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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
15. 親と子、夫と妻
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幸福の娘 ファルカス

「お父様、いってらっしゃいませ」


 行儀良く――あまりにも良すぎて他人行儀に思えるほど――ドレスの裾を摘んで口上を述べる(マリカ)を、ファルカスはやや当惑して眺めた。いつもなら行かないで、もっと遊んでとうるさいほどに纏わりついてくるはずなのに、今日に限ってやけに大人しい。


「いつの間にか嫌われたようだな」


 口にしたことが事実ではないことは分かっている。昨晩彼が遊んでやった時は、マリカは終始上機嫌で笑っていたのだ。何度抱き上げても飽きないで、高く掲げられたところからの風景に目を瞠って喜んで。そして遊び疲れると、彼の膝の上で寝入ってしまった。そのまま同じ寝台で寝かせても良かったのだが、母親(ミーナ)が起こして着替えさせて自身の部屋へと送り届けていた。


「そんなことはありませんわ。マリカはお父様が大好きですもの。でも、もうお淑やかにしなくては」


 困ったように微笑むミーナこそ、娘に堅苦しい挨拶を教え込んだ張本人に違いない。娘を別室で寝かせたのは、ふたりきりで夫に甘えたいというだけではなかったらしい。


「まだ幼いだろうに。マリカ、無理をしなくて良いのだぞ?」

「そうなの? でも、お母様が……」

「ファルカス様、甘やかさないでください。マリカももうお姉様なのですから」


 父と母とに挟まれて、それぞれに違うことを言われて。マリカは頭が転がり落ちるのではないかと思うほどに首を傾げている。


()と言っても生まれたばかりだ。手本になるなどと考えるのはまだ早い」

「でも、シャスティエ様の御子ですもの。きっとしっかりとした姫君になられるから――」

「あの女に似すぎるのも考え物だと思うが?」

「ファルカス様……!」


 珍しく食い下がるミーナに軽く笑うと、ファルカスは娘を抱き上げた。慣れないことなどしなくて良いのだと教えるために。やはり無理をしていたのだろう、そうするとマリカははしゃいだ歓声を上げて彼の首に抱きついてくる。


「お父様! 赤ちゃんに会うのでしょう?」

「そう。お前の妹だ」

「早く会いたいわ……!」

「首が据わらないことには抱き上げることもできないぞ。犬の仔と同じようにいじくり回す訳にはいかない」

「そんなことしないもん……!」


 マリカは先ほどとは打って変わって明るい表情で口が回るようになった。娘の相手をしてやりながら、ファルカスはミーナに視線を向ける。心配要らないと、伝えるために。


 ――お前たちは何も変わる必要はないのだ。


 側妃の子が生まれて、ミーナもさすがに不安になっているのは分かる。だが、その不安に幼い娘まで巻き込むのは行き過ぎだ。側妃の子が王子だったならまだしも、王女ならばとりあえず現状に変わりはない。むしろ、娘を持った母親同士で今以上に仲良く語り合うことさえできるかもしれない。


「そうだ、あの女の子では乗馬は下手かも知れないな。イシュテンの王女がそれでは物笑いだから――マリカが、教えてやれば良い」

「じゃあお父様、今度お馬のアルニェクに乗せてね! 早くひとりで乗れるようにならなきゃ!」

「ああ、約束しよう」


 ファルカスはマリカの額に口づけると床に下ろした。これで、最初のぎこちない挨拶の後よりはよほど自然に出掛けることができるだろう。


「――では、行ってくる。あちらもまだ慌ただしいだろうから、すぐに戻るが」

「はい。……シャスティエ様と、御子様に……よろしくと――あと、お祝いをお伝えくださいませ」


 娘と違ってミーナの表情はまだ不安げなのが気に懸かったが。初産を終えたばかりのもうひとりの妻も、そしてその子も見舞わなければならない。


「すぐ、戻る」


 だからファルカスは短く繰り返すと、最初の妻と娘に背を向けた。


 彼はこれから、初めて二人目の娘に会いに行くのだ。




 側妃は事前に伝えていた通り、寝台に横たわったままの姿でファルカスを迎えた。その方が身体が楽だろうから構うな、と恐縮するのを半ば命じるように遮った、書簡でのやり取りがあった上でのことだった。


