文遣い ラヨシュ
ラヨシュは本で海というもののことを読んだことがある。イシュテンの神話に謳われる戦馬の神の常緑の草原のように、見渡す限りの水に満たされた場所がこの世にはあるとか。塩辛くて飲むことはできない水の中には、川や湖に棲むのよりも遥かに大きな魚や、もっと不思議な、奇怪な生き物がいて、沿岸の国々や都市は海の恵みによって栄えているとか。
もっとも、馬が駆けることのできない海についての記述は、イシュテンの書物ではごく少なかった。だから、ラヨシュが持つ海についての印象は、もっぱらマリカ王女から聞かされたことが元になっている。王女は、あの異国の金の髪の姫君から話を聞いた話を好んで彼に教えてくれたのだ。多分、年上の彼が知らないことを知っているということが楽しかったのだろうと思う。
『こーんなに大きな魚がいるんですって!』
両手を広げてしきりに振り回していた王女は、彼女の手では表現しきれないほどの大きさを伝えたかったらしい。
『船にぶつかって沈めてしまうこともあるのよ』
『そうなのですか……』
とはいえラヨシュとしては、姫君が大げさに語ったか王女が単位を聞き間違えたかしたのだろうとしか思えなくて、曖昧に頷いただけだったが。
彼の戸惑いには気づかないように、王女は更に不思議な話を聞かせてくれた。その船のように大きな魚から採れる油が幾つもの村を養うこと。鋭い牙の生えた海中に棲む巨獣や、北の国の変わった料理の数々。ラヨシュにはどうも気味が悪いと思ってしまうようなことを喜々として語っていた王女は、やはり勇ましい方なのだろうと思ったものだ。
対するラヨシュは、気弱で詰まらない聞き手だったに違いない。いつか父王にミリアールトに連れて行ってもらうのだと笑っていた王女に、危険だから止めた方が良い、などと言って怒らせてしまったのだから。
とにかく、彼が持つ海の印象は、何か暗く恐ろしいもの。得体の知れない怪物が潜む場所、というもの。無事に帰れるのは一握りの運と知友に恵まれた者だけで、ほとんどの者は嵐の波風に砕かれて水底に呑まれるのだ。荒れ狂う海の恐ろしさ度し難さも、王女は冒険物語のように語ってくれたが。
ラヨシュにとって縁遠いはずの海の話などを思い出したのは、今まさに彼は嵐の海に翻弄される小舟の気分を味わっているから、だろうか。彼は川や湖に浮かべる船にさえ乗ったことはないけれど、足元に踏みしめているはずの地面さえふわふわとして頼りなく感じられるのは、水の上に漂う者の思いではないのだろうか。
――どうしよう。
頭の中にぐるぐると渦巻くのは、そのひと言だけ。王妃から示された選択は、彼の人生を大きく左右するはずなのに、ラヨシュは誰にも相談することはできず、ひとりでどうにかしなくてはいけないのだ。
母がいれば――あの人が彼の話を聞いてくれるところは想像できないけれど、少なくともこうしろと命じてくれるだろうに。そうすれば、息子として迷うことなくそれに従うこともできたのに。
ふらふらとあてもなく王宮の庭を彷徨う彼の脳裏に、王妃とのやり取りが蘇っていた。
『――エルジーと会うことができるなら丁度良かったかもしれないわ……』
『……え?』
母からの手紙を何度も読んだ王妃は、深々とした溜息と共にそう吐き出した。ラヨシュの予想に反した沈みようで。
――どうしてだろう?
