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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
14. ふたつの名前
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扇動 レフ

 レフは、今年の新年もブレンクラーレの鷲の巣城(アードラースホルスト)で迎えることになった。

 ミリアールトの滅亡もイシュテンの凄惨な内乱も、この国では表向き関係ないことになっている。だから、新しい年の始まりを祝う人々の顔は明るく、宴の音楽も華やかなものだ。王太子妃が懐妊中でまもなく世継ぎが生まれるかもしれない、という予想もこの浮ついた雰囲気を醸すのに一役買っているのだろう。


 ――所詮他人事だからこんなものか……。


 王妃と――例によって王は病床のため不在だから――王太子夫妻に群がる人の波を広間の端から睨みながら、レフはひとり唇を噛んだ。昨年も、彼はこの位置から宴の喧騒を眺めたのだ。

 あの時は彼と同じく所在なさげにしていた王太子妃が、今は晴れやかに微笑んでいるのは、彼女にとっては幸せなのだろうか。容姿や寵愛のほどはともかく、夫の子を授かることは、王族の妻としては名誉であり成功と言えるのだろうか。レフにとっては、同じ立場でありながら祝われるどころか命を狙われている従姉を思わずにはいられなくて、ただただ焦りと苛立ちをもたらす光景でしかなかったが。


 ――この一年……何も変わっていない……!


 ティグリス王子の乱に加わるためにイシュテンに潜入した時は、従姉に近づくことができたと思ったのに。イシュテン王の軍を先導して戦いの流れを変えた時も、彼女を守ることができたと思ったのに。気付けば、彼の立場は一年前から何ひとつ変わっていない。

 祖国ミリアールトはイシュテンに征服されたまま。愛しい従姉は敵の懐深くに囚われたまま。イシュテン王の側妃などにさせられて仇の子を孕ませられた分、状況は悪くなってさえいる。


 ブレンクラーレの実質上の主君として、威厳ある微笑みを浮かべる王妃アンネミーケを密かに睨む。イシュテンの情勢を教えろと何度問うても、ティゼンハロム侯爵の返事はまだだ、の一点張りだ。信用されていないのは百も承知だが、従姉がイシュテンに世継ぎをもたらすようなことがあっては、ブレンクラーレも――より正確に言うならば、アンネミーケの次にこの国を率いることになるマクシミリアン王子の治世も――危うくなるだろうに。

 ブレンクラーレはミリアールトよりも遥かに武力にも財力にも恵まれた国なのだから、もっと先を見て早い手を打てば良いと思う。


 ――僕は、無力なのに……!


 従姉のもとへ駆けつけたいという想いはあっても、それが無謀に過ぎないことも承知している。だから彼はままならない状況に歯噛みしつつ、摂政陛下(アンネミーケ)の沙汰を待つしかできないのだ。


 だが、彼も全く無為に一年を過ごした訳ではない。ブレンクラーレから動くことはできずとも、今この場でできることもあるはずだった。彼の立場と――比較的最近に自覚した、彼の容姿の持つ力を利用すれば。




 宴の人並みに足を踏み出すと、レフは好奇の視線が四方から突き刺さるのを感じた。彼がこうして人前に姿を見せるのは久しぶりだから無理もない。


「まあ……しばらくお目にかかれなかったから心配しておりましたのよ」

「ありがとうございます」


 思い切った様子で声をかけてきた令嬢に微笑みかけると、周囲からどよめきが起きた。かつての彼は、従姉のことを想うあまりに老若を問わず押し寄せる女たちに対しては大層冷淡に振舞っていたから、ちらちらと視線を寄越しながらも近づきがたい表情をしていた者たちも多かったのだ。そこへ、親しげな態度を見せてやったのだ。非常に美しいらしい彼の微笑みを得たいと――多くの者が、目の色を変えた。


「何をしていらしたのですか?」

「摂政陛下のご厚意で、あちこち周遊しておりました」

「お気に召した地はありましたでしょうか?」

「さすがにこちらは温暖で過ごしやすくて――ですが、故郷の厳しい寒さが懐かしく思えることもあります」

「我が国でも、高地ならばお国を偲べるかもしれませんが……」

「ありがとうございます。ですが、我が儘ではありますが祖国を思い出すのも辛いのです。それで、人恋しくてこのような場へ現れたということです」


 次々に浴びせられる言葉のひとつひとつに、にこやかに応じてやった後で、ふと目を伏せる。手強い間者たちや無骨な兵たち相手でも動揺させることができた、切なげな表情――に、見えるらしい。まして、平和で自堕落な日々を享受する貴族たちに対しては、効果覿面だろう。


