結婚の噂 アンドラーシ
イシュテンの王宮の広間では、例年と変わらず新年を祝う宴が盛大に催されている。王にとっては権威を示すため、アンドラーシら臣下にとっては参列することで忠誠の証とするためのものだから、行わないという選択肢はありえないのだ。
とはいえ昨年と比べると、居並ぶ諸侯の顔ぶれはかなり入れ替わっている。ティグリスの乱で戦死した者、ティグリスの方について死を賜った者は去り、代わって武功を得た者が高い席次を与えられている。
更に特筆すべきは、リカードの不在だろう。恐れ多くも王の子を害せんと企んだあの老人は、決定的な証拠を押さえられて罪に問われることこそ免れたものの、側妃に関する嫌疑を晴らすためとして、当分の間蟄居を命じられたのだという。
名代として、王妃にとっては兄にあたる長子を送り込んでいるものの、その席はリカードが日頃占めていた王の傍らからはほど遠い。それは単に父よりも若輩であるからではなく――リカードの長子も王に比べれば年長なのだ――、王がティゼンハロム侯爵家を遠ざけようとしている何よりの証だ、と。広間に集った者たちはしきりに囁き交わしていた。
「リカードの命運も流石にこれまでか……?」
「おとなしくして天寿を全うするならば良し、まだ足掻くならばその時こそあの老いぼれの最期だろうさ」
気心の知れた友人――ジュラと酒を酌み交わしながら、アンドラーシは機嫌良く嘯いた。王宮で供される上質のものだからというだけでなく、今夜の酒は彼の舌と喉に甘く感じられた。彼が忠誠を違う王が、間もなくイシュテンに真の意味で君臨するのだ。新しい年の始まりには何と幸先の良い未来図だろう。
――後はあの女だが……。
酒杯を掲げる振りで、彼はこっそりと王妃を睨んだ。父親のしでかしたことを考えれば引き込もっているべきだろうと思うのに、王は今回も王妃を傍らに伴っていた。身重のクリャースタ・メーシェ妃は安静にすべきということ、毒杯を呷って倒れた昨年の記憶もあってこの場に出席するのを嫌がったのだと聞いてはいたが――彼としては、王に相応しいのはやはり若く美しく血筋も高貴なあの姫君の方だと思えてならない。なのに、依然として王の第一の妻はリカードの娘でもあるあの女なのだ。何一つ王の役に立てない癖に、と忌々しくはあるが――
――それも、御子が王子でありさえすれば変わる……!
今となっては王妃が男児に恵まれなかったのは僥倖とさえ言えるかもしれない。実家の勢力の盛衰や儲けた王子の出来などによって、王妃と側妃の地位が入れ替わった例もないではないのだから。
それに、マリカ王女はいずれ臣下に嫁ぐだろうから、リカードの血が王家に残ることはなくなるだろう。厄介な父親のことさえなければ、王妃は単に可愛らしいだけの女だ。王が寵愛するとしても、側妃としてならまだ我慢できるはずだった。
「さて、そろそろ陛下にご挨拶に伺うか」
「そうだな」
広間の最奥に設えられた玉座の周辺に、人の波が途切れそうなのを見て取って、アンドラーシはジュラと共に席を立った。ミリアールトの乱と、先日のティグリスの乱と。手柄を立てる機会を続けて得たとはいえ、彼らふたりはまだまだ若い。王の機嫌を窺うのも、年寄りどもの列が捌けるまで順番を待たなければならないのだ。
広間に並べられた卓や椅子の間を縫って歩くと――昨年は、当時人質だった側妃に従って歩いたことを思い出す――、集った客が語り合う声が森の木々が風に揺れるようなざわめきとして聞こえてくる。ほとんどは単なる雑音か騒音として聞き流すのだが、アンドラーシはふと、その中から最近よく聞く名を拾った。
「バラージュの娘に申込もうと思っている――」
「何? あの家はもう落ち目だろうに物好きな」
浅からぬ付き合いになった者たちが、悪意と嘲りと共に語られているのだ。その響きは、宴の喧騒の中でも浮かび上がるようにはっきりと彼の耳に届いてきた。
「だからこそ、だ。片腕の小僧では領地を維持できまい。そこで姉娘を手に入れれば――」
