母のいない子 ラヨシュ
イシュテンの王宮に住まうのは王やその妃たち、王女たちだけではない。彼らに仕える侍女や侍従たちや、広大な庭園や無数とも思えるほどの建物の手入れをする者たちの中にも王宮の敷地の中で寝起きしている者がいる。そして使用人が住まう場所は、王族のために飾り立てられた宮殿と違ってそれなりに雑然としている。
それでも、王妃や王女がいかに優しくて、彼女たちに仕えるのは名誉ではあっても。何か粗相をしないか壊してしまわないかと常に緊張していなくてはならない王宮の表の部分よりは、使用人たちに混ざって雑用をすることの方がラヨシュにとっては楽だった。
少なくとも、ただ遊んでいるのではないと人に見せることができるから。
今のラヨシュの立場は非常に曖昧なものだ。
王妃に仕える母の元で暮らすため、という名目で王宮に呼ばれたのに、母はもうここにはいない。王女の護衛でもあるからということで剣を教えてもらうこともあるが、彼のような子供に護衛の役は荷が重すぎる。荷物を運んだり掃除をしたりといった雑用についても同様だし、子供に頼らずとも本来その役を担う者がいる。彼が王宮にいなければならない理由はなくて、精々が王妃と王女に気に入られているから、でしかない。
子供に子供の守りをさせるのはいかがなものか。王妃は甘すぎるし王女は我儘すぎる。ひそひそと、時には彼の耳に入るように心を砕かれた大きさの声で。他の者たちが囁き合うのを何度も聞いたことがある。王妃に直接抗議することはできないから、子供に八つ当たりしているだけだ、と。母はかつて言っていた。王妃への不敬ではないかと言いつけた彼に対して、だから気にすることではない、と。
悪意や嫉妬の目に晒されても毅然として務めを果たしていた母の姿は、ラヨシュにとっては支えであり誇りだった。
「今日は、何をしたら良いでしょうか」
部屋に寄宿させてもらっている従僕に、ラヨシュは尋ねた。最近の毎朝の日課でもある。子供の彼にできることは限られているし、何より大っぴらに姿を見られてはならないから、その日によって与えられる仕事は違うのだ。
「今日は陛下が王妃様のところへおいでになる。だから裏に回っていなさい。侯爵様のお屋敷から荷物が届く予定だから、運んでもらうかもしれない」
「はい」
――母様からの手紙も入っているかな……。
ティゼンハロム侯爵家からの荷物、と聞いてラヨシュの心臓が小さく跳ねた。母の手紙は、内容は王妃に宛てたものではあるけれど、宛名はとりあえず息子になっているし彼を案じる言葉も幾つかは書いてもらえているはずだから。
突然、そして不穏な空気を漂わせて王宮を去った母は、今はティゼンハロム侯爵邸にいるらしい。王妃をはじめとする周囲の者たちの腫れ物に触るような――あるいは同情に満ちた目から、何か恐ろしい事態に巻き込まれたのだろうと分かる。でも、侯爵邸に匿われているということは、ティゼンハロム侯爵本人の計らいなのだろうとも思う。彼自身も侯爵邸に身を寄せていたことがあるが、その頃見かけたこと侯爵は厳しい方のようだった。でも、母の忠誠に報いて庇ってくれたのなら、きっと実は優しい方でもあるのだろう。
「王女様には見られないように気をつけてくれよ」
「はい」
従僕の懸念はラヨシュにもよく理解できたので、彼はおとなしく頷いた。
マリカ王女は、どういう訳か彼を非常に気に入ってくれている。王宮に同じ年頃の子供がいないからかもしれないし、母が王妃の乳姉妹だった縁で親しみを感じてくれているのかもしれない。とにかく彼の姿をちらりとでも目にしたなら、王女は真っ直ぐに駆け寄ってくるに違いない。その時傍にいるのが王妃だけならば良いけれど、王に彼の姿を見られる訳にはいかない。
……どうしていけないのか、実のところ彼にはよく分かっていないのだが。ただ、王妃が絶対に他の者に見られるなと言い、使用人たちも揃って彼を隠そうとする言動をしてくれている。そして母が去った時の張り詰めた雰囲気を思い出すと、ひとつの答えにたどり着く。
彼は本来なら王宮にいてはならない存在なのだ。
にもかかわらず今の生活があるのは、王妃が庇ってくれたから。でも、王に知られて咎められたら守り切れない。そういうことなのだろう。考えてみれば、彼は母のおまけで呼ばれたようなもの、母が何かしらの罪に問われたというなら、彼にも累が及ばないのはおかしい。
――王妃様に、ご迷惑はかけないようにしなければ。
母が彼を残したのは、恐らくは王妃と王女に仕えることを期待して。そして王妃が王に秘密を持ってまで彼を庇ってくれるのは、母を大事に思ってくれるからだろう。敬愛するふたりの女性の思いを裏切らないためにも、彼は息を潜めて過ごさなければならないのだ。
