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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
16. 迫る恐怖
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懇願 ウィルヘルミナ

 ウィルヘルミナにとって、夫とふたりきりで過ごす時間は何よりも幸せな時間のはずだった。彼女も夫も常に人にかしずかれているから、私室や寝台の上で、誰の目も耳も気にすることなく甘いひと時を過ごすことができる機会は何よりも貴重なのだ。


 でも――


「それで、お前の心当たりとは何なのだ? マリカにあのようなことを吹き込んだ者を、知った上で傍に置いているというのか?」

「は、はい……」


 今、人払いをしてウィルヘルミナと向き合う夫の目は鋭く、甘さなどひと欠片も見当たらない。隣り合って座るのではなくて、向かい合って、侍女たちが置いていった茶に手をつけることもなく。この位置関係からしても、夫は完全に詰問するつもりなのだと思い知らされる。


 夫の声も表情も硬く、疑いと――不安に、満ちていた。夫は多分これまではウィルヘルミナを疑ったことなどない。でも、それは彼女を信じているからではなく、逆らうような女ではないと思っていたからだと思う。父への敵意を明らかにした今となっては、その娘を信じ切ることができないということなのだろう。

 夫の険しい顔は、怖いし悲しい。ウィルヘルミナは父より夫を選び、そのように伝えたにも拘わらず、夫はその言葉を受け取ってくれてはいないのだ。


 ――ああ、でも仕方のないことだわ……。


 とはいえウィルヘルミナには夫を責めることなどできるはずもない。夫に対して秘密を抱えているのは事実だし、先ほどその一端を垣間見せてしまったのだから。

 ただ、秘密があるからといって夫を裏切ったつもりはない。だから分かってもらわなければならない。マリカにはシャスティエやフェリツィア王女を傷つけるつもりなどなかったということ。ウィルヘルミナも周囲の者も、そのようなことを吹き込んだのではないということ。


「最近マリカがお気に入りの、使用人の子供がいますの。犬のアルニェクと一緒に遊んでもらったりして……おしゃべりも、よくしています」

「子供……男か? 仮にも王女にそのような――」

「本当に小さな子ですから……! マリカの方が振り回してしまっているくらいなのです」


 マリカに影響を与えたのはラヨシュだろう、とウィルヘルミナは予感していた。母さえも知らないところで娘と言葉を交わしているのは、あの子供くらいしかいない。母が落ち込むことでマリカの心も落ち着かないようだった最近のこと、ラヨシュが付き合ってくれることで娘の気を紛らわせてくれていたのだ。父王が願いを何でも叶えてくれる、などといったのも、マリカの機嫌を取るために過ぎないのだろう。


 それに、ラヨシュが家族と離れてひとりきりの身の上なのも関係していると思う。


「父親はいなくて、母親とも別れて暮らしているものですから、私も目を掛けてしまって。マリカをお願いしてしまっていました」

「…………」

「だから、妹君と会えないマリカを可哀想に思ってくれたのでしょう。だから、もっと好きに会えるように遊べるように、と……子供らしい他愛のない言葉だと思うのです。あの、もちろん、シャスティエ様には私からお詫びを申し上げようと思っておりますけれど」


 言い募る間に、夫の目がどんどん険しくなっていくような気がして、ウィルヘルミナの声は震える。こうして口に出してみると、子供(ラヨシュ)にことの責任を押し付けるような言い方になってしまってはいないだろうか。


 ――でも、悪い気持ちからのことではないと、分かっていただかなくては……!


 そして、ラヨシュの立場についても追及されることがないようにしなくては。子供の言葉だと夫が納得してくれれば、その母親――すでに死を賜っているはずのエルジェーベト――のことや、ウィルヘルミナの実家との関わりも知られずに済む。父やウィルヘルミナのせいで人生を狂わせてしまう者を、これ以上増やさずに済むかもしれない。


 だが、やはりウィルヘルミナの言い分は幼くて、夫を説き伏せることはできなかったようだった。

 妻が言い切った後、その言葉を噛み締めるようにしばし沈黙していた夫は、静かな――でも、厳しい声で問い詰めてくる。


「親のいない子がなぜひとりで王宮にいる? 務めがあるということでもないのだろう」

「それは、マリカの遊び相手だから……」

「母がいるなら母のもとに帰してやれば良い。マリカと遊ばせたいからと引き止めているなら、それはお前の我が儘ではないのか」

「それは……っ!」


 ――そんな言い方、ひどい……!