「なるほど。後見ということで労せずして土地や財産が得られる、か……」
会話を交わしているふたりの名を、アンドラーシは知らなかった。知らなくて良かった、と思う。続けて不幸があった家の娘を我が物にして乗っ取ろうなど、イシュテンの男にはあるまじき小賢しく女々しいやり口だ。そのような者たちと知り合いでなかったのは、喜ぶべきことに違いない。
「何ともさもしい考えだな。よくもそのように得意気に語れるものだ」
何となく感じた嫌悪と苛立ちに任せて、誰にともなく呟く。思ったことをそのまま口にするのが彼の常、人目を憚って口を慎むなど性に合わないのだ。
「何だと!?」
「貴様、盗み聞きか!」
あるいは独り言が聞き咎められることを期待しているのかもしれなかったが。その証拠に、品性下劣なやり取りに笑っていた者たちが血相を変え、椅子を蹴立てて迫ってきたのを、彼は非常に愉しく眺めたのだから。要は、騒動が起きるのが嬉しくて仕方ないのかもしれない。
「おい……」
「貴様らも盗み聞きしているではないか。自身でも恥じ入るところがあるからそのようにいきり立つのか? バラージュの先代が生きていたなら相手にもされなかったような惰弱どもが!」
ジュラの呆れたような声を無視して、嗤う。昨年もこうして先のイルレシュ伯を挑発してやったのだ。寡妃大后から毒を賜っていたというあの男は、生憎剣を抜いてはくれなかった。だが、今回はどうだろうか。新年早々、嫌いそうな人間を減らす機会が得られれば良いのだが。
「若造が……っ!」
既に酒も入っているのだろう、相手はいとも容易く激してくれた。特にエシュテルに求婚するとか言っていた方は、拳を振り上げてアンドラーシの方へ詰め寄ってくる。
――馬鹿め。これで先に手を出したのはそちらの方だ……!
あまりにも思い通りの行動をしてくれたことに、密かにほくそ笑みながら、構える。
多少の諍いは宴の余興だ。そしてたとえ激昂した果てに剣が抜かれ血が流れたとしても、責められるべきは最初に騒ぎを起こした方だ。気に入らない相手を図に乗らせて暴力に酔わせるためなら、一発や二発殴られるのも甘受してやろう。
だが――
「当家の名が聞こえたようですが、何ごとでしょうか」
凛と響いた声に、今にも始まろうとしていた殴り合いを囃し立てる歓声もぴたりと止んだ。
若者らしく、やや高く澄んだその声の主、失った右腕の袖をだらりと足らしながらも毅然として真っ直ぐに立っていたのは――カーロイ・バラージュその人だった。
「これは……いや……」
姉に対する下劣な企みを、その弟を目にしては流石に繰り返すことはできなかったのだろう。発端となった男も、気まずげな表情で拳を収めて身体を縮めた。
「若輩ながらよくやっていると、噂をしていたところだ。深手を負ってなおその頼もしさ、見習わねばならぬ、と」
「恐縮です」
卒なく取り繕ったジュラの嘘に、カーロイも心得たような微笑みで答えた。
――……興が削がれたな……。
その間に例の男たちは手の届かぬところへ逃げ去っていたので、アンドラーシも落胆しつつ身体の構えを解いた。物足りなくはあるが、話題の本人が現れたのではこれ以上騒動を続けるのも気まずい。何よりジュラの声も目つきも、おとなしくしろ、とこの上なくはっきりと告げていた。
「これから陛下にご挨拶申し上げるところだった。若輩同士、共に参ろうか」
「よろしければ、是非」
アンドラーシに口を挟ませずに話を進めるのも、この場をなかったことにしようということなのだろう。
――既にやる気はないのだが……。
どれだけ向こう見ずと思われているのかと思うと面白くなく。かといって言葉にして抗議するのも子供っぽいだろう。
仕方なく無言で王の座に向かおうと足を踏み出すと、カーロイが彼に囁いてきた。先程ほどの一幕を忘れたかのようにまた賑やかな笑い声が飛び交うのに紛れさせて、聞こえるかどうかの小さな声で。
「姉のために、ありがとうございます」
「いや……」
咄嗟に答えながらも、釈然としない思いは残る。
――……あの娘のためだったのか?
