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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
15. 親と子、夫と妻
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肉親の情 レフ

「王子殿下とのことです!」

「ふうん」


 鷲の巣城アードラース・ホルストからの報せを一読して、その男は喜色満面で叫んだ。一方、レフの答えは冷淡そのもの。手紙を読んだひとりのみならず、商隊に扮した一行の誰もが浮かれた雰囲気なのが、彼の目には異様ですらあった。それは、自国の王族――それも世継ぎになるべき男児が無事に誕生したとなれば浮かれるのは当然だ。だが、彼らの浮かれようは王族に近く仕える忠義篤い者たちのそれ。一介の商人たちにしては熱が篭りすぎていて傍目にも怪しまれるのではないかと思ってしまう。


 ──彼らが演技をおろそかにするなんて珍しい。


 レフが彼らの熱狂を分かち合えないのは、他国の事情だからというだけではなかった。懐妊中の若い妃、という境遇を、どうしても彼の従姉と引き比べてしまうのだ。ギーゼラの出産の報が彼の元に届くまでの日数を考えると、彼女の子もいつ生まれてもおかしくない頃だ。イシュテン王の子などどうでも良いが、出産の際に万一のことなどないかどうか、王妃の手の者に狙われてはいないかどうか、不安は尽きない。


 ――あちらは、どうせ無事に生まれると分かっていたじゃないか。


 王太子妃ギーゼラは心身ともに健康だし、鷲の巣城の奥深くで手厚く守られていた。今も敵国で危険に曝されている従姉とは違って、出産までには何の懸念もなかったはずだ。ブレンクラーレはイシュテンよりも医療は進んでいるはずでもあるし。

 まあ御子の性別だけは生まれてみるまでは分からない訳だが、イシュテンのように他の妃たちと順番を競わなければならないということもその親族に脅かされることもない。幾らでも次の機会があるではないか。


「レオンハルト殿下と命名されたそうです」

「ふうん」


 その間者がなぜか誇らしげに教えても、レフにはありきたりな名前だな、としか思わなかった。彼自身がそうであるように、王族やそれに近しい者に獅子にちなんで名をつけるのはよくあることだ。博識な従姉なら滔々と語ってくれるのかもしれないが、その名も歴史上多くの先例があったのではなかったか。どの偉人に倣ったのだとしても、順当な命名なのだろう。


 関心がないのを示すために、レフは乗っていた馬の脚を早めさせた。ブレンクラーレとイシュテンとの間の国境を越えてしばらく、農村に宿を求めたり時に森の中で野宿をしたりしてきたが、今日は比較的大きな街に宿泊する予定だった。比較的マシな寝床と食事――戦場を考えれば贅沢ではあるが、長旅の途上ではありがたいことだ。


「のろのろしている暇はないのだろう? ティゼンハロム侯爵も待ちかねているだろう」


 ティグリス王子に加担した時と違って、ティゼンハロム侯爵領はイシュテンの奥深く。更に――レフのせいではあるが――イシュテンで怪しまれずに動ける者が少なくなってしまったお陰で摂政陛下と侯爵との連絡は滞りがちだ。この間に老獪で貪欲な侯爵が変心していないかどうか、アンネミーケ王妃は気を揉んでいたようだった。


 これまでに払った犠牲を無駄にしないためにも、ティゼンハロム侯爵と結託して必ずイシュテン王を追わなければならない――それは、間者たちもよくよく言い聞かされているはず。表沙汰にできない類のこととはいえ、国の先行きに関わる大事を任されたことを、同行者たちは大層誇りに思っているようだった。


「はい。間もなく、城壁が見えましょう」

「必要以上に浮かれて見えることのないように。世継ぎの誕生など、ただの商人には関係のないことだろう?」

「心得ております」


 事実、状況を思い出させてやると、相手も喜びに崩れすぎた顔をやや引き締めた。そうして日暮れも近づいた頃、一行は予定通りにとある街にたどり着いた。




 イシュテンは、そもそもは騎馬で移動しながら略奪を生業としていた民族だ。だから本来は街を作り城壁を築くのは彼らの文化にはそぐわないのかもしれない。しかし、今イシュテンと呼ばれる地に定住して以来、戦馬の神を奉じる民も、幾らかは周辺の国の色に染まってその倣いを受け入れた。恐らくは守るべき土地と富ができたことで、攻めて奪うだけではなく防衛の発想が生まれた、ということも大きいのだろうが。


 ――どうせ改めるなら、何かと力に訴えるところも変えれば良いのに……。


 ミリアールトやブレンクラーレの都市と同じように、堅固に石を組んで築かれた防壁を見上げて、レフは従姉の授業を思い出した。例えば王を戴くようになったのも、しばしば野蛮と見下されるイシュテンが周辺国に倣って国の体裁を整えたからだ、ということらしい。ならば何よりも先に言葉が通じないと思われている血を好む性を省みるべきだと思うのに。


