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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
15. 親と子、夫と妻
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子らへの希望 アンドラーシ

「羨ましいぞ!」


 アンドラーシが何度目かに叫ぶと、ジュラは面倒そうに顔を顰めた。


「お前が聞きたいというから話してやっているというのに。うるさいとこれ以上は教えんぞ」

「羨ましいものを羨ましいと言って何が悪い。俺だって早くフェリツィア様にお目通りしたいのに」

「自分の子もいない男に王女殿下を見せられるか。クリャースタ様もそのようにお考えなのだろう」


 そう、ジュラは臣下の誰よりも先にフェリツィア王女への拝謁を許されるという栄誉を賜ったのだ。奥方が出産を無事に終えたばかりで話を聞きたいということに加えて、ジュラもクリャースタ妃の覚えがめでたいから特に名指しで夫婦して呼ばれたということだった。


「陛下の打診は断ったと言っていたではないか。奥方は気が変わったのか」


 ティグリスの乱が収束した後、王はジュラの奥方もクリャースタ妃に仕えるように内々に要請していたという。命じなかったのは、奥方自身も出産を控えていたから強要することはしない、という王の気遣いだったらしい。実際、ジュラは奥方を慮って固辞していたと聞いていたのだが。


「クリャースタ様のご気性ではあれには厳しいかと思ったからな。一日限りならばまあ耐えられるだろうと思ってお受けしたが――あの方も、母になって変わられたな」

「そもそもあの方はそう恐ろしい方ではないぞ。可愛いらしいところもちゃんとおありだ」

「それはお前が不遜だからそう思うだけだ」


 クリャースタ妃は、女神のごとき麗しい容姿だけでなく、王にはっきりと諫言する気の強さと、更にその諫言を取り入れられるだけの見識を持っている。……と言われている。また、そのように語られる時には、美しく聡明かもしれないが扱いづらく可愛げがない、という揶揄が多分に含まれている。だが、あの方は決してそのように冷たく近寄りがたいだけの人ではないのだ。


 ――さすがに陛下は分かっていらっしゃるだろうが。


 アンドラーシは、一度だけだがクリャースタ妃が心から笑うのを見たことがある。氷の像が微笑むような冷ややかなものではなくて、年相応の少女の顔、雪どころか春の風さえ呼びそうな柔らかく温かく愛らしい微笑みを。


 あの表情を見れば、あの方が冷たく高慢な性質などとはもう思わないだろうし、王が最近側妃の離宮により頻繁に通っているのも、あの方の笑顔を知っているからこそだろうと思う。


「――どこまで話したのだったか?」


 どうやらジュラはアンドラーシの言葉を聞き流すことに決めたらしく、酒杯を持ち上げて喉を湿した。ちなみにここはアンドラーシ自身の屋敷、妻のグルーシャは離宮に勤めていて独り身時代のようなものなので、赤子の養育に忙しい屋敷の中で居場所を失くしがちなジュラを招いたという事情だった。育児に父親の出番は少ないだろうから避難してくれば良い――などというのは建前で、実のところはアンドラーシの方こそクリャースタ妃とフェリツィア王女の様子を聞きたくて堪らなかったのだ。

 それは、妻が休みをもらった時に好きなだけ聞けば良いのだが。だが、次の休みはまだ先だし、男として友としてジュラが生まれたばかりの王女をどのように語ってくれるか、それもまた楽しみだった。


「フェリツィア様を抱かせていただいたと。奥方と、交互に」

「そうだな、クリャースタ様に是非にと仰っていただけて」


 それでアンドラーシは羨ましいと声を上げたのだった。赤子の愛らしさは彼には今ひとつ分からない――犬猫の仔の方が分かりやすくふわふわとしていて可愛いと思う――が、クリャースタ妃に我が子を委ねるほどの信頼を寄せられたということは羨ましい。


「いや、だからお前は赤子の抱き方も知らないだろうが。もうしばらくすれば臣下へのお披露目もあるだろうが……お前に触らせるのは恐ろしいと、陛下でもお考えになるだろう」

「俺は当分()()の機会もなさそうだ。次のご懐妊はしばらく先になりそうだと言われたからな、グルーシャを乳母に推すならよく機を狙わなくては」


 彼の()()は妻だけでなく友人に対しても何度となく口にしていることだった。妻を乳母として使えさせることで、王の御子が赤子の折から自身の子に近しく仕えさせる、、という。グルーシャは辛抱強く聞いてくれるが、ジュラは露骨に呆れた顔を見せた。


