使者の到着 エルジェーベト
「――あの女狐めがっ!」
リカードの怒声と共にエルジェーベトの顔の横を風が通り過ぎ、次いで硝子が砕ける音が耳に刺さった。リカードが手にしていた酒杯を壁に叩きつけたのだ。あるいは怒りのあまりに手元が狂っただけで、エルジェーベトに当てるつもりだったのが外れたのかもしれないが。とりあえず、葡萄酒の飛沫と酒杯の欠片をわずかに浴びた他は、彼女は無事だ。
「どこまで人を愚弄すれば気が済むのだ!?」
最近リカードが女狐と呼ぶのはもっぱらブレンクラーレの摂政王妃、アンネミーケのことだった。明らかにイシュテンに対して野心を持ち、遥か彼方の鷲の巣城から高慢に指示ばかりを下して――その癖こちらに具体的に何を求めているかはいまだに明らかになっていない。王を追い落とすのにブレンクラーレの協力が不可欠とはいえ、女風情に良いように利用されていれば、リカードも面白いはずがない。
「ミリアールトの売女めが……!」
だが、今この時に関して言えば、リカードの怒りの対象はエルジェーベトが憎むあの女だ。
あの女が無事に王女を生んだことで――結局子が女だったことで、せいぜい落胆していれば良いと思う――リカードの謹慎も終わり、とりあえず再び王宮に出入りすることができるようにはなった。しかしそれは同時に、王がティゼンハロム侯爵家から離れようとしていると人が囁く声に直に曝され、かつてはすり寄ってきた者たちが目を逸らすのを目の当たりにすることであったらしい。
とはいえそれだけならばリカードも覚悟の上だっただろう。ブレンクラーレとの密約は、ティゼンハロムから人心が離れ切る前に打った、王に公然と歯向かうための布石だったのだろうから。
今リカードが怒っている理由は、床に撒き散らされている。息子のラヨシュを介してマリカから届いた手紙の成れの果てだ。リカードが内容を検めた後は、ぜひともエルジェーベトの手元で大事に取っておきたかったけれど。でも、先に内容を読んでいた彼女もまた、激しい怒りでリカードに手紙を渡す手が震えるのを抑えるのに苦労したのだ。だから、リカードが怒るのもよく分かる。
マリカは、生まれた王女は生母のもとで育てられることになったと知らせてきていた。それは、リカードも王から聞かされていたことだからまあ良い。しかし、マリカはそこに至るまでの経緯も漏らしてくれたのだ。
――シャスティエ様は御子様を育てるのに戸惑っているようで心配だったの。
――でも、フェリツィア様をお手元に置かれると決めてからは、とても幸せそうに笑っていらっしゃったわ。とても……眩しいほどの笑顔だった……。
――だから私、安心したのよ。
聞こえ良く取り繕っているようで、マリカの細く揺れる手跡はあの方の動揺を伝えていたと思う。側妃の子などエルジェーベトにとっては忌まわしく、息をしているのさえ許しがたい存在だが、優しいマリカにとっては違うのだろう。先立っての手紙では、側妃の子がどれだけ愛らしいかを熱心に連ねてエルジェーベトに歯がゆい思いをさせていたほどだ。母親らしい情の薄いあの女を前に、自身の手で赤子を育てることを、考えなかったはずがない。
――マリカ様に、期待させておいて……!
万が一本当にマリカが赤子を育てることになっていたら始末するのも難儀することになっただろうし、王があの女と次の子を儲ける手助けにもなってしまっていただろう。だが、その点はとりあえず置く。リカードが怒り、エルジェーベトが歯軋りする何よりの理由――それは、あの女がミーナの心を弄んだから、だった。
夫が他の女に生ませた子のことだ。ただでさえ王妃であるあの方が心を痛めないはずはないというのに。育てさせてやろうかとちらつかせて惑わせた挙句に、やっぱり止めたと笑って見せて。子を得た幸運を見せびらかしたのだ。所詮、女しか生めなかったくせに!
