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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
14. ふたつの名前
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獅子王子 アンネミーケ

 王都中に響き渡る鐘の音と人々の歓声が、鷲の巣城(アードラースホルスト)の奥、アンネミーケの居室にまで届いている。新しい王族、王子の子の誕生を祝う大騒ぎが、今も続いているのだ。


 寝台に半身を起こしながら、アンネミーケは顔を顰める。一日も休むことなく国政に一身を捧げている彼女とはいえ、夜は人並みに眠るのだ。否、普段気を張る時間が長いからこそ、ひとり目を閉じて夢の世界に遊ぶ贅沢は何ものにも変え難い。彼女の孫のためとはいえ、それを邪魔する騒動はアンネミーケの裡に確実に苛立ちを溜めている。


 ――朝も早くから……一晩中止まなかったのか。


 赤子の誕生は既に数日前。以来、昼夜を問わず民も臣下も沸き立っている。王太子マクシミリアンは、浅慮浅薄な中身と裏腹に見た目だけは良い。与し易いと考える貴族どもは息子を持ち上げるのに労力を惜しまないし、王族と間近に接する機会のない庶民たちは、人格が容姿に反映されるものと信じて疑わずに美形の王子を慕っている。

 権力を狙う汚い思惑が、無垢ではあるが無知な民草を煽ることでバカ騒ぎはますます大きく育って留まることを知らない。一方で、誰もが遊び浮かれるためにアンネミーケが考えるべきことは平時にも増して山積みとなっている。


「陛下。お目覚めですか――」

「これで寝ていられるか」


 気心知れた侍女の声に、荒々しく答える。ほとんどの臣下に対してするように、泰然と構える必要がない相手、時に不機嫌を露にしても受け入れられる相手というのは彼女にとって貴重だった。現に侍女は穏やかな苦笑と共に水を張った(たらい)を差し出し、主の身支度を手伝ってくれる。


「待望の王子殿下です。無理もありますまい」

「男か女か、ふたつにひとつだというのに大げさな……」

「陛下……」


 侍女の困り顔を見て、アンネミーケも大人げないことを言ったと溜め息を吐く。そう、王太子妃ギーゼラはめでたく男児を生んでくれた。母の産後の肥立ちもよく、赤子も五体満足で健康そのもの。万が一のこと――母子共に大鷲の神のおわす雲居に召されていた時のことを思うと、願ってもない結果のはずなのだが。それでも、アンネミーケの心はどこか重かった。


「いっそこれ以上浮かれ騒ぐのを禁じようかと思うのだが。民が怠ける口実になってしまってはいないだろうか」

「王太子殿下はきっと眉を顰められましょう。御子の誕生を心からお喜びでいらっしゃいますから。それに民も。国王陛下もご病気が長いですから……王家の明るい話題が求められていたのです」


 早朝から王妃の埒もない愚痴に付き合ってくれる侍女は、まったく得難い人材だった。正論を聞けば聞くほど、アンネミーケが不満をかこつのは間違っていると思い知らせてくれる。


 ――マクシミリアン……あれは、何も知らぬ……。


 息子自身ではなくその子のことではあるが、祝われるのが嬉しいからいつまでも続いて欲しい、などと。甘やかされた子供の考えそのものだ。普段が今少ししっかりしていたなら、長子の誕生に舞い上がっているのを微笑ましく見ることができただろうに。

 マクシミリアンがこのように頼りなく育ってしまったのは、アンネミーケの力不足も原因のひとつだろう。母がいかに範を示して強く厳しく振る舞うことの重要さを教えても、愚息はついに芯から理解してはくれなかった。だが、責を問われるべきは他にもいる。マクシミリアンの父――アンネミーケにとっては夫が寵愛した女たち。脳の代わりに砂糖と蜂蜜を頭に詰めた女たちが、彼女の息子をも蜜漬けにしてしまったのだ。


 ――二度と、あのようなことは繰り返させぬ……!


