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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
15. 親と子、夫と妻
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血臭満ちる中で アレクサンドル

 急用ということで呼び出され、王の執務室に足を踏み入れた瞬間――濃い血臭が鼻をつき、アレクサンドルは顔を顰めた。


 ――何事だ……!?


 思わず腰の剣を意識しつつ室内を見渡せば、臭いの元はすぐに知れた。部屋の中央付近に人が倒れている。痩せた、恐らく老人――断言できないのは、うつ伏せで倒れている上に首が落とされているから。髪の薄い頭部は胴から少し離れたところに転がっているが、生憎というか幸いというか、顔は彼の位置からは見えない方へ背けられていた。

 彼を通した侍従の顔がやけに青ざめていた理由は明らかになったが、あまりにも異様な光景だった。アレクサンドルが単に死体や血の臭いで怯むことなどあり得ないが、ここはイシュテン王宮の中でも最も警備の手厚い場所のはずなのだ。


「こちらへ。――()()は気にするな」


 入り口で足を止めてしまったアレクサンドルに、王は無理難題を言うと目線で招き寄せた。やむなく血だまりをなるべく避けて王のもとへと歩むが、それでも足の裏にぬるりと固まりかけた血の感触を覚えて嫌悪が募る。


「お召しに従って参上いたしました」


 従順に礼を取って見せながら、王に非難と疑いの目を向けることを止められない。何しろ彼が入室した時、王は血で曇った剣の手入れをしている最中だった。


 ――このような老人が何をしたのだ……!?


 その剣が絶命している老人の命を奪ったことは明白、たとえ相応の罪を犯した者だと仮定しても、室内で処刑を行うなど常のこととは思えない。イシュテンの中ではかなりまともな人柄の男だと見ていたところにこの凶行だ。こんなことをする男とは思わなかった、と──祖国の仇に対しては考えるのは不覚なのかもしれないが。何か裏切られたような気分にさえさせられる。


「その者は文書院の長を任せていた。国事に関わる諸々の文書や王宮の蔵書の管理をしていた者だ」


 アレクサンドルの無礼とも言える目には気づいているだろうに、王は咎めず淡々と述べて剣を鞘に納めた。ちらりと見えた剣身にはもう一転の曇りもなく、つい先ほど人の命を奪ったことを感じさせない。


「側妃のことで奏上があるからと謁見を申し込んできたので会った。――何の話だったと思う?」

「いえ……臣には何も……」


 不意に、王の目に激しい怒りのような激情が渦巻いていることに気付いて、アレクサンドルは思わず言葉を詰まらせた。無抵抗の――そうとしか見えない――老人が斬られた場面を目の当たりにして、彼の方こそ憤っているはずだったのに。ただ、彼の女王にまつわることだと聞かされて心臓が不穏な軋みをあげる。

 緊張に全身を強張らせたアレクサンドルに、王は軽く嗤うと次の問いを突き付けた。刃のように鋭く、貫くような強い眼差しと共に。


「側妃の名にただならぬ意味が隠されていると言ってきたのだ。クリャースタ・メーシェは復讐を誓う、との意味だというのは本当か?」




「それは……」


 無為に喘ぎを漏らして時間を稼ぎながら、アレクサンドルは奇妙なほど穏やかに納得していた。

 シャスティエの懐妊以来、王の彼女に対する態度はかなり柔らかくなっていた。シャスティエの方も、近頃は生まれたばかりのフェリツィア王女が愛しくてたまらなくなったようで、先日訪れた時には花が綻ぶような柔らかく慈愛に満ちた微笑みを見せてくれた。あの微笑みは、きっと王の心をも動かしたのだろうに。そこへ婚家名の忌まわしい意味を知らされたとあっては、王が激昂するのも無理はない。それを知らせた者を、怒りに任せて叩き斬ってもおかしくないほどだ。


 絶句する彼の表情で察するものがあったのだろう。王は軽く息を吐いた。一瞬だけ目を伏せた姿に、悲しみのようなものが見えたのは気のせいか。


「本当、なのだな。まあその者の知識からも間違いはないだろうと思ったのだが」

「は……」


 アレクサンドルが漏らした声は、返答と呼べたのだろうか。礼を失した応答もやはり責められることはなく、王は問いを重ねてくる。


「あの女の考えか? そなたは止めなかったのか?」

「それは」


 端的な問いに、そして王の気迫に、偽りを考え出すような余裕は一切なかった。だからアレクサンドルは言われたままに記憶を辿り、思い出した事実を語る。


「ミリアールトが逆らって、あの方が説得に訪れた時のことでした。あの方は仰ったのです。側妃としてイシュテン王に侍り、子を成す。そのことによってミリアールトの王家の血を繋ぐのだと。そしてもしそれが叶わずとも、イシュテンの歴史に復讐の名を刻むことでミリアールトの矜持を示すのだ、と……」


