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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
15. 親と子、夫と妻
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奏上 文書院の長

「陛下がお会いになるそうです」


 彼はその触れを自身の死刑宣告のように聞いた。


「今すぐに、でしょうか」

「はい。お時間は取れませんので急ぐように、とのことです」


 分かりました、と答えながら彼は心中で絶望に呻いていた。


  ――まさか、本当に王との謁見が叶うとは……!




 彼はイシュテンの文書院の長だ。歴史書や法律、各種の記録の編纂や管理保管を任せられている。他の国ならばともかく、文官を軽んじる伝統のあるこの国ではさして重要な役職ではない。

 そもそもイシュテンでは学問で身を立てる術がほとんどない。武人が嗜みとして歴史や兵法を学ぶことはあるが、彼のように文の道だけを究めようとする者は惰弱とされ見下されがちだ。

 そういった()()()たちは他国へと留学し、そこで職を求めるのが常だ。彼もブレンクラーレの学芸都市、グラーフェンベルクの大学で学んだ。今この地位にいるのは、つまり彼の地では大成できなかった落ちこぼれだということになる。

 とはいえ、彼は今の環境がそれなりに気に入っている。閑職ではあるが、それだけに暇な時間は思索に費やせる。妻子を得る機会には恵まれなかったが、その方が気楽と言うものだ。代わりにというか弟子と言っても良い関係の部下もいるし、遠国の旧友と書簡を交わすのも楽しい。資料の名目で好きな書物を取り寄せることもできる。彼の書庫は、彼にとって一種の聖域、血と剣と争いを好む王侯にも踏み入られることのない城砦なのだ。




 だから、その男が最初に彼の下を訪れた時、彼は聖域への闖入者を冷たくあしらった。


『ミリアールトの元王女が、無聊をかこっておいでです。読書を好まれる方なので、書物を貸していただきたいのですが』


 彼はその男の姿を見て露骨に顔をしかめたものだ。王の側近だからといって、その男自身の地位も権力も大したものではないのに、強引に押し込んできたようなものだったから。中性的な整った顔立ちに柔らかな物腰は、武人の中ではまあマシな部類なのだろうが、彼の聖域に血と泥の臭いを持ち込んで欲しくはなかった。青年の用件そのものも気に入らなかった。ここは学問のための場所なのだ。甘い詩集も心ときめくような恋物語も、分かりやすい絵本の類も一切置いていないのだ。


『あいにく、ここには若い女性の好みそうな書物はありません。そもそもミリアールト語のものがそんなに――』

『ご要望は承っているのです。題名を確認していただけますか』


 痩せこけた老人だから侮られでもしたのか、その男はあっさりと彼を遮った。そしてその口から出た書名に、彼は顎を落としたのだ。オトラントの哲学の大書。ブレンクラーレの大王が遺した書簡をまとめたもの。老若、貴賎を問わず、およそ女性が読むものではない。


『本当に王女がそんな本を……私をからかっているのでは……』


 男は皮肉っぽく唇を歪めた。


『私は無学なもので名著の題など知りません。外国語の知識もないので耳で覚えた言葉をお伝えしているだけなのですよ』


 武人を厭う自分の心を見透かされて、彼は鼻白んだ。そこへ、男はさらに追い討ちをかける。


『ちなみに姫君は我が国の蔵書にはあまり期待していらっしゃいません。今申し上げたのは古典だからまああるだろう、と仰ったもの。本当に今お読みしたいというものは別に伺っていますが、聞きますか?』


 続けて言われたのは、確かに最近発表されたばかりの題名の数々だった。衝撃から立ち直った後、彼は書庫を駆け回って所蔵しているものは男に渡し、ないものについては必ず取り寄せて届けると約束した。

 わざわざこちらの矜持を刺激するような言い方をしたあの男が、なかなかに食えない性格をしている、と気付いたのは後になってからだった。




 取り寄せた書物が到着したことを知らせると、男は再び彼の書庫を訪れた。新しい書物と、先に渡したものを交換する。この間に件の姫君が読み終わっていたのだとしたら、かなり読むのが早い。


『ミリアールトでは女性も学問をするとは聞くが……一体、どのような姫君なのだ』


 呆然と呟く彼に、男は肩をすくめてみせた。


『いわゆる普通の姫君ではないですね。とりあえず、大変知性に富んだ方だとは思います』


 その言葉に浮かんだのは、男勝りの大柄な女か、魔女のような痩せこけた女の姿。だが、容姿などどうでもいい。かの姫君は、今のイシュテンでおそらく唯一、彼と興味を共にできる人だ。


『ご依頼の書物はまだ全て届いていない……。全て届いた時にはまたご連絡しよう』


 その時には、姫君との縁も切れてしまうのだろうか。そのことが惜しくてならなかった。




 取り寄せていた書物が全て揃った時、彼は悩んだ末に、その本に関する彼の所見を手紙にして添えた。余計なこととは思ったが、かの姫君がどのような考え方をするのか、あわよくば答えがもらえるかもしれないと期待してしまったのだ。