彼は、その時はただ内心で首を傾げただけだった。彼は王妃を喜ばせることができるものと思って手紙を差し出したのに、と。
事実彼は手紙を読んで狂喜したのだ。興奮のあまりに手紙をくしゃりと握りつぶしそうになって、王妃に渡すことを思い出して慌てて思いとどまったほど。
何しろ、また母に会えるかもしれないのだ。急に――それも、何か悪い陰謀に巻き込まれたに違いないと窺わせる不穏な雰囲気と共に――消えた母が、密かに彼に会いに来てくれるという。
母を慕ってくれているらしい王妃もきっと喜んでくれるものと、ラヨシュは期待していた。最近塞ぐことが多いこの方にとって、母の存在が慰めになれば。そうすれば、彼の今の境遇も報われるものと思っていたのに。
なぜあの優しい微笑みを与えてはくれないのか、不思議で――無礼ではあるが王妃の美しい顔を見つめていると、彼が仕えるべきその方は、ほんの少しだけ笑いかけてくれた。彼が見たかった花が綻ぶような笑みではなくて、弱々しくて、ほんの少し口元が引きつるようなものだったけれど。
『あのね、今まで通りここにいてもらう訳にはいかないかもしれないの』
そうして、王妃は話してくれた。側妃とその子を訪ねた時に、王女が何を言ったのか。それを聞いた王が、王妃に何を命じたのか。
王宮を辞して母のもとに帰るか。王の命じた者――恐らくは側妃の陣営についた者――について学ぶか。
彼の行く末にはふたつの道しかないのだという。
『貴方に悪気があったのではないと分かっているわ。私がマリカにちゃんと話しておかなかったのが悪いの。でも――』
『いえ……確かに王女様に言ったことがあります。妹君ともっと遊べるように、父君におねだりをされれば、と……。だから私が悪いのですが……』
彼の言葉のせいで、王女が叱られてしまった。子供を奪われかけた側妃は確実に気分を害しただろうし、王妃が言わせたことだとさえ思ったかもしれない。事実、王妃のこの様子では王はこの方に相当厳しい言い方をしたのではないだろうか。仕え守るべき女性たちの心を引き裂いてしまった、その原因を作ってしまったと知って、ラヨシュの頬からは血の気が引いた。
しかも、本当にひと欠片の悪意もなかったのかどうか、彼には断言できないのだ。彼自身が母と引き離されたからといって、側妃の子も母から引き離されれば良いとどこかで思ってはいなかっただろうか。それが、王妃や王女にどのような影響をもたらすかも考えないで。罪もない子の不幸を願ってはいなかっただろうか。
『……出ていけとの、仰せなのでしょうか……?』
つい先ほどまで母と会える日のことを思って浮かれていたのが嘘のようだった。羽根のように軽かった心は叩き落されて、嵐の海に揉まれていた。
――母様が、何と言うか……!
ラヨシュが真っ先に思ったのは母のことだった。王妃と王女を守れ、とは母が最後に彼に命じたこと。そもそも彼が王宮に呼ばれたのも、女の手では届かないところで力を尽くすためだったはず。
子供じみた嫉妬に駆られた言葉のために、仕えるべき方たちの傍から追われるなどと、本末転倒にもほどがある。
『そういうことではないのよ』
一歩、二歩、と。よろめくように王妃に縋ると、母のものより白く滑らかな手が支えてくれた。身の程知らずを思い出して慌てて身体を退こうとしても、思いのほかの力で離してくれない。真摯な黒い瞳が間近にあって、ラヨシュの心臓の鼓動がうるさいほどに早くなった。
『ただ……貴方もエルジーも、私たちにとても良くしてくれたから。ずっと巻き込んだままにしてしまうのが申し訳ないの。エルジーが来てくれるならちょうど話もできるし……貴方を連れて、安全なところへ行ってもらおうかと思ったの』
『そんな……王妃様と王女様のお傍にいさせてください! それこそが、母の望みでもあるのです!』
安全、という一語に反応してラヨシュは思わず声を高めていた。彼ら母子の安全を望むということは、裏を返せば王妃たちは危険に曝されるということ。――誰によって、かは考えるまでもない。
『違うの、ラヨシュ。私たちは大丈夫。ファルカス様は約束してくださったから』
力仕事や冷たい水など知らない王妃の指先はあくまでも柔らかく、優しくラヨシュの手を包み込んでくれた。でも、その優しさこそが、そっと突き放されようとしているようで辛かった。
『今まで良くし過ぎてもらっていたと思うだけよ。それに、ファルカス様が紹介してくださる方は、全然知らない方でしょう。……お父様とも関係のない方になるはず。それでは、貴方も大変でしょうから……』
