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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
16. 迫る恐怖
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凍った悲しみ ナスターシャ

新しい視点人物です。

 ナスターシャは久しぶりに王都へと足を踏み入れた。


 王都、といってもミリアールトは既に国ではなく、王宮にいるのも王ではない――それどころか、イシュテンの一介の領主に過ぎない訳だけれど。イシュテンの王に任じられたというだけで、あのような田舎者が総督を名乗って王宮に出入りしているとは、彼女にとっては耐えがたいことだ。もちろん、どのような憤懣を抱えていたとしても、彼女には訴えることはできない。ミリアールトの母や妻の多くはこの二年ほどのイシュテンとの戦いで息子や夫を喪った。同じ立場にある女として、ナスターシャはまた戦いを呼び込むような言動は慎まなければならないと自らに言い聞かせていた。


 先の王妃は既に亡く、女王となった姪も人質として連れ去られてしまった今、彼女はミリアールトで最も高位の女になってしまったから。先王の弟の妻、シグリーン公爵夫人。それが彼女の立場だ。普通の未亡人や我が子を喪った母親のように悲しみに暮れたり憎しみに身を焦がすことは許されない。イシュテンに付け込まれることのないよう、毅然とした誇り高い態度を保たなければならないのだ。


 そのような覚悟も、ここ最近は揺らぎつつあったが。




 王宮の門を潜る時には、ナスターシャの心臓は締め付けられるように痛み、呼吸は乱れた。ここに、彼女の夫と息子たちの首は晒されていたのだ。そして彼女の姪は、叔父と従兄たちの死に顔に見下ろされて敵国と旅立っていった。かつては式典や夜会のために盛装して、浮き立った晴れがましい思いで王宮を訪れたものなのに。この場所は、彼女にとって恐ろしく忌まわしい地に変わってしまった。


 悲しみに心を引き裂かれることを承知で()王宮を訪れたのには理由がある。ナスターシャはイシュテン王が残していったミリアールト総督に会いに来たのだ。


 一応、彼女の立場に配慮はなされているのだろう。急な訪問にも関わらず総督はナスターシャを笑顔で迎え入れ、深々と礼を取りさえした。


「公爵夫人。相変わらずお美しい」

「私のような年増にお世辞は不要です」


 下手なミリアールト語の挨拶に対して、ナスターシャは斬りつけるようなイシュテン語で答える。この男は、ミリアールト総督に任じられて一年以上経つというのに、いまだに決まり切った表現しか覚えていない。その程度の語彙で褒められても嬉しいなどと思えるはずもないし、何よりこの男もミリアールトを踏みにじったイシュテンの者のひとりなのだ。


 美しさを称えるならば、雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)になぞらえるくらいの表現は覚えれば良いのに。ナスターシャの金の髪は心労によって色褪せてしまったけれど、だからこそ雪のような穢れのない色に見える、と侍女などは慰めてくれるのだ。


「夫人の訛りはクリャースタ様に似ている気もします。美しい御方だからでしょう、異国の響きもどこか音楽のような――」

「そのようなことをお話しに来たのではありません」


 母国(イシュテン)語に切り替えると総督の舌はやや滑らかになったが、だからといってナスターシャの不快感が減るということはなかった。ミリアールト語の優雅な響きを、訛りなどと呼ばれて面白いはずもない。それに、哀れな姪のことを気軽に口にするのも、忌まわしい意味の名で呼ぶのも気に入らなかった。


 ――シャスティエ……あの子は、幸せになるはずだったのに。


 ナスターシャが冷ややかに――礼儀正しい余所余所しさに辛うじて収まる範囲で――睨むと、総督は困ったように苦笑した。気難しい女だとでも思われたのかもしれない。


「いらっしゃった理由は分かると思いますが。――抗議、ですね?」

「私のような未亡人にも訴えざるを得ないほど、困っている者が多いことと理解してくださいませ」


 ナスターシャはあえて憤っている者、とは言わなかった。イシュテンに支配されること自体は受け入れなければならないと分かっているから。彼女たちを征服した者たちに対して、従う態度は示さなければならないから。今は異国に囚われている、美しい姪のためにも。


「我々が無学なものでご迷惑をかけるとは思っております。が、ミリアールトの民には大した難事でもないと思いますが」


 ――ああ、そんなことだと思っているの!?


 夫と息子を失って以来の悲しみに疲弊しきって、ナスターシャは表情を繕う気力さえない。形ばかりの微笑みを浮かべることさえ億劫で、仮面のように凍りついた表情をしていると思う。なのにイシュテンの獣どもは、次々と彼女を――ミリアールトの神経を逆なでてくれる。怒りを覚えないで過ごすということができないのだ。




 イシュテン王は、最近ミリアールト語の使用を禁じる命を下した。いついかなる場合でも、ということではなく、イシュテンとの関わりにおいてのみ、との但し書きはあるが、だから総督は気楽に考えているようだが、そのように簡単なことではない。


 確かにイシュテンとミリアールトは国境を接している。だから、国境周辺の地域では互いの国の民が親しく交わることもあるし、商売の上で関わりがある者も少なくない。イシュテンの支配を受けるようになった後、言葉が通じないことによる諍いを避けるために相手の言葉を覚えた者もいるだろう。

