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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
16. 迫る恐怖
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獅子をあやす鷲 アンネミーケ

 アンネミーケの腕の中で、レオンハルトは機嫌良く笑っていた。祖母の元に連れてこられて戸惑ったようによく泣いていたのも最初の数日だけのこと、父親マクシミリアンの図太さを受け継いだのか、この孫は環境の変化に慣れるのが早かった。


「もう笑うようになったのですね。可愛いなあ……お菓子をあげても、良いですか?」


 そのマクシミリアンは、だらけきった表情で小さな赤子に菓子を食べさせようとしている。レオンハルトは甘い匂いに興味津々と言った様子で口元を動かしているが、アンネミーケは素早く孫を息子の手の届かない安全なところへ遠ざけた。


「まだ大人と同じものは食べられぬ。もうしばらくすれば離乳食が始まるからそれまで我慢するが良い」

「そうなのですか。喜ぶと思ったのに……」

「赤子には砂糖も油も刺激が強すぎる。下したりしては哀れであろう?」


 強めの口調で(たしな)めると、マクシミリアンは眉を下げて菓子を自分の口に運んだ。アンネミーケが息子を叱る場面は多いけれど、菓子など些末なことが原因なのはさすがに今までなかったことだ。


「時間がある時にはそなたが食べさせてみるが良い。赤子のか弱さを肌で感じれば迂闊なことはできなくなろう」

「そうします」


 聞き分けだけは良いマクシミリアンは神妙な顔で頷いて、母の頬を緩ませた。政治についての諸々や、どこぞの令嬢や未亡人、時には人妻との醜聞の数々、それに妻との関係で呆れた言動。そういった事柄について説教をするだけではなく、このように穏やかな空気の中での語らいは、息子との間ではこれまでにないことだった。

 アンネミーケはいつも息子を叱るばかりで、菓子をやったり遊んでやったりは夫の寵姫たちの役目だったから。あの女どもが甘やかした分を取り戻さなければと思うと、自然と息子へのあたりはきつくなって。そうするうちに、マクシミリアンは母の前では構えてしまうようになったと思う。


 マクシミリアンが成人してからは、なおさら母子ふたりで話す話題もなかった。共通の話題になり得ることがあっても、彼女は口うるさくなりがちで――だから、このように和やかな時間が持てるようになるとは想像だにしていなかった。諦めていたとさえ言えるかもしれない。


 ――これも、そなたのおかげか……?


 レオンハルトには父と祖母の語る言葉はまだ理解できまい。ただ、マクシミリアンが目の前にちらつかせる玩具の鮮やかな色を目で追い、アンネミーケが揺するのに合わせて高い声を上げて笑うだけだ。それだけの、自力では何もできない無力な存在の癖に、赤子とはいかに大きな力を持っていることか。


「母上がそのような顔をされるとは。――失礼ながら、意外でした」


 マクシミリアンも同じような感慨を抱いたのだろうか。言われたことは実際にかなり無礼なことではあっただろうが――アンネミーケは、ただ鷹揚に微笑んだ。


「何を言う。そなたをこうしてあやしたこともあるのだぞ」

「改めて、感謝申し上げなければならないと痛感いたしました」

「そうであろう」


 息子と冗談のような言葉を交わすことができているのが信じられなくて、心が妙に浮き立つのが分かる。マクシミリアンに微笑みかけると、微笑みが返ってくる。ただそれだけのことがとても珍しく愛しかった。

 王太子妃のギーゼラは、今日は夫に伴われてはいない。体調が優れないというのが真実なのか、それとも姑への当てつけなのかは分からないが、アンネミーケは気にしないことに決めていた。あの娘から母の喜びを奪った後ろめたさは、彼女自身の母としての喜びには及ばない。結局のところ、アンネミーケも夫やその愛人たちから幸せを奪われていたのだと思うから。