「このようなお見苦しい姿で申し訳ございません……」

「気にするなと言っている。母子共に大事ないとのこと、何よりだ」

「恐れ入ります」


 化粧けもなく、髪も軽く括っただけの側妃の姿は確かにかつて見たことがないほど装うということをしていない。彼に対する顔色も悪く声にも張りがなく、出産がよほどの疲れをもたらしているのだろうと思わせる。なのにしっかりと背筋を伸ばしてどこか緊張した雰囲気があるのが、気丈というか生意気だった。


「本当に、楽にして良いのだぞ。――よくやったと思っているのだ」


 頭を撫でて労おうと側妃へ伸ばした手は、思いのほか素早い動きで避けられた。気遣いを無にする情の薄さにファルカスは少なからずむっとしたが――


「……申し訳、ございませんでした」

「何を……」


 碧い目に浮かぶ表情がいつになく沈痛で、声も微かに震えているのに気づいて眉を寄せる。改めてよく見れば、側妃の頬が白いのは疲れのためではないようだった。矜持高く常に強気なこの女にしては非常に珍しい――というかほとんど見たことがない、その感情は。


「王子を生むのが私の務めだったというのに。国を乱して、ミーナ様を苦しめて――なのに、女の子だったなんて」


 ――俺が怒ると思っていたのか!?


 側妃の目に怯えの色を読み取って、ファルカスは一瞬顔を顰めた。が、そのような表情も妻を不安にさせるだけと気づいて慌てて明るい声を装う。


「お前が好んで王女を生んだとでも言うのか? 違うだろう。お前こそ誰より王子を望んでいたのではないか」


 イシュテンのためではなく、祖国ミリアールトのために。それに、彼との閨から一刻も早く解放されるために。憎む男に抱かれる機会が増えるのを、この女が望むはずなどないのだから。


「まずは身体を休めるが良い。次こそ王子に恵まれれば良いのだ」


 今度こそ金の髪を戴く頭を抱き寄せながら、マリカの時にも同じようなことを言ったのを思い出す。あの時は、焦っているのはリカードだけで、ミーナ当人は生まれたての赤子の愛らしさに夢中になっていたのだったが。そして今日に至るまで、ミーナとの間には()の機会は訪れていない。


「……はい」


 また振り出しに戻ったことを憂いたのか。それともまた女児を生むことを恐れたのか。側妃は何か言いたげに血の気の薄い唇を開いたが、結局大人しく頷いた。恐らくは彼と同様に、今どうこう言っても何の益もないことを悟ったのだろう。


 ――あの者は、無駄に乱を起こしたことになるのか……?


 母の傍らで、絹の産着に包まれて眠る赤子を眺めながら、ふと思う。生まれたばかりの赤子の性別など見た目で分かるはずもないが、この子は間違いなく王女だという。リカードや――ティグリスが恐れた、王子ではなく。

 リカードが策謀を巡らしティグリスが叛旗を翻したのは、王子の誕生によって王位から遠ざけられることを恐れたからだ。無論、彼らは王女である可能性に楽観的に賭けたりはしなかっただろうし、だから結果は同じだったのだろうが。

 そうだ、彼は男女の別など考えずに我が子と妻を守るつもりで戦ったのだ。王子だろうと王女だろうと、子を思う気持ちに変わりはない。……ならば、死と流血が無駄であったなどと、考えてはならないのだ。


「……名は、どうする?」

「なまえ、ですか……」


 暗い方向へ流れそうになった思考を、無理に前に戻して腕の中の側妃に問いかけると、茫洋とした面持ちで彼が言った言葉を繰り返した。彼が抱き寄せていても、抗うことも嫌な顔をすることもないのが逆に哀れだった。その気力がないのだとしても、彼に媚びようとしているのだとしても、この女がかつてなく弱気になっている証左だとしか思えなかったから。


「お前が名付けるのでも良いぞ。母になった実感も湧くだろうからな。何ならミリアールト語でも構わない」


 少しでも心を晴らしてやれるなら、と考えて、ファルカスは側妃の祖国の名を出してみた。近頃臣下が結婚する際、妻の婚家名としてミリアールトの名を与えることもあると聞いている。王女の名もそうすることで、征服した地を厚遇していると見せることもできるだろう。世継ぎの王子に異国の名はさすがに反発も大きいだろうから、そういう意味では王女で良かったとすら言えるかもしれない。


