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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
14. ふたつの名前
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嫉妬の芽生え ウィルヘルミナ

 ウィルヘルミナは重い気持ちで実家の門を潜った。


「はあ……」


 馬車から降りた瞬間に漏れた溜息に、御者や従者がちらりとこちらを窺ってくる。王妃に対して何事か言う者はさすがにいないが、彼女の内心を慮ってくれているのだろうか。以前の彼女ならば、浮き立った気持ちで小走りになって父や母に飛びついたものだったから。里帰りもままならないとこぼす姉や従姉妹たちも多い中で、寛容な夫で幸せだと思っていた――これも彼女の無知を表すことのひとつだったのだろう。夫は、父に配慮していただけだったのだ。それも恐らくは不本意に。




 父の見舞いに行きたい、と言い出した時も、夫は露骨に嫌な顔をしたものだった。


『何を話すというのだ? まさか本当に説得しようなど考えているのではないだろうな』


 できるはずがない、と暗に告げる声に、顰められた眉に、ウィルヘルミナは早くも意気を挫かれそうになった。父の野心と彼女の無力とを、同時に責められているような気がしたから。


『あの、私はシャスティエ様と争いたくないし、マリカが巻き込まれるのも嫌だと伝えに行きたいのです。分かってくださらないかもしれないけれど……』


 それでもやってみたい、という必死の訴えは、深々とした溜息で迎えられた。


『……まあ、一度試してみれば諦めもつくだろう。それに、お前もあちらの言い分を知った方が公平かもしれぬ』

『ファルカス様……』


 許しは、出た。しかしそれは彼女の訴えを認めたということではなかった。


 ――我が儘を聞いてくださると……それだけ、なのね……。


 ティグリス王子の乱の間、夫の無事を祈りながら娘に針仕事を教えたことを思い出した。針を持たせた娘はとても喜び、張り切って小さな指を動かしていた。それを見て、ウィルヘルミナは今まで針からも(はさみ)からも遠ざけられていた我が身を思ったのだ。危険から遠ざけられて何もできなくなってしまった、この歳になっても子供と同じなのだ、と。

 どうせ失敗するだろうがやらせてやろう、後で直してやれば良い、と――夫は彼女にそう告げたのも同然だった。


『ただし、必ず今日中に戻れ。戻らなければティゼンハロム侯爵に攫われたものと見て兵を出す。そしてマリカは置いていくように』


 子供扱いへの不満も、父を悪し様に言われる悲しみも、あった。けれど夫の鋭い目を前にそのようなことは口に出すことはできず――


『……はい』


 ウィルヘルミナは、俯きながらも頷くことしかできなかった。




「おお、よく来てくれた。孝行な娘だ」


 思い悩むことは多いけれど、それでも父が笑顔で迎えてくれたのでウィルヘルミナの頬にも笑みが宿った。いつもと変わらぬ優しく穏やかな父の笑顔に、シャスティエとその子への悪意、乳姉妹のエルジェーベトの恐ろしい罪。それに父が関わっていたとは信じられないと思ってしまう。


「ファルカス様が許してくださいましたから」


 夫のお陰だ、と。どこか媚びるように教えたのに、父はすぐに笑顔を渋面に変えた。馬車から降りたのがウィルヘルミナだけだと気付いたのだ。


「マリカは来ていないのだな」

「少し熱があるようで――だから、早く帰らなくてはなりません」


 娘を祖父に会わせることを許されなかった理由はよく分かっている。マリカは、ウィルヘルミナにとっての人質にされたのだ。そしてそれも、父が夫に対しての人質にするのを防ぐため。娘の両腕を父と夫が引き合うような構図になっているのをひしひしと感じさせられて、ウィルヘルミナの頬はかすかに強ばる。けれど思っていたよりはずっとするりと嘘を吐くことができたのは、自分自身でも驚くほどだった。


「それは残念だな」


 あっさりと頷いた父は、ウィルヘルミナの嘘を信じたのか、見抜いた上でやはり子供扱いをして取り合っていないだけなのか。彼女には見分けることができなかった。




 通された客間も、卓や椅子の意匠も。出された茶器さえ馴染みの深いもので、ウィルヘルミナの胸には懐かしさがこみ上げる。一方で、実家で心から寛げない今の状況が残念でならなかった。