侯爵家から王妃のもとへ届けられるのは、侯爵夫妻が娘を気遣って手配した品――衣装や季節の食材など――だけではない。侯爵家に縁ある諸侯や、王妃の威光にあやかろうという者、王への執り成しを望む者からの貢ぎ物が後を絶たなかった。ラヨシュが王宮に呼ばれてからの短い間だけでも、その品々の珍しさ豪華さは目を瞠るものだった。
それが、最近では少々風向きが変わりつつあるように見えた。
「こちらの荷物は?」
「これは、離宮の方へお届けするものだ」
王宮と外部の接点、それも身分ある人々が出入りするのではなく、王宮を維持するのに必要な諸々のものが届けられ、牛や馬で曳かれた車が行き交う裏門にて。ラヨシュは今日の仕事となるであろう荷運びのために待ち構える。
何が届くべきか、何をどこに運ぶべきかを把握しているのはそれなりの責任がある者たちだから、彼はまずは仕事ができるのを見守るだけだ。
建物を修繕するための資材に、厩舎へと送られる藁や飼葉。使用人にも食材や衣装が必要だし、個人的に取り寄せられた酒などもある。そんな中で、王妃の住まいへと振り分けられた荷はかつてより少なく、逆に側妃の離宮宛てと言われた荷はかつてより多い気がした。
「ま、赤ん坊は何かと物入りだ。ご誕生のお祝いもある。今だけさ」
ラヨシュのもの問いたげな視線に気づいたのか、王妃側の責任者は肩を竦めた。
――今だけ……本当に?
王妃宛てに届けられる荷物が減ったのは、側妃腹の王女の誕生が切っ掛けだ。王妃の周りの者たちが恐れ警戒していたように王子ではなかったけれど、若い側妃が五体満足な赤子を生んだという事実が、一部の者たちの意識を変えたということらしい。あの姫君が、次こそ念願の世継ぎを生むのではないか、と。
王妃自身は離れていく者がいるのを気にしている様子はない。というか、多分気付かないように細心の配慮が為されているのだと思う。あの方が悩みなく穏やかに過ごせるように、とは母の切なる願いでもあった。ラヨシュの見る限り、王も王妃を気遣っているようではあったけれど。でも、この状況はいつまで続くのだろうか。それとも、このまま変わらないということもあるのだろうか。
嫌な予感を覚えて、でも口にしたところで何が変わるはずもないからラヨシュは立ち竦み――と、そこへ高く澄んだ声が響いて彼の名を呼んだ。
「ラヨシュ!」
「マリカ様……どうしてこのようなところへ!? 陛下がいらっしゃっているのではなかったのですか?」
人や車の間を縫って、衣装の裾を翻して駆けてきたのは、マリカ王女その人だった。絹の衣装は土埃に色をくすませてしまっているし、牛や馬の蹄のすぐ傍を無頓着に通るのを見ると危なっかしくて冷汗が出る。そもそも今日は王が王妃を訪ねているということだったはず。父親と遊ぶのは、王女にとっても嬉しいことのはずなのに、どうしてこのようなところにいるのだろう。
「お父様とお母様、おふたりだけで内緒のお話だって。遊んで来なさいって言われちゃった!」
頬を膨らませて訴える王女の足元では、黒い毛並みの犬が影のように控えていた。吠えるでも牙を剥くでもなく大人しく、けれど幼い主人を守るかのように黒い目や尖った耳が辺りを窺っているのが分かる。頼もしい騎士のような佇まいに、嫉妬や羨望にも似た思いを抱いてしまうほど。
――王妃様と陛下が……? きっと、側妃についてのことだ……。
父の、母以外の妻の話など、娘に聞かせるものではないのだろう。王妃の気遣いに納得すると同時に、ラヨシュの胸はまた痛む。王が側妃を迎え、しかも子をもうけて。その子を引き取ることもできなかった今、王の話がどのようなものであっても王妃を苦しめるだけではないのだろうか。
そして王妃を案じるのと同時に、使用人に混ざってなぜか胸を張っている王女のことも心配だった。
「あの、お勉強や刺繍の練習は……?」
「退屈だから嫌! それよりラヨシュと遊ぶのが良いの」
高らかな宣言に、ラヨシュは内心でやはり、と溜息を吐く。高貴な少女がひとりで遊びに出されるはずなどないと思った通りだった。王女の好意は、この上ない光栄ではあるけれど――勉強から逃げ出してきたのを、言いつけなくても良いのかどうか。
――ああ、でもお送りしたら陛下に見られてしまうかも……。
彼の内心など知る由もないのだろう、王女は満面の笑みでラヨシュの手を取ろうとした。もちろん姫君に直接触れられるなどあってはならないことだから、素早く手を引っ込めたのだが。
それでも、この場はどうすれば良いかは分からない。王女の機嫌を取るのを優先すべきか、裏に回って見つからないように努めるべきか。助けを求めて手近な大人を見上げると、相手は諦めたように息を吐いた。
「仕方ない。ここは良いから」
「……すみません」