 アンネミーケが用意した通行証で首尾よく街の門を潜ると――正真正銘、ブレンクラーレの王妃が発行したものだから、通れないようだとむしろ困る――街の雰囲気がどうも熱気を帯びていて、レフは眉を顰めた。


「何だ……祭りにでも当たったか……?」


 一行の中で、最もイシュテンで過ごした時間が長いのは彼だが、それでも一般の民に混ざって暮らした訳ではない。最初は王都の娼館で、次はブレンクラーレの間者たちにしたがって潜伏して。だからイシュテンの祝い事など知らないし、たまたま何かの催しの時だったとしても不思議はないのだが。

 問題は、イシュテンを訪ねた商隊が知らなくても、不自然ではないことなのか。知らないことで怪しまれるようなことではないかどうか。


「何の騒ぎだ? 今日は何かの催しでもあっただろうか……?」


 レフは手近な民を捕まえて馬上から尋ねてみた。すっかり忘れていたが、と言外に匂わせる口調で。相手の答えを聞いてから、そういえばそうだったと話を合わせる心づもりで。


「おや、あんたたち知らないのかい」


 尋ねた男は酒に酔っているらしく、赤ら顔にやや怪しい呂律でレフたちを見上げてきた。


「さっきこの街に入ったばかりでね」

「じゃあ知らなくても無理はないかね」


 慎重に言葉を選び、腰の剣を探っていたレフの緊張に相手は全く気付かなかったらしい。異国の者の問いかけに、なぜか得意げに笑うと胸を反らした。


「王女様がお生まれになったお祝いさあ!」

「……王女。王女だと!?」


 レフが思わず上げた声は、多分大きすぎだった。彼の声に周囲の者たちが一斉にこちらを振り向き、中にはわざわざ近づいてくる者もいる。いずれも朗らかに笑い、酔いしれて。口々にこの騒ぎの理由を教えてくれる。


「そう! 北の国の姫様が見事に生んでくださった!」

「まあお世継ぎじゃないのは残念だが……王様の御子様が生まれるのは久しぶりだ」

「領主様が祝い酒を振る舞ってくださっているんだ」

「今の領主様は王様に忠実だからなあ」


 そう、ティグリス王子の乱の後、旧ハルミンツ侯爵領は王についた臣下に褒章として分け与えられたと聞いている。彼らがバカ正直に商人の振りをしているのもそのためだ。ティグリス王子の庇護があった頃ならば、街を離れた街道では商隊らしからぬ練度と速度で馬を掛けさせることもできたのだが。

 いや、それは今は関係はない。つまりは、旧ハルミンツ侯爵領を与えられたのは、王に近しい者だということだ。だから王室の慶事を自領でも祝うこともあるのかもしれない。そこに何の不思議もないが――


「王女……側妃腹の?」


 イシュテン王妃が懐妊したなどという話は聞いていない。第一、群がった民のひとりは確かに北の国の姫だと言った。だから、考えるまでもないことのはずなのに。()()が子を生んだ、ということは彼の頭でどうにも姿を結んでくれなかった。


「ああ。王様もやっと側妃様を持てて良かったねえ」

「王妃様が……だからなあ!」


 聞き取ることができなかった単語は、多分女性を貶める類のものなのだろう。だが、それもどうでも良い。生まれた子の性別も。アンネミーケなどはミリアールトとイシュテンの血を引く王子を手駒にしたかったのだろうし、その目論見は外れたことになるが。とにかく、レフが知りたいのはただ一点。


 ――シャスティエは、無事なのか!?


 子を生んだ後、その母親は無事なのかどうか。つい先ほども恐れたように、産褥の床であってはならないことなど起きてはいないかどうか。女児を生んだことでイシュテン王の不興を買ってなどはいないかどうか。


 さらに問いただすべく息を吸った時。やや野卑な笑い声がレフの耳に届いた。


「側妃様はお若い方だそうだから。きっと次こそ王子様を生んでくださる」

「お綺麗でもあるんだろう。そりゃ、王様も励まれるってもんだ」


 ――バカな!


 彼らの言葉で、とりあえず従姉の無事は知ることができた。だが、厭らしく緩んだ口元が、彼らが描く妄想を伝えてくるようで、レフの肌は粟立ち、頬も怒りで熱くなる。

 次、などあってはならないのだ。彼女を一年以上に渡って敵国に囚われたままにしたことだけでも受け入れがたいと思うのに。命を狙われながら、憎い男の子をその身に宿した彼女の苦しみを思うと、心臓が潰れる思いだというのに。


 ――下世話な、無礼者が……!