 ラヨシュを匿ったこと自体が間違いだった、と言われたように感じてウィルヘルミナは悲鳴のように高い声を上げてしまった。釈明をしようとしている立場として、あってはならないことだとは分かっていながら。


「子供だけで遊ばせておいて、何を言われているか把握もしていなかったのだろう? 子供ならばなおのこと……親でもないお前が気に掛ける必要もないし責を負うのもおかしな話だ」

「でも……」


 実際に、彼女としても悪手だったとじわじわと思い知らされているところではある。妻として王妃として、王である夫に対して隠し事などしてはならなかったのだ。事情が分からないからこそ、夫もこの成り行きを不審なものと感じてしまうのだろう。

 けれど、実際に彼女は夫に打ち明けないことを選んだのだ。罪を着せられたエルジェーベトの子を、夫が助けてくれるかどうか――父との対立の深さを見せつけられた直後では、夫を信じ切ることができなかったのだ。


 今、夫を納得させられるだけの言葉が見つからないのは、あの時夫に黙っていることを選んだ報いなのだろうか。


「……子供の言ったこと、という言い分は認めるが。だが、そのように不確かな身分の者をマリカの傍に置くのはいただけぬ。今回のことは咎めないから、母親のもとに送るが良い」


 夫が溜息交じりに告げたのは、かなり譲歩してくれたことだとは理解できた。ウィルヘルミナの言葉に納得しきった訳ではないだろうに、シャスティエの必死な表情も悲鳴も胸に刺さるものだったのに。強く咎めないと言ってくれたのだ。それは、夫の優しさと思って良いのだろう。


「あの……」


 それでも、ウィルヘルミナは膝の上で拳を作り、衣装の生地を強く握りしめた。たった今彼女自身が語ったことではあるけれど、ラヨシュは簡単に母のもとに帰れるような身の上ではないのだ。エルジェーベトはまだ生きている、と――このようなことがあった後では夫に打ち明けられるはずもない。父に頼んで引き取り手を探してもらうにしても、手紙を密かにやり取りするのにどれだけ時間がかかることか。


 ――もっと、頑張らなくちゃ……。


 息を吸って、夫の翻意を願おうと口を開くとして――でも、夫の意外なほどに優しい声がそれを遮る。


「俺があちらの方にばかり味方していると思わないで欲しいのだが」


 同時に夫の手が伸ばされてウィルヘルミナの頬に触れる。それで慌てて目線を上げれば、夫の青灰の目は困ったような、けれど真摯な思いを浮かべていた。


「娘たちと妻たちと、いずれも同じように大切にしたいと思っている。だが、フェリツィアはまだか弱いし……生まれる前の一件もある。恐れは排除しておきたいと思うのは父としての性、と……分かってもらえるか?」

「それは……分かっていますわ……」


 彼女を妻として、シャスティエと同列に扱ってくれることに対して、ウィルヘルミナは感謝の思いしかないのだ。シャスティエと違って夫の役に立つ進言ができる訳でもないし、臣下にも受け入れられているあの方とは違って、ウィルヘルミナの父は反逆者になってしまう……らしい。

 彼女を王妃にしていても何の益もないのに、ウィルヘルミナは夫を信じ、その慈悲に縋ることしかできないのに。


「でも、私も気に入っている子なのです。これからは……あ、あのようなことがないように言い聞かせますから。王宮(ここ)に、置いてあげることはできないでしょうか……?」

「ミーナ、だが……」


 自身の至らなさを重々承知した上で――夫に楯突いてしまうことに、秘密を全て吐き出すことができないことに、ウィルヘルミナは絶望して声は震えた。でも、ラヨシュを実家に帰すことが彼のためになるとはどうしても思えなかった。確かに母と再会することはできるかもしれないけれど、父に何かあれば使用人たちも路頭に迷うことになるだろうから。


「望みがあれば何でも、と仰ってくださったではないですか。本当に、ただの子供なのです。……私は、もう子供を持つことはないのでしょうし。男の子のお世話をしてみたいのです」

「ミーナ」


 愚かな隠し事を続けてしまう自分が情けなくて、目に涙が浮かんでしまったからだろうか。それとも彼女自身の子供に言及したからだろうか。夫は目に見えて怯んで視線を揺るがせた。

 夫はまだウィルヘルミナを愛してくれているのだと思う。彼女はそれを失わないように言葉や態度には気を配らなければいけないのだろうに。どうして実際には夫を試して想いにつけ込むようなことしか言えないのだろう。


「お願いですから……」


 でも、夫を選んだことでウィルヘルミナは父や実家を失うことになる。エルジェーベトも日陰の身にしてしまって、これから無事でいられるかもわからない。それならば、せめてラヨシュだけでも守ってあげたかった。彼女にもそれくらいはできるのだと、ささやかな手柄にしたかった。


