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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
14. ふたつの名前
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懐柔、拒絶、強襲 求婚者

 丘陵を越えて姿を現した馬車は、確かにバラージュ家の紋章を帯びていた。名前はエシュテルと言ったか――その家の娘を乗せているはずの馬車だ。事前に聞いていた通りの場所と時刻であったこと、それに伴の者も少ない身軽な一行であることに、彼はひとまず安堵の息を吐いた。


「これならさほど大事にもなるまい……」


 何しろ、相手は女も含んだ少人数の一団でしかない。対する彼の手勢は、人数でも上回る上に軽装とは言え武装し騎乗した男で固めている。万が一にも彼の方が力で押し負けるなどということはないだろうし、そもそも逆らうことなどそうそう考えはしないだろう。


 ――多少は驚くかもしれないが……ものの分かる娘なら泣いて感謝するだろうよ。


 何しろ彼は父親のいない娘を妻に迎えてやろうというのだ。それも、単に早世したのではなく、不名誉な形で死を賜った男の娘だ。本来ならば嫁ぎ先を見つけるのに苦労するであろうところ、彼が手を挙げてやるのだ。娘が否と言うはずはなかった。


 事実、先に話を通しておいた、この領地の主――バラージュ家の遠縁の者も、その夫人も。彼の申し出には大層感激してくれていたのだ。


『あのようなかたちで父を亡くして――我らもあの娘のことには心を痛めておりました』

『側妃様にお仕えするのは名誉ですが……離宮に住み込みでは見初められる機会もなくなってしまいますもの』

『近しい男の親族が弟だけではあまりにも心もとなく……。良い方が支えてくだされば安心です』

『ティゼンハロム侯爵様が取り持ってくださるなんて、喜ばしいことですわ』


 彼自身の地位や見た目や能力よりも、ティゼンハロム侯の名が効果を示したような気がするのは、多少、癪ではあったが。とにかく、これは親族の後押しがある話ということになる。

 そう、だから誰であろうと咎められる謂れはない。これは、純粋な厚意、困窮した娘を救ってやるという善行なのだ。

 無論、彼もバラージュ家の財と家臣、若い娘の肉体を手に入れるのだが――それは役得というものだろう。それらはあくまでも二の次、おまけのようなもの。断じて、彼が種々の欲に目が眩んでいるという訳ではないのだ。


 緊張のためだけではなく高まり始めた身体の熱を無視して、彼は自身に言い聞かせた。




 風景を楽しむ小旅行も兼ねているからだろう、馬車の歩みは焦れるほどに遅かった。あるいは彼の気が急いているからかもしれなかったが。彼は、配下の者たちと共に木立に紛れるように隠れて馬車が近づいて来るのを見守っている。狩りの獲物か罠にかけた敵を待つ時に匹敵する緊張を持って。

 そして、ついに声が届く距離に相手が迫った時。彼は隠れ場所から飛び出した。


「待たれよ! バラージュ家の馬車とお見受けする!」


 彼が叫ぶのと同時に、部下も主の呼吸をよく読んでそれぞれ定められた動きをしている。獲物としてはあまりに大きく、そして鈍い馬車は、数秒の間に武装した騎馬に取り囲まれて完全に止まってしまった。御者の引き攣った顔は滑稽で、彼の緊張を和らげて気を大きくさせてくれる。


「……何事です!? バラージュ家の馬車と知って、どうして止めるのですか!」


 当惑と、微かな恐怖を滲ませながらも毅然とした声が馬車の中から響く。年嵩の女の声は、娘に仕える侍女か何かだろうか。彼の()の声が聞こえないのは残念だったが、まあ良家の令嬢は大声を出したりはしないものだ。聞く機会は後々いくらでもあるだろう。――主に、閨での悲鳴として。


「バラージュ家のご令嬢が乗っておられるはず。その御方に申し上げたきことがあるのだ!」


 高らかに告げた声に、欲望が滲んでしまっていたのだろうか。馬車の中から言い争う気配があった。先ほどの年嵩の女と思しき諌めるような声と、それに反駁するような、より高く若い声。思いのほか気の強そうなこちらの声こそ、彼の目当てのエシュテル・バラージュのものに違いない。


 ――さて、顔の方は……どれほどのものだ……?


 彼が待たされた時間はさほど長くはなかった。年嵩の女の声は次第に間を置きがちになり、やがて完全に沈黙する。娘が使用人を説き伏せたのだ。

 そして馬車の扉がゆっくりと開き――刺繍を施された靴に波打つ衣装の裾が現れ。遂に、目的の()()が姿を現す。


「私に、何のご用でしょうか」


 ――ほう、これは中々……!


