甘美な計画 エルジェーベト
息子のラヨシュからのものに同封されたマリカからの手紙は、今日も無事に届けられた。リカードと王の間の緊張が高まっている今、王宮とティゼンハロム侯爵邸を行き交うモノや書簡のやり取りは厳しく監視されていることだろう。だが、これは子供が世話になった者に宛てて個人的に託したもの。このような手紙があるとどこに記される訳でもなく、荷を運ぶ者が懐に入れたのを人伝いに届けられるもの。この先、使用人のひとりひとりに至るまで身体や持ち物を検められるようになれば、また分からないけれど――今のところ、エルジェーベトは王宮と密かに情報を交換する手段を保つことができている。
――息子がいて、本当に良かったわ……!
母と別れてひとり他人の中に残された子供、という境遇は大層同情を集めるものらしい。ラヨシュは、王宮では使用人たちに何かと構われて面倒を見られているほか、こうして手紙を託される役も喜んで引き受ける者がいるらしい。人の手を巡り巡ってエルジェーベトに渡される時も、その相手は親子が引き裂かれるなど気の毒な、それにしても気丈な子だ、などと語っていた。
エルジェーベトにとって重要なのは、息子からの手紙ではなくて同封されていたマリカからのものだというのに。
使いの者から奪い取るように手紙を受け取ると、エルジェーベトはリカードに与えられた自室に篭ってひとりいそいそと書簡を開く。息子の手紙はひとまず脇に置いて、マリカからの方を真っ先に。王や側妃の横暴に嘆き悲しんでいるのではないか。リカードが乱の機会を窺うためにも、王の考えを窺える情報が含まれてはいないか。それを、確かめたかったのだ。だが――
「――これだけ?」
思わず気の抜けた声が漏れてしまうほど、マリカからの手紙は短く簡単なものだった。
王は相変わらず側妃のもとにも通っているけれど、優しくしてくれるということ。王女のマリカは健やかに成長しているということ。ラヨシュもよく王女の相手をしたり使用人の手伝いをしたりして働いてくれているということ。
最後はどうでも良いとして。あまりにもさらりとした当たり障りのない文面に、エルジェーベトは眉を寄せてしまう。これまで何度か交わした文では、今日は娘と何をしたとか何を食べたとか、ラヨシュともどんな話をしたか、等をこと細かに書いてくれていたのに。それで、側妃とその子のせいで憂い塞ぐあの方の心の裡もよく分かってしまって、怒りともどかしさにのたうち回る思いをしていたのに。
これでは、逆に何か重大なことがあってものを書く気力もなかったのではないかと邪推してしまう。
「マリカ様たちに何が……!?」
呟きながら、エルジェーベトは初めて息子からの手紙を手に取った。マリカが書かなかった――書けなかったことを知ることができるとしたら、息子を通してよりほかに手段がないから。
だが、息子もさほど役に立つ情報を伝えてくれてはいなかった。王が王妃とふたりきりで話すことがあったということ、それも恐らく側妃についてだろう、という程度。肝心の内容が分からないのでは何の価値もない情報だが、罪人の子という立場を隠した息子が聞き出せるのはこれが限界なのだろう。
あとは、王女の方のマリカが妹――と呼ぶのも忌々しいが――と遊びたいと王に強請って叶えられたということ。これもまたどうでも良い、というかエルジェーベトにとっては気に入らないことだ。たとえ同じ王の子であっても、あの女の子をマリカ王女の妹として扱うなど許しがたい。
――侍女か召使として使ってやるというならまだしも……。
元王族として、気位だけは高いあの女の子を跪かせることができたなら、さぞ良い気分がするだろうけれど。それでも相手は生まれたばかりの赤子、わざわざ数年待ってそのように回りくどい真似をするよりは、母親の目の前で踏みつぶしてやった方が良い意趣返しになるだろう。
とはいえ、表向き死んだということになっている彼女には何ができるということもない。できるのは手紙でマリカを励ますことだけ、それも何が起きたかはっきりと分からないのでは返事を書くのも難しい。
――どうしよう。
何度も愛しい人の筆跡を眺めて考え込んでいた時。エルジェーベトの部屋の扉が叩かれ、リカードが呼んでいるとの報せがあった。
リカードの部屋の前に着き――扉を開けるまでもなく、室内から異国の抑揚のある涼やかな声が漏れ聞こえてきたので、エルジェーベトの心は波立った。あの女の従弟だとかいうミリアールトの元王族が既に訪れているのだ。
――あの目つき……気に入らないわ……。
