姉妹の対面 ウィルヘルミナ
「お母様!」
高く弾んだ声に、ウィルヘルミナは浅い眠りから覚まされた。何事、と寝ぼけた頭の片隅で考えるのと同時に、彼女が横たわる寝台に小さな身体が飛び込んでくる。
「早く起きて! 約束の時間に遅れちゃう!」
「マリカ……」
娘のマリカは勢い良くウィルヘルミナの寝具を剥ぐと、母の傍らに寝転んで抱き着いてくる。空気の涼しさからしてまだ早い時間だろうに、髪はしっかりと梳られ、着替えも既に済ませている。
「遅れたりしないわ。シャスティエ様のところへ伺うのは午後なのよ」
「でも、お着換えとかあるでしょう?」
母のせいで遅れてしまう、と言わんばかりの娘の様子に、ウィルヘルミナは思わず苦笑した。いつも正装をする必要がある時に姿を消してしまって、やっと見つけ出した時には髪をほつれさせ衣装を砂埃に塗れさせてしまっているのは娘の方なのに。やっと妹に会える日が来たことが、嬉しくてたまらないらしい。
「ええ、そうね。お母様の衣装を選んでちょうだい。髪形も――お揃いにしましょうか」
「うん!」
マリカは髪の一部だけを結って、残りは背に流す髪形にしている。後で髪飾りも挿さなくてはならないだろうけれど、実の妹を訪ねるだけなのだからこれくらい楽な姿でも良いだろう。ウィルヘルミナの方も、今は凝った髪形で頭を締め付ける気苦労には耐えられそうにない。
「起こしてくれてありがとう。朝ご飯はこれから?」
「そう。お母様と一緒にいただくの」
「ではすぐに顔を洗わなくてはね」
そう告げると、娘は喜々として侍女を呼びに寝台から飛び出していった。その背に揺れる髪を眺めて、ウィルヘルミナは微笑む。憂いのない、心から自然に浮かんだ微笑みだった。
娘が早い時間に来てくれたのは本当に良かった。眠れぬ夜のためにできた隈や、思い悩んで青ざめた頬を隠す化粧を施すのには、時間が掛かってしまうだろうから。若く美しく――子を得て更に幸せに輝いているシャスティエの前に出るのに、恥ずかしくないように装わなければならないから。
先日、マリカを遊びに出した夫は、ウィルヘルミナとふたりきりになるなり短く告げた。彼女の父――ティゼンハロム侯爵を、討つことに決めた、と。
『そうですか……』
随分長い間声を出すことも、呼吸をすることさえ忘れてしまった後で、ウィルヘルミナはやっとそれだけを呟くことができた。彼女が沈黙していたのと同じだけの間、刺すような視線で見つめてきていた夫は、それを聞いていっそう顔を強張らせた。
『……ことが始まってから告げるよりは先に知らせた方が良いと思った。お前もマリカも、暮らしは変わらぬようにすることを誓う。……それとも、やはり父親のもとに帰りたいか』
『いえ……!』
夫のこのように不安げな顔を見たのは、多分始めてのことだっただろう。常に彼女は夫を見上げるものだったのに、その時は夫は下からウィルヘルミナの顔色を窺うようでさえあった。とても強く矜持高い人の思わぬ姿に、ウィルヘルミナは慌てて首を振った。
『私は……ファルカス様の妻だと、心に決めましたから……。だから、あの、どうかお心のままに……』
辛うじて紡ぎ出した声は、我ながら上ずって掠れていて、夫の眉を寄せさせるばかりだった。夫を安心させられるような態度を取れない情けなさに、ウィルヘルミナはますます縮こまってしまう。
心からの言葉には決して聞こえないだろうと、自分でも分かってしまうから。
――お父様……。
父は、娘や孫に対してはいつも優しかった。けれど他の人間全てに対してもそうだという訳ではないこと――ウィルヘルミナも、気付いてはいるのだが。
シャスティエと生まれてもいないフェリツィア王女の命を狙ったのは、きっと父の仕業で間違いないのだろう。その罪を逃れるために、迷わずエルジェーベトを身代わりに差し出したのも。ウィルヘルミナの父は、そういうことができてしまう人だったのだ。
――でも、エルジーを助けてくれていた……。
心に浮かび上がりかけたことは、無理にまた奥底に押し込んだ。シャスティエもまた夫の妻で、フェリツィア王女も夫の娘。そのふたりを害そうとした父を、夫が許せないのは当然のこと。ウィルヘルミナはもう父よりも夫を選んだのだから、父の肩を持つことは夫の前では言ってはならない。
エルジェーベトだって、まだちゃんと罪を許された訳ではないのだ。いずれ乳姉妹の許しを乞うためにも、夫を失望させる訳にはいかなかった。
『……しばらく、窮屈な思いをさせることになるが。望むことがあれば何でも言うが良い』
『はい。でも、何もないと思います』
壊れ物のようにそっと抱き寄せられるのも、夫が思い遣ってくれているからだと思えた。何も知らされないのは嫌だと言ったのはウィルヘルミナ自身なのだから、これ以上の我が儘など言えるはずもない。
ところが、彼女の答えは夫を満足させなかったようだった。ウィルヘルミナを抱きしめる腕に力が篭り、耳元に真摯な声が囁かれた。
『物に限ったことではないぞ。もうお前に何も知らせないままにするのは止めると決めたのだ。何が起きてどうなるか――知りたいと思うことは教えるつもりだ』
『ファルカス様……』
――教える……それは、いけない!