 だが、側妃は彼が期待したように喜んだ様子は見せなかった、それどころか曖昧に首を傾げて夫と娘とを見比べている。


「私が決めて良いのでしょうか……」

「マリカを名付けたのもミーナだからな。公平というものだろう」


 そして名付けの権利を委ねられた結果、ミーナは父――リカードから贈られた名を改めて娘に授けたのだ。厄介な政敵に由来する名に眉を顰めたのも束の間のこと、長女はすぐに彼にとっても愛しい存在になった。それを思えば、異国語の名であることくらいは大した問題ではないだろう。


「そうですか……」


 娘を見る側妃の目の醒めていることが、少し気になった。この女は、懐妊中から我が子に対する情が薄いようで彼はずっと眉を顰めていたのだ。


 ――嫌いな男との間の子だとこんなものなのか……?


 ミーナがマリカに対して見せるような愛情などは望むべくもないのかもしれないが。それにしても、腹を痛めた子に対して冷たすぎるのではないだろうか。

 夫の懸念を他所に、側妃はしばし首を傾げて黙考し――ややあって、口を開いた。


「では、フェリツィア、と。よろしいでしょうか」

「……普通だな」


 その告げられた名がイシュテン語のものだったことに、そして「幸福」というごくありきたりな意味だったことに。ファルカスは少し驚いた。この女のことだから、故事に由来を取った長ったらしい名を選ぶのではないかと思っていたのに。


「いけないのですか」


 彼の感想に声と視線を尖らせた反応こそ、この女に似合いのものだった。見慣れた不快と不機嫌を露にした表情に、どこか安堵さえ覚えながら、彼はやっと頷いた。呼びやすく意味も良い――ならば、反対する理由など見当たらない。


「いや、良い名だろう。では、フェリツィア王女と、正式に記録する」

「よろしくお願いいたします」


 ――少なくとも、子の幸せを願ってはいるということか?


 フェリツィア、と心の中で呟いて、眠る赤子とその名を結びつけながら、ファルカスは話題を変えた。命名の次に話すべきこと――このイシュテンでもっとも幼い王族の、これからの養育について。


「王女ならばミーナの――王妃の後見がいるということもないが。お前の手元で育てるのか?」

「ああ……」


 側妃はまたぼんやりと頷いて首を傾げた。名付けたというのに、我が子を抱き上げることも、触れることさえしない。その様子から、彼はこの女はミーナに預けることを選ぶのではないかと思った。


 ――その方が良いのか……?


 赤子を育てるという点だけ取れば、ミーナは優しく愛情深いし経験もある。しかし王妃は王妃で最近不安げな様子をしばしば見せる。他の女の子を任せることが心の安定に繋がるものかどうか、今の段階では判じかねた。


「私に遠慮なさっているのかもしれませんが、ミーナ様は子供は母親が育てるべきだと仰っておられました」

「ではお前が育てるのか。できそうか?」

「……さあ。ミーナ様にお渡しするものと思って、情を移さないように心掛けておりましたので」


 煮え切らない態度に思わず溜息を吐くと、消え入りそうな声で申し訳ありません、と言われた。その弱弱しさもこの女には珍しいもので落ち着かない。まして子を生んで疲れ切った姿ともなれば、責める気も起きなかった。


「では、当面はお前が世話をすると良い。落ち着いてからミーナやマリカとも会わせれば良いし、赤子を見ればあちらも気が変わるかもしれぬ」

「はい。そのようにいたします」


 ファルカスはあくまでもミーナに任せる方を前提として話し、側妃の方もそれを受け入れて頷いた。そしてその方が良いだろう、とも思う。この女との間にはまた子を儲けるように励まなければならないから。共に赤子を見守るひと時など時間の無駄でさえあるかもしれない。この女との関係はあくまでも利害に基づいたもの、そう考えるのがお互いに気楽なのだろう。


「……では、ゆっくり身体を休めるが良い」

「恐れ入ります」


 事実、側妃との間に話すべきことはもう尽きたし、立ち上がろうとした彼を相手が止めることもなかった。長居を煙たがられることは以前からあったから特別腹が立つことでもない。この女が休息を必要としているのは事実でもある。


 だから、妻たちとの関係は今後も変わることはない。彼はそう、信じていた。

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