金の髪や碧い目の色、顔かたち、声、言葉の訛りにいたるまで、室内にいる青年はあの女にそっくりだった。王がミリアールト語を禁じる政策を採ったと知らされた時の、青い炎が燃えるかのような怒りの眼差し。あるいはエルジェーベトをちらりと見るだけで、道端の石のように無関心に通り過ぎる時の、凍った水面のような目。そのように垣間見える感情さえも、あの女と同じなのだ。
だから、いくら別人だと思おうとしても、ブレンクラーレからの使者で、アンネミーケ王妃とリカードの間を繋ぐ大事な糸なのだと自身に言い聞かせても。エルジェーベトは青年を見るたびにあの女に対して抱く怒りと憎しみを思い出してしまうのだ。
「来たか」
「はい……」
横に控えているだけのエルジェーベトでさえこうなのだ。青年と実際に言葉を交わし、謀の詳細を詰めているリカードの苛立ちはいかばかりだろう。だが、少なくともこの老人はそのような心の裡を表に出すほど迂闊ではなかった。
「この者が……?」
「そう。例の、娘に仕えていた侍女だ。訳あって王宮を辞してはいるが、内部の構造も熟知している」
実際、リカードが青年の不遜な口調を咎めることも、エルジェーベトが王宮を去ることになった理由を詳しく語ることもなかった。側妃に毒を盛ろうとした罪を被ったと知れば、あの女にただならぬ思いを抱いているらしいこの青年はきっと激昂するのだろうに。共通の目的のため――それすら実は微妙に異なるのかもしれないが――に仮に手を組んだだけの相手と、割り切っているということだろうか。
「シャスティエの姿を見たこともあるのか……?」
「はい。囚われの身でありながら大変気丈な御方と感心しておりました」
リカードが答えてやれと目で促したので、エルジェーベトはできるだけ穏当な言葉を選んで答えた。あの女の高慢な態度を言い立てて良い雰囲気ではないと察したのだ。口調の方は、完全に含みを持たせなかったかどうか自信がないが。
――何を話していたのかしら……?
青年が遥かブレンクラーレと組み、ここイシュテンまで流れてきたのは、あの女が自国の王族だから、血縁があるからというだけでないのは明らかだった。エルジェーベトにとっては聞きたくもないあの女の名を呼ぶ時の、声の響きが彼の心を教えてくる。だが、愛しい女の話を聞かせてやろうというような心配りを、リカードがこの青年に対してするはずがない。
だから、絶対に何らかの企みに繋がることのはずなのだが。
リカードの顔色を窺っていると、彼女の主はふ、と口元を緩ませた。下僕に頭の中を教えてくださる時の、寛容な笑みだ。
「そなたの願いをとうとう叶えてやろう。――マリカを、ファルカスめの手中から救い出すのだ」
「――それは……!」
リカードが告げたのは、エルジェーベトが待ち望んでいたはずのことだった。だが、すぐに飛びつくことはできない。彼女の人生において、望んだものを得られず奪われることはあまりにも多かったから。それに、ミリアールトの青年がやはり気にかかる。
「……本当に……?」
「無論」
エルジェーベトの逡巡を見て、リカードの唇は愉しげに弧を描いた。貞操や、夫に仕えて子を育む普通の女としての幸せ。それを擲ってまで求めた、マリカの傍にいたいという願い。それらの全てを奪った男が、今は彼女に与えてくれるという。
「息子に手紙を書け。密かにマリカに会いたいと――ついでに母にも会えるとなれば必死で励むだろう」
「はい……はい! すぐに、そのように……!」
心の片隅ではまだ疑念を抱きつつ、それでもリカードが投げた餌は甘い。エルジェーベトが一も二もなく飛びついてしまうほどに。
そしてそこを突き落とすのが、この老人の娯楽なのだ。
「その際にこの者も王宮に紛れ込ませるのだ。同時に側妃を連れ出させる」
「あの……方も……? なぜ!?」
辛うじてあの女、と吐き捨てずに済んだのは、リカードが嗤うのが一瞬早かったからだ。絶対に何かある、と思えて。全てが彼女の望むままではないのだと、喜ぶと同時に気付かされたからだった。
「ミリアールトを自由にするために」
無理矢理に抑え込んだ憤りに、涼やかな声が油を注ぐ。あの女によく似た青年は、あの女によく似た勝ち誇った笑みを浮かべてエルジェーベトを見下ろしている。
「イシュテン王は自ら戦果を手放そうとしている。ミリアールトの誇りを侮っているのかもしれないが。あれほどの屈辱をもたらされた今、女王さえ戻ればイシュテンに従う理由はない」
「屈辱……例の……?」
「そう。グニェーフ伯はミリアールトを虐げる策に加担したとか。裏切者め……!」
毒のような憎しみを声に滲ませて語る青年は、それでもあまりに美しくてエルジェーベトとしては居心地が悪い。生きていることさえ伏せなければならないがゆえに、依然として断髪して男装している彼女よりも、この青年の方がよほど美しく整った姿をしているのだ。そのような埒のない嫉妬も、彼女がこの青年を受け入れられない理由なのだろう。