 何しろイシュテンの者たちは物事を学ぶということをしないのだ。まして相手が敗れた者となれば、それだけで取るに足らない相手と見下す空気さえ感じられる。ならばこちらが合わせてやるしか道はないのだ。


 だが、それらはあくまでも民が自ら行うこと。他者から――彼らを支配する者から強いられることでは決してない。しかもミリアールトに対するイシュテンは、もはやただの隣国ではない。

 祭りや婚礼、葬儀などのためであろうと、人が集まれば反乱を疑われて取り調べられることもある。イシュテンに税を納めることを要求されることになったから、適正な額を定めるために各地の資源や収穫高も記録され、都市や集落の人口も把握されている。もちろんその調査の際には協力を求められるし、譲歩というか慈悲を求めて交渉することも必要だろう。

 イシュテンを嫌うから、言葉を強いられたくないからといって、関りを絶つということも難しい状況なのだ。


 その状況を、イシュテン王も総督も分かっていないのではないだろうか。イシュテンによるミリアールトの統治は、雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の裁きを受けた先の総督の時に比べると大分マシになっているとは思うけれど。でも、イシュテンの者と相対すると、言葉や態度の節々に気風の違いを感じずにはいられないのだ。


「イシュテン王陛下はミリアールトには寛容でいらっしゃると思っておりましたのに。民の動揺も慮ってくださいませ」

「無論、我が陛下の御心に叶うようにこの地を治めたいと思っております」


 イシュテン王は何を思ってこのような暴挙に出たのか――総督の表情から窺おうと思っても、ナスターシャの目の前にいる青年はあくまでも朗らかな笑顔を保っている。あまりにも明るい、恥じるところなどなんらないとでも言わんばかりの表情に、この男もイシュテン王もことの重大さを理解していないのではないかと思わせられる。


「前の総督の時のようなことはないように。ですから、夫人が気づかれたことがあればぜひともお知らせいただきたく」


 この男にとって、民を虐げるとは分かりやすく殴る蹴るをして無理難題を言いつけることだけなのだろうか。ミリアールトのそれとは違っても、イシュテンにはイシュテンの誇りがあるのだろうに。それを踏みにじられる時のことは、想像ができないというのだろうか。


 ――イシュテン王は驕っているのかしら。人質を取っているからミリアールトが逆らうことはない、と。あの子の娘のことも人質が増えた、とでも……?


 姪がイシュテン王の側妃などになったこと、懐妊したこと。幸いに――と言って良いのか――無事に出産に至り、その子が王女であったこと。そのいずれも、どのように捉えるべきかナスターシャには分からない。

 姪の子ならばさぞ愛らしいのだろうと思う一方で、父親はあのイシュテン王。彼女の夫と息子たちを殺した男だ。だが、王子だったなら父親に似ることを恐れたかもしれないが、王女ならばミリアールトとの繋がりをより強く感じることもできるだろうか。とはいえそれは人質が増えて、より身動きが取れなくなるということ――


「――イルレシュ伯とは会われましたか? あの方ならば夫人にも分かっていただけるような説明ができるのでしょうが。クリャースタ様やフェリツィア様のご様子もお気に掛かるでしょう」


 答えの出ない思考に囚われて黙していたナスターシャは、傍からは睨みつけているように見えたのかもしれない。彼女にそう提案する総督の声は、困ったような響きをしていた。女に対して高圧的な態度に出ない、と言えば聞こえは良いが、女など取るに足らない存在だと思っているように見えてならない。女子供の言うことすることだから、多少生意気でも大目に見てやろう、というような。イシュテンの中でも比較的穏やかな者たちでも認識はこの程度だ。


「いいえ。あの方もお忙しいでしょうから。ミリアールトを虐げるお心ではないと、確かめることができて喜ばしく思います」


 イルレシュ伯、と。イシュテンで爵位を授かったあの男は、ミリアールトの誇りを踏みにじる命令に加担するのに忙しいのだ。各地を飛び回って、イシュテン語の強制に反発する領主や民の()()に当たっているとか。イシュテンの武力を背景にしての言葉など、説得と呼ぶに値するか分からないが。

 イシュテンの横暴に抗議し、ミリアールトに心ある者が残っていると陰に陽に喧伝するのは、かつてはあの男が自ら買って出ていた役目だというのに。


 ――人は変わる……ならばイシュテン王などなおさら信用できるものですか。


 グニェーフ伯――今の彼の立場に関わらず、あの老人はナスターシャにとってはその称号と深く結びついている――と会ったら、その時こそ彼女は平静さを失ってしまうだろう。どのような言い訳を聞かされようと、祖国への裏切りも、姪を敵国の只中に置いて帰国したことも、声高に(なじ)ってしまいそうだった。そのような醜態を彼女が見せたら、人に何と言われるだろう。本心はどうあれ、ミリアールトの者同士でいがみ合う姿は民にもイシュテンにも見せてはならない。


