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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
16. 迫る恐怖
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娘の願い ファルカス

「マリカ……? 何を言い出すのだ……?」


 ファルカスがやっと呟いた声は、彼自身にも弱々しく聞こえた。まったくもって不本意かつ情けないことではあるが、幼い(マリカ)が高らかに告げた言葉に、それほど動揺してしまったのだ。

 そんな父に向けて、マリカはなおも得意げに笑う。物分かりの悪い大人に、教えてやるのが楽しいとでも言うかのように。


「だって、もっと仲良くしたいのに離宮は遠すぎるもの。一緒に暮らせばいつでも遊べるわ!」


 だが、その無邪気な笑みもすぐに曇った。

 悪気のない言葉に大人たちが凍りついたのを悟って焦ったのか、マリカはフェリツィアを抱えたまま、彼の腕の中からすり抜けようとする。その気配を感じて、小さな身体が逃げてしまう前にファルカスは慌てて長女を引き寄せた。マリカはまだ七歳、赤子をひとりで抱かせるには頼りなさすぎるのだ。


「陛下……っ!」


 彼と同じ危険に思い至ったのだろう、側妃が悲鳴のような声を上げるのを聞きながら、ファルカスはフェリツィアをマリカの手から引き剥がした。マリカがどうしてこのようなことを言い出したのかは分からないが――人の赤子は、犬猫の子とは訳が違う。子供の我が儘や気まぐれで振り回させて良いものではない。


「お父様!? どうして?」


 焦るあまりにやや乱暴になってしまったのかもしれない。マリカはくしゃりと顔を歪め、フェリツィアも火が付いたように大声で泣き始めた。彼が娘たちを泣かせてしまった、その事実が後ろめたく胸をさす。

 とにかくもフェリツィアを側妃に返すと、ただでさえ白い顔を一層雪のように青ざめさせていた母親はひったくるように娘を腕の中に抱え込んだ。


「マリカ様──」


 フェリツィアがぐずる声が響く中、マリカの名を呼ぶ側妃の声は、ひどく震えて上ずっていた。それでも、懸命に優しく聞こえるように取り繕ったのだろう。次の言葉を紡ぐ前に、呼吸を深く吸って吐く音がやけにファルカスの耳についた。


「マリカ様、フェリツィアと遊んでくださるのでしたら、いつでもいらっしゃってくださいませ。でも、お渡しすることはできません。まだとても小さいのですもの」


 子供相手だからと荒れ狂う心中を抑えてくれたのだと分かる、引きつった笑顔だった。この女の娘に対する溺愛振りを見ていれば、フェリツィアを奪われるかもしれないという可能性だけでも平静を失いかねないだろう。ミーナに預けても良いと言っていた頃とは話が違う。

 しかも、マリカの元にということは、王妃の住まい――ティゼンハロム侯爵家に縁ある使用人も多くいる場所に、ということだ。あまりに唐突過ぎる申し出と言い、何があっても渡せないと思うのは当然だった。


 だが、側妃はマリカに対して加減しすぎた。あるいはファルカスがこれまで娘を甘やかしすぎたのかもしれないが。マリカは遠回しの拒絶にも側妃の動揺にも気づかないようで、不服げに唇を尖らせてなおも訴えた。


「……じゃあ、お姫様も一緒に来てよ! どうして毎日会えないの? みんなで一緒に暮らしましょう?」

「マリカ、ダメよ。それはできないの」


 妹の方へ小さな手を伸ばそうとするマリカを、実母のミーナが引き留めた。側妃と同じように顔を強張らせて。側妃と近い場所に寝起きすることを拒むのは嫉妬心か、それともフェリツィアと同じく、側妃も命が狙われると分かっているのか。

 マリカの方を凝視する彼と目が合うと、ミーナは慌てたように激しく首を振った。喘ぐ形に半ば開かれ、けれど何も言葉を紡ぐことが出来ない唇が訴えたいことは、分かる。ファルカスも、ミーナが言わせたのだ、などとは考えていない。妹を構いたいマリカの、無邪気な願いに過ぎないのだろう。ただ、娘を愛するようになった側妃、父と夫の対立に心を痛める王妃――いずれの母親にとっても、それは平静を保てなくなる願いだったのだ。


 そして母の心痛もまた、マリカには理解のできないこと。だから幼い娘は大人三人をぐるりと見上げると、悔し気に唇を噛んだ。


「お母様まで。なんで……?」


 ――なぜ、と思うのか。分からないのか……。


 ふたりの母親は表情を凍りつかせ、ふたりの娘たちは頬を涙で汚して。眼前の惨状に暗澹としながら、ファルカスは娘()()何ひとつ教えてこなかったことに気付いた。


 リカードは、マリカに対しては優しいだけの祖父として振る舞っていた。血の繋がった相手にはひたすら甘い男だということもあるが。

 だから、ファルカスは娘に対してリカードの悪口を吹き込むことはしてこなかった。ミーナの前で父と夫の対立をあからさまにするのが忍びなかったのと同様に、父と祖父の不仲など知る必要がないことだと思っていたのだ。幼い娘には言っても詮無いことだと思っていたこともある。