 馬上の彼を見上げる気丈な黒い目。それが収まる顔立ちは大人しげなのに、健気にも馬車を背後に庇って矢面に立つ構えなのがいじらしかった。もちろん彼ならば容易く屈服させられると思えばこそだが。


「姫君、そう怯えられませんよう。何も危害を加えようということではないのです」


 余裕を見せつけるべく、彼は殊更にゆっくりと下馬すると娘の前に跪いた。女は結婚に夢を見るものだというから。情熱的に求婚された思い出を与えてやろうと考えたのだ。


「私は愛を乞いに来ただけ。――哀れな下僕に慈悲をくださるならば、どうかこの私めの妻に……!」


 歯の浮くような甘い台詞も、心にもない空言ばかり。後で家臣たちと酒の肴にでもしなければやっていられないと思うような、常の彼からは考えられないへりくだった美辞麗句だった。


「お会いしたこともないと思います。そのような方に求婚される謂れはございません」


 ――照れているのか。


 女の声が頭上から注ぐのは、何とも奇妙な感覚だった。この体勢では娘の顔は見えないが、声が震えているところからして、戸惑い緊張しているのだろうと思う。一度は断って慎みを見せようという態度も、彼には好ましく思えた。


「貴女のお噂だけでも、私を虜にするのに十分でした。ご自身の美しさに、お気づきではない……?」

「どのような噂かは存じませんが、私の一存でお受けできることではございません」


 ――ええいまどろっこしい……!


 だが、重ねて固辞するのはやり過ぎではないだろうか。このようなやり取りなど形だけのもの、早く素直に受け取れば良いのに。(かれ)を跪かせたままでいるのも気が利かないことこの上ない。未来の夫なのだから、早く立たせて承諾と礼の言葉を述べるべきだろう。


「それならばご心配なく――」


 しかし求婚の場で声を荒げる訳にもいかず。苛立ちにやや早口になりながらも、彼は言葉を紡いだ。


「この私が無断で他人の領地に立ち入るような男だとお思いでしょうか? それもこのように剣を帯びて? ――そう、無論、ご親族の許可はいただいた上でのことです。それでもまだ不足だと思われるなら、ティゼンハロム侯爵も――」

「ティゼンハロム侯爵!?」


 娘が高い声を上げたので、彼は今度こそ感激の叫びだと思った。国の重鎮であり王妃の父でもある侯爵が、自分などを気に懸けていると知ったのだ。驚き感動して当然だ。またも侯爵の威を借ることにはなったが――これで、ことは滑らかに進むものと思えた。


 ――言葉を遮った無礼は、いずれ躾直してやる……。


「そう、だから――」


 心中毒づきながらも、彼は精一杯恭しく見えるように手を差し伸べた。娘がそれを取ることを、疑わなかったゆえに。だが――


「――ならば、ますます受ける訳には参りません!」

「な……っ!」


 その手は、容赦なく払い除けられた。彼の方に油断があったとはいえ、女にしては意外なほどの力強さだった。呆気に取られて彼は思わず顔を上げ――そして、初めて気付く。

 娘は恥じらってなどいなかった。優しげな面は怒りに歪み、彼を睨みつける目にははっきりと嫌悪の色が浮かんでいる。若い娘がどうしてそのように激しい感情を露にすることがあるのか、彼にはさっぱり理解できなかった。

 思わぬ拒絶――その理由は、娘が自ら説明してくれた。


「あの方は、クリャースタ様を――それに、お腹の御子様までも害そうとなさいました! それに、父のことも……! そもそもは、あの方が無理を命じられたからではないですか!」

「な、なぜそれを……!?」


 ――女の癖に……!


 娘の父親――バラージュ家の先代の当主は、ミリアールトの乱での失態を償うために死んだ。降伏しようとしたミリアールト軍に矢を射掛けて剣を向け、敵味方に混乱と無用の犠牲を招いたというのがその罪だ。それは広く知られていることだが、一方で、先代のバラージュはそのような間抜けな錯誤を犯すような男ではなかった、というのが大方の見方でもある。

 ならばなぜそのようなことをしたのかというと、ティゼンハロム侯爵が命じたからだろう、と陰では囁かれている。ミリアールトの乱が無血で収束した場合は、人質だった元王女は王の側妃に収まることになっていたから。王妃である娘の立場が脅かされるのを恐れての反逆まがいの命令だろうと――これまた表向きには誰も言わないが、ほぼ事実として広く認識されていることだった。


 だが、それは男の間でのことだ。女など、父に夫に息子に従うだけしか能のない生き物のはず。女の考えなどない方がマシ程度のものでしかなく、口で言って従わないなら殴って言うことを聞かせれば良いと、それが常識ではないのか。


 彼の考えを読んだかのように、娘はふ、と笑った。


「父は、多少は私にもものを考えることを教えてくれました。父の恨みを共に抱く弟も、私に隠し事はいたしません。今お仕えしているクリャースタ様も、忠誠を誓った者に対しては真摯にお心やお考えを明かしてくださいます。となれば、陛下のお考えさえも――畏れ多くはありますが――お察し申し上げられるというものです」

「何だと……!」


 娘の信じがたい不遜な態度に唖然としながら。彼の耳に蘇る声があった。


 ――リカードの命運もこれまでか……?