夫の言葉に感謝しながら、ウィルヘルミナの芯を雷に打たれたような恐怖が走った。夫は、彼女の訴えを覚えていてくれた。妻として役に立ちたい、何もできないままなのは嫌だ、と。状況を教えてくれるというのは、彼女が知った上で判断できるようにと委ねてくれているのだ。かつてはシャスティエと我が身を引き比べて、守られるだけの身が歯がゆくてならなかった。でも、今となっては知らされることが恐ろしい。
ウィルヘルミナは、夫から聞いたことを父に伝える手段を持ってしまっているから。
夫は、ウィルヘルミナを完全に信じているから打ち明けてくれるのではない。先ほど窮屈な思いをさせると言ったのは、実家との接触は絶たせるということなのだろう。父に会えば、情に流されかねない女だと思われているのだ。……そしてそれは、多分間違ってはいない。
夫を選んだと思った今でさえ、父や兄を助けて欲しいと乞いたくて堪らないのだ。エルジェーベトのことも。シャスティエとフェリツィア王女を狙った計画に、彼女もきっと関わっているのに。ウィルヘルミナにとっては優しい姉のような人だったからと、赦してもらうことを期待している。常に毅然としているシャスティエなどとは違って、ウィルヘルミナは嫌になるほど心の弱い女なのだ。
『いえ……やっぱり怖いですから。今は何も仰らないで』
――私は……何も聞いてはいけない……!
怖かった。多分、夫が慮ってくれているのとは別の意味でなのだろうけれど。
父に対して夫がどのような手段を採るつもりか――知りたくて堪らなかった。でも同時に、知ってはならないと思った。知ったら、どうにかして父に伝えられないかと思ってしまいそうだったから。
『あの、望みと言うなら――マリカが、フェリツィア様に会いたがっていますの。もし、シャスティエ様のご体調が良ければですけれど……』
『ああ、大分焦れているようだった……』
苦し紛れに浮かべた微笑みと言い訳を、夫は疑いもしなかった。それどころか、娘のおねだりを思い浮かべてか優しい表情をする夫に、ウィルヘルミナの胸の痛みは増すばかり。
マリカを抱き上げて笑う夫を見ても、かつてのように幸せな気分に浸ることはできなかった。何も知らないという自分を、ウィルヘルミナは疎んで悩み、もがいてきた。父や夫を恨む思いも、ほんの少しはあったと思う。でも、彼らは確かに彼女のことを思ってくれていたのだ。愛しい人たちが争う姿など見たくなかったし知りたくなかった。――でも、知った以上はどちらかを選ばなければならない。
エルジェーベトへ宛てた手紙の素っ気なさを、乳姉妹はきっと不思議に思ってウィルヘルミナのことを案じてくれたことだろう。
父のことは書けないにしても、せめてエルジェーベトは逃れて欲しい。あわよくば母や姉たちも。でも、そうと知らせればエルジェーベトも父に告げ口するかもしれない。彼女の忠誠は、ウィルヘルミナだけでなくティゼンハロム侯爵家自体にも向けられているはずだから。
どうにか夫を裏切らずに危険を仄めかすことだけできないかと、何枚もの紙を反故にして。でも、ウィルヘルミナにそのような機微を伝える文才があるはずもなく。結局、普段よりもごく短い手紙を書くことしかできなかった。エルジェーベトに訴えたい不安や恐れにはひと言も触れることができなくて――否、もう乳姉妹に慰めてもらうことは求めてはならないのだろうけれど。
父たちの罪の重さ。夫との亀裂の深さ。密かに匿ったラヨシュと、そのお陰で得てしまった実家との連絡の手段。これまで知らなかったことと、彼女自らの手で為してしまったこと。それらが絡み合って、ウィルヘルミナを縛る鎖になっているかのようで。ここ最近の彼女は、眠れぬ日々を過ごしていたのだ。
