結婚の陰謀 エルジェーベト
謹慎中とはいえ、リカードがティゼンハロム侯爵家の当主であることは変わらない。だから、外出はせずとも、他家から来客を迎えることはなくとも、屋敷にはそれなりに人の出入りがあった。領内での諸事の報告だとか、決済の承認を得るためだとか。侯爵家が預かる領地は広大で豊かなものだから、その運営が滞ればイシュテンそのものへも影響を与えかねないのだ。
中でもその日訪れたのは、使用人や格下の家の者とは違って重要な客だった。客、というのもおかしな表現かもしれないが。何しろリカードの長子であり、その名代として王の主催する宴に出ていた者が報告のために訪れたのだから。
「宴の様子はどうであった、ティボール」
「は――」
リカードとその長子ティボールの間柄は、父子というよりも教師と生徒のそれに見えた。あるいは、もっと有り体に言えば君主と臣下だろうか。実際の玉座についてはリカードもまだ手を届かせてはいないが、家中にあってはこの老人は紛れもなく王なのだ。相手を立たせて自身はゆったりと椅子に掛ける構図もそれを物語っている。
――この歳でも若様、ですものね……。
緊張した面持ちでリカードに頭を垂れるティボールを、やや呆れたような気分でエルジェーベトは眺めた。末娘のミーナ――否、マリカとは十以上歳が離れた良い年の男だというのに、父親の前だと常に叱られるのを恐れる子供のような雰囲気がある。無論、リカードに厳しく鍛えられたからには無能であるはずもなく、エルジェーベトにとっては父親同然に恐るべき暴君にもなり得る。しかし、だからこそ父親の前だと縮こまるような姿になるのが滑稽に思えてしまうのだ。
とはいえそのような軽侮を表情に出すことは許されない。エルジェーベトは仮面のような無表情を保って、ティボールの報告に耳を傾けた。宴の際にマリカがどのような様子だったのか。彼女が去って頼れる者がいない中で、虐げられていないかどうか。その断片でも聞き漏らすまいと神経を尖らせて。
「――日和見の者共ばかりか。予想の範囲内だな」
誰が挨拶に訪れて誰が来なかったか。訪れたとして、どの程度丁寧な態度を取ったか。ティゼンハロムを無視して王だけに挨拶を述べた者がどれだけいたか。一通り有力な家の名を聞いた後で、リカードは静かに呟いた。
――恩知らず共に、お怒りではないのね。
つい先日まではリカードに媚びていた者たちが手のひらを返したというのに、意外なほどの冷静さだった。だが、それがむしろエルジェーベトには恐ろしい。この老人の胸の裡では、既に戦う決意が固まっているのだ。だから、乱を起こしたとしてどれだけの者が味方につくのか、もう算段が始まっているのだろう。更に言うならば、王との間で迷う者を誘う手立ても。
「側妃の子が王子かどうか、様子を窺っているのでしょう。王女であった場合を考えれば、あからさまにティゼンハロムから離れる訳にはいかないということかと」
「そうだな」
息子の総括は父親を満足させたらしく、リカードは軽く頷いた。
「仮に王子だったとしても育ちきるか、までも考える者はいるだろうな。マリカが王宮にいる限り、売女めは儂の手を逃れることはできぬ、と――敏い者は考えるだろう」
頷いた上で自身の見解を付け加えるのが、いかにも傲慢なこの男らしかった。娘を溺愛しつつも、しっかりと利用することを考えているのも。
何しろリカードは王妃の父で王女の祖父だ。ほとぼりが冷めて謹慎が解けた暁には、また王宮の奥へ出入りすることも可能になるだろう。リカード自身は目立った動きはできないとしても、従者の類ならば密かに動くことはできるはず。
――その時は、息子が役に立つわ……!