 だが、それは間違っていたのだ。無邪気だからと何も伝えてこなかったミーナが、陰ではどれだけ悩んでいたことか。彼は、つい最近思い知らされたばかりではなかったのか。妻子に愛されることは諦めるとしても、母親の違う娘たちは憎み合うことがないようにしなければ、と心に決めたというのに。


 ――マリカに対しても、きちんと話をしておくべきだった……。


 またひとつ、自身の至らなさを見せつけられて眩暈のようなものさえ覚えながら。それでもファルカスはマリカへと一歩足を踏み出した。たとえ遅きに失したのだとしても、言うとしたら彼でなければならない。ミーナや、まして側妃にその役目を押し付けるなど、男として夫としてできるものか。


「マリカ――」


 娘と目線の高さを合わせるべく床に膝をついて、言葉を探す。言わなければ、という思いはあっても、どう言えば良いかは依然として難題だった。

 王妃のもとでは側妃の子は殺されかねない――などと、バカ正直に言えるはずもない。かといって下手に言いくるめようとしても後の禍根になるのはミーナで思い知らされている。


「お父様だって、面倒見てあげてって言ってたじゃない……」

「そうだな」


 彼は確かにそのようなことを言ったことがある。ミーナの悩みにも側妃の憎しみにも無頓着な頃のことだったが。リカードからミーナを引き離さなければ、と思った時に、側妃とその子で釣れるのではないかと期待したのだと思う。確かにマリカは姉になることを喜んで受け入れたようだが、一方でその提案が母たちを苦しめることになるとは、彼は思ってもみなかったのだ。


 だからこれもまた彼の罪の結果だ。


 妻たちの不安げな視線が突き刺さるのを感じながら、ファルカスは彼と同じ色のマリカの瞳を覗き込む。妹に会えるのを楽しみにしていたのだろうに、その瞳が涙ぐんで揺れているのが哀れでならなかった。


「だが、まだお前にできることはないだろう。赤子の世話をするのは実際は侍女や召使の役目――お前が無理を言っては、離宮の者たちから仕事を奪い、王妃に仕える者に余計な仕事を増やすだけだ」

「……だから、みんな来れば良いわ。お世話する人も、一緒に」

「そういう訳にもいかぬ。離宮の者だとてフェリツィアを見るだけが仕事ではないのだから。離宮(こちら)のことが滞るのも、王妃の住まいで人手が余るのも、良くないことと分かるだろう?」


 今言えるのはこれが限度、とファルカスは考えていた。既にかなり混乱している様子のマリカに、祖父と父の対立だの側妃の意味だの教えるのは無理だろう。厩舎や犬舎など下々の間も親しく駆け回っているらしい娘のこと、これで納得してくれれば良い。リカードとのことを話すのは後でもできる。


 分かってくれたか、と。しばし無言のうちに目を合わせて見つめ合うと、マリカは諦めの色を浮かべて目を伏せた。


「どうしても、ダメなの……? お願いなのに……」

「当面の間は。フェリツィアがもっと大きくなれば、ふたりで遊ぶことも学ぶこともできるだろうが」


 そしてその頃までにはリカードを片付けておきたいものだ。祖父と孫の繋がりは、親子に比べれば弱いはず。妹を殺そうとした男なのだと正しく教えることができたなら、マリカも分かってくれるだろう。


「……陛下の仰る通りですわ。この子がちゃんと話したり歩いたりできるようになってからの方が……マリカ様のお相手も務まるかと存じます」


 マリカが矛を収めたことで側妃の声も幾分和らぎ、母の安堵を感じたらしいフェリツィアもやっと泣き止んだようだった。


 ――これで、引いてくれるか……?


