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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
15. 親と子、夫と妻
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暇乞い アレクサンドル

 ――ミリアールトに戻れ。そしてイシュテンとの交流において、一切のミリアールト語の使用を禁止させよ。


 王の告げたことを、アレクサンドルは深く噛み締めた。女王の――シャスティエの身を守るのに必要なことと承知していてもなお、その命は脳が灼き切れるほどの屈辱だった。国として敗れ、女王を連れ去られたミリアールトから、更に言葉まで奪おうというのだ。

 確かに祖国でそれなりの信用を得ている彼にしかできぬことだろう。否、彼であっても無事にやりおおせることができるかどうか。


「クリャースタ様の御名の意味が知れぬように、ですね……」

「そうだ」


 屈辱、嫌悪、躊躇、それを抑え込んでの覚悟――王にはアレクサンドルの思いの全ては理解できていまい。だが、これによって征服したミリアールトを失いかねないということは分かっているはず。短く頷いた精悍な顔には苦々しさが満ちていた。


「そもそも異国の言葉に興味を持つ者はイシュテンには少ないのだ。国内に対しては側妃を表に出さないようにすれば当面しのげる」

「ミリアールトの総督殿にはどのように……?」

「王の委任状を預ける。ミリアールトを離反させぬよう、そなたにできる最善を為せ」


 王が突き出した書面には、確かに王の署名と印が施されていた。アレクサンドルを呼びつける間に作っていたのならば、手回しが良いことだと思う。あるいはそれだけ焦っていたのか。

 アレクサンドルが委任状を懐に収めたのを確かめると、王は軽く目を伏せて息を吐いた。


「エルマー――今の総督からは、ミリアールト語を解する者が少ないゆえに統治が進まぬとの報告が来ていた。だからとりあえずあの者は喜ぶだろう」


 アレクサンドルがよく知るジュラと同様、現在の総督も王の側近から選ばれていた。だから、王の言葉に反発することもないだろう。王の口ぶりからすると、ミリアールトの者にとっては屈辱だということをどれほど理解してくれるかは分からなかったが。そして懸念はミリアールトだけに留まらない。


「ティゼンハロム侯爵に対しては――」

「どう考えても悪手なのだ。喜んで俺が窮地に陥るのを眺めるだろうよ」


 内憂――イシュテンのことについて自然と内、と考えたのは彼自身が驚いた――に言及すると、王の答えはごく投げやりなものだった。仮にも仕える王の失策を期待するだろうと言われ、しかもその評に納得してしまうとは。あの老人の厄介さと王との確執の深さを物語っていて暗澹とさせられる。だが、ミリアールトの離反が自身にも影響を及ぼさぬと考えるほど、ティゼンハロム侯爵は甘い考えの男なのだろうか。


「侯爵はミリアールトを恐れぬと仰いますか……」

「俺が斃れるのを待ってから講和を持ち掛ける、程度の算段はするかも知れぬな。弑逆の汚名を被ることなくイシュテンを手中に収めることができるならば良い取引になるだろう」


 こともなげにさらりと言った王は、アレクサンドルよりもよほどティゼンハロム侯爵の気性を知っているのだろうし、それに芯からイシュテンの気質を持っているのだろう。世界を敵と味方とに分け、いかに勝ち残るかに腐心する、という。国境を脅かされてきたミリアールトの臣として、長く忌んできた気質だったが――今はシャスティエも味方に数えてくれていると思えば頼もしいと思えなくもない。


「……こうなった以上は一刻も早くリカードを討つ。うるさく言う者がいても、王の力を確立できれば黙らせることもできる。それまで凌いでくれれば良い」

「は――!」


 アレクサンドルが裏切る可能性に、王は言及しなかった。言うだけ無駄だと思っているのか、それだけ信頼してくれているのか。依然としてシャスティエが人質であることに変わりはないから心配していないのかもしれない。そのいずれだとしても、確かに彼は王の命に従うつもりだった。

 ミリアールトがイシュテンに逆らって勝てないことは既に証明されている。争わず、イシュテンの内に取り込まれながらいかに地位を高めるか、それこそを今は考えるべきだ。そしてそのためにはシャスティエと御子の無事は欠かせない。