 果たして、ほどなくして例の男が返信を携えて訪ねてきた。あからさまに面倒そうな顔をした男から奪い取るようにして手にした手紙には、彼の骨折りに対する丁寧な礼と、彼女自身の見解が上品な手跡でしたためられていた。

 その日以来、彼は折に触れてその手紙を繰り返し読み返すことになる。顔も知らない姫君に、彼は年甲斐もなく恋をしていたのかもしれない。

 いや、彼女の容姿を見たことがないことは何の障害でもなかった。美しく、深い教養と彼のような者にも与えられる気遣いを備えた女性だというだけで充分。むしろ、実際の姿を知らないからこそ好きなだけ理想の女神の姿を思い描くことができた。

 彼にとって、かの姫君は知恵の女神になったのだ。




 彼がその姫君の容姿を知る機会は思いがけない人物から与えられた。王弟でありながら不具ゆえに長く不遇をかこっていたティグリス王子――あの方も、イシュテンの貴顕には珍しく学問に興味を示していて、彼とも交流があったのだ。あの穏やかで思慮深い方がどのような最期を迎えたか。そのことを思うにつけても、彼の胸は痛むのだが。とにかく、先王の墓参ということで久しぶりに王宮を訪れたティグリス王子は、彼のところにも挨拶に来てくれたのだ。そして、ふとこんなことを尋ねてきた。


義姉(あね)上にご挨拶に伺ったら珍しい方に出会った。ミリアールトの元王女殿下。兄上が大事になさっているというが……何か噂は聞こえているか?」

「お心を慰めるためにと書物をお届けしました。姫君が読まれるとは思えないようなものばかり――大変、聡明な方だとお察し申し上げました』


 年寄りが高貴な姫君に手紙を書いたなどとは恥ずかしくて口に出すことはできなかった。ティグリス王子は幸いに彼の顔が赤くなっていることには気づかずに、ただそうだね、と呟いた。


『お話したのはわずかな時間だったが大変に気丈な方でもあった。雪の女王の化身と呼ぶのにあれほど相応しい方もいまい』

『雪の女王』

『ミリアールトでは美しく若い女性を雪の女王に喩えるのだとか』

『それは存じておりますが……』


 高い知性と女神に比べられるほどの美貌を同時に備えた女性がいるなどと、彼は想像もしていなかったのだ。予期せぬ情報に言葉を失った彼を他所に、ティグリス王子はどこか夢見るような面持ちで続けた。


『月の光のような金の髪に、宝石の碧い瞳――兄上が命を救ったというのも頷けるお美しさだった……』

『そう、でしたか……』


 母君の寡妃太后(かひたいこう)の目を憚って、ティグリス王子は女性に近づくことを自らに厳しく禁じていると彼は知っていた。そのティグリス王子をしてこのような顔をさせて、このように語らせている――その美貌を思って、ミリアールトの姫君は彼にとって一層神聖な存在に思えるようになった。女性をほとんど知らない彼の想像など及ばぬほどに、かの姫君は美しいということなのだろう。知恵の女神の夢想に、月の女神が加わったのだ。




 そしてかの姫君が側妃に召されたと聞いたときも、彼は素直に喜んだ。

 王宮深くに捕らわれる高貴な人質だろうと、王に仕える側妃だろうと、どのみち会える見込みがないことに変わりはない。イシュテンで確かな地位を得ることができたなら、祝うべきことであろうと思われた。

 根っからの武人の王もかの人の教養には感じるところがあったのではないか、とか。難しいことなど考えたことがなさそうな王妃にも良い影響を与えるのではないか、とか。そんな都合の良いことを考えた。ミリアールトの乱を収めるにあたって、王やティゼンハロム侯爵をも納得させる弁舌を振るったと漏れ聞いたことも、彼の姫君に対する信仰を高めていた。


 だが――その勝手な信仰のためにこそ、彼は今の苦悩を負わされてしまった。


 彼女の側妃としての名の意味を調べてみよう、と思ったのはほんの出来心だった。王家に仕える女性にしては珍しく母国語――ミリアールト語の名を許されたのが興味深かったのと、かの姫君ならば何か雅な意味のある名を選んだのではないかと思ったのだ。ミリアールト語は彼にとっても簡単なものではなかったから、間にブレンクラーレ語の辞書を挟みつつ、文字の違いやどの品詞でどのような活用なのかに頭を悩ませて。それは、暗号を解読するかのように歯ごたえがある充実した時間だった。少なくとも、それ自体は。


 そして、とうとう側妃の名の意味を理解した時――彼は後悔した。


 ――私は(ヤー・)復讐を(クリャースタ)誓う(・メーシェ)


 何度辞書を引き直しても、何か良いいわれがないかと調べても、その音の並びの意味は他に解釈のしようがなかった。

 彼の月と知の女神は、禍々しく恐ろしい復讐の女神となった。


 それ以来、彼はかの姫君の影に怯える日々を過ごした。

 復讐を名乗る女が王に、そしてイシュテンという国に対して何を企んでいるのか、想像するのが恐ろしかった。よく考えてみれば彼女は祖国を滅ぼされ、親兄弟を殺されたのだ。恨みに思わないはずがない。


 ――王を害する気か。男子に恵まれた暁にはその子を害するのか。それとももっと恐ろしいことを……!?


