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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
14. ふたつの名前
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近づく時 エルジェーベト

 人の目と耳を憚る深夜、ティゼンハロム侯爵邸の奥深くにて。屋敷の主は息子からの報告を受けて激昂した。


「ミリアールトの売女め……っ!」


 リカードの怒りに満ちた呻きと共に、絹の衣装は高い音を響かせて無残に裂けた。リカードの夫人や、それぞれ名家に嫁いだ娘たち、その他にも名のある者の母や妻や娘が時間を掛けて丹精込めて作り上げた花嫁衣装が、一瞬で襤褸(ぼろ)切れに変わる。

 女たちの真心を無碍にする凶行――でも、その理由を知るエルジェーベトには無理もないと思われた。バラージュ家を取り込むことに失敗したという男側の理由だけでなく、女としても許せない。踏みにじられて、涙に濡れた憂い顔でその花嫁衣裳を纏うはずだったエシュテル・バラージュは、無傷で好いた男に嫁ぐことになったというのだ。


 ――あの女、いつもいつも余計なことを……!


 恋する女を他の男に取られまいと、アンドラーシが王に直訴して救出のために駆けたのだ、と。広く人々の間で噂されている。特に若い娘などは頬を染めて羨ましげに囁き合っているところも見かけるほどだ。

 しかし、アンドラーシが王に従っているところを何度も見たエルジェーベトには分かっている。自らの力だけを恃み、しばしば女を見下す――王妃のマリカに対してさえ! ――言動をしてきたあの男が女ひとりにそこまで入れ込むことは考えづらい。


「バラージュ家をあのような若造に取られるとは――上手く立ち回ったというか……」


 ティボールが悔しげに漏らしたことも、恐らく事実とは異なると思う。あの若者に後先を考えたり駆け引きで利を得ようとする頭はない。ではそのような知恵を誰が授けたかと言えば、あの忌々しい金の髪の娼婦に決まっている。


 一方のリカードは、ティボールよりも関係する者たちの為人をよく分かっているようだった。事態が不快なのか、息子の考えの甘さが気に入らないのか、苦りきった顔で吐き捨てる。


「その小僧、というかファルカスの入れ知恵だろうよ。そしてわざわざ臣下の娘を助けようなどと考えたのはあの女に相違あるまい」

「ジュハースがあのような格下の家の者を認めたのも思いもよらぬことでした……」

「あの手の者は、愚かなのだ」


 ジュハース。バラージュ家の親族の中でも年長で人柄も良く人望も厚く、その者に話を通せば若い当主など黙らせることができるはずだったのに。不憫な身の上の娘を勝ち取るために他領にまで乗り込んだ若者――ということになっている――は、そのお人良しの目にはどうも好ましく映ったらしかった。


「単に力や名に従うのではなく、情や理も重視する――それで、自身が高潔であると信じたいのだ」

「は……」


 経緯の報告と今後の対応を協議する場が、急に、父から息子への授業になったようだった。神妙に頷いてそれを受け入れるティボールも慣れたもので、この親子の力関係がよく窺える。


「ゆえに、形式を整えるのは重要だ。喜んで従うように、いかにも大義がこちらにあるように見せるのだ。正しいことを為すのに協力させてやったと思わせて――それを重ねれば、いずれ我らが言うことこそ正義だと思うようになるし恩も売れる」


 ――さすがのお手並み、ということなのかしら……?


 老人が良い歳をした息子に対して得々と語る姿は、他の者ならば滑稽に思えたのかもしれない。しかし、長年に渡って数多の諸侯を束ねて派閥を築いてきたリカードが言うこととなると、それなりの含蓄はある、のだろうか。


 バラージュ家の先代などは、リカードが言う通りにティゼンハロムに取り込まれていた。ミリアールトでの件については心から従った訳ではないだろうが、少なくとも敢えて逆らうことはしないで黙って死んでいった。リカードは、確かにその男を義理と恐怖で縛ることに成功していたのだろう。息子は、まんまとその枷を逃れてリカードに――ひいてはマリカたちに仇なしているのだが。


 使える駒を失った以上、新しいものを用意しなければならないのだろうが――バラージュほどの者、代わりが易々と見つかるだろうか。


「バラージュの娘を約束した者は何と言っている? 無駄骨を折らせた分、手頃な縁を口利きしてやっても良いが――」

「あの者は、死にました」

「何……?」


 非常に珍しいことに、ティボールは老獪な父親を驚かせるのに成功したようだった。短く吐き捨てたティボールの声と表情に満ちるのは、侮蔑と憎悪、それに怒り。単に与えた策を全うできなかったことに対して向けるにはあまりにも激しい感情から、その男の死因がただの病気や事故ではないと悟らせる。