「ファルカスが戦う相手は多い方が良いだろう、ということだ」
青年に対して答える言葉が見つからないエルジェーベトを助けるように、あるいは愚かな者を教え諭す楽しみを味わおうというのか、リカードが口を挟む。
「側妃を逃がして返してさえやれば、ミリアールトは離反する。ファルカスが抑えるために出陣したその背を、我らが討つ」
「王が行動に出る前に、ということでしょうか……」
「うむ。ファルカスめ、側妃によほど入れ込んでいるらしい。形振り構わなくなっているからな……もはや一刻も猶予はならぬ」
――ああ……マリカ様も、きっとそれで……。
王がティゼンハロム侯爵家に対する態度を硬化させているのは知っていた。屋敷を訪れる客やその使用人が囁く噂に、リカードが長子ティボールと夜遅くまで語っていること。閨でのエルジェーベトの扱いが最近手荒いのも、リカードの苛立ちを示しているものなのだろう。
王の陣営も、こちらと同じように張り詰めた空気が漂っているに違いない。優しいマリカにも察せられるほどの緊張――あの方は、さぞ心を痛めているに違いない。エルジェーベトに訴える気力も湧かないほど憔悴しきっているとしたら。
「――分かりました。マリカ様と共に、クリャースタ様もお救いできるように、息子に手紙を託しましょう」
この際、手段を選んではいられない。あの女を見逃すことになるのは業腹だけど、リカードが言われるままに故郷に帰してやるなどとは思えないし。
エルジェーベトが頷いて見せると、青年は安堵したように微笑んだ。氷が緩むように、怒りと憎悪がわずかに後退して穏やかなほどの表情が浮かぶ。
「よろしく頼む」
その美しい笑顔に一瞬見蕩れかけた自分に気付いて、エルジェーベトはひどく気分が悪くなった。
その後、リカードと青年は計画の実行に必要な点を幾つか話し合った。
ラヨシュに手紙を届けるとして、どれくらいの時間が必要か、ブレンクラーレのアンネミーケ王妃とどのように時機を計るか。青年はミリアールトの縁者にも事情を伝える書簡を送りたいのだと言う。女王を救う見通しが立った今、侵略者に従う必要はないのだ、と。王の側近が統治するミリアールトには、リカードも縁が薄いのだが――リカードは善処すると約束していた。
「……本当にあの女を助けてやるおつもりなのですか?」
そして深夜を回った時刻になって青年がティゼンハロム邸を辞すると、エルジェーベトはリカードに尋ねた。政務の後の長い密談に疲れたであろう老身を癒すため、甘口の酒を注ぎながら。
「女狐めのたっての願いだから仕方あるまい。恩を売ってミリアールトを傀儡にしようというのだろうが、強欲な……」
「女の言いなりになるというのですか? ティゼンハロム侯爵ともあろう御方が!」
リカードにしては信じがたい弱気な言葉に、エルジェーベトは思わず声を高める。
「方便に過ぎぬ!」
と、怒声と共に酒が頭から浴びせられた。酒杯を卓に叩きつける鋭い音と共に、リカードの苛立った声が耳を刺す。
「ファルカスとミリアールトを戦わせれば我らの被害も少なくて済む。戦力に余裕ができれば、ファルカスを討った後イシュテンを支配するのも楽になろう。その程度の計算も分からぬか!?」
「いえ……はい……」
酒精が目を刺すのを拭いながら、エルジェーベトはやっと答えた。短く切ったとはいえ、髪を汚される屈辱は女には堪えるものだ。それに加えて、やはりあの女は美しい青年と共に無事に生き延びるのだと思うと悔しかった。マリカの世界をかき回しておいて、あの女はその報いを受けないなんて。
「それに、儂が約束したのは王宮から攫うところまで。無事にミリアールトに帰してやるなどとは言っておらぬ」
「殿様……?」
酒精で痛む目をしばたたかせながら見上げたリカードの顔は、ひどく愉しそうに歪んでいた。
「あの目障りな若造共々、始末してしまえば良い。王族ふたりの首を送ってやればミリアールトの怒りもいや増そう」
「では……でも、ブレンクラーレに対しては……」
「助けようとしたが叶わなかった、それだけのこと。巣に篭って口を出すだけの鶏に何ができる」
唇まで滴ってきた酒の雫を、エルジェーベトはぺろりと舐めた。リカードに供するからには、上質のもの。しかし甘い陶酔は酒がもたらしたのではないだろう。とうとうあの女に思い知らせることができるという予感が、エルジェーベトを酔わせているのだ。
「はい、そのように存じます」
夢見るような口調で、エルジェーベトは呟いた。まき散らされた酒が漂わせる香りが、とても甘い。
次の息子への手紙は、大分長くなりそうだった。