 彼女は、本来彼女のものであったものを二十年余の時を越えて取り戻しているだけなのだ。




 レオンハルトはほどなくして眠り、アンネミーケも息子と孫との穏やかなひと時を一旦は中断した。穢れを知らない赤子には聞かせるべきでないこと――より血(なまぐさ)く生々しい、イシュテンでの権力争いに関する話をするために。


 彼女の好みの濃く苦く淹れた茶を一口味わうと、アンネミーケは切り出した。


「ミリアールトのことは、聞いておるな?」

「はい。公でのミリアールト語の使用を禁じたとか」


 レフという公子は無事にティゼンハロム侯爵との接触に成功したとのことで、イシュテンの正確な情報も比較的容易に入手できるようになっていた。侯爵と公子と、仮に手を組んではいてもそれぞれの目的は異なるから、同じことを伝えるにも言葉の選び方は全く違う。今回のことも、侯爵は義理の息子の失策を嘲るように、そして一方の公子は祖国への屈辱に深く憤った筆致でイシュテン王の奇行を綴っていた。


 これが全く関係のない遠国のことであれば、アンネミーケもただ嗤って済ませることが出来たのだろうが。だが、数年をかけて力を削ごうと企んでいる厄介な隣人のこととなれば、深読みせずにはいられない。


 ――この時期にあえてミリアールトを虐げるとは。内憂に加えて自ら外患を作り出して何とする気か……。


「まるで我が国の流儀に倣ったかのようだとも思いました。いえ、もちろんブレンクラーレのようにいかぬのは分かっているのですが」

「そう。イシュテン王がブレンクラーレのやり方を知っているとも考えづらいし、知っているならば安易に真似できるようなものでないと分かるはず」


 ブレンクラーレは、睥睨する(シュターレンデ)鷲の神(・アードラー)の翼のもと、ひとつの国を名乗ってはいるが、その実情は多くの小国や民族を王家が緩く束ねているというものだ。そしてその中には言葉や文化が大きく異なる地域もある。

 君主や領主にとって、支配する民が何を考え語っているか分からないというのは時に恐怖だ。従順に、笑みさえ浮かべて跪く陰で、反乱を目論んでいるのかもしれないのだから。逆らう者への罰と、従う者に与える便宜。その両輪を上手く操って広い領土を治める術は、代々の王が築き上げた秘伝と言っても良いかもしれない。


 そして、相手の言葉を禁じるのは、ブレンクラーレが好んで用いてきた政策でもあるのだ。支配者の言葉を強いることへの反発は当然あるが、公職に登用される条件のひとつにブレンクラーレ語の能力を含めてしまえば、嫌でもブレンクラーレ語はその地の元の言葉を駆逐する。日々の暮らしの前には古来より受け継いだ誇りなど些少なものに過ぎないのだ。

 イシュテン王の執った政策は、だから占領地を名実ともに併合するものとして理解できなくもない。だが、この策の前提として、少なくとも反発を抑え込むだけの力がなければならない。さらに欲を言うならば、支配者に従うことで被支配者にも利があれば良い。ブレンクラーレを構成する民族たちは、大鷲の翼のもとに庇護されることで安全を得ている。強大な力を持つ国は当然のように富も集め文化も栄える。(ほまれ)ある大国の一部であることに誇りさえ抱くようになればしめたもの。そうなれば、ブレンクラーレ語はもはや隷属の証ではなく、各地の民がむしろ喜んで使うようになる。


 翻って、イシュテンがミリアールトに与えられるものはない。武力では一度勝ったとしても、ミリアールトの歴史も文化もかの野蛮な騎馬の国を上回るのだから。喜んでイシュテンに呑み込まれるはずもない。


「ティゼンハロム侯爵が言うように、イシュテン王は慢心しているのでしょうか。先の乱から一年経ちますが、ミリアールトはイシュテンの内乱に乗じて背くこともしませんでした。だから、もう少し締め付けても大丈夫だと思った、とか……?」