「まだ諦めていないのか……」

「それは、せっかく妻がクリャースタ様に仕えているのだからな。あの方としても気安い方が良いのではないか?」


 次はまだ先、などと言いつつも、次にグルーシャが休みを取って屋敷に帰ったら、また説得してみようか、とさえアンドラーシは考え始めていた。女が子を生むのは一生にひとりということもないのだし、グルーシャ自身が言っていたようにその中の一度だけでも王子か王女と同じ時期になれば良いのだ。とりあえずひとりは子がいた方が、後々乳母を任されやすいのではないだろうか。

 そのように思い始めるほどに、夫婦揃って王の妃に招かれたという友人の話は羨ましかった。アンドラーシは人質時代からクリャースタ妃と個人的に言葉を交わすことを許されていたし、グルーシャも信頼されているのは分かっているが。それでも、まだ夫婦として挨拶に上がったことはないのだ。


「そういえば、クリャースタ様にフェリツィア様をくれぐれもよろしくとのお言葉を賜ったぞ」

「……そうか」


 彼の思いを読み取ったのか、ジュラも珍しく煽るようなことを言ってくる。やたらと嬉しそうな表情は、賜った言葉を光栄に思っているのか、無事に子を授かった喜びの一環なのか。アンドラーシにはまだ分からないが。


「王女とはいえイシュテンの王族だから、と。息子ともども守り仕えて欲しいと仰っていただけた」

「……そうか」


 そうだ、ジュラは幸いに男子に恵まれたのだった。親子二代に渡っての忠誠を期待されたとなれば自慢にもするだろうし、事実アンドラーシも早く同じ列に並びたいと思ってしまっている。しかし、ジュラの言葉には、また別に気づかされることもある。


「クリャースタ様がそのように仰るとは――王妃と争う覚悟を決められたのかな」

「かもしれぬな」


 アンドラーシが呟くと、ジュラも得意げな表情を改めて重々しく頷いた。クリャースタ妃の言葉に、戦いが近いことを思い出させられたのだろう。


 フェリツィア王女を守って欲しい、とは漠然と忠誠を求めるだけの言葉ではないだろう。王女と――それに、母君であるクリャースタ妃も、現実に危険に晒されている。王妃の父である、ティゼンハロム侯爵リカードによって。イシュテンの王族であることを理由に忠誠を求めるならば、本来ならば王妃の血を引くマリカ王女も同様に守られなければならないのだろうが、クリャースタ妃は特にフェリツィア王女だけを守るように乞うたのだという。それはつまり、リカードや王妃と争うことになってでも娘の側について欲しい、ということではないのだろうか。


 ――やけに王妃の肩を持たれると思っていたが。ご自身の御子を持たれると変わられるのだな。


 クリャースタ妃の変化を、アンドラーシは身勝手だとは思わない。むしろ彼は、あの方は何も知らないできない王妃に対して甘すぎると思っていた。彼としてはあの方を一目見た瞬間から王の傍らに相応しい人と見ていたのに。クリャースタ妃自身でもそのように振る舞うことを決めてくれたというなら、願ってもないことだった。


「――リカードがまたうろつき始めたな……」

「ああ。前ほどの取り巻きはいないようだが」


 王の子の命を狙った――というか、表向きは使用人がそうするのを見過ごしたということにされた――咎で、リカードはしばらく自領に引きこもって謹慎していた。だが、フェリツィア王女が無事に生まれたことで、あの厄介な老人はまた蠢き始めたのだ。娘の体面を傷つけられた腹いせに、クリャースタ妃もフェリツィア王女も葬り去ろうと考えているのだろうに、表向きは祝いの言葉を述べているのが白々しくも腹立たしい。


「早いところ理由をつけて討ってしまえば良いのだ。生かしておいたところで害を為すだけだろう」


 リカードさえいなくなれば、クリャースタ妃も心安らかに御子の養育に専念できるだろうに。先日グルーシャが言ったことを思い出して、アンドラーシは酒を呷りながら愚痴る。彼としても、誰もが隙を窺い本心を探り合うような王宮の空気はやりづらい。戦いが始まってしまえば、目の前の敵に対して剣を振るえば良いだけだから簡単なのに。


「陛下としても機を窺っておられるのだろう。御子が脅かされること、あの方が誰よりご不快に思召しておられることだろう」

「それはそうだろうが……」


 アンドラーシが逸り、ジュラが宥める。その後のやり取りは、彼らの間ではよくある流れのものとなった。そして話題も、次第に子供のことから戦いに向けての備蓄だとか訓練の具合だとかに移っていったのだった。




 数日後、アンドラーシは王の執務室に呼ばれた。


「お前、あの女の笑ったところが可愛いだとか言ったことがあったな」

「クリャースタ様のことでしょうか。それは、確かに」


 跪いた彼が立ち上がるのを待ちもせず、王が開口一番に言い放ったことはジュラと飲み交わした際の話題と通じていて、アンドラーシは思わず笑った。すると王はなぜか顔を顰めて問いを重ねてくる。