「分かっていただけたなら、こちらとしても嬉しいことです」

「……引き続き寛容な統治を期待しておりますわ」


 ――イシュテン王が油断しているなら、それで良いわ……。


 退出の辞を述べた時も総督は笑顔を保っていたから、ナスターシャの内心など想像もしていなかったのだろう。


 表向きだけでも祖国の平穏が保たれることを願う思いと、夫と息子たち、そして姪の復讐を望み、そのためなら争いが起きても構わないと思う、捨て鉢な思い。そのふたつの間で引き裂かれて、彼女は進むべき道を決めかねているのだ。




 ナスターシャは最近二通の書簡を別々の相手から受け取った。いずれも名前だけは知っているけれど、これまで関りなどなかった相手。なぜ今、彼女を選んで連絡を取ろうとするのか――身構えずにはいられない相手。


 ひとりは、ブレンクラーレ王妃のアンネミーケ。

 もうひとりは、イシュテンの有力者ティゼンハロム侯爵リカード。


 いずれも、イシュテン王とは対立する者、いつ本格的な戦が起きてもおかしくない者だから、ナスターシャは最初それらの書簡を見なかったことにしようとした。彼らからの書簡を所持しているというだけで、ミリアールトの叛意を疑われるのに十分だと思ったから。

 それに、イシュテン王の敵だからといってミリアールトの味方とも限らない。ブレンクラーレは、一時は同盟を申し出ておきながらイシュテンの侵攻にあたってミリアールトを見捨てたし、ティゼンハロム侯爵も油断のできない相手だと国境を越えて評判は届いている。


 それでも書簡を開いてしまったのは、好奇心に負けてしまったから、だろう。姪は仇の子を生まされて、忠臣だったはずのグニェーフ伯は祖国を裏切った。悪くなるばかりに思える状況を、変えることができるのではないか――そう思うと、一縷の望みではあっても、非常に危うい賭けではあっても、手を出さずにはいられなかったのだ。


 内容は、ある程度予想していたものだった、と思う。つまりは、イシュテンからの離反を促すもの。ブレンクラーレがイシュテンの力を削ぎ、ティゼンハロム侯爵がイシュテン王を追い落とす機会を作るべく助力してほしい、ということ。


 ――他国の窮地を利用することしか考えていない……浅ましい……!


 最初は、わざわざ苦い思いを味わような真似をしてしまった、と思った。ナスターシャはもう夫に従っていれば良かった頃の彼女ではない。すっかりやせ細ってしまったミリアールト王家に連なる者として、その気になれば諸侯を動かすこともできる存在なのだ。そのような女に近づく者に、野心がないはずはなかったのだ。


 だが、書簡の中身はそれだけではなかった。ひと目見るだけで、彼女の弱った心臓を止めてしまいそうな力をもったものも、同封されていたのだ。それは、ただの薄っぺらな紙片に過ぎなかったが――記された内容と、筆跡が問題だった。

 アンネミーケ王妃やティゼンハロム侯爵からの書簡と同様に、内容は迂遠で、言い逃れができるように細心の注意が払われたと分かるもの。()の署名も、どこにもない。それでも彼女は母親だから、息子の筆跡を見誤るはずもない。


 ――ああ、レフ……!


 彼女の末の息子は、雪の女王の御許(みもと)に召されたのだと思っていた。若く健康な――そして見目の良い者が惜しまれて亡くなると、ミリアールトの者はそのように考えて慰めを得るのだ。雪の女神の御目に留まるほどに優れた者だから、地上は似つかわしくなかったのだ、と。

 レフが戦場から還らなかったのは、女神の元に召されたため。イシュテン王の手によって命を奪われた夫と上の息子たちについては当て嵌めることができない慰めだからこそ、ナスターシャは末の息子が雪の女王の氷の宮殿にいるのだと信じようとしていた。だが――どのような数奇な経緯を辿ったのかは分からないが――彼は今イシュテンにいるらしい。イシュテンで、ミリアールトの女王を救うべく力を尽くしているらしい。


 ――北の国の日々が幸せなものであるように。美しい幸福が故郷にありますように。


 レフの筆跡はそのように語っていた。それが単に故郷の無事を祈る言葉ではないのはナスターシャには明らかだ。彼女の姪、息子が密かに愛していたミリアールトの美しい女王は幸福(シャスティエ)という名を持っているのだから。


 ――レフが生きている……生きて、シャスティエを取り戻して帰ってくる……!?


 ナスターシャの心を引き裂くのは、今や悲しみと憎しみだけではない。全て失ったと思っていた希望が、まだ残っていた。息子のひとりが王女を娶ることを、彼女も心のどこかで期待していた。それが、今になって叶うかもしれないのだろうか。いいえ、でもそれはとても危険な分の悪い賭けのはず。


 全てを望んではならない。ならばせめてレフだけでも生きて帰って来てほしい。でも、できるならば姪も救い出して欲しい。


 悲しみと憎しみ。恐れと期待。幾つもの感情がナスターシャの心を乱し、狂わせるよう。だって、レフとシャスティエのふたりともを取り戻そうとするならば、ミリアールトはまた戦火に曝されてしまうかもしれない。


 それでも完全に断ち切ってしまうには、息子の誘いはあまりにも甘美なものだった。

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