婚礼の日 アンドラーシ
――どうしてこうなったのだ……。
もう何度目になったのか。アンドラーシは心中で呟くと溜め息を飲み込んだ。不服な思いは、声に出すことも表情に見せることもしてはならなかった。なぜなら彼のすぐ傍には父が控えている。彼が花婿の壮麗な衣装を着せられているのと同様に、伝統に則って正装して。妹が嫁いで以来しまい込まれていたそれの出番がやっと再びめぐって来たことを、彼の母などは泣いて喜んでいた。彼としても生涯独身を貫くつもりなどはなかったのだが、そういうことを言っているうちに嫁のなり手はいなくなっているものらしい。これも、成人した男としての自覚が色々と足りていないらしい彼に、母が説教したことだ。
結婚が決まったことに対する周囲の反応は、アンドラーシにとっては全く理解しがたいものだった。主君のためにバラージュ家を取り込む必要があることは分かるし、王がその役に彼を選んで認めてくれたことは誇らしく思う。だが、理解できるのはそこまでだった。
なぜかやたらと怒っていたクリャースタ妃の不興の理由は今ひとつ分からないままだったし、友人たちに熱烈な求婚の一幕を揶揄われるのも落ち着かないことだった。
何より腹立たしかったのが父に報告した時のことだ。順番が前後したことを一応は詫びつつ、バラージュ家の令嬢と結婚することになったと伝えると、父は仔細を聞く前に息子を思いきり殴りつけたのだ。
『父上なぜだ!?』
『黙れこの放蕩者め! 名家の令嬢に何をしたのだ!?』
『俺は、別に何も――』
していない、と言おうとして、彼は一瞬言い淀んだ。彼の主観では王と側妃の命に従って動いただけ、彼が特別に何かを為したなどという認識はない。しかし一方で、エシュテルを救うために不届き者と剣を交えたのが彼だったのもまた事実。ならば彼のせいということになるのだろうか。その時点の彼には計り知れないことだったのだが、父は息子の沈黙を、後ろめたいことがあるからだと捉えたらしかった。
『まさか既に子を成しているなどということは――』
『ない! 絶対ない!』
父が胡乱に睨みつける視線に、ようやく自身に向けられた疑いに気付いて、アンドラーシは声を張り上げた。彼はエシュテルに指一本触れていないのだ。なのにそのように不埒な想像を巡らされて、あまつさえ殴られるなど理不尽としか言いようがなかった。
『ではどのように姫君を誑かしたのだ?』
『……分からない』
クリャースタ妃の例からして、そのような答えはまずいという予感はあった。しかし、久しぶりに父親に――それも理由なく――殴られた驚きもあって、頭も舌もよく働いてくれなかったのだ。
『――何を、無責任な……!』
案の定というか、詳しい経緯を話すことができるまでに、アンドラーシはもう一発父の拳骨を喰らわなければならなかった。
それでも、父は最後には納得してくれた。あのジュハース――男親を亡くしたバラージュ姉弟の後見ということでバラージュ家を代表して挨拶の場に現れたのだ――が例の一件を事細かに語って聞かせてくれてやっと、だったが。実の息子よりも初めて会う相手、それもリカードなどに踊らされて血縁の娘を危機に曝すところだった男の言葉を信じたことは、これもまた理不尽に感じたし、その場においても父はジュハースが怪訝な顔をするほどに何度も経緯を聞き返していたのだが――まあ結果が良ければ何も言うまい。
父の薄情としか思えない反応以上にアンドラーシを煩わせたのは、親族でも友人でもなく、彼もエシュテルも、ついでにことの背景をも、ひと通りしか知らない者たちが囁くことだった。
――あの若造、偉そうなことを言っておきながら、結局女を利用してバラージュ家を取り込もうと言うのではないか。まったく、上手くやったものだ。
――弟の方と何かと絡んでいたのも、このための布石だったのではないか? そもそも側妃にも目敏く媚を売っていたようだし……。
――さすが陛下のお気に入りなだけはある。その手の手管には長けているのか。
特に最後のものに類する噂は、彼の耳に届き次第吹聴する者を黙らせてはいる。が、聞こえないところでもそのような見方が広まっているのだろうと思うとうんざりする。普段ならば他人が何をどう思おうと気にしない彼ではあるが、今回ばかりは話が違う。立場が違ったならば、確実に彼も同じようなことを――隠れてではなく、堂々と大声で――言っていたにちがいないし、何よりそれらの不快な噂にも一理あると、彼自身に自覚があるのだ。
――バラージュの先代が生きていたなら相手にもされなかったような惰弱どもが!