 侯爵の書面は、王が下手な手を打ったと喜び弾む様がありありと窺えた。会ったこともない相手だが、仕えるはずの王を陥れる企みを巡らす者だと思うと、脳裏に浮かぶ姿は自然と醜悪な老人のものとなる。


 ――まあ、あちらでも同様の想像をしているのだろうが。


 ミリアールトの姫と違って、アンネミーケが美貌に恵まれていないのは広く知れ渡っていることだ。賢い王妃との評判は、裏を返せば容姿には触れてはならぬということなのだ。無論、誰がどのように噂しようと彼女が気にすることなどあり得ないのだが。

 ともあれ、息子の推測はアンネミーケにも順当なものに思えた。ただ、筋書きとして矛盾がないということとそれが事実かどうかはまた別のこと。だから一応別の解釈も述べておくことにする。


「あるいは公子が推測するように、王女しか生めなかった側妃へのあてつけかもしれぬ。イシュテン王の心の裡などこの場で推し量るだけ無駄、真実などどうでも良いが――」

「どのように利用すべきか、それが重要だと仰るのですね」

「そう。その通りだ」


 マクシミリアンも最近は彼女の思考をなぞって発言することができるようになったようだ。君主として取るべき行動とは何か、を真っ先に考えられるようになったのは、やはり父になったからか。これもまた、レオンハルトがもたらしてくれた変化なのだろうか。


 満足して微笑みながら、茶を口に運ぶ。慣れたはずの濃さが、今日に限っては苦いようにも思われるのは彼女の心も弱ってしまったのだろうか。赤子の愛らしい笑みに、甘く乳臭く絆されてしまったのだろうか。――そのようなことは、あってはならないのだが。


「この事態、そなたはいかに利用する」


 自らを戒めながら茶器を置き、息子に問う。するとマクシミリアンはわずかに身を乗り出して答える。


「イシュテンに介入する口実になり得る、と存じます」

「どのような理由によって?」


 息子が自身と同じことに思い至っていたと知れば、アンネミーケの笑みも深まる。だがまだ安心しきることはできない。敵を思うままに動かし陥れることはこの上なく甘美な夢ではあるが、だからこそ半端な見通しでことを始めてはならないのだ。


「そもそも、ティゼンハロム侯爵が挙兵するのに機を合わせてブレンクラーレからも兵を送る予定ではありました――」


 緊張した表情で硬い声を紡ぐマクシミリアンは、教師に答えを提出する生徒そのものだった。自らの子を持つ歳になっても、この愚息は母の顔色を窺ってしまうのだ。


「ですが、それではティグリス王子の時もそうだったように、戦場を選ぶこともできないし、反乱の隙に乗じるなどとあまりに道義に(もと)ります」

「うむ。それで?」


 先を促されたことでここまでの解答に誤りはなかったと思えたのだろう、マクシミリアンはわずかに微笑んだ。そして茶で口を湿して、再び語り始めた時には声にも自信が宿ってやや声量も上がっていた。


「今回の件があれば、さすがにミリアールトも背くでしょう。そして乱が起きれば、イシュテン王はまた遠征の途に就きます。その時こそティゼンハロム侯爵にとって絶好の機会となるでしょう。侯爵としてはミリアールトを攻めるイシュテン王の後背を突くことも可能でしょうし――ミリアールトを救うためとなれば、我が国が動いても他所から口を挟まれる恐れは少ないでしょう」

「まして、ミリアールトの女王を保護しているとなれば」


 息子の言葉の最後を引き取ることで、アンネミーケはマクシミリアンの意見に賛同していると示して見せた。


「だが、ミリアールトがいつ背くかをどのようにして測る気だ?」


 ティグリス王子の時は、いつ挙兵するかを前もって取り決めることができていた。結果としては彼には勝手にことを進められたという苦い経験もあるが、ティゼンハロム侯爵とも同程度の連携はまあできるだろう。


 しかし、ミリアールトについてはまた話が違う。イシュテンを間に挟んだ地理上の問題に加えて、今現在はイシュテンに征服されていてまとまった反抗が期待できるかも分からないのだ。