確かに下世話な物言いを不快に思ったのは確かなのだが。彼は、単に力を振るう機会を求めていただけではなかったのだろうか。
「何をしている。道を塞ぐな」
「ああ……」
内心で首をかしげたものの、ジュラに急かされて深く突き詰めることはできなかった。とにかく分かるのは、どうも彼の言動は良くも悪くも誤解されているらしい、ということだった。
「先ほどは何をしていた?」
アンドラーシが起こしかけた騒ぎは、玉座の高みから良く見えていたらしい。臣下たちの挨拶を受け入れるとすぐに、王は険しい声と視線で質してきた。
「それが――」
どうせカーロイも察しているのだろう、と考えて、アンドラーシは切っ掛けとなった会話を正直に主君に報告した。バラージュ家とエシュテルを狙った企みがあるようだ、ということを。
「あの娘か……」
聞き終えると、王は嫌そうに顔を顰めた。
「妻の力で労せずして財を得ようなど、厚かましい限り」
「……そうだな」
主と同じ感性を持っていたと確認できたのが嬉しくて。勢い込んで評したのだが、どういう訳か王は一層眉を寄せて機嫌を傾けたようだった。それはとにかく――
「私も、そのような者共に領地を良いようにさせるつもりはございません。実は、年配の親族などから姉の結婚を急かされてはいるのですが……ティゼンハロム侯爵と繋がっている者の可能性もありますし、当面は断るつもりでおります」
「バラージュ家の娘となれば王の許しが必要だろうな。下手な相手には与えぬから安心するが良い」
リカードの名を出す際に、カーロイは王妃を憚るように窺って、王妃の方でもぴくりと身体を震わせていた。例によってこの女は周囲の者に過剰に気遣われているように思えてならない。
そして王も。次の言葉を発する前に、王妃に軽く頷いて見せる。安心しろ、とはこの女にも向けたことであるかのように。それはやはりアンドラーシには気に入らない。
「あの娘は離宮に仕える者でもある……。側妃が認める者でなければ、と言ってやれば、大抵の男は諦めるだろう」
「それは、ごもっともでございますね……!」
クリャースタ妃は、美貌と知性に加えて、男顔負けの気の強さでも知られているのだ。そのような御方の後ろ盾があるとなれば、容易く手出しをする気にはなれないだろう。バラージュ家がティゼンハロム侯爵家の傘下にあると看做されていた頃ならまだしも、リカードの権勢にも陰りが見え始めている時期でもある。当主が若いから、片腕だからと侮ることもできないはずだ。
「ティゼンハロム侯爵も当面は余計な手出しができぬはずだしな……」
「改めて陛下だけに忠誠を誓うと示せたこと――とても、嬉しく誇らしく思っております」
バラージュ家の状況は、王もカーロイ本人もよく承知しているところだ。リカードが健在であればどのような男を押し付けられるか分かったものではなかったが、とりあえずはその心配はない。
――あの娘も、良い相手に嫁げれば良いな……。
ティグリスの乱の間、側妃とその御子を守るために尽力してくれた娘であり、弟を託された相手でもある。名家の常として結婚は思い通りにならないものなのだろうが、せめて親の仇であるリカードとは関係のない相手の方が良いだろう。そのような幸せというか幸運を願う程度には、アンドラーシもエシュテル・バラージュに好感を持っていた。
「――お前はいつでも、誰が相手でも良いのだぞ」
「……は?」
エシュテルの姿を思い浮かべていたので、それに言われたのがあまりに予想の外だったので、アンドラーシは思わず聞き返した。と、見れば王が悪戯っぽい笑みで彼を見ていた。
「次の戦いはいつ起きるのか分からぬのだ。身を固めるなら今のうちだ」
「はあ……」
次、と。相手をはっきりと言わないのもまた、王妃を慮ってのことなのだろうか。側妃の御子が無事に誕生すれば、リカードも黙ってはいまい。だから乱が起きるのは時間の問題――それは、分かるのだが。結婚など面倒臭い。それが彼の偽らざる本音だった。
「今はまだ何かと慌ただしい時。そのようなこと、陛下の御代が平らかになるまでは考えることも及びません」
だから、アンドラーシはいつもの口上で王の軽口を躱したのだった。