新年の宴の際に、エシュテルを狙った者たちを嘲って言った言葉が今になって突き刺さる。彼は決して惰弱ではないという自負はあるが、それでも若く門地も低く、家庭を持って妻子を守ろうという気概に――今、この期に及んでも――欠ける。厳格なことで知られたバラージュの先代、エシュテルやカーロイの父が生きていたなら、アンドラーシは鉄拳どころでなく抜き身の剣で迎えられていてもおかしくない。
というか、彼のような男が姉や妹に結婚を申し込んできたら、アンドラーシだとてひと勝負してからでなくては収まらないだろう。
つまるところ、アンドラーシはエシュテルを騙して弱味につけ込んだような気がしてならないのだ。クリャースタ妃も懸念していたように、危ないところを救われたことで彼のことが実際以上によく見えているのではないか。カーロイを気にかけたのは、確かに打算などではなくエシュテルの頼みだからでもあったが。だが、実のところ彼は大したことはできていない。
――俺で、良いのか?
クリャースタ妃に妻の婚家名を強請ったのは、そのような不安と弱気の現れでもあった。この縁によって王も側妃も、さらに御子にも利するからと自身に言い聞かせてやっと、花婿などという立場を受け入れることができているのだ。
「――そろそろ、出るぞ」
「はあ」
しかし周囲の者たちは彼の当惑など理解してはくれない。知らない者には首尾良く名家の令嬢を勝ち取った要領の良い男と思われているか、もっと悪ければ想い人のために馬を駆けさせて恋敵に決闘を申し込んだ、などという恥ずかしい逸話が信じられている。そして、近しい者にはやっと身を固める気になったかと盛り上がられて、嫌だなどと言い出せば罰当たりな、と叱られるのが確実に予想できてしまう。
誰に言われるまでもなく分かっているが、バラージュ家の令嬢という立場もエシュテル自身の容姿や心ばえも、彼には分不相応で過ぎた幸運、不平を漏らすことなど許されないのだ。
「何だ、だらしない顔をしおって」
今も、父は息子の気の抜けた返事に顔を顰めた。また一発殴りたそうに拳が握られるが、婚礼の主役のひとりが顔に青あざを作っていては花嫁の恥になると気付いたのだろう、言葉での説教に止めてくれる。
「ちゃんと花嫁の前では微笑むのだぞ。いつものへらへらとした笑い方ではなく、頼り甲斐があるように見せろ。――まったく、幻滅されるまでにどれほど保たせられることか……」
――幻滅されるのは決まっているのか……?