「……早まったことをするものだ」


 もちろんリカードもエルジェーベトと同じことを察したらしく、眉を顰めて息子を叱る姿勢に入った。


「あのように利だけで釣れる者の方が扱い易いのだぞ。失敗したとはいえただ一度のこと、許してやった方が今後も良いように使えるだろうに――」

「バラージュ家の娘が望めぬならば、代わりに我が娘を寄越せと言いましたので」

「…………」


 しかしティボールはあくまで淡々と述べ、今度は父親を絶句させた。そしてリカードが言葉を失っていたのも一瞬のこと、すぐにその表情は息子と同じく怒りに染まる。


「なるほど。ならば当然だな」

「は」


 ――殿様は、やっぱり姫様方に甘いのね……。


 ティボールの娘ならば、リカードにとっては当然孫だ。他人であるバラージュ家の娘ならば政争の具に利用することができても、血の繋がった娘に同じ運命を辿らせること、血気に逸る下賎な男にその手を委ねることはこの男たちには耐え難いと感じるらしい。それは娘を想うからというよりは、彼らの権力や体面を軽んじられたからということかもしれないけれど。無頓着に踏み躙られ続けたエルジェーベトにとっては興味深い矛盾だった。

 とはいえ自身と高貴な姫たちとを並べて考えるなど不遜だから、不満に思うわけではない。むしろ、彼らの独善的な愛情がふたりのマリカ――今、親族の誰にも増して危機に瀕している彼らの血縁の女性――にも向けられていると思うと頼もしいほど。リカードの娘や孫たちは、実家の権力によって夫やその家から守られているのだから、マリカたちも同様に守られ、救い出されなればならない。


 そう信じているからこそ、エルジェーベトはいまだに生き恥を晒してこの境遇に甘んじているのだ。




「女狐からは何と……?」


 父子は過ぎたことについてそれ以上語るつもりはないようで、話題はブレンクラーレからの支援の話に移った。例によって従者のように男装した姿で、影に紛れるようにして。エルジェーベトは陰謀の成り行きに耳を傾ける。


「ミリアールトと呼応して王を追い詰める、策は追って授けると言っていたが……偉そうに!」

「あの売女が人質に取られているのです。ミリアールトが容易く口車に乗るとも思えませんが……」

「そのための策だと。いずれ分かるからなどと、もったいぶりおって!」


 ――ミリアールトまで巻き込む……鷲の巣城にいながら、どうやって?


 大国を率いるとはいえ、女に過ぎない摂政王妃(アンネミーケ)に思わせぶりな態度を取られたのだから、リカードが不快になるのも無理はない。しかも、伝えられた策は、かの名高い女狐でも不可能だと思えること。忌々しいことこの上ないが、あの金髪の小娘は口先ひとつで乱を収め、命を賭して抗おうとした者たちを、イシュテンの戦馬の王の前に跪かせた。

 あの女に煮え湯を呑まされた記憶も苦々しいからこそ、摂政王妃は何も知らぬ癖に、とリカードは苛立つのだろう。


「同盟を申し出ておいて動きも鈍い……! 使者も戻らぬのでは文句を言うこともできぬではないか……!」

「旧ハルミンツ領が手に入らなかったのは痛いですな……」

「分かりきったことを今更申すな!」


 父親を宥めるようにティボールが言ったことは事実であり、だからこそどうにも――リカードの勘気を和らげるのにも――ならないことだった。


 ティグリス王子の乱の後、そしてハルミンツ侯爵が甥と共に屍を晒した後、反乱に従った諸侯の領地は王についた者たちに分け与えられた。ブレンクラーレとも隣接する、イシュテンの東部の国境の領地は国防の要でもあり、特に功績の大きかった者に下賜された。リカードは王都の守りを固めるために――恐らく王にとっては目立った活躍をさせないために――討伐には加わらなかったから、自然、それはティゼンハロム侯爵家からは縁遠い者ということになる。


 ――まさか、王がこの事態を予想していたはずもないけど……。


 旧ハルミンツ領が手中にあったならば、ブレンクラーレの間者を密かにイシュテンの奥深くに招き入れることも容易かったのだろうが、現状では彼らが無事に国境を抜け経路上の領主の目に付かずにティゼンハロム領まで辿り着くのを祈り、待つしかできない。