 父と向かい合ってまず切り出すのは、当たり障りのないことだった。


「お父様がお元気そうで何よりでした」


 とりあえずは夫への恨みを抱いて嘆く日々を送っているようなのではないのは、良いことのように思われた。無論ウィルヘルミナの幼い目には分からないというだけかもしれないけれど。探るような目を向けても、父は軽く苦笑しただけだった。


「あらぬ疑いを――それも娘の夫に――掛けられるのは辛いものだ。が、若い者は時に過ちを犯すものだろうよ」

「誤解、なのですよね……?」


 縋る思いで確かめると、父は初めてあからさまに顔を顰めた。


「お前も儂を疑うというのか」

「いいえ!」


 その反応は、無実なのに信じてもらえない人のものとしか思えなくてウィルヘルミナの心は乱れる。一方で、シャスティエの離宮での父の冷静さは確かにおかしかったのだけど。父を信じたい思いと疑う思い。双方の間で揺れながらも、必死で口を動かした。


「でも……それなら。シャスティエ様のお子様のこと、お父様もお祝いしてくださるのですよね……?」


 夫と争うのは止めて欲しい、娘を政争に巻き込まないで欲しい。シャスティエにもその子にも手出しをしないで欲しい。心から願うこと、言おうと考えてきたことを、そのまま口にすることはできなかった。そのようなことを、父は彼女に対しては漏らしていないし、今も疑いなど心外だと言わんばかりの態度を保っているから。ウィルヘルミナには、そこを責めることができないのだ。


 だからせめて、恐る恐る尋ねたことには頷いて欲しかった。たとえ娘の子でなくても、その夫の子なのだから。ただ純粋にめでたいことだと言って欲しかった。そうすれば、子供の頃から信じていた優しい父の姿が保てると思ったから。でも――


「……お前は優しい。が、優しすぎる。そのように育てたし成功したと思っていたが――こうなってみると考えものだな……」

「え……」


 父が苦笑しつつ首を振ったので、ウィルヘルミナは喘いだ。そこに続けられた父の声は冷静で力強く、自明の理を述べるかのように一切の迷いも後ろめたさも感じられなかった。


「陛下やクリャースタ様への敬意とこれはまた別の話だ。娘や孫を脅かす御子の誕生を、どうして手放しで喜べようか?」

「私は嬉しいですわ……それに、ファルカス様も御子が生まれても私たちの扱いは変わらないと仰ってくださいました」

「言われたことは何でも信じるのだな。それもお前の素直さであり愚かさだ、()()()

「――マリカ……?」


 愚かだ、と。父は嘲るでもなく子供の無知に呆れる口調でさらりと言って、ウィルヘルミナのささやかな誇りを傷つけた。だが、それ以上に彼女が聞き咎めたのは、娘の名前で呼ばれたことだった。


 ――お父様、勘違いなさったの……? それとも私は幼児(マリカ)のようだとでも……?


 娘の困惑を見て取ったのか、父はまた笑った。幼い頃から見慣れた、娘に甘い父の顔そのもので。


「忘れたのか? お前もかつては()()()だったではないか。孫がいないならばそのように呼んでも良いかと思ったのだが、気に入らぬか」

「いえ……婚家名に慣れてしまっていたものですから」

「お前もいずれ分かるだろうが、娘を嫁がせるのは寂しいものだ。夫に尽くすのが妻の務めとはいえ、親子の情も忘れないでいて欲しいものだ」

「ええ……もちろん」


 言葉の上では頷きながら、マリカという名はもはや彼女にとっては驚くほどに遠かった。確かにその名で呼ばれたこともあったけれど、彼女が「ウィルヘルミナ」になってから既に十年以上経っているのだ。それに、その名は夫が授けてくれたもの、夫の妻になった証の誇らしい名でもある。


 ――お父様、どうしてこんなこと……。


 マリカなどと昔の名を持ち出した理由は、分かる。夫と同じように、父は彼女に自分を選ばせようとしているのだ。だから父として与えた名で呼んで、夫との絆を否定しようとしているのだ。