「すぐにも発て。必要なものがあれば取り揃える」

「ありがたく、頂戴いたします」


 一際深く頭を垂れ、退出しようとして――アレクサンドルは、肝心なことを聞いていないことに気付いて踵を返した。


「このことは、シャスティエ様には――」

「言わぬ――言えぬ。少なくとも事態が落ち着くまでは。言いたいことは山ほどあるが、それもリカードを片付けた後だ」


 側妃を婚家名で()()()()()()ことを、王は咎めなかった。いかにも不快げに顔を顰めているが、言葉自体はシャスティエを案じているようだった。


 ――確かに、今のシャスティエ様にお伝えできることではないか……。


 彼女が選んだ婚家名のためにミリアールトが屈辱を呑むことになったなどと。あの方が耐えられることではないだろう。特にか弱い赤子を抱えている今、外の嵐をわざわざ教えて心を乱すことはできない。

 王は不機嫌な表情のまま、更に意外なほど優しい言葉を吐き捨てる。


「そうだ、ミリアールトに発つ前にあの女と――フェリツィアにも会ってやれ。適当に安心させてやると良い」

「は。お心遣いに感謝の言葉もございません」


 今度こそ余計なやり取りに時間を費やすまい、と。アレクサンドルは血溜まりを避けて扉へと向かった。と、その背中へ最後の問いが投げかけれられる。


「シャスティエ――あの者の元の名は、ミリアールトではどういった意味だ?」


 ――この男、今さらそれを訊くのか。


 思いつきのような問いだった。今の王が平静でないのは明らかだから、頭に過ぎったことをそのまま口にしたのだろうか。だが、この場面にあってはもっとも的外れで無意味で皮肉なことで、アレクサンドルの口元は笑みに似た形に歪む。


「幸福、でございます」


 出発を急ぐ振りをして、彼は無礼にも王に向きなおることをしなかった。だから、それを聞いた王がどのような顔をしていたか、アレクサンドルが知ることはなかった。




 アレクサンドルは、血糊が衣服を汚していないことを念入りに確かめてから側妃の離宮を訪れた。今しがた見たばかりの人の死体に、王から課された祖国への裏切りにも等しい任務に、彼の表情は固く強張っていただろうが――シャスティエは気付いていないようだった。


「小父様。よくいらっしゃってくださいました」


 それどころか彼を迎える微笑みは晴れやかそのもの、曇りはおろか冷たさも一切は感じられなかった。今のこの方を雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)に喩えるのは相応しくないのではないかと思うほど。


「フェリツィアはちょうど機嫌が良いようですの。抱いてやってはくださいませんか?」


 我が子の愛らしさを誇るかのようにフェリツィア王女を差し出してくるシャスティエに、しかし、アレクサンドルはやんわりと首を振る。


「光栄とは存じますが、どうかご勘弁を。この老いぼれは孫を抱いたのも遠い昔のことですので。王女殿下をお預かりするのはあまりに恐ろしい」


 柔らかな赤子を受け取るのが怖いというのは、理由の半分でしかなかった。もう半分の――あるいはより大きな理由は、無垢な存在を抱く資格など彼にはないと思ったから。文書院の長とかいうあの老人、純粋に国を思ったのであろう者の非業の死に安堵し、かつての主君を(しい)した男に従おうとしている彼は、フェリツィア王女に触れてはならないと思えたのだ。


「そうですか……」


 シャスティエは少し残念そうに唇を尖らせたが、それ以上彼に強いることはしなかった。むしろ一時とはいえ娘を手放さずに済んで良かったとでも言いたげにフェリツィア王女に頬をすりよせてうっとりと笑っている。

 イシュテン王の血を引いた赤子をどのように思うか、アレクサンドルは密かに案じていた。だが、生まれたフェリツィア王女は髪も目も母の色を受け継いでいて、父親の顔を意識しないでおくことも容易かった。何より、シャスティエのこの溺愛ぶりを見れば。そしてそれが王に及ぼした影響を考えれば、王女の誕生は喜ぶべきことだったのだと心から思えた。


 やっと娘から目を上げてくれたシャスティエの微笑みは、この上なく柔らかく温かく美しい。


「殿方に抱かれるのにも慣れてもらおうと思っておりましたの。王には毎日会える訳ではありませんし、父親に人見知りをするようでは困りますから。――あの、王子を授かるためには王の覚えが良い方が良いということですのよ?」

「分かっております」


 敵に心を許したと思われるのを恐れたのだろう、慌てたように言い添えたシャスティエに、アレクサンドルは大きく頷いて安心させた。

 娘を抱いて微笑むシャスティエの姿は幸福を体現しているかのようだが、それは薄氷の上のものに過ぎない。依然として母子ともども命を狙われているし、自ら選んだ婚家名の意味もこの方を追い詰めかねない。相手がイシュテン王だと思うと複雑な思いもないではないが――この笑顔は、守らなければならないと思う。


 アレクサンドルは居住まいを正すと、本題を切り出す。


「今日は、暇乞いに参りました」

「え……?」

「王の命でミリアールトへ戻ります。今の総督殿が統治に難儀しておられるのを、助けよと」


 かつてのシャスティエならば、真っ先に祖国で何をするのか、させられるかに関心を抱いていただろうし、アレクサンドルもそれを恐れていた。だが、真っ先に彼女の表情に浮かんだのは、不安の色。ティゼンハロム侯爵の脅威も健在の中、絶対の味方である彼が傍を離れるのを恐れているようだった。


 ――この方は……弱くなった、のか……?


