新婚生活 アンドラーシ
「――グルーシャ!」
「アンドラーシ様。わざわざお出迎えいただき恐縮ですわ」
「これくらいのこと、気にするな。たまの休みだから気楽に過ごせば良い」
久しぶりに屋敷に戻った新妻を、アンドラーシは両手を広げて出迎えた。格上の家から嫁いでくれた妻、それも王の妃に近しく仕える者となれば、これくらいしても夫の体面が損なわれることはないだろう。それに、早く妻の顔を見たくもあった。婚礼を挙げてから領地で過ごすことができたのはほんのひと月ほど、グルーシャはすぐにクリャースタ妃の離宮へと戻っていたのだ。
王女が生まれたばかりで多忙であろう離宮で休みを取ることが許されたのは、クリャースタ妃の気遣いによるものだろうか。妻がそのように主から配慮を受けることができるということ、その厚遇も、彼にとっては嬉しいものだ。
屋敷に入って人目がなくなったのを確かめるなり、妻の身体を抱きしめる。以前は女などどれも同じだと思っていたのが嘘のように、彼を選んでくれた女は特別な存在になっていた。
ひとしきり柔らかい身体の温かさを堪能してから腕を緩め、グルーシャの頬に手を添えて上向かせ、囁く。
「で、クリャースタ様とフェリツィア様のご様子はどうだった?」
側妃と王女の様子が知りたかったというのに、アンドラーシの問いはひとまず脇に置かれた。父母への挨拶だとか使用人の出入りの報告だとかに時間を取られて、夫婦ふたりきりの時間を持てたのはやっと夜になってからだった。
妻が用意してくれた酒を呑みながら、傍らの妻を抱き寄せながら、アンドラーシは弾む声で切り出した。
「フェリツィア様は――」
「もう、そればっかり」
「気になるからな。陛下は何も仰らないし」
グルーシャの呆れたような顔にも彼が悪びれることはない。知りたいことを知っている相手に対して直截に聞いているだけだ。
それに男が外で赤子の話をするのもおかしな話、妻でなければ聞くこともできない話だ。とりあえず、王は外見上は第二王女が生まれたからと特別に嬉しそうな様子は見せていない。やはり王子でなかった落胆はあるのだろうし、リカードとのこれ以上の軋轢を避けるためもあるだろう。だが、それでも第一王女以来七年ぶりに生まれた我が子なのだ。離宮ではさぞ王女を可愛がっているのではないかと思いたい。
「そうではなくて……」
アンドラーシの勢いを前に、グルーシャはおっとりと苦笑した。
「王女様を気にかけてくださるのは良いのです。でも、私が帰ったことも喜んでくださいませ」
「伝わっていないか?」
「もう少しはっきりと伝えていただきたいですわ」
「これではどうだ?」
くすくすと忍び笑いを交わしながらの口づけは、ひどく楽しいもので、酒よりもよく彼を酔わせてくれた。妻との語らいがこのように楽しいものだとは、まったく予想だにしていなかったのに。
グルーシャは、口調も物腰も穏やかなのに言いたいことははっきりと言う。それでいて、クリャースタ妃のように強情すぎるということはなくて彼が聞き入れやすいような言い方をしてくれる。王とリカードの対立、クリャースタ妃の立場など政の状況を理解していることもあり、得難い話相手だった。
女がこのようにものをよく知っているとは、と驚いて漏らした彼に、グルーシャは笑ったものだ。
『女が必ず無知なはずもありませんでしょう。多少は世の中を知らなければ、夫を助けることもできないではないですか?』
聞けば、バラージュ家が特に厳しい教育を娘にも施していたのではないはずだという。アンドラーシの母や姉や妹も彼が思っている以上のことを知っているし考えているだろう、と。妻は笑顔で語って少なからず彼を驚かせた。おかげでしばらく母を見る目に疑いが混ざってしまったほどだ。
『まあ、父親の領地が広い方が見聞きするものが多いということはあるかもしれないですが』
『では王妃はどうなる?』
ティゼンハロム侯爵家はイシュテンでも屈指の名家だ。グルーシャの言が正しいならば、王妃はどの娘よりも広い見識を得られたはずではないだろうが。
――あのいつまでも子供のような女が……?
