実家からの手紙 ウィルヘルミナ
夫は今日も生まれたばかりの下の王女のもとを訪れている。あるいはその母君のシャスティエのもとへ、ということかもしれないけれど。だからウィルヘルミナは今日も娘とふたりきりで過ごしている。
最近は夫の不在が長いように思われて寂しく悲しいことも多いけれど――マリカの時も、夫は政務もそこそこによく気にかけて訪ねてくれていたのだ。小さな赤子にはそれだけの魅力があるもの、単に順番というものだと納得しなければならないだろう。
――そう、仕方のないこと……。
夫が冷たいなどと思って拗ねてはならない。ウィルヘルミナはこれまで十分に優しくしてもらってきたのだから。
それに、娘の相手をしていれば、時間が経つのも早いものだ。
「お母様、お外に遊びに行きたいわ」
「ダメよ。日に焼けてしまうもの。女の子なのにみっともない」
「せっかく晴れてるのに……!」
頬を膨らませてむくれたマリカの頭を、ウィルヘルミナは苦笑しつつ撫でた。このようなやりとりを、朝からもう何度繰り返している。
初夏を迎えて、王宮の庭園も緑が豊かに茂っている。花も色鮮やか、鳥の声も賑やかで、お転婆な娘は思い切り駆け回りたくて仕方ないのだろう。
少し前までならば、ウィルヘルミナも元気なのが一番、と娘を送り出していたかもしれないけれど――
「もうお姉様なのだから。フェリツィア様のお手本にならなければいけないのよ」
彼女が生んだのではないもうひとりの王女のことを思うと、マリカも今まで通りという訳にはいかないだろう。夫が娘を可愛がってくれていたのは、多分ただひとり血を分けた子供だから。そうではなくなった今――しかも、相手が美しく聡明なシャスティエの子とあっては。比べて見劣りがあるなどとは絶対に思われたくなかった。
「まだ会えてもいないのに。お姉様だなんて……!」
でも、母の心もお転婆な娘には届かないようだった。とはいえこれは娘の聞き分けがないということではないだろう。これまでウィルヘルミナは概ね娘の好きなようにさせていたのだから。礼儀作法なども、年頃になれば自然と覚えるものだと何となく思っていた。だから、マリカにとっては突然やりたいことを止められた戸惑いや不満があって当然だ。
――これまでの私の躾が悪かったのね……。
これまで漫然と過ごしてきた日々は、和やかで幸せではあったけれど。でも、きっと娘のためには良くなかったのだろう。胸を刺す後悔は、娘に悟られないようにして。ウィルヘルミナはマリカと視線を合わせて屈みこんで、微笑みかけることしかできない。
「少しだけ刺繍の練習をしてみましょう。そうしたら、アルニェクと遊びに行って良いから」
「…………」
愛犬の名を出すと、マリカの頬がわずかに緩んだ。が、すぐに言いなりになったりはしないとでも言いたげに、頑なに唇を結んで頷こうとはしてくれない。こういう頑固なところは、やはり父親に似ているようにも思えた。そのこと自体は微笑ましく喜ばしいことではあるけれど、今この場に限っては娘の気質は扱いづらいものだった。
「フェリツィア様に、お姉様が作ったものを差し上げましょう? お会いする時の楽しみになるじゃない」
「それって、いつ? いつ赤ちゃんに会えるの?」
「まだ首も座らないほどお小さいの。もう少しすれば、抱っこもさせてくださるかもしれないわ」
自分自身も小さなマリカに、我が子を委ねるのはシャスティエも恐ろしいだろうが。だが、そこはまあウィルヘルミナも手を添えてやれば大丈夫、だと思う。
「いつになるか分からないんでしょう?」
「そうね、シャスティエ様のご容態もあるでしょうから……」
「お父様とお母様ばっかり、ずるい!」
