イシュテンの変化 アレクサンドル
「イルレシュ伯――!」
「おお、もう来ていたのか!」
アレクサンドルの姿を認めるなり、カーロイ・バラージュは馬上から大きく腕を振った。片腕の彼のこと、そうするためには完全に手綱から手を離さなければならないのだが、少年は危なげなく鞍の上で姿勢を保っている。戦馬の神を奉じるイシュテンの貴族であるがゆえの腕前でもあるだろうし、右腕のない状態でいかに戦うかを彼なりに考え、鍛えた結果でもあるのだろう。
馬を近くに寄せてみると、久しぶりに会ったカーロイは、以前――ティゼンハロム侯爵を糾弾しようとして失敗した時――の怒りと憎しみに満ちた表情とは違って大層明るい顔をしていた。さらにその前、ティグリス王子の乱の後、右腕を失った怪我が癒えたばかりの憔悴しきった顔も知っているアレクサンドルとしては、非常に嬉しい変化だった。
変化の理由は、単に彼らが今、春も近づき取り戻し始めた太陽が輝く下にいるから、だけではないだろう。片腕になったカーロイの剣や馬術の訓練に付き合うのは既に何回もあったこと。今日に限って少年の纏う空気が春の朗らかさを持っているのは、やはり彼が主君から聞かされたことが理由なのだろう。シャスティエは納得しきれないように、愚痴るように彼にそのことを語ったのだが――
「姉君のこと、心からお祝いを申し上げる」
「ありがとうございます」
彼の挨拶に破顔したところからしても、姉の縁談は少年にとってはひたすら喜ばしい出来事なのだろうと思う。相手があの軽薄なアンドラーシということで、老人としては多少の不安もあったのだが。同じイシュテンの者、しかもカーロイの若さだと、また物事は違うように見えているのかもしれない。
「日を改めて、祝いの品を差し上げるつもりだ。マズルーク産の琥珀――イシュテンでも珍重されるのだと良いのだが」
「わざわざ――姉も喜ぶことでしょう。重ねてのお気遣い、何と御礼申し上げれば良いか……ありがとう、ございます」
少年が目を瞠り、次いでやや早口に、舌をもつれさせるように礼を言ったことで、アレクサンドルは自身の選択が間違っていなかったことを知った。北方の沿岸のみで産出される琥珀は、内陸のイシュテンでは喜ばれるだろうと思っていたのはどうやら正しかったようだ。ミリアールトにおいては太陽を思わせる輝きや、香料にも使える性質が尊ばれるのだが。まあ、その辺りは彼の主が花嫁に教えてやることもできるだろう。
「ミリアールトの領地から取り寄せるので、まだお渡しすることはできないのだが。婚礼の日には間に合うであろう。――春先に、ということだったか」
「はい」
姉の晴れ姿を思い浮かべでもしたのだろうか、少年の頬がまた緩んだ。アレクサンドルはイシュテンの倣いをさほど知っている訳ではないが、名家とはいえ父を不名誉な形で亡くした娘が嫁ぎ先を見つけるのに苦労するであろうことは想像に難くない。しかも、エシュテルは父の仇でもあるティゼンハロム侯爵が推す男と娶されようとしていたとか。危ういところを逃れた安堵は喜びを倍増させただろうし、助け出した相手と結ばれるというのも、また良い収まり方なのかもしれなかった。
「クリャースタ様は出席できないのを残念そうにしていらっしゃった……」
「光栄なことです。その代わりに花嫁衣裳に刺繍をしてくださると、わざわざお言葉をくださいました」
それについてもアレクサンドルはシャスティエから聞いていた。目上の者が花嫁衣裳に針を刺すことの意味合いも。女らしい嗜みは不得手で、叔母の公爵夫人らを嘆かせていたあの姫君が自ら針を持つとは、この結婚を祝う気合が伝わってくるというものだ。
――ま、シャスティエ様はそのようなことを他言されたくはないのだろうな……。
主の弱みを他国の者に明かすのは避けて、アレクサンドルはもっともらしいことを口にした。
「御子も同じ頃に誕生される。慶事が重なること、クリャースタ様もお喜びなのだろう」
「そうだと嬉しいと思います」