「……とはいえどの道今は動けますまい? それともバラージュの娘の婚礼を邪魔でもしますか」

「ファルカスも列席するというのだぞ。そのようなこと、できるものか!」

「ならば、父上――」


 ティボールがわざわざ愚かなことを口にしたのは、父親に否定させるため、そして頭を冷やさせるためだったのだろう。その証拠に、リカードは荒々しく鼻を鳴らしたがそれ以上は何も言わなかった。


 リカードが黙し、ティボールも父の言葉を待って口を噤む中、エルジェーベトは間を持たせるためにふたりに酒を注いだ。三十路の年増、それも断髪して男装した彼女では大した興にもならないだろうが。だが、少なくともリカードは頭を冷やしたらしかった。やがてぽつりと呟いた老人の声からは怒りが引いて計算高さが顔を覗かせていた。


「女狐めは、あの女を逃がすつもりなのかもしれぬな」

「あの女――側妃を?」

「王宮から密かに売女めを盗んでミリアールトに落とす……我らに求める役目がそれだとしたら……確かに、今度こそミリアールトは背くのかも知れぬが」


 ――そんなこと!


「そのようなこと、お許しになるのですか!? あの女をむざむざ祖国に帰してやると!?」


 マリカを傷つけ(おびや)かしたあの女が、無傷で生き延びるかもしれない。それどころか、祖国で王族として迎えられ安穏と暮らすのかもしれない。そう思った瞬間、エルジェーベトは思わず叫んでいた。リカードが考えを纏めるのを邪魔したことで、折檻を受けるかもしれないとは思ったけれど。でも、たとえそうなったとしても、そのような事態は到底許せることではなかった。


「あの女を生かしてやるおつもりなのですか! あの女――」

「分かっておる!」


 側妃の悪行を数え挙げようと思い切り吸い込んだ息は、リカードの一喝によって空しく吐き出させられた。


「分かっておるが――その上で、女狐の求める対価がミリアールトならば安いものだ」

「そもそもファルカスの見栄で落としたもの……乱の危険を抱えてまで維持しなければならないものでもありませんからな」

「うむ。そもそも我らのものではない領土――イシュテンの国土の割譲を求められるよりは、よほど良い」


 父子が訳知り顔で語り合うのが、エルジェーベトには信じられなかった。ティボールはともかく、リカードとはあの女への憎しみを分かち合えていると思っていたのに。


「そんな……」

「ま、今言ってもどうにもならぬのは確かだ。女狐の策に従ったとして、要求を全て呑んでやる義理もない」

「……はい」


 リカードが同盟相手としても取引相手としてもアンネミーケ王妃を信じていないのは既に聞かされている。たとえ側妃の身柄を解放するように要求されたとして、受け入れる必要もないし、受け入れた()()でやり過ごすかもしれない、ということだろうか。今は、リカードの側妃に対する怒りと憎しみを信じるしかないのだろうか。


「後は側妃の子が男か女か、ですか……。王女ならば良し、贅沢を言うなら母子ともども産褥の床で死んでほしいものですが」

「何を言う。そのように楽な死に方など許してやるものか」


 女の生みの苦しみなど知らない癖に、リカードはいっそ穏やかに息子の言葉を否定した。


「マリカを傷つけた女も、その女の胎から出た子も。考え得る限りの苦痛を味わってからでなければ息をするのを止めてはならぬ。だからあの女には無事に子を生んでもらわねば」


 ――そうよ……子供が生まれて……情が湧いた頃の方が……!


 さらりと言ったからこそ、リカードの言葉は本心だろうと思うことができた。側妃の子が生まれるまでは、後わずか。あの女が喜び待ち望んで数える日々は、あの女の余命が短くなっていく時でもある。喜びが大きいほど、後の苦しみは増すはず――そう思うと、エルジェーベトの胸に仄かな希望の灯が点った。




 息子との密談が終わると、リカードはエルジェーベトに片づけを命じてその部屋を退出した。空になった酒杯と、無残に引き裂かれた花嫁衣裳。――エルジェーベトは、特に一面に刺繍が施された生地を取り上げてそっとその表面をなぞった。これには、マリカも針を刺したという。いずれも見事な腕を誇る女性たちの技だから、どの部分が愛する主人が施したものかは分からないけれど、とにかくこの衣装をマリカも触れたのだ。


 ――マリカ様、もう少しのご辛抱ですから……。


 あの方を悩ませる女は子供ごといなくなる。そんな女を迎えた王も、リカードが討ってくれる。そうしたらまたマリカ()()と和やかな日々を過ごすことができる。


 その時を夢見ながら、エルジェーベトは絹糸の刺繍に頬を寄せて優しく口づけた。

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