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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
14. ふたつの名前
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花嫁衣裳 ウィルヘルミナ

 季節は着実に春に近づき、久しぶりに訪れた側妃の離宮でも花の蕾がつき始めていた。だから、今日の手土産としてウィルヘルミナが用意したのは花ではなくてもっと別のもの。菓子や、この季節でも手に入る果物に加えて――


「私が、作ったものなのだけど……」

「まあ、ミーナ様自ら御手を煩わせてくださったなんて」


 差し出がましいか、と恐れながら。間もなく生まれる赤子のために、と縫った産着や小さな帽子を手渡すと、シャスティエは眩しいほどの美しい笑顔で受け取ってくれた。


「お母様も作るのでしょうけど」

「いえ、私はこういったことがまるで苦手で……今日も、ミーナ様に教えていただこうと思っておりました」


 朗らかに、純粋に喜んでくれているような声と表情に安堵しつつ、ウィルヘルミナはどうしてもその裏に秘めた思いがあるのではないかと目を凝らしてしまう。

 シャスティエは、子供が生まれたら王妃である彼女に譲ると繰り返し言っていた。その言葉さえ、本心なのかウィルヘルミナへの遠慮なのか分からないけれど、産着を縫ったのは彼女もそのつもりなのだと取られはしなかっただろうか。


 ――私……赤ちゃんを取り上げるつもりなんてない、わ……。


 自身に言い聞かせるように、改めて思う。確かに生まれたての赤子を想像しながら針を動かすのはとても楽しかったけれど。でも、それは友人の子に贈るからというだけ。決して、ウィルヘルミナが自らの手でその子を育てたいなどということではない。

 ただたでさえ彼女はラヨシュから母を忠実なエルジェーベトを奪ってしまったというのに。この上また別の母子を引き裂くなど許されるはずがないのだ。


 ――ファルカス様の御子。きっと、可愛いのでしょうけど。


 未練は心の奥底に閉じ込めて。ウィルヘルミナは、シャスティエに向けて笑顔を作った。


「今日は、花嫁衣装の刺繍だったわね?」

「はい。侍女のひとりが嫁ぐことになりましたので。私からも祝いの思いを伝えてやりたいのです」

「きっと喜ぶわね」


 新妻の側の縁者が少しずつ手をかけて花嫁衣装を作り上げるのがイシュテンの伝統だ。母親を始め姉妹や従姉妹、叔母たちなど。家々を渡って長い時間を掛けて仕上げられる衣装は、携わった人数が多いほど花嫁の名誉になるとされる。

 それに、一族やその地方の有力な者の妻や母の手が加えられることには、新しい夫婦への後援の意味も含まれている。先日、実家で母たちが花嫁衣装に刺繍を施していたのも、ウィルヘルミナが急遽加わったのもそういうことだ。王の妃で御子を授かったシャスティエからの祝福を、喜ばない女はいないだろう。


 シャスティエも当然イシュテンの倣いを知らされているのだろうと思っての言葉に、でも、年若い友人は不安そうな面持ちで首を傾げた。


「さあ、とにかく下手ですから……。陛下には目立たないところに小さく縫い取るだけにしろ、と言われたのです」

「ファルカス様もひどいことを仰るわね」

「はい。でも、本当だと思いますから……」

「大丈夫よ。私も教えて差し上げるから。ゆっくり、丁寧にやれば大丈夫よ」


 言いながら、シャスティエの手を取って励ますと、ありがとうございます、とはにかんだように頬を染めて頷いてくれた。


 その姿は可愛らしくて、衣装作りを成功させてあげたいと思わせる。それに、彼女が側妃と親しく交流するのは、夫の願いでもある。


 だからこそ、ウィルヘルミナはこの離宮を訪れたのだ。




 あの日、父のもとから帰ったウィルヘルミナを迎えた夫の表情は、彼女がこれまで見たことのないものだった。


『よく、戻った』


 恐れが消えた、心からの安堵と喜びの表情。それは、戦場から戻った夫を迎える時の彼女のものなのかもしれなかった。それだけの不安と覚悟を抱きながら、夫は妻を実家へ送り出したのだと、ウィルヘルミナはその時初めて知らされた。


『だって……私は、ファルカス様の妻ですもの……!』


 抱き寄せられて。夫の胸に頬を寄せながら呟けば、背に回された腕に力が込められて。単に見た目や無邪気な――改めて思えば子供っぽい――振る舞いを愛でられるのではなく、伴侶として求められて愛されている、と。そう実感するのは、ウィルヘルミナがほとんど味わったことのない幸福だった。


『早く、お傍に戻りたかったのです』

『嬉しいことを言ってくれる……!』


 顎を持ち上げられて口づけを受け止めると、夫の笑顔が目の前だった。二度、三度と繰り返し――やがて、彼女からも求めるように激しく、夫の胸に縋り付くようになって。父とまともに話ができなかったこと、夫を選ぶことで父と決別しなければならないと思い知らされたことは辛かったけれど――でも、それを上回る幸せに、ウィルヘルミナは束の間蕩けたが――