 ――婚家名で呼ばれないのが、こんなに嫌なことだったなんて。


 しかし、かつての名で呼ばれることは、父の狙いとは全く逆の効果をもたらしたようだった。常識として嫁いだ女は婚家名で呼ぶのが礼儀、とは言うものの、王妃を婚家名で()()()()者は今まで誰もいなかったのだ。夫から与えられた名前がこれほど大切だと思うのは、ウィルヘルミナが今まさに妻としてのあり方に悩んでいるからなのだろうか。


 ――私、シャスティエ様にも……。


 夫のもうひとりの妻も、ちゃんと婚家名を授かっている。クリャースタ・メーシェ。ウィルヘルミナの舌には少し言いづらい異国の響きだけど、あの方も本来はその名で呼ばなければならなかった。それを、結婚前からの交友に甘えてずっと元の名前で呼んでしまっていた。あの方は穏やかに接してくれていたけれど、もしかしたら今のウィルヘルミナのように内心では不快な思いを味わっていたのだろうか。


 ――でも、シャスティエ様はシャスティエ様だわ。


 美しい友人への非礼に思い当たって青ざめてなお、ウィルヘルミナはあの方を婚家名で呼ぶのは何か嫌だ、と思った。思ってしまった。どうして自分がそのように思ってしまうのか分からなくて――ウィルヘルミナは唐突に不自然に話題を変えた。


「お母様は、今日はいらっしゃらないのですか」

「いや。お前の姉たちも来ているぞ。遠縁の娘が嫁ぐのでな、皆で花嫁衣装に刺繍をしている。お前もひと針刺してやると良い」

「それは、素敵ですね……」


 言葉とは裏腹に、花嫁衣装、と聞いてウィルヘルミナの胸はちくりと痛む。彼女自身も、宝石と刺繍で飾られた衣装を纏って夫の手を取った時は、自身をこの上なく幸せな女だと思ったのに。新しい名で呼ばれては頬を染めて胸をときめかせたものだったのに。

 かつての彼女のように何も知らずに幸せな未来を描いているであろう、顔も知らない若い娘が羨ましくてならなかった。


 とはいえそのような羨ましさなど感じてはならないことのはず。ウィルヘルミナの現在の状況や心境がどうあれ、慶事は祝ってあげなくては。

 そう心に決めると、ウィルヘルミナは無理に笑顔を作った。


「はい。お姉様方にもご挨拶をして――そうしたら私、もう失礼いたします」

「もう帰るのか。来たばかりだというのに……」

「やはりマリカが心配ですので」


 残念そうな父に対して、きっぱりと告げる。あからさまな口答えではないけれど、これほどはっきりとものを言ったのは彼女の人生でも珍しいことかもしれない。


 娘を口実にして嘘を吐くことに心が痛んだが、完全な嘘でもないと自分に言い聞かせてなんとかしのいだ。マリカはラヨシュと遊んでいるはず。あの少年は歳以上に賢くて、

 言いつけ通りに人目につかないようにしてくれているけれど、マリカは同じように我慢できるだろうか。娘があちこち出歩きたがれば、ラヨシュはついていくしかできないだろう。夫が娘に甘いのを良いことに、淑やかに躾ることができなかった――ウィルヘルミナは、母としても失格だったのだ。


 ――ああ、でもやっぱりマリカは言い訳だわ。私は早く帰りたいのね。ファルカス様のところへ……。


 必ず帰ると言って出かけて、事実帰ったところで褒められるようなことでもない。でも、これほどに早く帰るとは夫は思っていなかったはず。父娘の情を振り切って夫のもとへ帰ったら、もしかしたら褒めてくれることもあるだろうか。いや、この程度のことで褒められるなど望んではいけない。でも、少なくとも夫との時間は持てるはず。


 ――ファルカス様。私の名を呼んでください。私はウィルヘルミナ、ミーナ。貴方の妻です……!


 帰ったところで、夫の傍には()()()()()()妻もいるのだけれど。夫はそちらの人と過ごしているのかもしれないけれど。


 ――でも、私のところに来ていただきたい……!


 父への挨拶もそこそこに、衣装の裾を乱して慌ただしく立ち上がりながら。ウィルヘルミナの胸を騒がせる感情は、彼女が初めて感じるものだった。

 その感情の名は、多分嫉妬、というのではないだろうか。

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