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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
14. ふたつの名前
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命名 シャスティエ

「…………それで──」


 どうにも苛立ちを覚えさせるアンドラーシのしらっとした顔を睨みながら。それでも、シャスティエは懸命に怒りを抑えて努めて冷静な声を紡ごうとした。


「どうして、このようなことになったのですか」

「分かりません」

「なぜ分からないなどということがあるのですか!」


 そしてそのような努力も悪びれない返答によって踏みにじられて、呆気なく激昂してしまう。王と側妃を前にして跪いている癖に、誠意や敬意の欠片も感じられないとは。


 ――どうして、この男はいつもいつも……!


 怒りに任せて怒鳴ったから、腹に力が入ってしまった。子宮の内も狭まったのか、胎児がしきりと動いて母に不満を訴えてくる。悪阻に苦しめられ始めてからもう半年以上、臨月も間もなくという大事な時期だ。彼女としても感情を波立てて予期せぬ事態を招いたりなどは決してしたくない。

 だが、アンドラーシから報告されたこの事態――これを聞いて、怒るなと言われても不可能というものだ。


「なぜ、なぜ――」


 激しすぎる怒りによって喉を詰まらせても、糾弾せずにはいられない。それほど、もたらされた報告は信じ難く意味の分からないものだったのだ。


「なぜ、貴方がエシュテルと結婚することになったのですか!?」




 王の委任状を携えて遣わされたアンドラーシは、エシュテルを無傷で保護することに見事成功したのだという。その際、委任状を見せずになぜか剣での争いになったというのは不可解だが、エシュテルさえ無事ならシャスティエとしては文句を言う気にはならなかっただろう。

 だが、ティゼンハロム侯爵の息の掛かった求婚者とやらを退けたとしても、代わりにこの軽薄な男がその場を占めたのでは、全く意味がないではないか。


 ――こんな男……。


 シャスティエは眉を寄せてアンドラーシを睨む。ほとんど初めて会った時から、この男は彼女の神経を逆撫でる言動ばかりを繰り返して苛立たせてくれた。王への忠誠心は確かだとしても、腕は立つのだとしても、親しい侍女を嫁がせたい相手では決してない。


 シャスティエが憤りに震える一方で、共に思わぬ報告を聞いたはずの王は驚くほど冷静だった。呆れたように、あるいは宥めるように。傍らで前のめりになった側妃を抑えて頭を撫でる。


「俺としても言いたいことは山ほどあるが――王権を振りかざして無理を強いたというよりも、愛ゆえの無茶とした方が聞こえが良い。お前も悪評が立たずに済んで良かったと思え」

「ですが……っ!」


 まるで子供扱いで頭に置かれた手を払いのけることができないのも、王が愛などと似合いもしないことを口にするのも、シャスティエの怒りに火を注ぐばかりだ。

 今言っても仕方ないこととは思うが、王の委任状の価値が低すぎるこの国はやはりおかしいし、この男ももっと忸怩たる思いを噛み締めるべきだ。なぜ彼女の方が理不尽に機嫌を傾けて声を荒げているように言われなければならないのか。


「そもそもバラージュ家を取り込むためには俺の側近から夫を選ぶつもりだったし、この者も候補のひとりだった。順番は変わったがまあ問題はなかろう」

「エシュテルの気持ちも慮ってくださいませ!」


 例を数え上げるのも空しいが、この国の男は女の心情を顧みないこと甚だしい。そう、この男も最初はエシュテルへの暴行を見過ごそうとさえしていたのだ。


 ――そんな態度だから、ミーナ様も……!


 糾弾する先を王に向けようと、息を大きく吸った瞬間。おずおずとした声が上がって、夫を罵倒する暴挙から彼女をすんでのところで遠ざけてくれた。


「あの、クリャースタ様。お心は大変嬉しく伺いますが……私も、決して嫌ではないのです」

「エシュテル。なんですって……」


 吸い込んだ息も、頭の中からかき集めた非難の語彙も、声を張り上げようと喉と腹に込めた力も。全て、無駄になって気の抜けた呟きとなって消えた。アンドラーシと並んで、時に状況や人名を補足しながら報告に加わっていたエシュテルは、改めて見れば、どこかはにかんだように口元を緩めていた。無理に作ったものとは思えない、愛らしくも初々しい表情を、シャスティエは信じられない思いでまじまじと見た。


「……本当に?」

「はい。危ないところを助けていただきましたし……」

「それは陛下の命令によって、に過ぎないのよ? それに、たとえ助けてもらったからといって人生を捧げる必要はないわ」


 エシュテルは状況に酔っているのだ、とシャスティエは信じようとした。何かと無礼で浅慮――としか思えない――アンドラーシも、見た目は一応良い部類に入るはず。暴漢に囲まれた時に颯爽と現れたのを目にして、若い娘が()()()するのも無理はない。