「あの女、以前は子供を育てる気はないと言っていたらしいが――」
引きちぎられた紙片と砕け散った酒杯の欠片が、リカードに踏みにじられて絨毯に擦りつけられていく。苛々とした顔つきで、歯軋り交じりに唸る姿はまるで飢えた熊のようだ。獲物を探しながら、手が届くところにそれがいない理不尽に一層怒って手近なものに八つ当たりしているのだ。
「始めからこういうつもりだったのだな。マリカには聞こえの良いことを言っておいて、肚の中では嘲って勝ち誇っていたのか……!」
そう、あの女は懐妊が発覚した当初から子の養育は王妃に委ねると言っていた。他の女の生んだ子を押し付けようという無神経には憤ったし、子をあっさりと捨てようという冷淡さには獣のようだと嗤ったものだ。だが、マリカもリカードも、実はあの女に嗤われていたのだ。
娘に対してのものはもちろん、リカードは自身への侮りを絶対に許さない。ならば今こそ、あの女を、そしてマリカを傷つけてあの女を侍らせた王を始末するために行動を起こさなくてはならない。
「殿様。早く、マリカ様を助け出して差し上げてくださいませ」
女の使用人の分を越えて、エルジェーベトはリカードを急かした。ブレンクラーレと通じて乱を起こすにしても、マリカが王宮にいたままでは人質にされかねない。ただでさえ最近は実家に自由に帰ることも許されていないようで、不安に心臓を締め付けられる思いだというのに。
リカードは娘が傷つけられるのを決して許容はしないだろうけど、でも、王は何をするか信用できないし、他の諸侯も乱の盟主の弱気を責めるだろう。マリカに危害が及ぶ心配なしに王とあの女を討つためにも、一刻も早くあの方を王宮から救い出すべきだ。
――この時のために、息子を残しておいたのよ……!
ラヨシュがいれば――多少やり取りに時間は掛かるものの――マリカと話を通じさせるのは十分可能だ。いまだに王への想いが残っているらしいあの方を説得するのは難事かもしれないが、そこは父であるリカードの命令やエルジェーベトの懇願でどうにでもなるだろう。
「このままいつまでも王宮であの女の影に怯えるなんて……マリカ様があまりにお気の毒です!」
「分かっておる!」
リカードに怒鳴りつけられれば、いつもならばエルジェーベトは鞭で打たれたような思いで口を噤むものだった。だが、今は焦りと苛立ちが恐怖を上回った。苛立ち――あの女だけでなく、リカードに対しての。
「何をお分かりになっていらっしゃると!? 本当にお分かりでいらっしゃるならば、こうしている時間さえ惜しまれるはずではありませんか!」
「マリカを攫えばファルカスへの宣戦布告になる……兵を集める算段をしてからでなくては……!」
――だから、それはいつなの!?
リカードが拳で黙らせることをせずに声を荒げるだけに留めているのは、この老人もエルジェーベトの指摘に、それにマリカが送って来た寂しげな文面に動揺しているのだろう。手をこまねいている怠慢への、後ろめたさも覚えてくれていれば良いのだが。
「――女狐めがのろまなのが悪い!あの女、いつまで待たせる気だ……!?」
今度の女狐、とはブレンクラーレのアンネミーケのことらしい。ブレンクラーレの後援があると内々にでも知らせることができれば、味方につく者は増えるのだろうか。他国の力を借りるのを屈辱と感じる者もいるだろうから、話を漏らすのは慎重にしなければならないのだろうけど。
――でも、ただ待っているだけなんて!
主を叱咤すべく大きく息を吸った瞬間――扉を叩く音が室内に響いた。
「……何事ですか?」
吸った息を、従者らしく低く穏やかな声にようやく抑えて。エルジェーベトは、不機嫌なリカードの邪魔をするという蛮行を成した者に問うた。すると相手も勘気を被るのを恐れているようで、おどおどとした声が扉の向こうから聞こえてくる。
「あ、あの……商人が参っております」
「こんな時間に……?」
リカードが屋敷に戻ってからまだ間もない。とはいえ時刻は既に深夜近い。常の政務だけでなく、謹慎していた間に王が為したことの確認や、挨拶回りなどもあったからだ。
――ただの商人では、ない……? こんなに、丁度良く……?