 あの時のシャスティエの纏っていた威厳、見せた矜持と覚悟のほどは、その場にいたミリアールトの臣下たちを圧倒したのだった。イシュテンに何もせずに屈するのを厭うと同時に、若く美しい女王を、誰も死なせたくなかった。そのような思いを抱えた者たちに、シャスティエの言葉は大層甘美なものでもあった。だが、今となっては何としても止めるべきだったのだろう。


「あの女らしい考えではあるな……なぜ露見しないと思えたのだ?」

「イシュテンの気風からして、他国の言葉など興味を持たれまいと考えておりました」

「確かに。俺もつい先ほどまで想像だにしていなかった。その者はまったく余計なことをしたのだな」


 王は嘲るような一瞥を、文書院の長とやらの死体に向けた。しかし、側妃の裏切りとも呼べる行いを告発した者を、その勇気と忠誠を――衝動的に死を与えたとはいえ――嗤うことなどあるまい。王の嘲笑は、浅はかな企みを巡らせたミリアールトに向けられているのだろう。


「イシュテンの気風がどうであれ、一生隠しおおせる訳でもあるまいに――雪の女王に捧げる祈りの言葉だ、などと……! バカだバカだとは思っていたがここまで愚かな女だったとは。しかもそなたも同類か」

「申し開きのしようもございませぬ」


 雪の女王への祈り、とはシャスティエとアレクサンドルが謀って決めた言い訳だった。カーロイの姉エシュテルが、グルーシャというミリアールト語の婚家名を授かったことで、クリャースタ・メーシェの名が改めて取りざたされる恐れもあると考えたから。心情としては真実だが、誰に聞かれても問題がないように、あらかじめもっともらしい由来を用意しておこうと考えたのだ。


 ――だが、それも無駄なことであったか……。


 従順に頭を垂れながら、アレクサンドルは王を殺せるかどうかを冷静に吟味していた。王は磨き上げた剣を鞘に収めて膝の上に置いたままだ。座った体勢でもあり、抜剣するまでには一瞬の隙が生まれるだろう。そこは立っているアレクサンドルの方が有利――だが、老いによる衰えを補うほどの利点だろうか。王が優れた剣の腕を持っているのは彼も良く知っている。

 更に、仮に王を斃すことができたとしても、シャスティエを救い出すことはできるだろうか。誰にも見咎められることなく離宮までたどり着いて、密かに女王と、できればその子、そしてイリーナを逃がしたい。幸運というよりは虫が良いとさえ言える願いだろう。しかし、何としてもやり遂げなければ。王の怒りがシャスティエにぶつけられる事態は何としても避けなければならないのだ。


「まあ過ぎたことは仕方ない。だが、リカードにだけは知られる訳にはいかぬ。隠すのに協力せよ」

「は……?」


 いつ、何を切っ掛けに剣を抜くか。それだけを考えていたから、アレクサンドルは王の言葉に反応するのに遅れた。すると王は一層苛立ったような表情を見せる。


「あの女が糾弾されるのはそなたも望むまい。その男が真っ直ぐに俺に奏上したから良かったものの、もしもリカードの方に駆け込んでいたら庇えなかったかもしれぬのだぞ」

「ティゼンハロム侯爵。確かに、そうですが……」

「リカードさえ排除すれば多少のことは言いがかりとして捨て置くこともできる。当座の時間稼ぎに過ぎないだろうが、手を打たねば」


 遥かに歳下の王に、物分かりの悪い子供に対するような噛んで含めるような物言いをされて。それでもなお、アレクサンドルの頭は上手く言われた言葉を飲み込んでくれなかった。ただ、ふと疑問が脳裏に閃く。


 ――なぜ……シャスティエ様ではなく私を呼んだ……?