 母と共に勉学に励むよりも、夫君の寵姫やその子らと遊びたがって泣いていた幼い息子を思い出し、アンネミーケは苦々しく唇を噛み締めた。母が口うるさく叱った甲斐あって、マクシミリアンは父のように女どもを侍らせてはいない。アンネミーケさえしっかりしていれば、今度こそ大国ブレンクラーレを率いるに相応しい王を育てることができるだろう。


「準備は、整ったか?」

「はい。後は王太子妃殿下にお伝えするだけですが――」


 このやり取りの間に、アンネミーケは洗顔を済ませて寝汗で汚れた寝巻きも脱ぎ捨てている。息子の不甲斐なさに歯噛みする母親ではなく冷徹な摂政王妃の顔を纏えば、やるべきことをやるだけ、と思い定めることもできる。


「ギーゼラの体調は良いのだろう?」

「……はい」


 忠実な侍女が言い淀むのは、主の考えに賛成しきれていないのだろう。アンネミーケも、謗る者がいるであろう類のことをしようとしている自覚はある。だが――


 ――これは、あの娘にとっても必要なこと。


「ならば面会しても問題ないな。とはいえ身支度もあるだろうから……午後に会えるように申し込んでおくように」

「はい」


 侍女の咎めるような諌めるような視線を無視して、アンネミーケは目で化粧の係を呼び寄せた。容姿が劣る自覚が十分にある彼女であっても、女の務めから逃れることはできないのは実に面倒なことではあった。




 義母への遠慮があるのか、王太子妃の住まいからは昼前に席が整ったとの報せを受けた。彼女の孫、未来の王のことであれば大抵の公務よりも優先すべきことでもあり、アンネミーケもすぐに謁見や陳情の予定を調整して嫁を訪れることにした。


「お義母様。お忙しいところ、わざわざありがとうございます」

「可愛い孫のためだ。お気に病まれることはない」


 出産の直後に孫を抱いて労って以来、ギーゼラに会うのは初めてだった。その時は陣痛に疲れ切ってろくに口を利くことができなかった義理の娘だが、今日は顔色も良く幸せそうに微笑んでいる。母になったことは、どこか頼りなげだったこの王太子妃に、確かな自負と自信を与えたらしい。少なくとも、それは喜ぶべきことだった。


「我が孫の機嫌は? 婆が抱いても泣かないだろうか」

「そんなこと……おばあ様ですもの、分かりますわ。――レオを、連れてきて」


 ギーゼラの命に、侍女たちは頭を下げると赤子を寝かせているらしい別室へ消えた。命令をするのに気兼ねがなくなったようなのも、この娘に起きた良い変化に数えることができるだろう。だが、ギーゼラが口にした孫の名が、アンネミーケの胸に刺さって口中に苦い味を感じさせる。


 レオ。レオンハルト。マクシミリアンから名づけの権利を委ねられたギーゼラが、いずれブレンクラーレを受け継ぐ男児に与えた名がそれだ。強き獅子を意味するその名を、父であるマクシミリアンだけでなく臣下たちもこぞって褒め称えた。歴史に名声を遺した賢王や武王、数多の将や宰相らと同じ名だから無理もない。先人のいずれに倣ったのだとしても、新たな王族に与えるのにこの上ない命名であるとさえ言えた。


 だから、アンネミーケは表向き不安を露にすることができない。彼女が孫の名を聞かされた時――その名の華々しい意味と歴史ゆえに、王妃に諮ることなく王族の系譜に記されていたのだ――、まず最初に思い出したのは、美しく涼やかなのにどこか腹立たしい青年の声だった。


 ――私の名……ミリアールト語で、獅子を意味するのです。


 どこかの夜会で、どこかの令嬢に囁かれていた言葉。アンネミーケに向けられていたのでもないのに覚えていたのは、その青年――ミリアールトから流れてきたレフという貴公子――の挙動に注意を払っていたからだろうか。祖国を――敵国(イシュテン)に囚われた従姉の姫君を救うべく、ブレンクラーレの貴族を扇動などしないかどうか。あの美貌の公子が切なげに眉を顰めて嘆息すれば、若い娘たちばかりでなく良い歳をした男であっても心を動かされるようだったから、目を離すことができなかったのだ。


「さあ、陛下。お孫様でございます」

「おお、何と愛らしい……」


 なぜか誇らしげな侍女から、アンネミーケは産着にしっかりとくるまれた赤子を受け取った。彼女の子はマクシミリアンただひとりだから、赤子を抱くのはどれほど久しくなかっただろうか。だが、孫をあやす手つきがぎこちないのは、慣れないからというだけではない。


 ――レオンハルト。獅子の王子……。


 ギーゼラは、息子の妻は、歴史を彩った英雄たちではなく、ひたすらに恋する男の面影を追って、同じ意味の名を子に与えたのではないだろうか。そう思うと、男児の誕生を祝う民や臣下の歓声も、どこか鬱陶しく聞こえてしまうし、可愛い孫を抱くのでさえも、一瞬の躊躇いが生じてしまうのだ。


