小さな手 シャスティエ
ティゼンハロム侯爵の弾劾が失敗に終わったあの日から数日後。シャスティエは改めて王と王妃――そして王女を離宮に迎えていた。先日の席の仕切り直しということになる。幼いマリカに懐妊中の姿を見せるのは不安だったが、父であり――一応は――彼女の夫である王のたっての願いというか命令だった。
先立ってシャスティエのもとを訪れた王は、いっそ不思議そうにしていた。
『ミーナだけでなく、マリカも塞いでいるようなのだ。お前と会えば良い気晴らしになるだろう』
――それは、そうでしょうね……。
単に機嫌が悪い程度のことだとでも考えていそうな王に、思ったことをそのまま告げることはしなかった。ふたりの気鬱の本当の理由――あのエルジェーベトという侍女がミーナやマリカにとってどのような存在だったのかを、この男は知らないのだ。教えれば多少は気が咎めるのかもしれないが、親しい人を奪われたふたりにしてみれば、それを為した者に慰められても大した救いにはならないだろう。
だからシャスティエは代わりに気に懸かっていたことを尋ねた。
『あの侍女は確かに死を賜ったのですね?』
『……と、報告された。首も届けられたが――』
――やっぱり……。
王が言い淀んだ理由は、シャスティエにも分かる。差し出された首が真実エルジェーベトのものであるか、断言できないということなのだろう。親しくもない使用人への認識など、しょせんその程度だ。
はっきり顔を見分けることができるとしたら、王妃に仕える侍女たちか召使たちか。しかし、彼らはティゼンハロム侯爵の圧力から自由ではないだろう。侯爵を恐れず証言できるのはミーナとマリカくらい、けれど歪んだ形相も恐ろしい死体など、妻子に見せたいものではないはずだ。
シャスティエ自身もあの女のことは見知っている。ティゼンハロム侯爵を憚ることなく証言することも、できることはできるが──
『私が、検分いたしましょうか……』
決して、気の進むようなことではない。たとえ彼女の命を狙った女だとしても。きっと、ミリアールトの王宮で見た叔父たちの首を思い出してしまうから。生きている姿を知っている人たちが冷たく変わり果てた様は、ちらりと脳裏に過ぎるだけでも心臓が凍るような悲しみと恐怖を呼び覚ます。それをしたのも目の前のこの男なのだが、それはきっと今考えてはならないことだ。
『バカな』
肉親の死への悲しみと、また死体を見ることへの恐怖、そして王への怒りと憎しみ。それらの渦巻く感情を押さえ込んで、それでも恐る恐る口にした提案は言下に否定された。シャスティエの心中など一切知らないような、鋭く咎める目線と共に。
『胎の子に良いはずもあるまい。愚かなことは考えるな』
『はい……』
惨いものを見ずに済んだことに一抹の安堵を覚えつつも、不安は拭えなかった。エルジェーベトはティゼンハロム侯爵の忠実な駒で、ミーナやマリカにも影響力を持っている。そのような者が罰を逃れて生きている可能性を、見過ごしても良いものか。また何か良からぬ企みを巡らせるのではないだろうか。
『リカードとの争いは避けられぬ。謹慎したところで実際におとなしくしているはずもなし……侍女ひとりの生死などもはやどうでも良い。徒につついてはまた内乱になりかねん』
心中の思いはシャスティエの顔にも出ていたのだろう、王は強い言葉で断言してきた。侯爵の叛意が明らかである以上は、罪人への仕置を誤魔化したかどうかは些末事、ということなのだろう。強硬に出ては真冬に、それもティグリス王子の乱で消耗したところで戦わなければならなくなる。
ならば今はお互いに様子を窺おう、という。それも一理なくはないが――王の声にも、自身に言い聞かせる響きがあるように聞こえるのは気のせいだろうか。
『お前は健やかな子を生むことだけ考えていれば良い。王子であれば最大の武器にも切り札にもなるだろう』
『……はい』
――生まれる前も、生まれてからも。利用されて狙われるということね……。
我が子を憐れんでシャスティエはそっと膨らんだ腹を撫でた。もちろん彼女も利用しようとしているひとりであるからには、身勝手な感慨に過ぎなかったのだが。
とにかく、ティゼンハロム侯爵と直接やり合うことができない以上、今できることといえばミーナを取り込むことくらいだ。父よりも夫を、迷いなく選んでくれるように。
