側妃のおねだり シャスティエ
上空から雪片が降りてくる。灰色の雲が一面に広がるところに、花びらか羽毛のように白い欠片が舞うのは美しく懐かしい――ミリアールトを思い出させる光景だった。
シャスティエは掌を上に向けて手を延べると、その一片を受け止めた。室内からほんの数歩庭に出ただけの場所、それに銀狐の外套を羽織っていることもあって彼女の手は温かく、見つめる間にその雪片は水滴になって消えた。
「これは、雪というのよ……」
雪を受け止めたのと逆の手で腹をさすりながら、独り言のように呟くのは胎児に向けた言葉だった。
「……お母様の故郷ではもっと寒くて怖くて美しいの。貴方は見ることはないかもしれないけれど……」
お母様、などという自称は舌に馴染まず、それに脳裏に蘇った祖国の懐かしい情景もシャスティエの胸を締め付ける。結果、彼女の声は胎の子に聞こえるかどうか怪しい、小さなものになってしまった。
ミリアールトの冬はイシュテンのそれよりも遥かに厳しい。祖国でも降り積もる雪を眺めることはよくあったが、雪片を掌で受けた時もすぐには消えずに、結晶を目に近づけて楽しむことができたと思う。それぞれに形が違う雪の結晶を見比べるのは、マリカあたりもとても喜びそうだと思ったけれど、イシュテンではできないのかもしれない。
そしてシャスティエ自身が我が子とその遊びをすることも、多分できないことだろう。シャスティエの子は、ミリアールトの民にとってはイシュテンの王族である前に自国の王だ。イシュテン王がどこまでその意味を分かっているかは分からないけれど、征服された国の者にとってまたとない旗印になることは十分承知しているだろう。雪を見るために里帰り、など許されるとは思えない。
「私の名前の意味を知られる訳にはいかないしね……」
――私は復讐を誓う。母の名前がそのように恐ろしい悪意のある意味を持つと知ったら、子供は恐れるだろうか。悲しむだろうか。怒るだろうか。イシュテンの王位を得てミリアールトを厚遇してもらうためには、おかしなことを知られる危険は犯さない方が良いのだろう。
そろそろ部屋に戻るか、と。掌に残った水滴を振り払った時――
「陛下、お待ちくださいませ――」
「…………?」
部屋の方から物音と一声が聞こえて、シャスティエは不審に思って振り向いた。
「――何をしている」
するとそこにはなぜか顔を顰めた王の姿があった。今日は訪れる予定がなかったから、離宮は支度を整えていなかったはず。物音は猶予をもらおうとした侍女たちが騒いだもの、ということだろうか。シャスティエ自身も気楽な普段着だから、先触れなしでの訪れは迷惑でしかなかった。
――どうしてそっちの機嫌が悪いのよ……。
機嫌を損ねるのは彼女の方だろうに、どうして顔を合わせた瞬間に責めるような口調で詰問されるのかが分からなかった。
「……雪を見ていただけですが」
ふてくされたように答えた理由は、理不尽に向けられた怒りへの苛立ちが半分。もう半分の理由は、不穏な意味の婚家名についての呟きを聞かれたのではないかという恐れの裏返しだった。王はミリアールト語を解さないけれど、王の子に異国語で話しかけるのを嫌うかもしれない。
幸いに、というべきか――王はシャスティエの答えをさほど期待してはいないようで、重ねて強い言葉を投げられる。
「身体を冷やすな。お前には母になるという自覚が足りぬ」
「そんな、ほんの短い間だけのこと――っ!?」
頭ごなしの叱責に反発しようとして、でも、抗議の言葉を言い切ることはできなかった。王は、大股にシャスティエとの距離を詰めると、無言のうちに彼女を抱き上げたのだ。
「――降ろしてくださいっ!」
「話をしている時間が無駄だ。このまま部屋へ連れて行く」
脚をばたつかせても腕を突っ張っても、王の力に敵うはずもなく。シャスティエは王の腕に収まった屈辱的な姿で侍女たちの注視に耐えなければならなかった。
慌ただしく整えられた席に落ち着いても、一応は夫婦ということになっているふたりの雰囲気は険悪だった。王に抱えられているのを見られた時の、侍女たちの曖昧な微笑を思うと簡単に許す気にはなれず、シャスティエが夫に投げる声は氷柱のように尖ったものになってしまう。
「――それで、どのようなご用件でしょうか」
「用がなければ妻に会いに来てはいけないのか」
「そのようなことはございませんが……」