「まあ……」

「お気の毒に……」


 案の定というか、レフの周囲に集っていた者たち、とくに若い令嬢は顔を赤らめて口々に同情の言葉を述べた。かつてならば、上辺だけの慰めなど屈辱と苛立ちをもたらすものでしかなかっただろうが――今は、違う。兵を率いて戦うことができないからには、搦め手でブレンクラーレを戦いに呼び込むしかない。たとえどれほど迂遠に思えたとしても、それが彼にできる唯一の手段だから。


「だから、最近のことには疎くて。ミリアールトや――イシュテンでは、何か動きがあったのでしょうか」


 無論、イシュテンの内乱の顛末は、彼が誰よりよく知っている。何しろあの戦場に居合わせて、ティグリス王子を敗北させたのは彼自身なのだから。だが、それは誰も知らないことだ。名高い摂政陛下が他国の内乱に干渉したなど、それも、王に反逆した側を後援したなどと、ブレンクラーレの誰も知ってはならないのだ。


「王弟の内乱があって――でも、すぐに鎮圧されたそうです」

「それは恐ろしい。さすが、野蛮な国柄と言うべきか……」


 だから、レフはよく知っていることを訳知り顔に教えられても、白々しく驚いた顔をしてみせた。


「ミリアールトでも乱があったとは聞いていましたが……その機に乗じた、ということでしょうか」

「それは、側妃が懐妊したからだと――」

「側妃!? それは、ミリアールトの元王女のことですか!?」


 令嬢のひとりが都合よく口を滑らせたので、レフは驚いた()()をして詰め寄った。


「あ……」

「それは、あの……」


 話している相手がミリアールトの元王族だということ。イシュテン王の側妃とは、彼の従姉だということ。その程度のことはブレンクラーレの社交界でも知れ渡っている。懐妊、と口にした令嬢は、彼の心を抉ったと思って顔を紙の色に青ざめさせている。レフの本心としてはその真逆で、都合の良いことを言ってくれた彼女に感謝してさえいるのだが。


「従姉は……父や兄の仇に――」


 やや大げさか、と思うほどにうなだれて見せると、口々に同情の言葉が掛けられる。


「高貴な姫君に何と惨い運命かと……ご心中、お察し申し上げます……」

「でも、とても美しい方だと伺っておりますから、きっと……あの、ひどいことはされていないかと」

「それに――それに、王の子の母君ともなれば、おいそれと害されるようなことは……」


 ――呑気なことを! 自分がその立場にいる訳でもないくせに!


 世間知らずの令嬢たちへの苛立ちは、もちろん表に出すことはない。代わりに、レフは弱々しく悲しげな表情の仮面をまとう。令嬢たちだけでなく、老若男女を問わず、彼を注視する者たちによく見えるように。


「そうでしょうか。イシュテンは王族同士、兄弟同士ですら争う国柄。王も、諸侯を完全に掌握している訳ではないのでしょう? そんな状況で、彼女(いとこ)がいつまで無事でいられるか……!」


 彼を囲んだ者たちが、困ったように顔を見合わせた。口先で慰めることしかできないのは、彼ら彼女らもよく分かっているのだろう。


「――その方を、大切に思われているのですね……」


 レフとしても彼らに具体的に何かしてもらおうなどと期待している訳ではない。一介の貴族に過ぎない者たちが、国境を越えて従姉を助けに動いてくれるはずもない。それはよく分かっている。ただ、ブレンクラーレの中である機運を高めることができれば良い。


「はい。姉弟(きょうだい)同然に育った従姉です。美しくて誇り高くて――私とは、鏡合わせのようだとよく言われてきました」


 懐かしく愛しく美しい姿を思えば、自然に唇が微笑みを形作った。伝えられるイシュテンの情勢と、従姉の立場、そしてこの微笑みを併せれば、悲劇の美姫の姿が容易に思い浮かべられていることだろう。側妃など妾のようなものだから、男たちの中には野蛮なイシュテン王に弄ばれる彼女の姿を思い描いた者もいるかもしれないが。彼にとっても彼女にとっても、耐え難く屈辱的で不埒な妄想ではあるが。

 だが、とにかく。ミリアールトの姫君が哀れだ、どうして救わないのか、と。思う者が増えれば良い。


「とても……お気の毒に」

「我が身の無力が嘆かれてなりません。どうして私ばかりがこのように安穏としていられるのか、と……」


 これみよがしに溜息を吐いて見せる。見る者の心を波立たせ、何かしてやりたいと思わせる効果を狙って。


「姫君をお救いするよう……摂政陛下に進言申し上げましょう」


 マクシミリアン王子並みに気楽なことを言い出した者がいたので、レフは笑いを堪えるのに苦労した。実のところ、彼が望んでいた言葉ではあったのだが。だが、こうも容易く言わせることができるとは。


「そのような――慶事も近いというのに、この国に争いを招くようなことは望めません」


 口先ではそう言って固辞してみせながら、レフは鋭い視線が突き刺さるのを感じていた。彼のいる場所からは遠い、玉座の高みから注がれるのは、王妃アンネミーケの鷲のような険しい視線だ。彼が何か余計なことを言いはしないかと、警戒でもしているのだろうか。


 ――貴女がやりやすいようにしてあげているんだ。文句はないだろう?