 何も知らない者どもを一喝してやろう、と。息を大きく吸った時――


「それはめでたい。実は我が国でもお世継ぎがお生まれになってな。これも何かの縁、一杯奢らせてくれ」


 やや下手なイシュテン語に遮られて、レフはそれを吐き出す機会を失った。彼が我を忘れて怒鳴り出す前に、卒なく酔っ払いどもをあしらったのは、無論ブレンクラーレの間者だった。商隊の荷から葡萄酒の樽を開けてやると、馥郁とした香りに集った男たちの頬が一層崩れた。


「おや、太っ腹だねえ」

「悪いな、もらうよ」

「いや、大したことではない。ブレンクラーレと、イシュテンと――両方の王家の繁栄を願って――」


 乾杯、と。木製の杯がぶつかり合う鈍い音と共に、朗らかな笑い声が通りに響いた。バカバカしいとしか思えない一幕に、唇を噛んで怒りを堪えるレフの手にも、粗末な杯が押し付けられる。


「通りで騒ぎを起こされませんよう。どうか、抑えて……!」

「……分かっている!」


 先ほど窘めた相手から逆に宥められて。悔しまぎれに呷った酒は、ひどく苦い味がした。




 宿を取った後も、間者たちが情報を求めて街に散った一方で、レフは部屋に留まるように申し付けられた。金髪碧眼が目立つから、というのは建前に過ぎず、実際は側妃の安否に我を忘れかねないと懸念されていたのだろうが――彼自身、平静を保てる自信がなかったから受け入れるほかなかった。


 深夜近くになって戻った間者たちは、それぞれにイシュテンの現状について報告した。とはいえ民草から聞けるのは噂や推測程度でしかないが。

 側妃には次こそ王子を、と期待がかけられているということ。王妃の父であるティゼンハロム侯爵は側妃も新しく生まれた王女も許さないであろうということ。また内乱を予感して脅える者もいたという。いずれも予想の範囲内の分かり切ったことで、レフの心の平静にさほど役に立ってはくれなかった。


 最後に、間者のひとりが思い出したように付け加えた。


「王女はフェリツィア様と名付けられたそうです」

「フェリツィア……」

「幸福、と。皮肉かもしれませんが良いお名前です。レオンハルト殿下にもお似合いかも」

「バカな……!」


 今度こそ、レフは声に出して呻いた。


 ブレンクラーレの間者が、生まれて間もない王子と王女の縁組を目論んでいるのは、良い。自国の利益のためには十分にあり得ることだから。生まれたばかりの王女が幸福などほど遠い状況にあるのも別に構わない。彼にとってその子供は結局従姉ではなく仇敵の娘だから。


 問題は、王女の名前が従姉と同じ意味を持っていることだ。幸福――イシュテンの侵攻を受ける前は、確かに彼女は幸せだったのだろうが。国も肉親も、全てを奪われ、囚われて。復讐を(クリャースタ)誓う(・メーシェ)などと名乗った上で、娘には幸せを願うのだろうか。……つまり、復讐などと言う不穏な婚家名も、本当に彼女の意思によるものなのだろうか。彼は、ずっとグニェーフ伯の陰謀だと疑っているのだが。


 ――シャスティエ……君が、名付けたのか!? 一体どんな気持ちで……?


 敵の子であっても、生まれてしまえば情が湧くものなのか。それとも、自身から奪われた幸福を思って名付けたのか。分からないが――レフは確実にフェリツィア王女への嫌悪を深めた。母親を苦しめ脅かす存在のくせに、母と同じ意味の名を与えられて幸福を願われるなどと。いや、それだけならばまだ良い。もし、彼女が娘を愛し慈しむようなことがあれば――


「……公子?」

「いや、何でもない。気が早いと思っただけだ」


 ブレンクラーレの者に彼の内心が分かるはずもないし、語る気もない。だからレフは間者には何も言わずにふいと顔を背けた。顔を向けた先には、壁に四角く穴を切ったというだけの窓がある。そこから見える夜空は、ただ一面の闇。ティゼンハロム侯爵領はまだ遠く、さらに侯爵を説き伏せて従姉を救い出すのは難事なのだろう。それもとうに分かっていたことではあるが、今、レフの焦燥は一層激しく彼の胸を焼いていた。


 最後の肉親として、彼女が彼に縋るのは当然だろうと思っていた。だが、今や彼女と同じ血を分かつのは彼だけではない。血の繋がりと、同じ意味の名の繋がり――より近しい存在に、彼女を、彼女の愛を奪われてしまうのではないだろうか。


 とにかく、早く彼女の姿を見たい。金の髪も碧い宝石の瞳も輝きを失っていないかどうか。誇り高さが折れて撓むことはないかどうか。早くこの目で確かめて、そして、できることなら抱きしめたい。


 レフは切にそう思った。

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