「お乳もよく飲んでいるそうなのです。きっと、殿下に似て背も高くなりますわ」

「そうだな……」


 義母に微笑みかけるギーゼラの目には、一片の曇りもない。この娘には嘘や隠し事などできないだろうし、多くの侍女に囲まれた環境では不貞などありえないことも承知している。あの青年の方も、行く先々で人の注目を集めていたのだから、ふたりきりでの密会などまず不可能だ。獅子の名でさえもアンネミーケの思い過ごしかもしれないし、あの青年はもはや遠いイシュテンへ旅立っているのだから、忘れてしまえば良いのかもしれない。


 ――だが――この母の元では、危うい。


 アンネミーケにはもうひとつ忘れられない苦い記憶がある。ミリアールトの公子がイシュテンから帰った直後のこと。公子がティグリス王子を敗北に導いてブレンクラーレを裏切ったと聞かされてなお、ギーゼラは公子を庇ってミリアールトの元王女の助命を嘆願したのだ。国益よりも私情によって動いてしまう――この娘に次代の王を育てることは、できない。


 腕は、今にも泣きそうにぐずり始めた赤子を懸命に揺すりながら。表情は努めて厳かに、アンネミーケは告げた。


「この子は(わたし)の手元で育てることにする。既に妾の居室の傍に用意を整えてある――今日は、それを知らせに来たのだ」

「え」


 ギーゼラの目が見開かれ、唇はぽかんと開いて。手は、我が子を求めるように空しく義母の方へ差し出される。――が、それを敢えて無視して、アンネミーケは孫を自身が連れてきた侍女へ委ねた。


「でも……あの、殿下は……?」

「息子も了承しておる。もちろん母君が会いに来るのに何の遠慮も要らぬから、好きな時にいらっしゃれば良い」


 義理の娘にとって、多忙な義母の邪魔をするような真似がしづらいだろうが。そのようなことは百も承知で、アンネミーケは空々しく笑ってみせた。今回ばかりはマクシミリアンの勘の鈍さが幸いした。あの息子ならば、妻がどのように愚痴ったところで遠慮は要らない、母上のことは気にせずに我が子に会いに行けば良いと言うに決まっている。

 彼女の夫君は、正妻と寵姫たちは上手く役目を分け合っていると信じていた。同様に、その息子であるマクシミリアンも大人しい妻に代わって母が孫をよく躾てくれると喜んでいたほどなのだ。


「……お義母様! 私の子なのですよ!?」

「無論。だがその前にブレンクラーレの王子なのだ」


 ギーゼラは意外と強い目線でアンネミーケを睨んできた――が、彼女の決意を変えるほどの強さではない。王妃の彼女でさえ、自身の子を思い通りに育てることはできなかったのだ。ましてやこの娘はまだ王太子妃、政に大した影響を持っている訳でもない。アンネミーケの意の方が通るのは、当然とさえ言えるだろう。


「ブレンクラーレは強くあらねば。そのためには、強い王が必要なのだ」

「レオの前に殿下が王になられます……!」


 ――あれはもう手遅れだもの。


「――よく身体を休められるが良い。これから夜泣きが始まれば、夜もよく眠れなくなってしまおう」

「そんな――」


 冷笑を、心配げな眼差しで覆い隠して。あくまでも嫁を気遣う振りで、アンネミーケは退出の挨拶を早口に述べた。奪われる我が子を追おうとするかのようにギーゼラがまた手を伸ばすが――まだ出産の傷は癒えていないのだろう、痛みに顔を歪めたきり、足を踏み出すことはできないようだった。


 ――これで良い……これで、あの娘が獅子の名を呼ぶ機会は減らせるだろう。


 ギーゼラの想いを知る者は、今はまだ多くない。しかし、あの青年がイシュテンで上手く死んでくれるとも限らない。また密かな想い人を目にした時の、王太子妃の瞳の輝きを余人が見たら。王子と青年と、共に獅子の名を持つことに気づく者がいたら。――醜聞の恐れは、可能な限り除かなければ。そう、だからこれは、ギーゼラの名誉を保つためでもあるのだ。


 ――今度こそ、ブレンクラーレに相応しい王を育てなければ……!


 それでも。国のため嫁のためと取り繕っても。今度こそ一から赤子を育て上げることができるという喜びに、アンネミーケの口元は緩んでいた。

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