係を保っておこうということ、それだけのはずだ。
フェリツィアを起こさないように、頬に触れようとして――指先に、風の流れを感じた。
「……窓を開けたの?」
「いえ……」
フェリツィアについていてくれたイリーナに尋ねると、金茶の巻き毛の侍女は初めて気付いたとでも言うように若草色の目を見開いて首を振った。
「夜風は涼しすぎるわ。窓を閉めましょう」
侍女が動くよりも早く窓辺に歩み寄ると、果たして指一本ほどの隙間が空いていて夜の空気を呼び込んでいた。留め金が緩んででもいたのだろうか、と思いながらきっちりと閉めようとする――が、閉まらない。何かがつかえている感触に、その原因を探して視線を上下させる。すると、窓の一番下のところに、紙片のようなものが挟まっているのが見えた。
「何かしら」
最近は、読む方でも書く方でも、紙を手に取るということはすっかり減っていたのに。何か書付でも落としたのだろうか、と拾って広げてみると、中には何か文字が記されている。それがミリアールトのものであることを見て取った瞬間、シャスティエは危うく悲鳴を上げかけた。
「イリーナ。これ……!」
「そんな!」
大きく吸い込んだ息を、悲鳴ではなく低く抑えた囁きに変えて。侍女に拾い上げた紙片を示すと、イリーナも主とよく似た喘ぎ声を漏らした。その文字は、祖国のものであるというだけでなく、筆跡までもシャスティエがよく知るものだったのだ。もうとうに雪の女王の氷の宮殿に召されたはずの人――彼女の従弟の、レフの。
――レフなの? まさか……!
慌てて窓の外を窺っても、広がるのは夜の闇だけ。何者がこの手紙を差し込んだのだとしても、その者の姿は闇に紛れて見えなかった。