エシュテル――というかバラージュ家の縁組への介入は、シャスティエの胎の子への手出しを禁じられたティゼンハロム侯爵の最後の悪あがきでもあった。それを防いだ今ならば、少なくとも御子の誕生までは、母子は健やかに過ごすことが保障されたと考えて良いのだろう。そういう、政争が絡んだ点でも、この縁談はシャスティエにとって――ひいてはミリアールトとアレクサンドルにとっても朗報のはずだった。
――王ばかりではなく、イシュテンの臣下の動向にも左右される、か……次第に、深みに嵌っていっている気もするが。
味方が増えたという喜びよりも、祖国を征服した国に呑み込まれる不安が勝るのは、老身ゆえの弱気なのだろうか。しかし、バラージュ姉弟への好感とふたりの幸せを望む思いに変わりはないので、アレクサンドルは表向き慶事を祝う表情を保った。
バラージュ家の領地の一角の平原で、彼らふたりはしばし馬を駆けさせ、訓練用に刃を潰した剣を合わせた。
イシュテンの気風は、王を庇った名誉の傷とはいえ取り返しの利かない不具になった者に対して冷たい。だから、最低限周囲から侮りを受けない程度にまで鍛える訓練の相手役を、アレクサンドルは買って出ていたのだ。実戦ならばさほど役に立たない老人でも、左手での剣の扱いに慣れようとしているカーロイならば程よい相手を務めることができる。
何度目かに剣を打ち合わせる鈍い音が響く――と、カーロイの手から剣が跳ね飛ばされた。
「くっ……」
少年は悔しげに呻くと、剣を拾うべく馬を下りた。片腕での馬の乗り降りに慣れること、身体の均衡を覚えたり左手に力をつけさせたりすることも、彼の目標だった。アレクサンドルという相手がいることで、敵の目にどのような隙を見せてしまうか、どう対策すべきかも考えることができるのだろう。
「今日はこれまでにしておくか」
「ですが――」
再び騎乗したカーロイは果敢に剣を構えようとしたが、その切先は震えていて少年の体力の限界を教えていた。逸る若者を諌めるのも、彼のような老人が負う役目のひとつだ。
「無理をして左手を痛めては何もできないだろう。無理をする必要はないのだ」
「……はい」
悔しげに表情を歪めながらも、カーロイは非常に聞き分けが良かった。こういうところもアレクサンドルには好ましく思えて、だからつい何かと世話を焼いてしまうのだが。
「ここで疲れすぎては頭も働かなくなるぞ。まだ授業もあるのだから」
「……はい!」
授業、と口にした途端に少年の目が輝いた。剣を握ることに高揚するのとは別種の興奮――アレクサンドルは、カーロイに歴史も絡めた戦術や領地の経営についても教えていたのだ。イシュテンの者が学に興味を示すとは意外でもあり、武に偏りすぎた国風へ一石を投じることになるのかもしれないと思うと、彼としても熱が入るというものだった。
バラージュ邸に移動して汗と汚れを流した後、アレクサンドルはカーロイの書斎に通された。カーロイの、というか代々のバラージュ家の当主が諸々の決断をし、記録を残してきた部屋だ。若輩のカーロイとしては、まだ自分の部屋だと呼ぶことはできないようだったが。
とにかく、若者についての授業など、自身の息子を育てたことを思い出して懐かしくも面映ゆい。二年ほど前までは静かに余生を送ると思っていたのに、異国でこのように後進――イシュテンの者をそのように呼ぶなら――を育てているとは、全く人生とは何があるか分からない。
「今日は、ご相談したいことがあります」
「何か、問題でもあったか?」
席について、茶菓が供されるのとほぼ同時にカーロイは切り出した。相談の、ひと言にアレクサンドルも居住まいを正す。
若くして、そして予期せぬ形で家を継いだこの少年は、外に弱みを見せることができない。領地を預かるに力が足りないと見られれば、欲深い親族――特にティゼンハロム侯爵に近しい者たちに家長の位を追われかないのだ。本来この国の者ではないアレクサンドルに助言できることは限られているが、領内の諍いなどの調停についてカーロイに指針を示したことは、これまでにも何度かあった。そしてそれらの事例は、イシュテンの倣いを知ることができるという点で、彼にとっても得るものがあるのだ。
「問題というほどでもないのですが」