「一体いつのことだ。いつの間にあれのそのような姿を見た?」

「それは――」


 改めて聞かれて、アンドラーシは記憶を探った。あれは、確か――


「ミリアールトの乱の報を受けて、あの方を広間に召された……その後のことだったかと。あの時クリャースタ様は見事に陛下を説得なされて、乱を言葉で収めると言ってのけられました。その高揚もあったのでしょう、それは晴れやかな笑顔を見せてくださいました」

「あの時か……」


 女の進言を受け入れた記憶は、王にとっては腹立たしいものだったのだろうか。主君が忌々し気に唇を歪める様子を見て、アンドラーシは少し笑う。


「なぜ、今さらそのようなことをご下問になりますか? クリャースタ様と、何か?」

「大したことではない。夫もつい最近まで見たことがない姿を、どうしてお前風情が見たのか不審に思ったというだけだ」

「は――?」


 ――見たことがない? 陛下が?


 クリャースタ妃とは仲睦まじく過ごしているものとばかり思っていたのに、ならば最近あの方について語る口調が柔らかかったのはどういうことなのだろうか。クリャースタ妃の方も、御子を儲けた相手に対して、笑顔ひとつ見せないということがあるのだろうか。いや、つい最近まで、ということだから王はあの方の笑顔を見ることは見たのか。ならば思い当たる原因はただひとつ。


「……フェリツィア様がお生まれになったから、ということでしょうか」

「そうだ」


 王は相変わらず苦虫を噛みつぶしたような顔つきで頷いて、アンドラーシを困惑させた。


「俺に対してはいつも刺々しい態度だったくせに、娘に対しては蕩けるような顔で微笑みかける。確かに可愛いだけに面白くない」

「それはそれは……」


 王の声も表情も苦り切ったものだった。が、言う内容は惚気にしか聞こえなくて笑いを噛み殺すのに苦労する。王は刺々しい態度()()()、と言った。つまりはクリャースタ妃は娘だけでなく王に対しても笑顔を見せるようになったのではないだろうか。主君とその妃、ともに忠誠を誓ったふたりが絆を深めていっている――臣下として、これは喜ばずにはいられない。


「まあ、そんなことはどうでも良い。お前を呼んだのは別の用件だ」

「はい、何なりと」


 王に睨まれたから、アンドラーシの笑いは隠し切ることができなかったのかもしれないが。ともあれ、王に指名されて命じられるということがあるのもまた、彼にとっては至上の喜びなのだ。


「お前は以前、側妃のために書物を手配したことがあったな。その時に頼ったのは文書院の長だったか?」

「はい。私では書物のことなど分かりませんから。書庫の本の在処を探したり、外国の本を取り寄せるのに、確かに何度かあの老人を訪れました」


 人質としてイシュテン王宮に住まうことになったクリャースタ妃が唯一自ら望んだのが書物だったのだ。話し相手でもなく衣装や宝石でもなく、菓子や心を慰めるための犬や猫でさえなかったのは実にあの方らしいと思う。王宮の書物を管理する文書院の長は偏屈な老人だが、その男さえクリャースタ妃が挙げた書物の題名には驚いていたようだった。


 ――もう二年も経つか……?


 王やあの方や彼自身の状況の変化を考えると、遠い昔のことのように思えるが。それに、なぜ今さらこのようなことを問われるのかも分からなかったが。


「やはり、そうだったか。ではその縁か……」


 王は何事かに納得したかのようにひとりごちて、次いでアンドラーシの訝しむ目に気付いたのだろう、短く説明を加えてくれた。


「文書院の長から側妃のことで奏上があると謁見を申し込まれたのだ。くだらぬ追従ならば時間の無駄とも思ったが――」

「まさに本の虫という男で、そのようなことを考える者には見えませんでした。何か、クリャースタ様に献じたい本でも手に入ったのでしょうか」


 件の老人は王とリカードの権力争いとも無縁のはず。そもそもイシュテンにおいて紙に関わる役は閑職なのだ。

 王も同じ結論に至ったのか、あっさりと頷いて見せた。


「ならば会ってみても良いか」

「クリャースタ様のお心が晴れるような進言でありますように、祈っております」

「余計なことを。もう下がっても良いぞ」


 王は半ば追い払うように命じたが、アンドラーシは快く従った。口ではそのように言いながら、王の顔はわずかにではあっても緩んでいたから。クリャースタ妃のために王が心を尽くしているのを確かめることができて、彼はこの上なく安堵したのだ。

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