「ファルカス様……」


 頬に触れた夫の手を、そっと取る。卓を挟んで、指先だけを触れ合わせての懇願に、必死の思いを込めて。夫の情を利用しようとする自分自身に、吐き気さえ覚えながら。


「――分かった」


 そしてその懇願は、夫の心を動かしてしまったらしい。深々とした溜息とともに頷かれて、ウィルヘルミナは逆に驚いてしまう。聞き入れられない方が、良かったのに。


「ファルカス様、あの……?」

「お前がそうまで強請るのはなかったこと。それに俺も確かに何でも、と言った」


 卓の向こう側から、手を伸ばして髪や頬を撫でられる。夫のその手つきは優しくて、彼女には相応しくないと思ってしまうのに、ウィルヘルミナは浅ましくも喜んでしまうのだ。


「本当に……?」

「ああ。だが、完全に今まで通りという訳にはいかぬ。マリカにも少しずつ話していくぞ。祖父とは今まで通りに会えないこと、王妃と側妃の立場の違いについて……」

「……はい。仕方がないことだと思います」


 優しい祖父の偶像が、マリカの中で崩れ去ることは哀れだった。でも、世間のことを何も知らずに育てられたウィルヘルミナだからこそ、後になってから知らされることの辛さが分かる。娘が同じ苦しみを味わうとしても、早い方が良いはずだった。


「そしてもうひとつ。その少年とやら、そこまで気に入っているならばこそこそと匿うような今の状況は良くないだろう。信頼できる者を師としてつけることにする」

「信頼できる……?」

「俺が、ということだな。それができぬならばやはり親元に帰せ」


 つまりは、ウィルヘルミナの実家とは関りのない人に教育させる、ということだろう。目立たぬように窮屈に過ごす現状でも、ラヨシュは見知った人たちの間で可愛がられている。夫に――王に認められているとしても、全く知らない人に教えられるのはどう思うだろうか。


「……はい。本人とも話してみます」


 けれど夫が既に最大編の譲歩をしてくれているのは明らかだった。それにこれ以上言い募って嫌われてしまうのは怖い。


 だからウィルヘルミナは小さく頷くことしかできなかった。




 夫はマリカの機嫌を取りに行くとのことで、ウィルヘルミナの部屋から去った。一方のウィルヘルミナは、早速ということでラヨシュを呼び出させる。


「王妃様、何のご用でしょうか?」

「ええ……」


 母親のもとに戻るか、王の命に従った人に師事するか。エルジェーベトと会わせてあげたいのは山々だけれど、実家に迫った危険も――具体的に言うことはできないけれど――どうにか伝えなければならないだろう。かといってまた大人の思惑に従って居場所を変えろ、とも言いづらい。まるでウィルヘルミナが追い出そうとしているように聞こえそうで。


 ――何て言い出せば良いのかしら……。


 いずれにしても子供には辛い選択をさせてしまことになる。どのように切り出せば良いか言葉を探しあぐねたウィルヘルミナには、ラヨシュの純真な瞳が刺さるようで辛かった。


「あの、丁度良い折でもありました。――侯爵様のお屋敷から、手紙をいただいたのです」

「ああ……いつもの方ね?」


 控える者たちの耳目を憚って、エルジェーベトの名を出すことはお互いにしないけれど――母親からの手紙を携えているのだと分かれば、ラヨシュの輝くばかりの笑顔も納得がいく。


「だから、王妃様に読んでいただきたかったのですが」

「ええ、喜んで」


 これも、言い訳に過ぎないやり取りだった。エルジェーベトの意向でよく学んでいるラヨシュは、子供ながらにもうきちんと字を読むことができる。不要なはずのウィルヘルミナの助けを借りる()()をするのは、王妃が使用人同士のやり取りに目を通す不審さを覆い隠すためなのだ。


 ――エルジーにも、連絡を取らなくては……。


 彼女の息子の行く末がかかっているのだ。母親としては気懸りに違いない。乳姉妹に対しても、心配させないように全てを手配しなければならない。


 そう思いながら、ウィルヘルミナは実家からの手紙を開いた。内容を一読し――そして、目を疑って再読する。次は指先で文字をなぞって、一語ずつ、舐めるように。そこまでして何度読んでも、そこに記された内容はもちろん変わることはなかった。


 エルジェーベトは、密かに王宮を訪ねて息子やウィルヘルミナに会いたいと記していた。そしてそのための方法を取り決め、手引きをするように依頼してきていたのだ。

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