 早まるな、と。案じる心を込めて見つめる主に対して、しかし、エシュテルは首を振るとはきはきと答えた。


「それだけではなく、弟のことも何かと気にかけていただきました。それに、父の領地の一部を賜った方でもあります。私が嫁ぐことでお手伝いできることもあるかと思いますし、バラージュ家の家臣の心も慰められましょう。ジュハースの小父はすっかり感動してくれたようですし……このご縁が上手くいけば、親族たちもティゼンハロム侯から陛下へと寄る先を変えるかと存じます」

「そうかしら……」


 思いのほか明確な理由を述べられて反論もなく、かといって心は完全に納得することもできず。シャスティエは、エシュテルの代わりにアンドラーシの方を見た。今まで怒りに目が曇っていたが、落ち着いてみればその表情はどこか浮かないようにも見える。ここで初めて、シャスティエはもうひとりの当事者の心情を聞くことを思いついた。


「――貴方は、どう思っているのですか」


 ――幸運を喜んでいるよりはマシ、なのかしら……?


 格上のバラージュ家の娘、しかもエシュテルは容姿も気立ても良い。そんな娘を娶ることになって、少しでも浮かれた気配を見せていたなら、シャスティエの怒りは一層激しかっただろう。とりあえず、そうでない分まだ希望が持てる……のだろうか。


「そうですね……」


 不信も露に睨みつけるシャスティエの視線にしばし眉を寄せた後、アンドラーシは言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。


「バラージュ家の姫など、分不相応とは存じます」

「そうね」


 はっきりと頷くと、アンドラーシはひどいですね、と言ってやや弱々しく苦笑した。その、無責任としか思えない態度がまたシャスティエの不信を深めるのだが。そしてそのように感じたのは彼女の夫も同じだったらしい。報告自体はあっさりと受け入れた王も、さすがに眉を寄せて尖った声で近しい臣下を叱責する。


「だからといって逃げることは許さぬぞ。いつまでも気楽な立場でいられると思うな。戦いでも政でも、より重い役をお前には任せるつもりなのだからな」


 否、これは叱責というよりも激励か。王に、心から信頼できる側近はまだまだ少ないから。王のために身命を惜しまない者にはより高い地位と裁量を与えていきたいということなのだろう。


 ――ええ。必要なことなのでしょうね。


 腹の上に置いた手を、シャスティエは強く握り締めた。ミリアールトが戦馬の軍に踏みにじられたのも、王の力を示し側近たちに功績を上げる機会を与えるためだった。彼女はそうやって運命を狂わされて、今はまた違う女(エシュテル)が権力争いのために人生の岐路を迎えている。


 王の言葉はシャスティエには苦い思いを味わわせた。しかし、一方でアンドラーシが抱いた感慨は別のものだったらしい。頭を垂れて主君の声を受け止めた後――顔を上げた時には、迷いのないものへと表情を改めていた。


「承知しております。ですから――どうしてこのようなことになったか皆目分かりませんが――姫君を(たぶら)かして取り入った、などと噂されることのないように、と考えております」

「ならば良い」


 ――良くないわ……。


 男たちを放っておくと、彼らだけに良いようにされてしまう。だから、シャスティエはしつこく抗議を挟んだ。


「エシュテルを、幸せにしてくれるのですね? そう言っていただけなければ私は賛成できません」

「娘の父親ではあるまいに……」


 王の呆れたような呟きは聞こえなかったことにして、アンドラーシを、睨む。誠意の一欠片なりと見せてくれなくては、シャスティエのために身を危険に晒してくれたエシュテルを委ねることなどできはしない。

 せめて言葉だけでも、と祈りを込めた視線は、しかし、またもさらりと無碍にされる。


「必ず、とお約束は致しかねます」

「そんな――っ」

「戦いに出れば必ず戻るなどとは言えませんので。妻子がいるからと怖気づくような者が陛下にお仕えすることはできません」

「それは――」


 アンドラーシの言葉にも理はある。あるが、妻を迎えようという時に言うにはあまりに情がない気がしてシャスティエは眉を解くことができない。だが、そんな主とは対照的に、当事者であるエシュテルはおっとりと笑っていた。


「クリャースタ様、私はこれ以上のお言葉は望みません。夫の栄達は妻としても誉ですもの」

「そうなの……」


 堂々としたエシュテルの笑みは、既に妻の貫禄を身につけてさえいるよう。王やアンドラーシが頷いているのは腹立たしいけれど、自分ひとりが駄々をこねているのだと、認めなければならないのだろうか。


 ――これはイシュテンだからなの……? それとも私が甘いから……?


 自分自身のことならば、祖国のために、復讐のための結婚に幸せなどは求めなかったけれど。臣下に過ぎず、国と王権を巡る争いのために既に父と弟の腕を失っているエシュテルには、愛し合える相手を、と思ってしまうのだ。


 と、シャスティエの怒りが和らいだと見たのか、アンドラーシがへらりと笑った。


「あ、結婚に際しまして、陛下とクリャースタ様にお願いがございます」

「……何なの」


 ――図々しい……!