もちろんシャスティエの本音としては用がないなら放っておいて欲しい、なのだが。はっきりと口にすれば角が立ちすぎるのが分かっているので、さすがに曖昧に言葉を濁す。代わって話題にするのは、王がシャスティエよりも気に懸けるべき方のこと。
「今日は、ミーナ様は――」
――こちらに来ている場合ではないでしょうに……。
暗に皮肉も込めて、そして本当に気になることでもあって。シャスティエは夫と父の間で揺れているはずの王妃の状況を知ろうとして――
「リカードの見舞いに行っている。しきりに強請るから許してやった」
王が淡々と答えた言葉に、思わず腰を浮かせる。
「どうして、そんな……っ!」
ティゼンハロム侯爵の血の呪縛からミーナを逃して味方につけるのが、シャスティエと王の間に存在するほとんど唯一の目的ではなかったのか。あの優しい方のこと、父親と会えば絆されかねないというのに。先日の一幕で、多少は侯爵への疑念を抱かせたのかもしれないのに、それも無駄になってしまう。
「一応マリカはこちらに残させている。それに、父か俺かを選ばせるのに、あちらの言い分も聞かせないのでは公平ではないだろう」
側妃の剣幕に対し、王はうるさげに顔を顰めただけだった。冷静になれば王も現在の状況を考えなかったはずは――多分――ない。ので、シャスティエは不承不承ではあるが矛を収める。
「そう、でしょうか……」
「仮にリカードを選んだとしても、取り返せば良い。そう決めた」
「…………」
王が言うのは、当然力づくで、ということなのだろう。反逆者についた者を、王妃とは言え以前と同様に扱うことが可能なのかどうか、シャスティエには分からなかったけれど。
――ティゼンハロム侯爵を排した後なら、それもできるのかしら……? 諸侯の反対を押し切ってでもあの方を庇う覚悟があるの……?
夫を信じきることなどできなくて目を細めるシャスティエを前に、王の懸念はまた別のところにあるようだった。
「父を斃した俺を、恨むかもしれないが。……仕方あるまい」
わずかに目を伏せた王の姿は、非常に珍しいことに憂いと、ほんのわずかではあるけれど弱さを感じさせるものだった。けれどもちろんシャスティエの心を動かすことはない。
――私に向かってそれを言うのね。
彼女の胸に湧く思いは、怒りも悲しみも憎しみも通り越して、ただただ呆ればかり。妻の肉親というなら、シャスティエについては父ばかりか兄も叔父も従兄弟たちも、この男は手にかけているというのに。都合よく忘れてしまったのか、それとも彼女の心情など考えてもいないのか。多分その両方なのだろうが。
妻からの醒めた視線には気付かぬように。ふと、王は目を上げると控える侍女たちを見渡した。
「今日はバラージュの娘はいないのか」
「エシュテルのことでしたら、今日は休みを取っております。――あの者に何かご用でも?」
弟のカーロイのことで何かあったのか、との危惧もちらりと頭をかすめたが、すぐに違うだろうと心中で首を振る。たとえそうだったとしても、王自らが臣下のために使い走りのようなことを買って出るなどあり得ない。もっとも、だからといって王がエシュテル個人に何の用があるかというと見当がつかないのだが。
シャスティエの疑問の目に、王はすぐに答えてくれる。
「あの者――というかバラージュ家に関して、多少不審な動きがあるのだ」
そうして王は、シャスティエが欠席した新年の宴での一幕を語った。片腕のカーロイでは名門バラージュ家の当主として不足だとみなす者がいるということ。家督を乗っ取るために、エシュテルとの婚姻を利用しようとする者もいて、実際行動を起こしかけた者が、あのアンドラーシにやり込められたこと。そして、カーロイ自身が語ったというバラージュ家の状況も。
「親族からも縁談がある、と仰いましたか……?」
「そうだ」
シャスティエの声が尖り、表情を曇らせた理由にも、王は頓着しないようだった。
「バラージュ家はティゼンハロム家からの恩恵をよく受けていたからな。年長の者は特にその恩義を忘れまい。だから、断りづらい筋から縁談を強いられる前に――」
「どうして早く仰ってくださらないのです!?」
「何――」
女から強い口調で怒鳴られて、王は不快げに眉を上げる。が、叱責する暇を与えずシャスティエは続けた。
