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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
16. 迫る恐怖
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夫の変化 シャスティエ

 最近、王を迎える時に以前ほど緊張しなくなったのは、シャスティエにとってまことに不可解なことだった。

 かつては今夜訪ねるという知らせを受けただけで気が重くなったし、顔を見れば身体が強張って、触れられようものなら払いのけようとしてしまうのを抑えるのに苦労したのに。楯突くだけ無駄だからと笑顔を作って媚びようとしても、服の下では肌が粟立ち胸の中では怒りと恐れが混ざり合って、嵐のように荒れ狂っていたものなのに。


「これから陛下がいらっしゃるそうですが――」

「大丈夫よ。お待ちしていますとお伝えして」


 なのに、王がやって来ると聞いて、今日は自然な笑顔で答えることができたのだ。心臓が跳ねたのも恐れや不安のためではなくて、喜びのため。もしかしたらしばらく前からそうだったのかもしれないけれど、少なくともはっきりと気付いたのは今日が初めてのことだった。

 愛しい娘が父親にも愛されてると思えば、嬉しくなってしまうのも仕方ない……のだろうか。


「ねえ、フェリツィア……どうしてかしら……?」


 揺籃(ゆりかご)を揺すっても娘からの答えがないのには、もう慣れた。それでも戸惑うことなく語り続けることができるのは、娘の寝顔を眺めるだけで胸が温かい思いで満たされるから。母を信頼してくれているからこそ、この子はあどけない顔を見せてくれているのだと思えば、愛しさに息が詰まりそうになるほど。


 我が子を持って、シャスティエの多くの部分は変わってしまった。王への思いの変化も、その中のひとつに過ぎない――のだろうか。


 ――この子(フェリツィア)を可愛がってくれているからかしら? それに……手を出そうとしてこないから?


 いつ、次の子を――世継ぎの王子を孕めと言われるのか、最初シャスティエは戦々恐々としていたのだ。王の閨に侍ること自体も当初から厭わしくてならなかったし、王子への期待が掛かる一方でフェリツィアが顧みられなくなるのでは、という恐れもあったから。


 それが、王は今のところ()()()()風にシャスティエに触れてこようとはしていない。気まぐれに抱き寄せられたり髪に触れられたりするのもうっとうしくて嫌だったのに、最近では実際に手指を触れさせる前に一瞬の間があるような気がする。だから心の準備もできるし、触れ方自体も幾らか優しいようにも思えなくもないのだが――気遣われている、などということでは絶対にないと思う。


「貴女がいるからさすがに乱暴にはできないということかしらね……?」


 それがもっとも順当で、かつシャスティエとしても納得のいく考えだった。同時に喜ばしいものでもある。可愛げのない女が生んだ子はやはり可愛くないのかもしれないと恐れたこともあったから。だが、赤子の愛らしさは王の心さえ動かしたのかもしれない。


「あの男まで変えてしまうなんて。貴女は本当に、凄いわ……」


 そう思うと、改めて娘の存在が誇らしくて。シャスティエはフェリツィアの頬に口づけを落とした。




 最近、フェリツィアは辺りを見渡すことが気に入っているようだった。自分で頭を巡らせると目に映る景色が変わる、それだけのことが楽しくてならないらしい。

 長身の王に抱かれると、自然とフェリツィアの目線も母や侍女たちが抱いた時と変わる。赤子には高さを恐れる知恵はないのか、いつもと違った景色にただ喜んで手足をばたつかせているようだ。

 父親の前で機嫌の良い姿を見せられるのは嬉しいし、王の力強い腕の中ならばフェリツィアがはしゃいでも危なげなく見ていられる。王に対する複雑な感情はさておき――娘が父親に可愛がられていると思えば安心もできる。


「そろそろ首が座ってきたか……」

「はい。もう寝返りを打てるようになったのですよ」


 寝返りを始め、あーん、だとかはいはい、だとか。この間にシャスティエの子供の仕草や成長に関するイシュテン語の語彙は確実に増えている。辞書にはもちろん載っていないし、使う機会があるなどとは予想だにしなかった単語ばかり。ミリアールト語でさえろくに使ったことがない単語を、異国で喜んで発音しているのはとても不思議なようにも思えるけれど。でも、同時にこの二年ほどイシュテン語を使ってきて初めて、この国に馴染んだようにも感じるのだった。