『それでも、構いません……!』
王妃の言わんとすることは理解できた。王は、王妃の言い分を呑んでくれたとしても、やはりラヨシュの陰にティゼンハロム侯爵家がいることを警戒しているのだろう。だから侯爵家から引き離して自身の側近に教育という名の監視をさせようというのだろう。
侯爵家や王妃のことを悪く言うであろう者を師と仰がなければならないなど、考えただけでも胸が悪くなる。だが、それしか母に言われた使命を全うできる方法がなるのであれば、是非もない。
『いいえ、いけないわ。親子の間を裂いてしまうことになって、ひどいことをしてしまったと思っているの。エルジーと穏やかに暮らしてくれるなら、私もそれが一番良いわ』
『ですが……』
母はそれを望まないだろう。彼がそのような申し出を受けたと知ったなら、烈火のように怒るはず。
でも、ラヨシュに言い聞かせる王妃はほとんど跪くような体勢になっていた。高貴な方にここまで言葉を尽くしていただいて、無下に断るような真似をして良いのだろうか。
『あの……』
『まずは、エルジーと話をしなくては。返事を出して、いつ会えるか決めないと……それまでに、もう少し考えておいてちょうだい』
『はい……』
大人を説得する言葉が浮かばないまま、ラヨシュは王妃に対して頷いていた。どうにかして傍に置いてもらわなくては、と。焦りに身体の内を焼かれながら。
「どうしよう」
心に渦巻く思いを、口に出して呟く。
ラヨシュを悩ませているのは、王妃が示したふたつの道のいずれを採るか、ということではない。それについては既に心は決まっている。母に言われた通りに、何をしてでも王妃と王女を守り続ける、その他にない。
問題は、当の王妃がそれに反対していること。
どのように説得すれば良いのか。無礼にならずに心を変えていただくにはどうすれば良いか。そもそも、彼がいたところで何かの役に立っているようには思えないのに、王宮に残ることの利をどのように説けば良いのだろう。王女の話し相手の役目でさえ、これからは今までのようには務められない――きっと、王は使用人の子などが娘に馴れ馴れしくしているのを不快に思ったのだろう。
無力で幼い自分が悔しくて、拳を握る。と、くしゃ、という感触があった。慌てて手の中を見やれば、そこには握り潰されて皺になってしまった書簡があった。封をしたまま、まだ開かれていないもの。
――これは……母様の……。
母が認めた手紙は、既に王妃に渡している。あの方だけに宛てたものだから、ラヨシュの手元に残ることはないのだ。
母が彼に寄越した言葉は、ほんの幾つかの挨拶のようなものだけ。それと、新たな命令だった。
この手紙を間違いなく側妃に届けろ、という。
母が側妃に伝えたいことなどないだろうし、側妃の方も受け取るはずがない。送り主がティゼンハロム侯爵だとしても同様だ。まさか毒でも塗ってあるのでは、とひやりとしたが、ならば無造作に王妃宛ての書簡に同封するなどあり得ない。
王妃を訪ねる前、まだ明るい心持ちだった時にその書簡を振ってみたり光に翳してみたりしたが、中身が透けるようなことはもちろんなかった。
中身も、認めた人物も、さっぱり見当がつかないけれど――でも、母が彼に託したということは必ず王妃と王女のためになることのはずだ。
――これを、あの方に渡す……。
ふと辺りを見渡せば、使用人が住まう一角とも王妃たちの住まいからも遠く離れた場所にラヨシュはいた。
ここからならば、側妃の離宮の方が近い。
そうと気づくと、彼の背をぞわりと寒気のようなものが伝った。生まれたばかりのフェリツィア王女がいる場所だ、きっと警備の目も厳しいことだろう。見咎められて、追い払われるだけならまだしも、捕まって尋問されるようなことがあれば――
――でも、やらなければ……!
一瞬だけ怖気に囚われかけた自分自身を、激しく首を振って叱咤する。母が彼を信じて委ねたことを、やり遂げなくてどうする。何でもすると言ったことを、自らの行いで嘘にしてはならないのだ。
「やってやる……」
改めて口に出して自らを奮い立たせる。生け垣や木立の間、建物の陰。王女に従って王宮中を駆け回ったことで、人目につかないやり方は学んだはず。子供は役に立たない、と諦めてはならない。子供の小さな身体だからこそできることがあるはずだった。
握りしめていたことでできた皺を、指で伸ばす。たとえ王妃の敵だとしても、高貴な方に届けるのにみっともなくないように。
緊張のために額に浮かんだ汗を拭い、改めて深くゆっくりと呼吸をして。ラヨシュは側妃の離宮を目指して走り出した。