咄嗟に嘘を吐けなかったのはまずい、と思った次の瞬間には、マリカはいよいよ機嫌を損ねて顔を顰めてしまっていた。母を睨みつける視線の鋭さは、何か許しがたい罪を糾弾するようでさえあった。
「マリカ……」
娘の語気の強さに驚いて、ウィルヘルミナは思わず目を伏せてしまう。娘が怒るのもある意味もっともなこと、思い当たる節が重々あった。彼女は、すでにシャスティエを見舞ってフェリツィア王女を抱かせてもらっていたのだ。
マリカ以来、ごく久しぶりに抱いた赤子は驚くほど小さく、そして温かく愛らしかった。
『まあ……!』
歓声と笑みが思わずこぼれ、こみ上げる喜びのままにウィルヘルミナはシャスティエに語りかけていた。
『お母様に似ているわね』
『そうでしょうか……』
『ええ、とても』
フェリツィア王女の瞳は、イシュテンではありえない鮮やかな青い色をしていた。産毛のような、いつまでも触っていたくなる柔らかい髪も、淡い色。まだ薄く柔らかい肌は赤みがかって見えるけれど、ウィルヘルミナの記憶と照らし合わせればだいぶ薄い色のようにも思えた。傍らに佇んで赤子を覗き込むシャスティエと見比べれば、将来が楽しみだ、としか思えなかった。
『きっと綺麗にお育ちになるわ』
『そうだと良いと、思います』
答えたシャスティエの口調がどこか曖昧で、他人事のようで、ウィルヘルミナは眉を寄せた。お世辞というつもりでは全くなかったのだが、我が子を褒められた母親は普通は喜ぶものだと思ったのに。シャスティエの反応は、彼女が予想したものとあまりにもかけ離れていたのだ。
――シャスティエ様、御子様が生まれたのにあまり嬉しくないのかしら……?
ちらりとよぎった考えに、ウィルヘルミナはすぐに慌てていいえ、と首を振った。子供を愛しく思わない母親などいるはずがない。多分、この方らしく控えめに感情を表に出さないだけなのだ、と思おうとしたのだが――
『さすが、ミーナ様は赤子を抱くのがお上手でいらっしゃいますね』
『え、ええ。マリカもこうしてあやしたから』
彼女に話しかけるシャスティエの笑顔が、我が子に対するものよりよほど晴れやかで嬉しそうだったから、ウィルヘルミナは身構えた。
『私だと落ち着かないようで。すぐに泣かせてしまうのです』
『慣れていらっしゃらないのだから当然よ。……あの、教えて差し上げるから』
恐らくそれこそが彼女に求められる役割なのだろう、と。同席していた夫の顔色を窺いながらウィルヘルミナは慎重に答えた。ずっとそういうものだと覚悟していたつもりだったけれど、こうして赤子を抱いて見るとその可愛らしさはあっさりとその覚悟を打ち砕いてくれた。
シャスティエは子供に恵まれ、その成長を見守ることができる。夫もそれに寄り添う。一方のウィルヘルミナは、寂しさを押し殺しながら夫とシャスティエとその娘と、三人の幸せに手を貸さなければならない。その絵を思い描くと、ウィルヘルミナの胸は刃物で刺されたように痛んだ。
彼女を苦しめる感情は、単なる寂しさだけではなくて、美貌が衰えることや娘を比べられることへの不安や焦り――それに、シャスティエへの嫉妬でもあったのだろう。ウィルヘルミナにとって人を羨むのは初めて味わう感情だ。彼女にとって、願って手に入らないものは今までなく、人のものを欲しがる必要などなかったから。でも、子供のことだけはどうにもならない。
『私、どうしても怖いのです。子供なんて育てられるのかどうか』
シャスティエが言外に仄めかしたことは、鈍いウィルヘルミナにも読み取れた。彼女の手元で子供を養育して欲しい、と。フェリツィア王女が生まれる前から、頻繁に繰り返されてきたことだったから。強請るように、乞うように見上げてくるシャスティエの瞳は、一も二もなく頷いてしまいそうになるような健気で儚げなものだったけれど――ウィルヘルミナは敢えて気づかない振りをした。