 彼は、摂政王妃がイシュテンに介入したことなどはひと言も口にしていない。少なくとも、ティグリス王子の乱については。だが、今後についてはまた話が別だ。ティゼンハロム侯爵には、今度こそイシュテン王を討って欲しい。そのためには、ブレンクラーレには全力で侯爵を支援してもらいたいものだ。ならば、国内の貴族の機運として、イシュテン王の所業を憎みミリアールトの姫を救うべし、という声が大きければ何かと動きやすくなるだろう。


 ――気に入らないなら、貴女の動きが(のろ)いのが悪いんだ。


 誰にも気づかれぬよう、ほんのわずかだけ。レフは嘲りの形に唇を歪めた。




 新年に関わる諸々の儀礼が概ね片付いた頃、レフは摂政王妃の執務室に呼び出された。あの宴の後も、彼は様々な席に顔を出しては従姉への同情が集まるような言動を繰り返していた。その中の何回かではアンネミーケも同席していて、彼に刺すような視線をくれていたものだった。

 だから、てっきりその件について苦言を呈されるのだと思っていたのだが――


「イシュテンからの遣いが戻った」


 例によってやたらと苦い――手をつけなくても色で分かる――茶を出すなり、アンネミーケは短く告げた。


「では、ティゼンハロム侯爵は」

「取引に応じた」

「シャスティエは――」


 イシュテンの最新の情勢については、既に何度も話してきているから、交わされる言葉はごく短いものだった。


「娘を苦しめた女は絶対に許さない、子ともども引き裂いてやる、とのことだ」

「そんな――っ!」


 ――僕にミリアールト王になれというのか!? シャスティエを見捨てて!


 大きく息を吸い、詰ってやろうとブレンクラーレ語の語彙を探った時――アンネミーケは、いつもの苦々しげな表情で吐き捨てた。


「だから、奪う。姫君も、御子も」

「……ティゼンハロム侯爵は認めないのではないのか?」

「イシュテンの者はもう信用ならぬ。話が通じるかと見えたティグリス王子でさえ勝手な振る舞いでブレンクラーレに無理を強いた。ましてティゼンハロム侯爵には――先王の代から、戦でも政でもさんざん煮え湯を飲まされている」


 摂政王妃の声にも表情にも嫌悪と怒りが満ちていて、ティゼンハロム侯爵の厄介さを如実に語っていた。レフがイシュテンで聞いた侯爵の評判も、アンネミーケの言を裏付ける。老獪で狡猾で強欲、そして残忍。どう考えてもまともに取引を期待できる相手ではなかった。


「奪う。どのようにして……?」

「幸い、イシュテン王を討つのには何の異論もないとのこと。策は追々詰めるが、今度こそイシュテンの獣に首輪を嵌めねばならぬ。誰か、かの国で侯爵と交渉してくれる者が必要だが――」

「僕が行こう」

「そう言ってくれると思っていた」


 アンネミーケは苦い表情のまま頷いた。ティゼンハロム侯爵を信用せずにことを進めるとして、その対策として送り込むレフのこともまた信用できないのだ。手札の少なさを心もとなく思うのも無理はない。


「イシュテンの力を削ぎつつ、ミリアールトの女王を奪還するのが最上の結果。公子の働きには期待している」

「彼女のためならば、当然のこと」


 力強く請け合っても、アンネミーケの表情が晴れることはなく――逆に、深々と溜息を吐かれた。


「できることならば御子も共に。イシュテンとミリアールト、両国の血を引く者だ、男子であろうと女子であろうと価値は高い」


 ――ティゼンハロム侯爵に権力を許すとしても一時のこと、シャスティエの子を擁立してイシュテンもミリアールトも手に入れるつもりか……。


 強欲さにかけてはこの王妃も相当なものであるようだった。しかしそのようなことを敢えて口にする必要もない。従姉のために、やっと行動を移してくれるというだけで感謝しなくては。


「……仰せのままに」


 それに、結局のところイシュテンに入ってしまえば彼の裁量で動くことができるのだ。彼にとって大事なのはあくまでも従姉だけ。アンネミーケもミリアールトの女王さえ抑えることができれば強く文句は言えまい。


 イシュテンからブレンクラーレに至るまでの長く厳しい旅路の途上。生まれて間もない赤子がどこでどのように死んだとしても、咎められるはずもなかった。

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