信じられないと首を傾げたアンドラーシに、グルーシャは軽く眉を顰めて見せた。
『王妃様は……何もご存じないように育てられたように思います。悩み事からは遠ざけられて、父君の言葉は何でも聞くように。姉君様方や他のご親族はあれほどではないようですが』
王妃の言動を嘆かわしく思っているのかと思いきや、妻の口ぶりはむしろあの女を憐れむようで不可解だった。何も知らない女を押し付けられた王こそ気の毒だと思うべきだろうに。あるいは、娘を言いなりになるように仕立てたリカードが狡猾だと考えるべきか。
かつて王妃にも仕えていたグルーシャの言葉を聞くにつけても、あの女よりもクリャースタ妃の方が王に相応しいという思いは強まるのだった。
ともあれ、グルーシャはやっとアンドラーシの問いに答えてくれている。
「フェリツィア様はお母様に似ておいでのようです。淡い色のお髪に、青い目をなさっています。髪や目の色はお育ちになると変わることもあるのだそうですが、でも、きっと美しい姫君におなりでしょう」
「陛下もさぞお喜びだろうな」
「ええ。今からどのような衣装や宝石が似合うか、思いを巡らせていらっしゃるようです」
クリャースタ妃に似たならば、フェリツィア王女も美しい姫君に育つだろう。しかも母君の金髪碧眼を受け継いでいるとなれば神々しいほどの美貌ではないだろうか。父である王はもちろん、母君も楽しみに違いない。
「クリャースタ様と並んだお姿が楽しみだな」
「そう、ですね……」
「グルーシャ?」
金の髪の美女ふたりが並ぶ姿を思い浮かべて目を細めたところに、グルーシャがやや表情を曇らせたのでアンドラーシはふと不安になった。
「……クリャースタ様のご容態が良くないのか?」
出産には気力体力を消耗するものだということは何となく知っている。まずは王女は無事に生まれたから良いが、中には長く伏せったり――次の子を、望めなくなる女もいるという。王の妃である方にそのようなことがあっては、困る。
――あの方には、これから王子を生んでいただかねばならないのに。
「いえ、順調に回復なさって、御子様を抱かれることもおありです。ただ――」
「ただ?」
グルーシャが言い淀んだのでアンドラーシは軽く抱き寄せて促した。夫婦ふたりの間ならば言いづらいことも言って良いだろうし、何より中途半端に聞かされたのではかえって気になってしまう。
なおも口ごもることしばし、グルーシャはついに重い口を開いた。
「クリャースタ様は、御子が姫君だったのをお気に病んでいらっしゃるようです」
「なんだ、そんなことか」
妻の様子から何事かと思っていたのだが、あまりにも他愛のないことにアンドラーシは呆れた声を上げてしまう。それは、もちろん王子の方が喜ばしかったのは事実だが――
「陛下もお気になさっていないのだろう?」
「そのようです」
「ならばなぜクリャースタ様がお気に病まれることがある?」
王は、王妃が第一王女を生んだ時も特に咎めはしなかったはず。リカードへの配慮があるのだとしても、ならばクリャースタ妃の背後にはミリアールトという一国が控えている。それでクリャースタ妃が責められるはずもない。
しかも王妃の時は結婚後数年にしてやっと授かった御子が女だったのだ。王に侍ってからわずか数か月で懐妊したクリャースタ妃ならば、次もすぐなのではないだろうか。
「……子を腹で育てる女には辛いことも多いですから。もう一度、と思われると気が塞がれるのかもしれません」
「そういうものか……?」
アンドラーシが知る身近な女――姉や妹たちなどは、子を孕んだことを至上の幸福のように語っていたものだが。だが、グルーシャもクリャースタ妃も、彼の女に対する偶像を何かと打ち壊してくれているから、妻が言うことの方が正しいのだろうか。
「ティゼンハロム侯爵はいまだ健在でいらっしゃいますから、恐れてもいらっしゃるかと」
「それもそうか……」
あの厄介な老人の姿を思い出すと、アンドラーシの胸にも苦いものがよぎる。あの老人は、クリャースタ妃と御子を亡き者にするためにグルーシャに毒を持たせたのだという。子宮を侵す毒が妻にも及んでいたかもしれないと思うと、彼のリカードへの憎しみは一層強まるばかり。そして憎しみは同時に妻を失う恐怖と妻への情愛を呼び起こして。彼はグルーシャの身体を強く抱きしめた。