『側妃も案じていたのだ。あの者も安心することだろう』

『そう……ですか……』


 幸せに浸れたのは、本当に一瞬のことだった。夫の言葉にシャスティエの存在を思い出させられ、更に、夫の傍にいる限りあの若く美しく聡明な姫君と比べられるのだと突きつけられたから。


『あの者も初めてのことばかりで不安だろう。また訪ねてやると良い。お前なら、助けになってやれるのではないか?』


 夫は、多分ウィルヘルミナが以前(こぼ)したことを覚えていてくれていたのだろう。妻として、自分にもできる役目が欲しい、と。それに、シャスティエと自身を比べもしたと思う。

 だから、あの方にウィルヘルミナが教えられることがあるということを、彼女は喜ぶと思ってくれたのだろう。政敵である者の娘のためにそこまで考えて心を割いてくれたのは、事実身に余る光栄だと思わなければならない。


 だから、ウィルヘルミナは今更シャスティエに会うのが苦しいなどと言い出してはならないのだろう。




「裏側も、糸がはみ出ないように気をつけるの」

「はい」

「その花びらは、色を変えてみましょうか」

「はい……」


 ウィルヘルミナのひと言ひと言に、シャスティエは生真面目に頷いて従っている。本当に針仕事には慣れていないのが、肩の力の入り様からも明らかで――でも、その力の入り方こそが嫁ぐ侍女のために良い品を作ろうという決意を物語っていて、微笑ましい。


「――その方は幸せね……」

「は?」


 思わず心の中の感慨を漏らすと、シャスティエは刺繍から顔を上げて碧い目を瞬かせた。眉を寄せて目元を少し歪めているのは、目が疲れてしまったのだろうか。刺繍に夢中になるあまりに止め時が分からなくて、あちこちが痛むまで続けてしまうのは若い頃によくあった。それがまた少女時代を思い出させて――懐かしさは、ウィルヘルミナにシャスティエとの歳の差を意識させるものでもあったけれど。


「嫁ぐ方のことよ。仕える方にここまでしてもらえるなんて、きっと嬉しいに違いないわ」


 自分自身の過去に思いを馳せれば、花嫁衣装を袖に通した喜びもありありと蘇る。色鮮やかなその衣装は、彼女の結婚が多くの人に祝福されているという証明にほかならなかったから。

 父の家で顔も知らない娘のために針を取った時にも思ったけれど、何の不安もなくただ幸せな将来だけを夢見ていたあの頃のウィルヘルミナ――否、あの頃はまだ()()()だったのか――の、何と愚かなことだっただろう。彼女は愚かなままで時を過ごしてしまって、この歳になって父と夫の間で思い悩むことになってしまった。賢い女なら嫁ぐ時にはとうに考えているはずだっただろうに。


 でも、だからといって他の娘の幸せを願わないなどということはない。ましてシャスティエがこれほど熱心に励んでいるのだ。きっと気立ての良い娘なのだろうと思えた。若く可愛らしい娘が花嫁衣装を纏って微笑む姿を想像すると、ウィルヘルミナの頬は自然にほころんだ。


 そして、シャスティエも同様に。一足先に春が訪れたかのような柔らかい笑みを見せて、きっとその娘の晴れ姿を思い描いているのだろう。


「どうでしょうか……ただ、父を亡くしたり弟も怪我をしたりと苦労の多い者ですので……幸せになって欲しいと、思っております」

「旦那様は? シャスティエ様もご存知の方?」


 夫が側妃を迎えて以来、その悪口を言いたがる実家の縁者たちを招くことは少なくなってしまっている。だから、恋や結婚の噂をするのも久しぶりで、楽しくて。ウィルヘルミナはつい余計なことを聞いてしまう。と、シャスティエは不意に整った眉を顰めた。


「陛下の覚えもめでたい方なのですが――アンドラーシ殿、という……」

「ああ、あの方!」


 ウィルヘルミナは見目の良い青年の姿を思い出して明るい声を上げた。あの青年ならば物腰も口調も柔らかいし、彼女としても寡妃太后(かひたいこう)を退けて助けてくれた記憶がある。


「あの方なら、安心でしょう」

「そう……ですね……」


 どういう訳か浮かない顔のシャスティエに首を傾げていると、金の髪の姫はふと表情を改めた。碧い目にじっと見つめられると、居心地の悪さを覚えてしまうほど。


「あの、ミーナ様。婚家名で呼ばれるというのは、嬉しいものなのでしょうか」

「それは、もちろん……そうよ」


 しかもシャスティエが言い出したのはウィルヘルミナが密かに抱く後ろめたさを言い当てたようなことだった。


 ――シャスティエ様……。クリャースタ様と、お呼びした方が良いの……?