無礼に眉を顰めると同時に、まさか、という思いが胸を過ぎって心臓が跳ねる。リカードは、ブレンクラーレとの密約を商談に例えたことがあったから。それに、国境を密かに越えるのにバカ正直に使者の姿をしているはずもない。イシュテン国内に入った後も怪しまれずに旅をするには、それなりの変装をしているはずだった。
「名は名乗ったか。どのような品を持ち込んだのだ!?」
リカードもエルジェーベトと同じことに思い至ったのだろう。急いた声で扉の外の者を問い詰める。その剣幕は、顔も見せない扉越しでも相手を恐懼させるほど。
「あ……それが、ブレンクラーレから来たと言えば分かる、の一点張りで……申し訳ございません、追い返します……!」
ある意味予想通りのひと言に、エルジェーベトは思わず主の方を振り向いた。目と口を大きく開き、驚きを露にしたリカードの顔は、まったく珍しい見ものだった。
「待て、すぐに通すのだ!」
「は、ははっ」
そして早々に逃げようとした気配が狼狽え、目的を変えて足音高く走り去るのも。事の重大さの割に、騒々しくどこか間の抜けた空気を後に残したのだった。
ブレンクラーレの商人の一行はすぐにリカードの執務室に通された。
「我が主は侯爵閣下のご健勝を――」
「前置きは良い。これだけ待たせたのだ、女狐めはまともな策を持たせているのだろうな」
代表して口を開いた者の下手なイシュテン語を、リカードは語気荒く遮った。その苛立ちも当然のこと、エルジェーベトが最初にブレンクラーレとの密約を聞かされたのは年が明ける前だった。それがもう春になってしまっている。あの女が生んだのが王女だったから良かったようなものの、万が一にも王子であった場合、リカードは苦しい戦いを強いられることになっていたのだ。
「それは、もう――」
「無論」
慇懃に目を伏せて恐縮する体を見せた先の者を、涼やかな声が遮った。その声を聞いて、リカードがわずかに眉を寄せる。そして慎ましく控えたエルジェーベトも、その声によって胸を波立たされる。
高位の者、それも後ろ暗い取引を持ち掛けようとする相手に対しての傲岸かつ不遜な口調。それだけでも聞き捨てならないのだが――だが、この声も響きも、どこか聞き覚えがある気がする。そのどこか、を思い出せなくて。居並ぶ商人の変装をした者たちの間から、エルジェーベトは声の主を探そうとした。
「イシュテン王の剣の向かう先を操る策を考えてある。それには幾つか言う通りにしてもらわねばならないことがあるが――王を討つためにも侯爵は協力してくださるもの、と。摂政陛下は、信じておられる」
――あ……!
その声が先ほどよりも長く語るのを聞いたことで、胸が騒めいた理由が分かった。滔々と、歌うように。しかしどこか挑発するように紡がれたその言葉は、最初の男よりも流暢なイシュテン語だったが、わずかに訛りを残していた。その響きは、彼女が憎む者が操るのと全く同じものだった。
「貴様、ブレンクラーレの者ではないな!? 何者だ!」
リカードも同じことに気付いたのだろう。声の主を求めて、鋭い視線が使者たちを射抜く。と、中のひとりが一歩前に進み出る。――役者が舞台に登るように、部屋の隅の暗がりから照明が照らし出す光の中へと。
金の輝きが振りまかれて、部屋の中が一段階明るくなった気がした。それほどにその男の肌は白く、輝かしいほどでさえあった。碧い目が、リカードを捉えて嗤う。今夜だけで二度目になるが、リカードは完全に呆気に取られた間抜けな顔を晒していた。
「ミリアールトはシグリーン公爵が公子、レフ。――侯爵閣下には、クリャースタ・メーシェ妃の従弟、と言った方が分かりやすいだろうか」
愉し気に弧を描いた唇も、男にしては紅いように思えた。
――違う。あの女ではない……!
嫌悪と憎悪に鼓動が早く脈打ち、下手をすると掴みかかりそうになってしまうのを抑えるのには苦労した。よくよく落ち着いてみれば、あの女よりも声は低いし背は高い。肌の色も、さすがにこちらの方が多少は日に焼けているようだ。
だが、髪と目の色は全く同じ。それに、この美しすぎる顔だち。ミリアールトの雪の女王を思わせて冷たく凍ったような印象で、冷ややかな嘲りがこの上なくよく似合う。
嫣然と微笑む青年は、吐き気がするほどあの女にそっくりだった。
2016/9/23 脱字を修正しました。