 話が落ち着いたかに見えた途端に、これだ。不躾な強請りごとにまた声を荒げる体勢を整えようと息を溜めながら、シャスティエはアンドラーシの次の言葉を待つ。


「結婚するからには妻に婚家名を授けなければなりません。が、格上の家の令嬢――しかもこのように思わぬ経緯でしたから、我がものにする、などと考えることはできません。よって、私が考えるのではなく、妻の婚家名はクリャースタ様から賜りたいのです」


 婚家名。女から名前さえ奪うイシュテンの悪習のひとつだ。覚悟していたよりは殊勝な申し出ではあったけれど、でも、エシュテルが今後名乗る名を一存で与えても良いものか――快諾することは、できない。


「エシュテルは、どう思っているの?」


 答えを与える前にエシュテルの方を見ると、妻になる娘はやはり愛らしい笑顔を保っていた。


「クリャースタ様にお仕えしていなければなかったご縁と存じます。また、夫が陛下にお仕えするのと同様に私もクリャースタ様に身命惜しまぬ忠誠を誓います。ですから、クリャースタ様から婚家名をいただけること、夫にそれを認めてもらえること……叶うのでしたら、いずれも至上の幸せだと存じます」

「そう……」


 やはりイシュテンの女の考え方はシャスティエには理解し難い。夫に従う国柄というだけでなく、名前まで。結婚によって失うものが多すぎるのに、それが幸せだと感じられるとは。


「陛下にもお許しを乞うのは? こういうことはあまりないのですか?」

「それもあります。また、より大きな理由としては、クリャースタ様にはミリアールト語の名を強請りたく。王の妃、王の御子の母君たる方に倣うのはあまりに不遜かも、と……」

「ミリアールト語……?」


 不遜と言いつつ、アンドラーシの目は期待に輝いているようだった。確かにそれを叶えれば、この夫婦は王だけでなくシャスティエにつくのだという、これ以上ない宣言になるのだろうか。イシュテンの者が異国の言葉や名に興味を持つ――その一事だけで、喜ばしい変化だと思えないこともないけれど。


「俺は許す」


 シャスティエが言い淀む間に、王は悩む様子もなく頷いてしまう。


「ミリアールト語の名を与えることが増えればイシュテンとの融和も早まろう。側妃にあやかるのだと考えれば不遜でもない。臣下の間に流行らせた方が良いくらいだ」


 シャスティエと同じようなことに、王もやはり気付いているのだろう。ティゼンハロム侯爵の影響力があくまでもイシュテン国内の諸侯の間に限られるのに比べて、王はミリアールトを従えていると示せれば。しかも側近たちもそれを受け入れていると見せることができれば。今後の争いに有利になるのだろう。だが、彼女自身の婚家名、その意味がシャスティエを躊躇わせる。


 ――私の名前……私は(ヤー・)復讐を(クリャースタ)誓う(・メーシェ)……。


 密かな決意を込めた名前。ミリアールト語の名前を広めたからといって、その意味が知られるようなことにはならないだろうけれど。でも、ミリアールト語の婚家名を与えることで、何も知らずに結婚に夢を描いて臨む女たちも彼女の怨みや憎しみに染めてしまうようで。


「嫌なのか?」

「いえ……!」


 ――嫌だけど……!


 とはいえ、そのような迷いさえ、王に対して見せるのは危うい。傍から見ればミリアールトのためにもなることなのだろうから。言葉を失うほどに喜んでいると、見せなければ。


「そこまで言ってくれて、とても嬉しいの。考えるから……少し、待ってね」


 少なくとも、エシュテルが結婚とその相手に満足しているのは良いことだ。だから、純粋にそのことを祝っていると自分に信じ込ませて、シャスティエは微笑んだ。同時に頭の中から良い意味を持った単語や名前を探る。


「では――グルーシャ」


 その中からひとつ、掬い上げて口に出して。目の前で微笑むエシュテル――もうその名前では呼べない――に当てはめようとする。


「野生の馬という意味よ。イシュテンの戦馬の神にちなんで――どう、かしら……?」


 他人に名前をつけるなど初めてのこと。それも、相手が成人した大人となれば反応が気になって緊張もひとしおだった。


「素晴らしいですわ。それに、なんて光栄な……」


 エシュテルは一際眩しく破顔すると、深々と跪いてシャスティエに頭を垂れた。


「たとえ嫁いでも、名を変えても。変わらずクリャースタ様にお仕えすることを誓います」


 その傍らで、アンドラーシも唱和する。


「陛下とクリャースタ様の御為――夫婦ともども尽力いたしましょう……!」




 多分これは、シャスティエが自らの派閥を築く、最初の一歩なのだろう。

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