「厨房に猫の親子が居ついているとか……王女様もお気に召すかもしれない」
「――ありがとうございます!」
きっと彼の立場を慮ってくれたのだろう、人目につかず、かつマリカの気も紛れそうなことを提案してくれたのに気づいて、ラヨシュも肩の力を抜くことができた。彼は、周囲の全ての人に助けられて生きているのだと思う。
「手紙が入っていたら、後で渡してやるから」
「はい!」
母との密かなやり取りさえ、侯爵家に縁の者は察していて黙っていてくれるのだ。王妃と王女へ忠誠を誓い、守ろうとしているのは母だけではない。側妃が力を増そうと、もうひとりの王女が生まれようと、この者たちは変わらず力を尽くしてくれるはず。
それは、ラヨシュにとっても希望だった。
言われた通り、厨房では猫の親子を見つけることができた。母親は見慣れない人影に風のように逃げ去ってしまったが、子猫はまだ警戒心が薄いのか、肉の欠片やスープに惹かれて近づいたところを触ることができた。黒い犬のアルニェクも、元は猟犬の血筋だから子猫を獲物として見ないか心配だったが、王女の言いつけ通りに伏せをして小さな獣を見守っている。
「お母様、この子たちを見たら喜んでくださるかしら……」
指先につけた油を子猫に舐めとらせて、くすぐったそうにしながらマリカ王女は呟いた。アルニェクを従えていることといい、この姫君は動物と相性が良いようだ。細く小さいとはいえ、子猫の牙や爪も鋭くて、珠の肌を傷つけはしないかラヨシュは不安でならないというのに。王女は物怖じすることなくふわふわとした毛玉のような子猫を転がしては指先にじゃれつかせている。
「さあ、子は親と一緒が一番だと思いますが」
「……そうかしら」
母を思い遣る王女の優しさを眩しく思いつつ、それでもラヨシュは異を唱えた。子猫に頬を緩める王女の気持ちは分かるけれど、母猫はこうしている間も物陰からこちらを窺っている。子供を連れ去るのは流石に気の毒だと思う。
母と引き離されることの寂しさは、彼が誰より知っているから。
「お母様も同じことを言ってたわ」
指先は子猫の柔らかそうな毛並みをそっと撫でながら、マリカは不満そうに唇を尖らせた。甘やかされたこの方には、母という存在がどれほどかけがえのないものかお分かりではないのだろうか、と懸念を持ち掛けた時――
「でも私、絶対可愛がるのに」
マリカの呟きに込められた万感の思いに、ラヨシュは唐突に悟った。
――猫のことなどではない……フェリツィア様のことだ……!
側妃が自身の娘を手元で養育することになって、王妃は落胆していたようだった。王の寵愛を保つためにか、あの女性は生まれたばかりの王女を独り占めして渡さないことにしたのだ。異母妹に会いたがるマリカを宥めるのも、王妃には胸が痛むことだろうに。
側妃は、ずるい。ひどい。王妃が苦しみ悩み、マリカが戸惑ったのと同じくらい、あの方も子供と引き離されて痛みを味わえば良い。いや、そうではなくて。
王妃こそ、イシュテン王の第一の妻。王の子は王妃が育てるのが当然の理。それにフェリツィア王女だって姉姫と共に育った方が良いはず。こんなに優しい方々なのだから。王と王妃は愛し合っていて、マリカも含めた幸せな一家なのだから。妹姫も加えて差し上げるべきだ。
「マリカ様――陛下に、お父上に、おねだりをされてみては……?」
側妃を恨む気持ちが芽生えたのを、ラヨシュは母が語っていた言葉を使って取り繕った。これは悪意から言っているのではない。フェリツィア王女のためでもあることだ。
「妹君と遊びたいと。もっと会わせて欲しい、と……」
この言葉がどのような結果を招くのか、彼自身にも分からなかった。母の心に叶うことなのかも想像がつかない。ただ、彼は目の前の少女に笑って欲しかっただけだった。妹姫が生まれたのに会うこともできず、母君の悲しげな顔ばかりを見ている王女が、気の毒だった。そして王への一抹の不満と、側妃を困らせてやれば良いという思い。そんな感情が入り交ざて、王女に我が儘を言うようにとそそのかしてしまったのだ。
「お母様は我儘言っちゃダメだって。……でも、お父様、聞いてくださるかしら」
「ええ、きっと。マリカ様の言うことなら何でも」
思った通りにというか、マリカは彼の提案を聞いて輝くばかりの笑顔を見せてくれた。父と母の間、自身の力では動かせない状況に鬱屈していた姫君に、彼は指針を与えることができたのだ。
「じゃあ、戻らなきゃ。戻って――お父様にお話しするの!」
砂埃に塗れた衣装の裾を払ってすっくと立ちあがるマリカの姿は勇ましいほどで、ラヨシュは思わず目を細めて見とれてしまった。
この章からラヨシュも視点人物に追加します。名前ありなのですぐに死んだりはしません。ご安心ください。