 復讐を名乗らせたのは彼だと考えているのかもしれない、と最初は思った。しかしそれにしては先ほどの問いかけは彼というよりシャスティエに焦点を当てたものだった。何より、王の気性ならば彼を呼び出して嬲る暇があるなら直接シャスティエに問い質しそうなものだった。

 ならば。信じがたいが――


「あの……シャスティエ様――クリャースタ様のこと、お怒りではないのですか……?」

「好かれるはずがないことは承知していた」


 彼自身ひどく間の抜けたように思える問いに、王は眉を上げ、口元をひきつらせた。


「だから婚家名の意味などは大したことではない。だが、リカードはそうは思うまい。そう、だから厄介なことをしてくれたという点では怒っている」


 ――ああ、この男は……。


 かつてなく早口に、(まく)し立てるように言ってのけた王に、アレクサンドルは何となく悟るものがあった。先ほどから見せていた怒りも嘲りも、王自身に向けられていたのだ。恐らくは、シャスティエに心を傾けすぎたことに対して。口ではどのように言っていても、王は裏切られたと思ったのだろう。

 最近のシャスティエの笑顔――特に御子に向けるもの――があまりにも美しく慈愛に満ちたものだったからもあるのだろうが――呆れるほどの思い違いだ。


「恐れながら陛下――陛下はあの方の全てを奪われたのです」

「だが、命は助けた。妻に迎えて子まで成した!」


 だから許されたと思っていたのだろうか。身体を重ねた女に情が湧くのは、彼としても覚えがない訳ではないが。シャスティエがそのように柔らかな気質の姫でないことは王も分かっていただろうに、シャスティエの美貌が王の眼を曇らせたのか。いや、むしろあの微笑みが、なのだろうか。


「敵に情けをかけられたとして、陛下は喜ばれますか。あの方も同じことです」

「…………」


 唇を結んで黙り込んだ王の表情は、まるで拗ねた子供のようで新鮮だった。


 ミリアールトの先王はアレクサンドルにとって剣を捧げた主君だった。その弟であるシグリーン公爵もその子息らも、長く成長を見守ってきたし、剣を教えることさえあった。彼ら全てを踏みにじった王に対して、彼も復讐を望んできたというのに。今の王は思いあがった矜持を叩き折られたただの若者だった。

 最初に入室した時、老人を手に掛ける残虐な王だと蔑み嫌悪したのもこうなると話が変わってくる。イシュテンを憂えた忠臣ともいえる男は、無残な死体を晒している。アレクサンドルは、それを喜ばなければならないようだった。


「なぜその者を殺められたのですか」


 その問いへの答えは、半ば予想できてはいたが。王の言葉で聞きたかった。知られてはならないはずの復讐が知られてしまった危機が、どうも思っていたのと違う方向に進んでいるようだから。希望を持っても良いのかどうか、確かめたかったのだ。


「……妻と子に危険が及ぶかもしれないと考えた時には手が動いていた。殺さなくても良かったと、今は思うが……」


 王が青灰の目に浮かべた感情は、先にアレクサンドルが抱いたのと同じ嫌悪なのだろう。この男は、跪く者を斬るのは恥だという感覚を持ち合わせているのだ。にもかかわらずこれをしたのは、シャスティエへの情がそれだけ深いと思って良いのだろうか。


 ――手を打つ……どのような策が、あり得ると考えているのか……。


 憎い敵の慈悲に縋るのは、シャスティエならば屈辱と思うだろうが。だが、王の変化はアレクサンドルに一抹の希望を抱かせる。復讐などではなく、美しい王女が誕生の際に願われた通り、あの方は幸福を掴むことができるのではないか、という。


「――そのようなことは良い。そなたの主のために、力を尽くす考えはあるか?」

「は。何なりと命じてくださいますよう」


 王の眼からは迷いも悩みも一瞬にして拭われて、常の(ファルカス)の獰猛さを取り戻していた。かつては忌まわしく思ったその強い眼差しに、だが今は、アレクサンドルは従順に膝をつく。王の強さがシャスティエを守るであろうからこそ、口先だけではない忠誠を捧げなければならないと思えた。


「そなたにとっては祖国への裏切りになるだろうが――」

「今さら、でございます。既に女王を売り渡し敵のために剣を振るったと(そし)る者もおりましょう」


 そしてそれは一面の事実でもある。彼自身、女王の身体を差し出してまでの復讐など間違っていたのではないかと幾度となく考えたのだ。女王を守るためと言いながらイシュテンのために戦い、イシュテンに絡め取られてきた。今は、単なるシャスティエの無事だけでなく、将来に渡って御子と共に安らかに過ごせるかどうかがかかった時だ。老いぼれの命ひとつくらい賭けずしてどうするというのか。


 低い位置から見上げた彼の思いを、王は確かに受け止めたようだった。ひとつ、深く静かに頷いてから口を開く。低く抑えた声は、王自身これから口にすることの重さをよくよく承知しているからだろう。


「これはそなたにしか頼めぬこと。――一度ミリアールトに戻れ。そしてイシュテンとの交流において、一切のミリアールト語の使用を禁止させよ」


 女王のためならば何でも、と覚悟していたアレクサンドルにとってさえ、その命は石のように重くのしかかってきたのだから。

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