それでも、今日ばかりはそのような憂いとは無縁の一日だ。父に脅かされたというのに、シャスティエはウィルヘルミナとマリカを招待してくれるという。マリカに、妹姫を紹介してくれるという。
父への恨みを忘れてウィルヘルミナたちを受け入れてくれるというのなら、彼女の方も暗い顔をしていてはならない。それに、シャスティエに会うのもフェリツィア王女を抱かせてもらうのも、姉妹の初めての対面を見るのだって。心が休まる和やかな時間になるに違いないのだから。
「まあ、フェリツィア様も大きくなられて……!」
「はい。抱くのも大変になってきました。でも、あやされるのが好きなようでねだるのです」
シャスティエの口調は、まだ言葉もろくに話せないフェリツィア王女がひどい我が儘を言うのだとでも言いたげだった。なのに顔は幸せそうに、蕩けそうなほどに優しく柔らかく微笑んでいて。その美しさに、抑え込もうとしていたウィルヘルミナの嫉妬が首をもたげて胸を刺す。
「――さあ、マリカ。フェリツィア様にご挨拶を」
「フェリツィアさま……初めまして?」
でも、夫と娘の手前、そのような感情を外に出す訳にはいかなかった。妹の名をくすぐったそうに呼ぶ娘。それを目を細めて見守る夫。そのふたりの前で、不和の気配など漂わせてはならないのだ。
幸いに、シャスティエはミーナの内心には気づかないようで、マリカににこりと微笑みかけてくれる。
「マリカ様、フェリツィアを抱いてくださいますか?」
「そんな、大丈夫かしら」
「俺が手を添えていよう」
姉とはいえ幼いマリカに赤子を抱かせるのは怖くて、思わず声を上げてしまうと、横から夫が口を挟んだ。シャスティエの腕からフェリツィア王女を受け取り、マリカに委ねてくれる。……というか、マリカの腕は確かにフェリツィア王女を抱えてはいるけれど、重さを支えているのはその外に添えられた夫の腕だ。
マリカの腕の高さに合わせるために床に膝をついた夫は、大きな身体で娘たちを包み込むかのよう。
――ああ……ふたりとも、ファルカス様の御子なのね……。
マリカとフェリツィア王女と。歳は離れているし髪も目も全く違う色をしてはいるけれど。でも、夫はふたりともに等しく優しい眼差しを注いでいた。
「マリカ様、フェリツィアと仲良くしてくださると嬉しいですわ」
「うん!」
腰を屈めてマリカを覗き込むようにして語りかけるシャスティエの言葉は、ウィルヘルミナの願いでもあった。
シャスティエは、父にされたことを。ウィルヘルミナは、父にされることを。母たちは悲しみや恨みを忘れ切ることができないかもしれないけれど。でも、娘たちには何の関係もないはずのこと。マリカが姉としてフェリツィア王女を可愛がって――そして、フェリツィア王女も姉を慕うようになってくれたなら。娘たちは、幸せになれるのかもしれなかった。
「あの、お願いがあるの!」
「何でしょうか」
きっとシャスティエも同じことを願っているのだろう。マリカの申し出に輝く笑顔で答えてくれる。ウィルヘルミナも、娘のおねだりは他愛のない可愛らしいものだと思って口元を緩ませた。多分、菓子を食べさせたいとか、歩けるようになったら庭を見せたいとか、そのようなこと。
でも、マリカは満面の笑顔で妹を腕に抱いたまま高らかに言った。大人たちの笑顔を凍りつかせるようなことを、誇らしげに。
「フェリツィアを連れて帰りたいの。お姉様で、妹だから! 可愛がるし、ちゃんとお勉強とかもするから――だから、一緒に暮らしたいの」
「……マリカ、さま……?」
喘ぐように呟いたきり絶句してしまったシャスティエの顔は、雪のように白かった。