「そろそろ庭の景色も見せてやろうかと思っています。ちょうど季節も良いことですし」

「それは良い」


 季節は初夏。風も寒さも気にならず、日差しが強すぎるということもなく。鮮やかな新緑や爽やかな風は、生まれたばかりの我が子が初めて感じる世界として相応しい。懐妊に気付いてから出産まで、常に狙われていると思うと離宮から出る気にはなれなかったものだけれど。娘を抱いて散歩に出てみようか、などと思えるようになったのも、シャスティエ自身にとって大きな驚きだった。


「アンドラーシでもジュラでも呼ぶが良い。護衛がいれば不安に思うことも少ないだろう」

「はい。お気遣いありがとうございます」


 王と構えることなく言葉を交わせるようになったのも、そう。


 ――話すことができたから、なのかしら。


 かつてのシャスティエは、王との会話を楽しんだことなどなかった。ミリアールトの情勢を聞けば、本当のことかと疑って。ミーナの様子を尋ねては、王の言葉通りに赦してくださっているのかと胸を痛めて。恐れ疑う不安の気持ちは、きっとシャスティエの顔にも態度にも現れていたから、王の機嫌も悪くなるばかりで。それで、話をするのも面倒だと言わんばかりに寝台に引きずり込まれるのが常だった。


 一方、フェリツィアの成長についての話題ならば、偽りを挟む余地がないのは明らか。それにシャスティエも王も純粋に喜ぶことができる……はず。王が日頃いない間に見ることができたフェリツィアの表情、仕草、言葉のように聞こえなくもない泣き声や笑い声。そんなことを伝える時は、笑顔以外を浮かべるのが難しい。


 だから、シャスティエが王に慣れて絆されたというのは多分事実と異なる。フェリツィアへの愛が深まっているから、娘に関することなら何でも――たとえ王に対してであっても、柔らかくにこやかな態度になってしまうのだろう。


 ただ、それだけのことのはずだ。




 娘のことさえなければ王との関係は以前と変わらない、利害に基づいた冷めたものだ。


「そろそろ疲れたようだ。寝かせてやると良い」

「はい」


 その証拠に、王は遊び足りないと抗議するかのように喃語を上げるフェリツィアを、半ば強引に揺籃に戻させた。――赤子には聞かせたくない話をしようというのだ。


「先日、ミーナにも話した。リカードを討つことにしたと」

「……どのように仰っておられましたか」


 案の定、王が告げたのはシャスティエの浮かれた気分に冷水を浴びせることだった。


 娘が生まれたシャスティエは幸せだ。

 王への感情はさておき、父親が娘を可愛がってくれるのも、娘のためにティゼンハロム侯爵を排すると断言してくれたのも喜ばしいこと。だが、この幸せの裏にはミーナの不幸と悲しみがある。フェリツィアには何の罪も関わりもないことではあるけれど、ならば責められるのはシャスティエだ。フェリツィアの将来と安全のためなら何をしても良いという覚悟は、ある。だから、何を思われどんな言葉を投げられたとしても、やはり甘んじて受け入れなければならないのだ。


 拳を膝の上で握り、背筋を正して王の言葉を待つと、相手は目を軽く伏せた。


「何も言っていない。……というか言えなかったのだろうな。とはいえ何も思っていないはずなどないが」


 王は以前のように心配いらないと繰り返すようなことはしなかった。妻の思いに鈍感なこの男をしてこの硬い表情をさせるとは、ミーナはどれほど窶れた姿を見せたのだろう。


 ――私は父の仇を夫にした……。ミーナ様は、夫が父の仇になるのね……。


 シャスティエは王を愛していない――それどころか憎んでいるから、子を授かるまでの日々は辛かった。そしてフェリツィアが生まれたら生まれたで、憎いはずの男に娘を愛してほしいと思ってしまう自分に戸惑っている。叔父たちの死に様を思い出すことが少なくなったのは、多分時が経ったからだけではないのかもしれない。

 可愛い娘を傍らに、ミリアールトの臣下の前で誓った復讐を日ごと夜ごとに念じなおす。その心の持ち方も、息詰まるような苦しさだけど。


 でも、愛する夫が父親と敵対して殺し合おうとしているミーナの苦しみは、まったく別のもの。まして何も知らされずに育てられたあの方のこと、夫だけでなく世界の全てに裏切られたように思っていてもおかしくない。