「エシュテルは親族からの招きだと言って暇を乞うたのです。気楽な間柄の相手だと言っていましたけれど、今のお話では……っ!」
若い娘が、年配の親族から圧力をかけられて断りきれるものなのかどうか。女の立場が弱いイシュテンではなおのこと。王が知らせたことは、シャスティエに嫌な予感しかもたらさない。
そしてその予感は、王も正しく認識したようだった。
「なぜそれを早く言わぬ」
「そのような事情と教えていただいていたら、すぐにも申しておりました!」
夫婦ふたりしてにらみ合い――そしてすぐに、そのようなことを言っている場合ではないと気付く。
「……訪ねたのはどこの家だ。そこまで聞いているか」
「名前までは。ですからカーロイ・バラージュをお召しくださいませ。あの者に聞けば分かるでしょうから」
「分かったところでどうするつもりだ? 意に染まぬ縁談を強いられた程度のことで臣下の領地を侵せと言うのか」
「私はその程度のこと、とは思いません」
迂闊な対応からの予期せぬ乱を避けるためにもティゼンハロム侯爵を刺激したくない――王の言い分も分かった上で、シャスティエは自身の経験から最悪の事態を想定していた。
「こういったことに関して、私はイシュテンの殿方を信用しておりません。私がこの国に来たばかりのころの、あの狩りでのこと――あれも、ティゼンハロム侯爵の手によるものでございましょう?」
「…………」
王の眉間に刻まれた皺が、この男にとっても不快極まりない記憶を呼び起こしたのだろうと教えていた。だが、その上でなお、王は腹立たしいほど物分りが悪かった。
「リカードがそう企んでいるとして――娘には気の毒だが――その事態が起きてからの方が、力に訴えても――」
「そのようなことが起きてからでは遅いですわ! カーロイ・バラージュは陛下に見捨てられたと思うかもしれませんのよ!?」
誇りを踏みにじられた女の心情など、王に向かって語るだけ無駄だから省いた。
例の狩りでの件でシャスティエが許せないのは、身体に加えられた暴力以上に力ずくの既成事実によって愚かで無礼で残虐な男どもの妻にされるところだったという点だ。エシュテルはティゼンハロム侯爵ために父を、ティグリス王子のために弟の片腕を失ったが、いずれも遠因とはいえシャスティエにも責任があることだった。この上あの娘自身にまでもシャスティエのせいで危害が加えられるなど、とうてい許容できることではなかった。
幸いに、カーロイの名前を出したことで王も吟味する表情になってくれた。だから、シャスティエは声を精一杯和らげて、媚びるように王に乞う。
「私の――女の我が儘ということで通すのはいかがですか? あの娘が傍にいなくてはやっぱり嫌だと言い出したとか。子を宿しているがゆえに心が落ち着かず気まぐれなのだと――御子のためにと、陛下は渋々兵を動かしてくださるのです」
「女の機嫌を取るために無理を通した王と呼ばれるのか。何と名誉な評判だ」
――これくらい、聞いてくれたって良いじゃない……!
シャスティエだとて王の子の母の立場を笠に着るような真似はしたくない。女に口出しを許したなどと王も気に入らないのだろうが、シャスティエも好き好んでのことではないのだ。侍女の人生が懸かっているのでなければ決して言わないことを、心を曲げて懇願しているのに。
「陛下、お願いです……」
それでも、王が首を縦に振らないのは拗ねているようなものだと分かった。シャスティエの進言を容れるのが最善と分かった上で矜持が簡単に頷かせないだけのはず。
だからシャスティエは席を立つと王に近づき、その手に自らの手を重ねた。首を傾げて強請る表情は、エシュテルが教えてくれたものだ。頭ごなしに理を唱えるよりもお願いするのだ、と。繰り返しくどいほどに教えられたものだけど、果たして王に効くのだろうか。
祈るように見つめる中、王はしばらく軽く眉を寄せてシャスティエを見返していた。彼女にしては殊勝な態度が、不気味ですらあるのかもしれない。だが、数秒の後、王は瞑目した。
「……致し方ないな」
深々とした溜息と共に吐き出されたのは、確かに承諾の言葉。それにシャスティエは顔を輝かせる。
「陛下、では……!」
「カーロイ・バラージュを呼べ。それにジュラやアンドラーシ――集まることができる者は全て。側妃の願い通りに侍女を探してやる」
一度決断すると王の行動は早く。次々と発せられる命に離宮は慌ただしく動き始めたのだった。