まして子供ならば見咎められる恐れも少ない。エシュテルへ手紙を届ける遣いを何度も務めたラヨシュならば、王宮の裏道も熟知している。
側妃やエシュテルにしてやられて子供の出産を許すことになってしまったが、生まれてから失う方が母親の悲しみも深いだろうと思うと今の境遇にも耐えられた。
今の境遇――ティゼンハロム邸の奥に影のように潜み、リカードに仕える日々。表には決して出すことのできないやり取りを見聞きして、魂の芯までどす黒く染まっていくような。無論マリカのためならば厭うことではないけれど。
エルジェーベトは、そっと髪に手を伸ばした。マリカほどではなくとも美しく艶やかだったはずの髪は、ばっさりと短く断ち切られている。服装も、従者のように男のものを身につけている。「エルジェーベト」が生きていると、屋敷の外に知られてはならないからだが――三十路の女が化粧もせずに男装するのは、どれほど見苦しく惨めなものか。リカードは折に触れて嗤って彼女を嬲りもした。
身を犠牲にして主を守ったと褒められたのも一瞬のことで、彼女はやはりリカードにとって体の良い下僕であり玩具でしかないようだった。
エルジェーベトが失ったものに思いを馳せる間にも、父子の会話は続いている。
「儂が引き込もっているからと侮られるようでは我が家の将来は暗い……お前は、宴で見えたことから何を企む?」
「は……」
父親からの試問に答える前に、ティボールは軽く唇を舐めた。リカードの後継者である以上、あったことを報告するだけで良しとされることはない。父親がおらずとも見たもの聞いたものを正しく判じ、家のために方策を巡らせることができると、常に証明しなくてはならないのだ。
「バラージュ家の娘の縁組みの話が、利用できるかと思いました」
「ほう」
リカードの相槌に、的外れな意見ではなかったと自信を得たのだろう、ティボールはやや力強い声で続けた。
「ミリアールトの乱で降爵されたとはいえまだまだ裕福な家ですし、父祖の名声も高い。片腕の子供には分不相応なのは言うまでもなく、王に取られるのも惜しいかと」
「だから我が家の息の掛かった者に与えてやるというのだな」
「その通りです」
かつてはティゼンハロムの庇護下にいたとはいえ、他家の娘を、リカードもティボールも我が物のように語った。立場の弱いもの、特に女に対する傲慢さはエルジェーベト自身もよく知ることだから、特別におかしいことではなかったが。リカードの企みを邪魔してくれたあの娘が痛い目を見るというなら、歓迎する事態ですらある。
「ただ、王もそこのところを懸念してはいるようで。正面から申し込んでも握りつぶされるかと――」
「ファルカスも無能ではないからな。バラージュの小僧も黙ってはいまい」
父が王の名を平然と呼び捨てたので、ティボールはわずかに頬を引きつらせた。遥かに歳下の若者に対して遠慮や恐れがあるのだとしたら、この男はまだまだリカードには及ばない。リカードが今のところは王妃の座にある娘を婚家名で呼ばないのも、王への叛意を明らかにして自らを奮い立たせるためだろうに。マリカの兄でもありながら、妹を救うための覚悟が今ひとつ足りないのではないのだろうか。
「で、そこをどのように掻い潜るというのだ?」
敢えて王を名前で呼んだのも、嫌味たらしく問いを重ねたのも。息子の器を試し、矜持を甚振るためなのだろう。リカードはマリカを除いたほとんど全ての人間に対して残忍で容赦ないのだ。常に役に立つところを見せなければ、実子だろうと安全ではいられない。
「……娘本人が望めば、弟も――それにファルカスも、否とは言えますまい」
「そうか? お前は娘の好みを知っているのか? あるいはよほどの色男を用意したか?」
諂うように、ティボールも王を呼び捨てたのはリカードを興じさせたらしい。続けざまの問いかけは詰問ではなく、からかうような冗談めかしたものだった。王を出し抜いてやろうという企みならば、そのように可愛らしいものではないはずなのに。
――殿様は、若様が何をお考えか分かっていらっしゃるのかしら?