アレクサンドルが見せた緊張を和らげるように、カーロイは柔らかく微笑んだ。
「ミリアールトの方のお力を借りたかったのです。――姉が、クリャースタ様から婚家名を授かったことはお聞き及びかと思います。それに倣って、妻にミリアールトの名をつけたいと言ってきた家臣がおりまして」
「ほう……」
婚家名。それは、アレクサンドルが忌むイシュテンの風習のひとつだった。夫が妻に名を与えて文字通り名実共に我が物にする、という。女の立場が限りなく弱く、男が力で支配する、野蛮な気質を象徴するかのような。
「とはいえ私はミリアールトの知識がありませんので。伯爵ならば、良い案もおありかと……」
無邪気に問うてくるカーロイは、彼の嫌悪など知らないのだろう。それに、いまや婚家名の制度はシャスティエの武器にもなっている。密かに復讐を名乗ってミリアールトに希望を与え。今回はエシュテルにグルーシャというミリアールト語の名を授けて夫ともども自身の陣営に引きずり込んだ。
妻にミリアールト語の名を与えることは、王妃ではなくミリアールト出身の側妃につくという、またとない意思の表明になるはず。家臣をも挙げてそのような流れが起きているなら、本来歓迎すべきことのはずなのだが――
「異国の名を授けるのは、何か問題にはならないのか? 年配の者などは不快に思う者もいよう……?」
「幸いにというか両家の父親も乗り気ということです。姉がクリャースタ様にお仕えしてから当家は陛下のおぼえもめでたくなりました。姉を助けるよう、陛下に進言してくださったのもクリャースタ様です。そういうこともあって、ミリアールトの名も縁起が良いと思ったようです」
「そうか……」
懸念をあっさりと晴らされて、アレクサンドルは唸った。カーロイが述べた状況は、どう考えても良い傾向だった。だが、それでも彼は快諾することができなかった。エシュテルに命名を強請られた時のシャスティエも、このような思いだったのだろうか。
――私は復讐を誓う……その意味は、誰にも知られてはならぬ……!
無論、ミリアールト語の婚家名が流行ったところですぐに側妃の名の意味まで詮索されるということはないのだろうが。だが、異国の文化を学ぶ意欲のなかったイシュテンに起きつつある、思わぬ変化――これがどのように転ぶか、主やその子にどのような影響を与えるか。楽観することは、できなかった。
「もしや、クリャースタ様は不遜に思われるでしょうか……?」
「いや、そのようなことはないだろうが……」
カーロイが表情を曇らせたのを見て、アレクサンドルは慌てて言葉を探した。
「ミリアールトの文化が広まるのはきっとお喜びになるだろう。しかし……そう、例えば王家に連なる方、ご自身に縁の深い方の御名を下々が使うのには眉を顰められるかもしれぬ。意味も音も良い名を幾つか、ご相談申し上げて選ぶということではどうか?」
「そこまでしていただけるとは」
カーロイは顔を綻ばせつつも、やや戸惑ったように首を傾げた。家臣の縁談程度のことで大事になったとでも思っているのかもしれない。
「すぐにもクリャースタ様にお会いするゆえ、その、結婚するという者たちにはしばし待つよう伝えてはくれぬか」
「……はい。さぞ驚き喜ぶことでしょう」
言った本人も驚きの表情をしながら、それでも少年はおとなしく頷いてくれた。それが彼とシャスティエに寄せられる信頼を示しているようで、アレクサンドルとしては落ち着かない。
だが、これは彼ひとりで答えられることではなかった。御子を授かった側妃や、側妃に仕える侍女にちなんで異国風の名を望む――それだけなら、単に目新しいものを求めるというだけのことだろう。しかし妻に、そしてもしかしたら娘に名づけるとしたら、意味や由来を知りたがるのが人の情というもの。その流れで当然のように想定される問いが、アレクサンドルには恐ろしかった。
――クリャースタ様の御名は、どういった意味なのでしょうか?
今更婚家名を変えることなどできはしまい。シャスティエと、それにミリアールトの復讐心がそれを許さない。ならば、人に聞かれた時にはどう答えるべきか。
シャスティエと、口裏を合わせておかなければならない。