 婚家名で()()()()()ことの不快さ不安さを、先日父が教えてくれたばかりだった。だから、ウィルヘルミナもこの方のことを婚家名で呼ぶべきだろうか、と考えたのだ。考えた上で、そうしないのは――そうしたくないから、でしかなかった。

 かつてはシャスティエとして知り合ったのだから、と誤魔化そうとしていたけれど、それならば周囲の女たちは結婚前の名を知った上で、あっさりと婚家名に切り替えて呼ぶことができているのだ。シャスティエに関してだけそうできなかったのは――この方の夫が、ウィルヘルミナの夫だから。その結婚に、心の底では納得できていなかったのだから、なのだろう。


「だって、ファルカス様に呼ばれるための名前ですもの。あの方の妻になった、証の名前……シャスティエ様は、嬉しくないの?」


 醜い嫉妬心に気付いた上で、それでもウィルヘルミナは小狡く友人――と思っている方――の呼び方を変えなかった。

 はっきりと尋ねれば、優しいシャスティエのことだから、きっとミーナ様のお好きなように、と答えてくれるのだろう。でも、そうしたらこの方はウィルヘルミナの心の裡に気付いてしまうかもしれない。王妃に認められないことを辛く感じても、受け入れなければと思って笑ってくれるのだ。王の第一の妻であることを盾にそのようなことを強いたと捉えられるくらいなら、無神経で愚かな女だと思われたままの方が幾らかマシなように思われた。


 夫に認められることを切望しながら、都合の良いところでは無知を装う――自分の狡さにウィルヘルミナの胸はちくちくと痛む。シャスティエが彼女の内心には気付かぬように、神妙な顔で頷いてくれるからなおのこと。


「私は、ミリアールト語の名を名乗ることを許していただきましたし……イシュテンの倣いのことですから、実感が今ひとつ薄いのかもしれません。だから、分からなくて」


 そして、シャスティエは手に持っていた花嫁衣装をひとまず置くと、深々と溜息を吐いた。まるで、晴れ着に憂いが吹き掛かるのを避けようとでもするかのように。


(くだん)の侍女と――それに、アンドラーシ殿にも乞われて、その者の婚家名は私がつけることになってしまったのです。それも、ミリアールト語のものを」

「まあ……!」

「その、夫婦の間で婚家名を呼ぶたびに、私の顔がちらついてしまうのではないかと……本当に、良かったのかと……」


 ウィルヘルミナが声を上げたのに、何か非難の響きを聞き取ってしまったのだろうか。シャスティエは顔を一層白くして俯いてしまう。


「あ、違うの……!」


 誤解を与えてしまったのを恐れて、ウィルヘルミナは慌てて言葉を紡いだ。


「そこまで、ふたりがシャスティエ様を信頼しているのが、凄いと思っただけ。夫以外の方が婚家名を与えることも、まるでないという訳ではないのよ」


 ただ、それは一族の年長の者だとか、恩義のある高位の者に限られる。ウィルヘルミナの父も、花嫁の父や義父に請われて婚家名を授けたことがあったはずだ。一方で、女がその役目にあたったことは、彼女が知る限りにおいて、例がない。


「……ファルカス様も、許してくださっているのでしょう……?」


 王の側近の婚姻の話なのだから、夫も当然承諾しているのだろう。ウィルヘルミナの言葉は、質問ではなくて確認だった。


「ええ。そうなのですが……」

「それなら、心配いらないわ。そのふたりも、喜んでいるはずよ」

「そうだと良いと、思います……」

「きっと、大丈夫よ……」


 まだ硬い表情のシャスティエへ微笑みながら、ウィルヘルミナは胸が軋むように痛むのを感じていた。嫉妬だけではなく――この感情は、多分恐怖だ。


 ――ファルカス様だけでなく……臣下の方も……。


 妻の婚家名を委ねるほどの忠誠を、王の妻とはいえ男が女に対して抱くとは、信じられないことだった。異国の生まれゆえに、それがどれほど異例のことなのか、シャスティエはよく分かっていないようだけれど。でも、この方だからこそアンドラーシもその妻も常ならぬ思いを捧げて、夫もそれを許したということだろう。


 夫の傍にあることを選ぶということは、これからも常にシャスティエと並べられて比べられるということだ。臣下にまでも認められて受け入れられるシャスティエと、王に逆らう父を持ったウィルヘルミナと。夫は彼女をも望んでくれたけど、他の者たちはどうなるだろう。それに、夫も心変わりしないとどうして信じることができるだろう。

 若く美しく、間もなく御子にも恵まれるシャスティエに比べて、ウィルヘルミナは老いて容姿も衰えるばかりだというのに。


 そして比べられるのは妻たちばかりではあるまい。ウィルヘルミナの娘――マリカは、姫君らしからぬお転婆だ。幼い今なら夫は微笑ましく見守って可愛がってくれているけれど。きっと賢く聡明に躾られるであろうシャスティエの子と並んだ時は、どう思われるだろうか。


 ――マリカも……今のままでは、いけない……。


 父よりも夫を選んでもなお、ウィルヘルミナの悩みは尽きるということがなかった。

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