父の物言いは不服ではあったが、とりあえずは彼の体面を気にしてくれていることは分かったし、それに大いにあり得そうなことでもあったので、アンドラーシはやはり何も言わなかった。代わりに従順に返事をするが――
「まあ努力はしますよ」
「本当にやる気があるのか……?」
父の眉間に寄せられた皺を、一層深くするだけの結果に終わった。
花婿が花嫁の実家まで出向き、両親から妻を引き取るのがイシュテンの婚礼の手順だ。
アンドラーシの領地とバラージュ家のそれはそれなりに距離が開いているから、彼は父や従者たち、エシュテルにつくことになる侍女や召使を連れて、数日掛けてバラージュ領に入っていた。そしてエシュテルが待つ屋敷の近くに滞在場所を得て、さらに数日。――花嫁の支度が整ったと、やっと報せを受け取ったのだ。
「おお、何と晴れがましい日か――」
エシュテルの父親の役を務めるジュハースは、例によって大仰だった。両腕を広げられて満面の笑みで迎えられて、アンドラーシは仕方なく初老の男と抱擁を交わす羽目になった。
「皆してこの日を待ちわびていたのだ。――なあ?」
しかしジュハースの腕から解放されてその背後を示されると、さすがにアンドラーシの心臓も跳ねた。そこにいたのは、片腕ながら美々しく正装し微笑むカーロイと――花嫁姿の、エシュテル。衣装に施された刺繍の花々にも決して見劣りしない、輝くばかりの幸せそうな笑顔。
「あ……」
思わず言葉を失ったところを父に小突かれて、ようやく作法を思い出す。花嫁に手を差し伸べると、細い指先までもほんのりと染まっているようで。触れると、熱さに驚いて手が震えて上手く取れない。良く見ればエシュテルも手が震えているから噛み合わないのだった。片手を重ねて、もう片方の手を花嫁の腰に回して。アンドラーシはようやく定められた言葉をジュハースに告げた。
「娘御を、我が家に貰い受ける。お許しいただけるか?」
「――許す」
ジュハースの鷹揚な笑みも、今度ばかりは腹立たしいとは思わない。むしろ大きな安堵を覚えながら、アンドラーシは彼の妻になった娘を抱き締めた。彼がいかに幸運か、父や母がうるさいほどに説いてきていたが――その意味が、この場になって初めて理解できたのだ。
「必ず……守る」
心から涌き出た思いをそのまま囁くと、衣装に合わせて美しく結い上げられた頭が小さく頷いた。項も赤く染まっているのがまた愛しい。
――守ることなら、できる……。
クリャースタ妃が求めたように、必ず幸せにするとは誓えない。彼はいつ戦場で斃れるかも分からぬ身だから。ただ、彼の背には妻の重みが加わった。彼が戦いに身を投じる時、それには妻を守るためという意味も生じるのだろう。勝利を通じて家族を守る――それならば、彼にも約束できるはずだった。さて、行こう。皆が待っている……はい!彼に頼ってくるエシュテル――否、もうグルーシャと呼ばなければ――の笑顔は、いつまでも見ていたいと思わせるもの。アンドラーシの領地への帰途、同じ馬に乗せてしまえば見られなくなるのが惜しいほどだった。
「姉を、よろしくお願いいたします」
「ああ」
カーロイたちに見送られて、一行はこれから来た道を花嫁を連れて戻るのだ。道中で新しい夫婦の姿を領民に披露しながら。気恥ずかしく憂鬱なものだと思っていた道行きが、今なら誇らしい。そして領地に帰ったなら、新郎側の親族が宴の支度を整えている。そこでは王も彼らの門出を祝ってくれるという。臨月を迎えたクリャースタ妃は伴われないが、内々に祝いの言葉を伝えてくれたし、何より花嫁衣装に刺繍を施してくれた。あの並の女の嗜みとは縁遠い方が!
妻子を得た友人たちがしばしば彼を揶揄ったのも無理はあるまい。アンドラーシは確かに守るべきものを持つことの喜びを疎んじ遠ざけてきた。それは、彼らにはさぞ愚かに見えていたのだろう。
「あの、私からも……よろしく、お願いいたします……」
グルーシャのはにかんだような言葉には額に落とす口づけで応えて。アンドラーシは、新妻を彼の馬に乗せた。
婚礼を終えた後、アンドラーシとグルーシャは短い蜜月を過ごした。その後、妻は側妃のために離宮へ戻る。初産に不安がるクリャースタ妃についていたいと言って。彼としても王の御子のことは何より気に懸かることだったから、妻から詳細な様子を聞くことができるのは願ってもないことだった。
そうして屋敷と離宮を頻繁に往き来する妻を気遣う日々が続くこと、しばし。アンドラーシはついにその報せを受ける。彼が聞く頃には、王にもリカードにも届いていたであろう報せ。
クリャースタ妃が、無事に王女を出産したのだ。