 イシュテン人としては変わり者とはいえ、彼は国に対しても王家に対しても敬意と愛着を持っている。それらに対して明らかに悪意を持つ者の存在を知った今、誰にどう訴えれば良いのだろう。しかも、その人は彼がかつて慕った人なのだ。

 かの姫君の名の意味を知ることができる――つまり、側妃の名を知った上でその意味を調べることができるのは、彼くらいではないか、と気付くと、恐れは一層深まった。側妃の名などいちいち大々的に広めることではないし、ミリアールト語の素養を持つ者は国の中にも数えるほどしかいないのだ。




 彼は側妃についての噂を聞くたびに寿命をすり減らす思いがした。


 王が度々通っているようだと聞けば懐妊してくれるなと祈った。

 懐妊したと聞けば、流れれば良い、ティゼンハロム侯爵が無事に産ませるはずがないと考えた。憧れた人の不幸を願う後ろめたさ以上に、復讐を志す母が腹の中で何を育てているのか、考えるのが怖かった。


 ティグリス王子の反乱も、彼の苦しみをいや増した。あの穏やかだった王子が反逆などを目論むはずがない。側妃が王子を生むことを恐れた周囲の者たちによって祭り上げられただけなのだろう。ティグリス王子もミリアールトの姫に仄かな憧れを抱いていたようだったのに、その姫こそが彼を死に追いやった。そのこともまた、側妃の禍々しい名がもたらしたことのように思えてならなかった。


 彼女が無事に臨月を迎えた時には、女児ならば問題ないだろう、という気持ちと男児なら神がその運命を認めたことと信じよう、という気持ちの間で彼は引き裂かれた。王がかの姫君を寵愛し、天が男児を授けるというのなら。彼女の憎しみを知った上で、神はこの国を護ってくれるということなのだろうと、信じたかった。

 それはつまり、彼女の悪意を暴く役目を彼が負いたくなかった、そうしなくてすむ口実を必死に探していたということなのだろう。




 そして彼女が王女を産んだと聞いたとき、彼はひとまず安堵した。王女ならば王位と国の未来には関わらない。彼女が復讐を企んでいるとして、王女はその駒ではないだろう。

 だが、同時に思った。この先彼女がまた懐妊したら? 次こそは男児だったら? 


 ――耐えられない。


 そう思った。言うべきか。言わざるべきか。訴えるとして、誰にどのようにして。

 この先側妃について聞くたびに思い悩むのは、彼のような小人にとって荷が重すぎる。そこで彼は王に謁見を願い出ることにした。


 ――側妃様のことで申し上げたきことがございます。


 書面で訴えずに面会を求めたのは、あまり多くの者に知られたくないからというのもあるが、それよりも王に決定を委ねる気持ちが強かった。更に言うなら、彼は王が無視することを期待していた。訴えようとしたが叶わなかったという体裁を取ることで、彼の責任を果たしたと思いたかったのだ。




 だが、王は彼に会うという。


 ――まさか、本当に王との謁見が叶うとは。


 王の執務室に至る道中、彼は心中で何度となく繰り返した。

 彼の知る王は、文官からの曖昧な具申に耳を傾けるような人ではない。そのことがまた彼を悩ませる。王のかの姫に対する寵愛はそれほどまでに深いのだろうか。それならば、彼が言おうとしていることは必ず王の不興を買うだろう。諫言は往々にして君主の耳に痛いものだ。

 自身が罰せられる可能性に思い至って、彼の足は震えた。しかし今更引き返すことはできない。執務室の扉が、無情にも開く。


「俺に話したいことがあるとか。さっさと言うが良い」


 ――王をこれほど間近に見るのは初めてだ。


 若く強く、精気と覇気に溢れた美丈夫。年老いてしなびた彼とはまるで違う。その名の通り狼のような鋭い目で射抜かれて、自然と膝をつく。生まれついての強者、王の目。その目の前に、隠し事などできはしない。


「……別に咎めようという訳ではないぞ。そなたは側妃のために手を尽くしてくれたことがあったとか。あれが何を喜ぶのか、俺はいまだによく分からぬ――だから、助言があるならば是非聞きたい」


 王の覇気に気圧されて平伏するしかできない彼に掛けられた言葉は思いのほか優しく、だからこそ彼の絶望を一層深めた。王は側妃を疑っていない。それどころか、イシュテンの王たる御方がひとりの女にこうまで心を砕いているなど並の寵愛ではないのだろう。


「人払いを、お願いいたします……」


 王は目線一つで侍従と衛兵を下がらせた。このように図々しい願いも、あっさりと叶えられてしまうとは。


 ――いよいよだ。いよいよ言わねばならぬ。


 極度の緊張に鼓動が高まり、顔面に血が集まる。背を冷や汗が伝うのを感じる。口の中が干上がって言葉が詰まるが、それでも感じる。王の目が彼に早く言えと命じるのを。

 唾を飲み込み、彼はかすれる声を張り上げた。


「陛下に申し上げます――!」

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