『まだ実感がおありではないのね。でも、すぐに片時も離れられなくなるのよ』
『そう、でしょうか……』
察しの悪い女とでも思ったのだろうか。シャスティエの眉が悲しげに曇ってウィルヘルミナに罪の意識を覚えさせた。でも、それさえも無視して彼女は笑った。
『ええ、きっと。分からないことがあったら何でも聞いてちょうだいね』
シャスティエに微笑みかけた視界の端で、夫が満足そうに頷いてるのが見えたのが、わずかな慰めだった。
――これで、良いの……。
妻たちが仲良く、共に子を育む。その姿を夫は望んでいるに違いない。ならばウィルヘルミナはそれに沿わなければならない。父は夫に背き、彼女は夫に世継ぎを与えることができなかった。不出来な王妃なのに、夫は傍に置いてくれるというのだから。
だから、これからはよく夫の顔色を読まなければならない。
「刺繍なんて嫌! 外に行きたいの!」
「マリカ……」
密かに固めた決意を前に、娘の我儘ぶりは母を絶望させるほどだった。
「聞き分けてちょうだい」
母親のせいで躾がなっていないなどと後ろ指を指されたくはないのに。これは娘のためでもあるのに。
「貴女も、しっかりしないといけないのに……」
ウィルヘルミナの苦しみは、シャスティエだけが赤子を抱いているからというだけではない。美しく若い側妃には次、も期待されているのが分かってしまうからだ。フェリツィア王女を誰が養育するかは、実は大した問題ではないかもしれない。ウィルヘルミナはマリカを抱えて夫とシャスティエが次の子を育むのを見守るか、それともそれがフェリツィア王女も一緒に育てながらになるか、どちらかを選ぶしかできないのだ。
夫は彼女と夜を過ごしてくれることもあるけれど、相変わらず懐妊はしないように注意を払っているのが窺える。かつては理由が分からず傷ついたけれど、今は理由を悟った上で苦しんでいる。たとえ生まれたばかりの王女を母から取り上げたとしても、夫が完全に彼女のもとに戻ることはもうないのだ。
赤子で気を惹くことができないなら、せめてマリカに立派な王女でいて欲しいのに。
「王女様――」
お互いに泣きそうな目で睨み合う母娘に、横からおずおずとした声が掛けられた。
「私も、マリカ様の刺繍が見たいです。どうか……あの、私のためと思し召してくださいませんか」
「ラヨシュ……」
まだ高いその声の主は、ラヨシュ。ウィルヘルミナの乳姉妹エルジェーベトの子。彼女のために罪を犯した母の代わりに、ウィルヘルミナが保護している子供だった。
「…………」
歳上の少年からの懇願のような言葉は、娘の頑なな心を少しは動かしたようだった。そこまで言うなら、とでも言うように目を細めつつ、一方で唇はまだ固く結ばれている。そう簡単に頷いては幼い矜持が許さないのだろうか。
「ね、マリカ。ラヨシュもお願いしているし……」
娘相手に情けない、と思いながらもウィルヘルミナも下手に出てみることにした。するとマリカはようやく口を開いてくれた。
「……じゃあ、ラヨシュだけに見せるわ。お父様にもお母様にも内緒!」
その高らかな宣言は、あまりにも子供っぽく意固地になっているように思えたけれど。でも、ウィルヘルミナが窘めようとした時――
「では、私は王妃様が覗き見したりしないようにここにおりますね」
「うん! ドーラに習ってくるわ!」
子供たちは勝手に話を進めてしまった。最近懐いている侍女の名を挙げて、マリカは母に背を向けると部屋を飛び出してしまう。呼び止めようとして――ウィルヘルミナは、ラヨシュの訴えかけるような視線に気づく。
――何か、言いたいことがあるの……?