「まあ、リカードを片付けるのは男の役目だ。王子がお生まれになるまでには、必ず、と……陛下もそのように思召しておられるだろう」
「そう、ですね……」
柔らかく温かく愛しい身体を間近に感じると、話をするのはもう終わりで良いか、という気になってくる。そして蕩けたようなグルーシャの声に、妻も同じ思いなのだろうと分かった。
「――王子のご誕生に間に合うように子が欲しいな。お前が乳母になることができれば、これほど嬉しいことはない」
「え……?」
口づけの合間に囁くと、だが、グルーシャの黒い目が大きく見開かれた。どういう訳か驚きと――そして、非難の色を浮かべて。
「……俺が幼い頃から陛下にお仕えしたように、我が子にも次代の王に仕えて欲しい。そう望むのはおかしいか?」
何か間違ったことを言ったのかと不安になって――興が乗り始めたところでひどく間が抜けているようにも思えたが――妻からとりあえず手を離して、聞く。
「いえ、それが叶えばとても名誉なことだと思いますけれど」
「では何か問題でも?」
グルーシャも居心地悪そうに髪や服を整えているから、彼と同じでもう寝台に移りたいと思っていそうなのに。ほんのわずかとはいえ、身体を離されて空いた隙間が恨めしかった。
「――すぐに次のご懐妊、という訳にはいかないと思いますわ。子を生むのは女の身体に大変な負担になりますもの」
「……そうなのか?」
何か似たようなことを繰り返しているな、と思いながらアンドラーシは呟いた。クリャースタ妃がすぐに懐妊したとして、そしてその御子が王子だったとして、少なくとも一年近く先の話になる。それでさえ待ちきれないほど遠いことのように思えたのに。
「はい。犬や猫と同じようには参りません。……といっても私も古参の方からの伝聞なのですが」
「そうか……」
「焦って無理をすれば、母君様にも御子様にもよくないそうですわ。ずっと伏せることになってしまったり、身体の弱い御子になってしまったり。そのようなことは望まれませんでしょう?」
「それは、無論」
妻に対する思いとは全く違うし、主君の妻に対して断じて邪な思いなど抱いてはいないが、アンドラーシはクリャースタ妃の――容姿だけでなく――気性も好ましく思っている。あの誇り高く強い方が病人のように衰え窶れる姿は見たくなかった。
ただ――妻に頷いては見せたものの、アンドラーシの胸中には一抹の不満というか懸念が残る。
「では、我が家の子はいつ生まれるのが都合が良い? クリャースタ様はいつになれば万全のご体調に戻られる?」
彼は妻を王の子の乳母にし、子を王の子に仕えさせることを諦めてはいない。今すぐ励まなければならないというのではないのはまあ良いとして、こうなるとよく時期を考えなければならない気がする。
「まあ、そのように急かさないでくださいませ」
そよ風のような笑い声が耳をくすぐった、と思った次の瞬間には、グルーシャの方から彼の首に抱き着いてきていた。
「陛下の御代が平らかになればクリャースタ様も焦らずに済みますもの。私たちも……あの、何人でも子供は欲しいですし。中には、王子様王女様と同じ年頃の子にも恵まれるかもしれません」
「それもそうか」
妻が頬を染めながら囁いたのは、ある意味で大胆な――誘うような言葉で、アンドラーシの血も熱くなる。それに、なるほど、とも思う。リカードがクリャースタ妃の憂いの元なのも、奴を排さなくてはならないのは分かり切ったこと。側妃が懐妊できる身と明らかになった上は、心置きなく御子の養育に務められる状況を整えるのが先だということだろう。
「クリャースタ様の御心が早く安らかになるように――男はしっかりと戦えと、そういうことだな?」
「ええ。女の、妻の幸せも安らぎも殿方にかかっていますもの」
「そして男が戦うのは帰りを待つ妻子のため。俺には子はまだいないが――愛すべき妻がいることを、確かめても?」
グルーシャの胸元に耳を寄せると、心臓が音高く脈打っているのがよく分かった。次いでこくりと頷く気配も感じたので、アンドラーシは微笑んで妻を抱き上げると寝台へと向かった。
爆発すれば良いと思います。