 目を擦ろうとするマリカの手を止めながら、ファルカスも内心で息を吐く。フェリツィアの機嫌が直ったなら少し遊ばせてやって、菓子でもやって。それでマリカがこのことを忘れれば良い。要は妹と遊びたいのに中々それが出来なかったから焦れていただけなのだろう。すぐにまた会えると約束させれば――側妃も、それくらいは許してくれるのではないだろうか。


 だが、マリカはまたも大人たちの期待を裏切った。ぶつかるように父の胸に顔を埋めながら、娘は責める口調で嘆いたのだ。


「お父様、何でもおねだりを聞いてくださるって言ってたのに……」

「マリカ?」


 娘の両肩を掴んで胸から剥がし、まじまじと顔を覗き込むと、マリカは拗ねた目つきで彼を睨め上げてきた。だが、彼にはそのような空手形を切った覚えはない。ならばマリカに側妃の子を強請り取れと言い含めた者が他にいるということなのか。彼としても娘に甘い自覚はあるが、そこに付け込もうと思われるほどに盲目だと思われたのか。


 ファルカスは咄嗟にミーナの方へ目を向けた。そしてまたも妻が激しく首を振ったのを見て、疑念が顔に出てしまっていたことを悟って後悔する。ひび割れたようなミーナの表情に、娘を操ろうとしたなどという疑いにどれほど傷つけられたのかが分かる。


 ――何者が、そのようなことを……!?


 妻子を泣かせてしまった後ろめたさは、すぐにマリカに余計なことを吹き込んだ者への怒りに変わる。彼の罪を押し付けるというだけではなく――マリカを使って側妃の子に害を為そうと企む者が王宮にいるというなら、見過ごせない。


「マリカ。それは、誰に言われたのだ? 母ではないな!?」


 焦るあまりに、ファルカスは声を荒げすぎた。それにマリカも彼に似て強情なところがある。逆効果になる、と思った時にはもう遅かった。


「――内緒。言っちゃダメなの」


 父の怒声に顔を引きつらせて。それでもふいと顔を背けて唇を結んだ娘の横顔からは、絶対に言わないという決意が見て取れた。理不尽に――マリカにとっては――叱られることへの抗議ででもあるかのような。だが、同時にその言葉はやはり裏で糸を引く者の存在を仄めかしている。


「マリカ――」

「ファルカス様! 私、心当たりがあります……!」


 娘を問い詰めようとしたところで、ミーナが震える声で割って入った。胸の前で手を組んで、マリカを庇うように彼の前に立ちはだかる表情は、必死そのもの。


「ミーナ様……!?」


 そして、信じられないといった響きの側妃の喘ぎも、震えていた。信じられないのは彼も同じ、ミーナもマリカを愛していることはよく知っている。良からぬ考えを吹き込む者の存在を承知していながら見過ごしたなどと、妻の口から聞きたくはなかった。


「どういうことだ……!?」


 呆然として紡いだ声も、彼自身のものとは思えないほどに揺らいでいた。臣下に対してこのような態度は絶対に見せられないようなもの。戦場で奇襲に遭っても、不利な状況に置かれても。このように動揺を露にしたことなどなかったはずなのに。

 ミーナが彼に対して逆らうということは、かつてない驚きであり衝撃であり――恐怖ですらあったかもしれない。


「あの、でも、大げさなことではないのです。もちろん、ちゃんと言い聞かせていなかった私が悪いのですけど……きちんとお話しますから、マリカは叱らないでやってくださいませ」


 無言で立ち尽くすファルカスに、睨まれているとでも思ったのだろうか。ミーナがおどおどと訴える。母の衣装の裾にしがみつくマリカといい、まるで彼が謂われなく責め立てて虐めているかのような構図に心底うんざりする。


 ――なぜだ。どうしたこうなった。


 幼い姉妹の、和やかな対面のはずだったのに。ふたりの母親はそれぞれの娘を抱きしめて警戒する姿勢になっている。お互いに、そしてファルカスに対して身構えるかのように。妻たちにどう思われても仕方ない、と諦めてはいたのだが。だが、このような時、このような形ではなかった。


「……分かった。それでは話を聞こう。ただしここで、という訳にはいかぬ。――来たばかりで悪いが、もう戻るぞ」


 溜息と共に紡いだ言葉の前半はミーナに、そして後半は側妃に向けたもの。ミーナが何を語るつもりだとしても、赤子を抱えた側妃には負担になるのだろう。


「……はい」

「ありがとう、ございます」


 ぎこちなく頷いた側妃も、訴えが聞き入れられたことにとりあえず感謝を述べたミーナも。顔色は白く表情は硬く張り詰めていた。ふたりにとって娘とのひと時は心安らぐ時間だったのだろうに、不和と疑念の種を撒くことになってしまった。ほんの短い間しか保たなかった団欒を思うと、ファルカスの胸にも苦いものがこみ上げる。


「マリカも。行くぞ」

「……はい。お父様」


 素直に聞いてくれるか、と思いながら長女にも声を掛けると、幸いにも小さな声で頷いてくれた。かといって差し出した彼の手を取ることはなく、母親にしがみついてしまったが。


「陛下――」

「もう、お戻りですか?」


 扉の外に控えていた侍女や侍従が狼狽えるのを掻き分けるように、離宮を後にする。


 母が強く抱きしめすぎているのだろう、背後ではフェリツィアがまた泣き始めていた。

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