この敏い少年は、マリカを宥めてくれただけではなく、彼女に伝えたいことがあるのだろうか。使用人の子供という扱いで、実の母のことは伏せて匿っているから、そうそう気安く接することはできていない。だから、夫のいない今は好機といえばそうなのだけど。
「王妃様。あの――」
「何か、あったの? 何か不自由なことでも?」
必ず守ると言っておきながら、ラヨシュの不安を拭えていない自身を恥じながら、ウィルヘルミナは少年と目線を合わせた。もう十二歳になる男の子のことだから、マリカよりも遥かに背が高いのが新鮮だった。
「あの……」
「皆、少し外してちょうだい」
ラヨシュの目に答えて、控える侍女たちを退出させる。少年の張り詰めた顔が、よほどのことを抱えているのだろうと思わせた。
部屋の中にふたりきりになっても、しばらく口を開閉させては言いあぐねている様子のラヨシュを、ウィルヘルミナは辛抱強く待った。人の顔色を見て考えるということを、最近は良くするようになったと思う。
やがて心も定まったのか、ラヨシュはようやく硬い声を発した。
「あの、侯爵様のお屋敷から手紙をもらいました」
「お父様の……?」
そして聞いた意外な者の名――父のことを思うと、ウィルヘルミナの胸はまた痛んだ。
彼女は最近父に会っていない。夫やシャスティエを悪く言われるのが嫌だったし、何を企んでいるか知るのが怖いという思いもある。更には、夫の機嫌が悪くなるのを思うと実家を訪れる気にはなれなかった。まるで、人質のように。彼女は自ら王宮の奥深くへと囚われていっているようでさえあった。エルジェーベトがいなくなった今では、心を許して話せる人もほとんどいない。
――でも、どなたから……?
それでも実家と手紙やものや人のやり取りは続いているし、使用人が私信を託すこともあるのだろう。ラヨシュも、マリカの遊び相手に呼ばれるまでは実家で育てられていた。エルジェーベトの忠誠への報いとして。乳姉妹の忠誠の帰結がどうなったか――それもまた、ウィルヘルミナを苦しめているのだけれど。
「……勉強など、教えてくださった方から、ということになっていました。気にかけてくださっているからだと聞かされて渡されました。でも……」
目を泳がせて言い淀みながら、ラヨシュは一片の紙片を突き出した。読んでほしい、ということだろうと察してウィルヘルミナはそれを受け取る。
「王妃様に、お渡ししろとあったので……」
ラヨシュの声がほとんど泣いていることに気づいたのは、手紙を広げてその中の筆跡を目にした時だった。いや、彼女の胸にも激しい思いが押し寄せて、目に涙をあふれさせていたからかもしれないけれど。
――エルジー……!
手紙は、確かにあの乳姉妹の筆跡で記されていた。エルジェーベトは、勉強の苦手なウィルヘルミナよりもよほど美しい文字を綴るのだ。良く知る筆跡が、ウィルヘルミナを案じ、息子を思い遣る言葉を連ねている。それを見るだけで、あの声も耳に蘇るかのよう。
「あなたも……分かって……?」
エルジェーベトの犯した――ことになっている――罪を慮って、名前を口にすることは避けた。でも、頬に涙を伝わせながら大きく頷いたラヨシュに、この子も母の筆跡を知っていたのだと分かる。
「ああ……!」
彼女のために恐ろしい罪を被って殺されたと思っていたエルジェーベトが生きていた。シャスティエとフェリツィア王女に対する罪はもちろん罪だけど。でも、それを悔い詫びる言葉も添えられているのがウィルヘルミナにとっては希望だった。フェリツィア王女も無事に生まれた今ならば、エルジェーベトが改心を示しているならば執り成すこともできるかもしれない。
――今すぐには、無理でしょうけれど……。
手紙は、ラヨシュ宛という名目で言葉を交わそうと述べていた。ティゼンハロム侯爵が王妃に宛てた手紙は中を覗かれるかもしれないが、使用人の子供ならばその恐れは少ないだろう。エルジェーベトは、寂しく過ごしているであろうウィルヘルミナのことを案じてくれていた。変わらぬ優しさに、やはりあのことは間違いだったと信じたいと思う。
――話して、分かってもらうの……。
ウィルヘルミナはシャスティエもその子も疎んでなどいないのだと。そして、二度と彼女たちを傷つけたりしないようにしてもらうのだ。そして許してもらって――
エルジェーベトが傍にいてくれたら、夫がいない寂しさも紛らわすことができるかもしれない。