「それは……公子が姫君を助け出すことに成功すれば、それを好機と見てくれるかもしれませんが……」


 確かに、ミリアールトが今日までおとなしくイシュテンの支配を受け入れてきたのは、彼らにとって女王である元王女を人質に取られていたからだ。イシュテン王の側妃などという地位をありがたがってなどはいないだろうが、何もことを起こさなければ姫君はとりあえずそれなりの扱いをされているのだから。


「この際ミリアールトも巻き込むのが得策なのには間違いがない。自国の女王のことでもあるし、かの国にも犠牲を払っていただこう」

「あの……どのようにして……?」


 マクシミリアンはまた不安げな表情になって、先ほどアンネミーケ自身が投げた問いを繰り返した。


「さて……姫君が攫われれば、イシュテン王は真っ先にティゼンハロム侯爵を疑うであろう。そして侯爵のもとにいないと分かれば、次はミリアールトに目が向くだろう。放っておいても思い通りになる公算は高いが――」


 無実なのにあらぬ疑いをかけられた、と侯爵が訴えれば、それも乱を起こす口実になるのだろう。側妃へ寵愛が偏るあまりに、王は王妃を実家ごと排除しようとしているのだ、と。恐らくあのミリアールトの公子もそれを期待して侯爵にすり寄ろうとしているに違いない。


 ――ならば、少し後押しをしてやろう。


「公子の書いた書面などは、まだ残っているな?」

「それは、ございますが……」


 唐突に話題を変えたように聞こえたのだろう、マクシミリアンは眉を寄せつつも頷いた。レフ公子はブレンクラーレ滞在中、息子の傍につけて秘書のような役を務めていたのだから当然だった。


「ならばそれをミリアールトへ送るのだ。あの者もミリアールトの王族なのだから、手跡を判じられる者はいよう」

「そういえば……彼が生きているのを知っている者は祖国にいない……!?」


 マクシミリアンの青い目に理解の色が宿り、輝いた。驚きと喜びと納得が入り交ざった表情を彼女の言葉が呼び起こしたと思うと、心地良いほどの満足感と優越感が湧いてくる。その思いも息子に対するものだけではなく、イシュテンとミリアールトが勝手に争って弱め合ってくれるかもしれないと思えばこそだ。


 ――そう、あくまでもあの二国の間でのこと。ブレンクラーレはたまたま公子を保護しただけ……。


 女王がイシュテン王の手の内より逃げおおせ、さらにもうひとりの王族が帰るとなれば、ミリアールトも再び乱を起こす気にもなろう。ブレンクラーレが兵を送るのは変わらないとしても、イシュテン王の軍と正面から争うのと、ミリアールトと争うところに割って入るのとでは話が全く変わってくる。


「あの者の頭にそれが浮かばなかったようなのは誠に不思議なことだ。ミリアールトの民にとってはまたとない希望となったであろうに」


 あの公子は、国のために旗印になることはせずに、真っ直ぐに愛する姫君を追ってイシュテンへ潜入し、そしてマクシミリアンと出会ったのだ。アンネミーケにとっては都合が良かったものの王族とは思えない短慮、やはり思慕ゆえに視野が狭まっていたに違いない。


「ミリアールトのためでもあるということですね。姫君も救い出せるかもしれないし……!」

「……そう。だからそなたも何ら恥じることはないのだ」


 マクシミリアンがまだあの姫君のことを口にするのは気に障らないでもなかったけれど。それでもアンネミーケはあえて咎めることをしなかった。


「公子と侯爵にも良いように伝えねば。それぞれに気持ち良く動いてくれるように……」


 私利私欲のためでなく、大義のためであるという体裁を整えるのは重要だ。祖国のため、娘のため――アンネミーケは息子と孫の安らかな治世のため。だから、他国に乱を撒くのも仕方ないと思わなければならないのだ。

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