エルジェーベトには、どうせろくでもないものなのだろう、ということしかまだ分かっていないのだが。彼女が影のように成り行きを見守る中、父の軽口のお陰でかティボールの口元は緩み、言葉も滑らかになったようだった。
「バラージュ家の遠縁の者に愚痴られました。若者が王に傾倒するのは無理もないが、だからといってティゼンハロム侯爵家の恩を蔑ろにするのはいかがなものか、と。――姉に対しても、小言を言いたそうにしておりました」
「親族からの呼び出しとあれば、無視はできまいな……」
「は。更には、我が家の手の者が領内に入ったとしても、さしたる抗議はありますまい」
「うむ、うむ」
何か通じ合った様子の父子のやり取りに、それに愉しげな声と表情に。エルジェーベトは察するものがあった。
「傷物にされては他の男には嫁げませぬ。醜聞を避けるならば嫌でもその男の妻とならねば」
――ああ、やっぱり。
要は、人質だった頃の側妃に対して目論んだのと同じようなことだ。抗えぬ場所に呼び出しておいて辱しめて、無理矢理に妻にしようというのだ。嫌だとでも言おうものなら、その身に何が起きたか広く喧伝されることになる。若い娘もその家族も、涙を呑んで従うしかない。相手が格上の家であればなおのこと。……この国ではそれなりによくあることだった。
「ミリアールトの売女に比べれば大分見劣りするがまあ若い生娘だ。バラージュの領地がついてくるとなれば良い拾い物だろうよ」
リカードもあの狩りのことを思い起こしたらしく、やや眉を顰めて顔の皺を際立たせた。あの女を貶めるという企みが不首尾に終わったばかりか、王の前で恥をかかされたあの日の屈辱が、甦ったに違いない。
――今度は上手くいくのかしら……?
あの時の失敗の理由は、若者たちの信じがたい無能。そして、王があの女を救うべく素早く動いたからだが――
「親族を訪ねるという口実で誘き出すのです。護衛を固めるということもありますまい。他家の領地に手勢を引き連れて入るのは争いの種にもなりましょう」
「ファルカスが勘づいたとしても娘ひとりのために大事にはすまい……」
「バラージュ家は元々は伯爵家ですから。腕も地位も、それなりの者に話を持ちかけましょう」
男たちは、その点もちゃんと考えているようだった。さすがに同じ失敗を繰り返すつもりはないらしい。
「そこはお前の采配に任せる」
リカードは満足げに椅子に背を預けると、野卑な笑みを浮かべた。
「首尾よく運んだら――誰だかは知らぬが――その男に娘を貸し出させるのだ。妻ですらも言われるままに差し出さねばならぬと思い知らせるのは、矜持を折って飼い慣らすのに良い手段だ」
「は……」
「それに、人のものを奪う心地は格別だ。若いだけの処女などつまらぬだけだからな」
「はあ」
ティボールがちらりと視線をくれたのに気づかぬ振りで、エルジェーベトはそっと目を逸した。十代の頃に手をつけられて、他の男に押し付けられた後も頻繁に寝室に呼ばれていた彼女は、リカードの好みの変遷をよく物語っているのかもしれない。王妃と親しいとは言え彼女は所詮使用人、嫁いだ相手も相応の地位でしかなかったから、飼い慣らす必要もなかっただろうに。だから、人の妻を奪って悦ぶのは完全にリカードの趣味だ。
「父上もお盛んでいらっしゃる……」
辛うじて追従の体は保ったものの、ティボールの声からは呆れが隠しきれていなかった。若い娘を好んで囲うとの噂だから、他の男が抱いた女など汚らわしいとでも思っているのかもしれない。だが、主たちの趣味に口出しすることなどできないので、エルジェーベトとしては何も言うつもりはなかったが。彼らとしても女の思いになど興味はあるまい。
だから、女として――エルジェーベトは同じ女のことを思う。エシュテル・バラージュ。王妃に仕えていた日々の中で見たところ、いかにも品良く躾けられた良家の令嬢といった風情だった。少女の頃からリカードに弄ばれてきた彼女とはまるで違う育ちの娘。でも、これからは閨で顔を合わせることもあるだろうか。
ティボールはエルジェーベトのような年増、それも今は断髪した無様の姿の女に好んで手を出すことはしないだろうが、リカードには彼女の矜持を嬲るのはこの上ない娯楽になっているらしい。以前からエシュテルにも目をつけていたようでもあるし、二人同時に、ということもあるかもしれない。
――あの娘も、私と同じ思いをすれば良いのよ。
リカードに夫に。男というものは常に彼女を翻弄し脅かす存在だった。父や弟に守られてきたであろうエシュテルも、男の残酷さ貪欲さを身を持って知れば良い。そしてその運命は、いずれあの金の髪の売女も味わうものになるだろう。
ふたりのマリカから遠ざけられ、慈愛という情を感じることのなくなった彼女にとっては、憎い相手の不幸こそが悦びだった。