 そして誰よりもミーナを傷つけたのはシャスティエだ。しかも娘のためと言い訳して退くつもりはないのだから始末が悪い。


「そう、ですか……」

「どの道リカードとはこうなる定めだった。俺がおとなしく言いなりになるつもりがない以上はな。……だからお前が気に病むことではない」

「はい」


 王の言葉は、この男の中では正しいのかもしれない。だが、言われた通りに気に病まないことなどできそうになかった。

 側妃になると決まった直後は、王と王妃の間に割って入ったりなどしないと誓ったのに、今のシャスティエは王の訪れを待ち望んでしまっている。王を愛しているからではなく、娘のためではあるけれど――ミーナにとって違いがあるとは思えない。それどころか、王が決断を早めたのはシャスティエとフェリツィアのためだ。


 ――私は、あの方から夫だけでなく父も奪うことになる……。


「何という顔をしている。お前のせいではないと言っているのに」

「陛下……」


 気が付くと、王が目の前に立っていた。卓を挟んで差し向いに座っていたはずが、立ち上がってシャスティエの傍まで来ていたらしい。そんなことにも気付かないほど、彼女は暗い思考に囚われていたようだ。


「家族を奪った相手が憎いのは分かる。だから俺が憎まれるのは覚悟の上だ。だが、親のことはどうあれ、マリカとフェリツィアは姉妹だろう」


 シャスティエの家族を奪った男は気遣う調子の声と表情でそんなことを言った。家族。家族と言うならば、新しい家族(フェリツィア)をシャスティエに与えたのもこの男ということになるのか。


 ――姉妹……? 確かに、そうだけれど。


 フェリツィアが生まれる前、マリカ王女も赤子との対面を楽しみにしてくれていたようだったのを、シャスティエはやっと思い出した。でも、あれからまた状況は変わってしまった。敏いあの姫君は、母君の悩みの理由が生まれたばかりの妹王女だとまだ気付いていないのだろうか。


「今日の本題はこれからだ。――マリカが妹に会いたがっている。フェリツィアの成長も順調だから身体の方は問題ないかと思うが……母としては、どう思う?」


 すぐには答えかねて俯くと、王の指先が視界に入った。頬を包もうと掌を伸べて、でも触れあぐねているらしい。このようなおずおずとした態度もまた、シャスティエを戸惑わせるのだが。


「本当に楽しみにしてくださっているなら……光栄で、嬉しいお言葉ですわ」

「そうか」


 小さく頷いたのを許しと捉えたかのように、王の指が一瞬だけシャスティエの頬に触れてすぐに離れた。


「王妃の住まいに連れて行くのは不安だろう。離宮(こちら)に招く形の方が良いと思うが――」

「はい。ミーナ様とマリカ様をお迎えしても恥ずかしくないように整えておきます」


 一度頷いてしまえば、話はするすると進んで、気付けば日程の調整まで終わっていた。更にいつの間にかシャスティエは王と並んで長椅子に掛けて、王の腕の中に収まっている。


「少なくとも、ミーナもマリカもお前を嫌ってはいないのだ。母親同士姉妹同士、仲良くすれば良い」

「ええ、そうできれば良いですわ……」

「お前たちが憎み合う必要などない……」


 ――お前たち……? 誰のことを話しているのかしら。私とフェリツィア、ミーナ様とマリカ様……?


 夫と父親――自分自身を排除して語っているかのような王の口ぶりは、少し不思議だった。親のことはどうあれ、とはミーナとシャスティエの間のことだけでなく、ティゼンハロム侯爵についての確執も含んでいるのだろうに。深く沈みこんでいくような、重い声音も。いつも女たちの悩みを軽視しているようだった、この男のものとは思えない。


 息苦しいほど強く抱きしめられた体勢では、王の表情を窺うことはできなかった。肌を探るでもなく触れ合って温もりを分かち合うのだけを求めているようなのも落ち着かない。こんな触れ方は、今までされてこなかったのに。


「ミーナ様とマリカ様がフェリツィアを可愛がってくださるなら、それ以上に嬉しいことなどございません」


 それでも、大筋では王の言葉に賛同できる。復讐を誓った愚かな母親のせいで、娘は生まれた時から敵に囲まれてしまっている。ティグリス王子に、次はティゼンハロム侯爵、彼らに関わる人たち――多くの人の血が流されることにもなってしまった。


 だから、娘を――愛してくれる、などと、図々しいことは望めないけれど――受け入れてくれる人は、少しでも増えて欲しかった。

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