 ここ最近、様々な者の口から様々な感情を伴って聞いたことだ。側妃を胎の子ごと亡き者にしようとしたのが発覚して、王に遠ざけられたという。侯爵の失脚が自身に及ぼす影響を案じる者もいたし、奢った者がしてやられたのを単純に悦ぶ者もいた。一方でそのようなことはないだろうと見る者も多く、彼もその中のひとりだった。だが、娘のこの言い様では、王はティゼンハロム侯爵と本気で対立し、あまつさえ追い落とそうというのだろうか。


 ――娘婿の分際で? まさか……!


「女だから、父親のいない娘だからと侮るその態度。公然と国王陛下に背く方の名を(たの)む不敬。家のため、クリャースタ様のため、国のため――どこを取っても、与する訳には参りません!」


 娘が予想外に広い見識を持っていること、更にはティゼンハロム侯爵の危うい立場を知らされて呆然として言葉を失ったのも一瞬のこと。彼はすぐに、娘の目に嫌悪と侮蔑が滲んでいるのを見て取った。彼が、女に、見下されて侮られているのだ!


「し、下手に出ていればつけ上がりおって!」


 勢いつけて立ち上がれば、当然のごとく彼の身長は娘を上回る。しかし娘は気圧された様子もなく彼を睨みつけ、彼の怒りという火に油を注いだ。放言への罰を加えてやろうと手を伸ばすが――しかし、娘は髪ひと筋のところで後ずさって逃れた。


「女の癖に……! 囲め! 逃がすな!」


 心に思ったことを声に出しながら舌打ちし、馬車を取り囲んだ家臣たちに鋭く命じる。


 ――甘やかされた口の利き方を知らぬ小娘……! 性根を叩き直してやる……!


 親の躾の不足を補うのは夫の務め。誰に後ろ指を指されることでもない。それに、彼が改めて命じるまでもなく馬車は再び走り出すことができぬように四方を彼の家臣が固めているのだ。どう抗おうと、娘が彼の手に落ちるのは時間の問題のはずだった。


「言葉を翻すならば今のうちだ。俺のものになれ。そうすれば折檻に手心を加えてやろう」


 じりじりと、包囲を狭めながら娘に嗤う。バラージュ家の名声ゆえに、自身を安全だとでも思っているなら勘違いも甚だしい。今のバラージュ家の当主は片腕の若造に過ぎず、ティゼンハロム侯爵の庇護なくしてはまともに立ち行かないはず。そうだ、王が何を企んでも侯爵家の権威が揺らぐはずがない。側妃の子だとて男子とは限らないし、更には無事に育つことなど侯爵が許すまい。


 ――自分の立場を思い知らせてやる……どれだけ弱く頼りないものか……!


 娘の泣き顔を期待して、彼の下肢に血が集まるのが分かった。女を屈服させて征服するのは楽しいもの――しかし、娘はまだ素直に彼を愉しませようとはしない。


「小父様や小母様が分かってくださっていなかったのは残念でした。ここでこんなことになるなんて。でも……恥ずかしめを受けるくらいなら……」

「貴様……!」


 彼の歯軋りに、家臣たちのどよめきと馬車の中の女の悲鳴が混ざる。いつの間にか、娘の手には短剣が握られていたのだ。彼に向けられたとしても、革鎧でさえも貫くことができないであろう、華奢な刃。しかし、女の柔らかい皮膚を裂くには十分だろう。この娘は、死んでも彼の手に落ちるつもりはないと言ったのだ。


「――させるか!」


 焦りと、娘の強情さへの怒りで、彼は憤然と足を踏み出し、腕を娘が掲げた短剣目指して伸ばした。


 先代のバラージュ家の当主は、刃を首筋にあてて自裁したという。だが、若い娘がそのように思い切れるものか。事実娘の手は震えて刃をまともに定めることさえできていない。恐怖が躊躇わせている間に、短剣を叩き落として、腕をねじり上げる。そのまま引き倒して服を切り裂いてしまえば良いのだ。


 それはとても簡単なことのはず。そう、信じきっていた彼の耳に、不穏な音が届いた。この場では聞こえるはずのない音――矢が、風を裂いて飛び来る音。


 ――何!?


 不審と驚きに足を止め、どの方向からの音か見定めようと首を巡らす。見上げても視界に入るのは冬の空に、葉を落とした木々の枝先ばかり。しかし間近な家臣のひとりが呻くのを聞いて、その腕に矢が突き立っているのを見て、()の存在を確かに知る。


 矢の角度から騎手のいる方向を判じて振り向けば、彼らに迫る、数騎の騎馬。その先頭にいるのは、彼にも見覚えがある者だった。


「貴様、なぜここにっ!?」

「その娘を守りに。クリャースタ様の――ひいては陛下のご意志だ。反逆と呼ばれたくなければその汚い手を引くが良い!」


 手を引けと言いながら、挑発するかのような傲慢な口調、楽しげな笑み。それは、王の側近のひとりの――確か、アンドラーシとかいう若造のはずだった。

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