 かつてのシャスティエは誇り高く強かった。それは、誇りに至上の価値を置いて死さえ恐れることをしなかったから。女王としての矜持こそが異国にあってこの方を支え、イシュテン王を動かしアレクサンドルらミリアールトの臣下に命を賭けさせた。だが、守るべきものができた今、同じように他を顧みない振る舞いはできまい。そのことは、ひとりの女性としては幸せを知ったと言えるのかもしれないが、シャスティエの立場では恐怖にもなるのだろう。


「ジュラ殿やアンドラーシ殿もおられます。御身は心穏やかに過ごされますよう……」


 主君を哀れんで、アレクサンドルは気休めのような慰めを口にした。彼が名を挙げた者たちは、王の忠臣だ。側妃を守るのに尽力を惜しまないことについては疑いの余地がない。アンドラーシの妻であるエシュテル――今は婚家名でグルーシャと呼ばなければならないか――も、夫の名に深く頷いている。

 だが、シャスティエの心を落ち着かせることができるかという点については多少心もとない。


「ジュラ殿。あの方は、ご子息の首が座ったらフェリツィアと遊ばせてくださると言ってくださいました……」


 またフェリツィア王女に目を落としながら、シャスティエは彼女自身にも言い聞かせるかのように呟いた。最初は敵として出会い、付き合いも浅い彼らのことを頼り切っても良いものかどうか、迷いと不安があるのだろう。


「王女殿下のお相手です。さぞ名誉なことでしょう」

「ええ、そうね……」


 主を置いて旅立つアレクサンドルにできるのは、フェリツィア王女が受け継ぐイシュテン王家の血を信じ、母にそれを思い出させることだけだ。ミリアールトの末裔というだけではなく、イシュテン王の娘としてならば、この国で守られ忠誠を捧げられても何らおかしいことではないのだから。


「……すぐに発たれるのですか?」

「は。急ぎの命ですので。最後にシャスティエ様と――フェリツィア様にお目にかかれてようございました」

「最後だなんて……」


 シャスティエが眉を曇らせたのを見て、アレクサンドルは密かに慌てた。何気ない言葉の端で主を脅えさせるつもりなどなかったのだ。


「しばらくお傍を離れてしまう、詫びに過ぎませぬ。フェリツィア様が美しくご成長なされるお姿は、臣にとっても楽しみでございます」

「そうね」


 取り繕うように重ねた言葉は、幸いにシャスティエの機嫌を取ることに成功したようだった。フェリツィアは確かに母親に似ている。十年もすれば、きっと誰もが振り返る麗しい少女に成長するだろう。


 彼自身がその姿を目にすることがあるなどとは、微塵も期待していないが。


「慌ただしくて申し訳ございませんが――そろそろ、失礼させていただきます」

「ええ。お忙しいところをありがとうございます。フェリツィア、小父様にご挨拶を」


 シャスティエは娘の小さな手を取ると、アレクサンドルに向けて振らせた。されるがままの赤子の愛らしさも、それを見下ろす母の慈愛に満ちた微笑みも。彼が身命を賭すのに十分すぎる価値がある。


「叔母様によろしくお伝えくださいませ。……いずれ、私もお会いできれば良いのですが」

「必ずお伝えいたしましょう」


 シャスティエの叔母――亡きシグリーン公爵の夫人は、アレクサンドルを糾弾するであろう者たちの筆頭だ。夫と息子たちが命を懸けて守った女王を敵に売り渡し、しかも敵国に置き去りにした、と。彼は憎まれていて当然だ。昨年マズルークを退ける際に、彼の――グニェーフ伯の紋章を掲げて戦ったのも既に伝わっているだろう。


 再びシャスティエに会うことなどは望んではなるまい。だが、彼は祖国を裏切って死ぬのではない。女王が生き延び、そして幸せを掴むために全力を尽くすのだ。シャスティエは娘を得て母として目覚め、それを見た王の心にも変化が起きているようだ。復讐などを名乗るのではなく、生まれた時に望まれた通りの幸せな姫。王の傍らで、シャスティエがそのように生きることができるのならば。


 彼のような老人の命など惜しんではいられない。

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