だから、シャスティエは王とふたりしてミーナとマリカの前では和やかに振舞おうと取り決めたのだった。
「ミーナ様、今日こそお会いできて嬉しゅうございます」
「シャスティエ様……」
「マリカ様も。ようこそお出でくださいました」
そうとあらかじめ決めてはいても、ミーナたちを前に微笑むのにはかなりの気力を要した。シャスティエの懐妊を目の当たりにした時、父と夫の確執を見せつけられた時。この優しい人に涙を流させた原因の一端は、間違いなくシャスティエにもあったのだから。気やすく笑いかけるなど、どうしても図々しいと思ってしまうのだ。
「私こそ。……マリカも楽しみにしていたのよ。ね、マリカ?」
「……これを、どうぞ」
「まあ、私に?」
ミーナの微笑みもどこか硬いのに気付かない振りをしながら、シャスティエはマリカが差し出す花束に目を細めた。
「咲いているお花を探して、お母様と摘んだの」
「まあ。昨年も、いただきましたわね?」
「ええ、この季節だから……お庭も寂しいと思ったの」
寡妃太后の毒杯を呷って臥せっていたシャスティエへの見舞いとして、ミーナは白い薔薇を贈ってくれたのだ。今回は、より明るい色の可愛らしい花が集められている。白い小さな花に、橙の鞠の形をしたもの、赤から薄桃色、白とレースのような花弁を重ねたもの。だが、うっとりと花を眺めていると、ミーナはどういう訳か悲しげに俯いてしまう。
「芸がないことだとは思うけれど。でも、綺麗だから……」
「いえ! 見蕩れておりました。お心遣いに、感謝の言葉もございません」
思えば昨年の時も、この方はひどく申し訳なさそうな顔をしていた。シャスティエが倒れたのは自分のせいだと言って。ミリアールトで乱が起きたのはその後すぐ。続いてシャスティエは側妃として上がり、更にはティグリス王子との内乱もあった。この一年の間、ミーナこそ心が休まる暇がなかっただろうに。
例え身体は守られていても、外の嵐の気配はこの方にも感じられただろう。さらに、ただでさえ怯え続けた不和と争いの気配は、今は身近に迫っている。父も夫も信じきることができない状況は、さぞ心もとなく恐ろしいことだろう。
――なのに、会いに来てくださった……!
父か、夫か。王が突きつけた残酷な選択のことは聞いている。肉親に背を向けることの辛さ難しさをよくよく慮りつつも、できればミーナには王を選んで欲しかった。それは、シャスティエもミーナと敵対しないで済むということだから。夫の傍に他の女が侍る苦しみは変わらないとしても、自身がその苦しみの元だとしても、憎み合うよりはよほどマシなはずだから。
今日のこの場は、仄かな希望になるのかもしれないのだ。
「中に、お入りくださいませ。王妃様――ミーナ様がいらっしゃるからと、ささやかですが席を設けてありますの」
「俺もいるのが見えぬのか」
「まあ、ファルカス様ったら」
恐らくはわざとではなかったのだろうが、王がぼやくように呟いたのを聞いてミーナの微笑みも自然なものとなり――そして、シャスティエにもそれは伝染ったのだった。
王と王妃と王女と。血の繋がった三人と同じ席についたシャスティエは、ただひとりの他人だった。それでも王との婚姻によってこの一家のひとりに数えられている。それは、とても不思議な感覚で、絆と呼ぶのも微かな繋がりに過ぎなかった。
シャスティエは憎い男の子を身体に宿し、慕うミーナを悲しませている。ミーナは、シャスティエの身を案じ、父の所業を恐れ厭っているのかもしれないが、親しい侍女を奪われたことは蟠りとなっていて当然だろう。
表向き和やかに言葉を交わしていても、大人三人の会話はどこかぎこちなく、不自然な間が空くこともままあった。そして、マリカも――
「マリカ様……? 蜂蜜はお好きではありませんでしたか? 他のものを作らせましょうか……」
好みのはずの菓子にもあまり手が伸びていないのを見て、シャスティエは声を掛けた。親たちの不穏な気配を察してのことだとしたら、あまりにも哀れだと思ったのだ。
「ううん……」
だがマリカはあっさりと首を振った。
「お腹、すごいなあって思って……痛くないの?」
「ああ」
少し心配そうに、けれど気になって仕方ない様子で。幼い王女の目が腹に注がれているのに気付いて、シャスティエは苦笑した。例えば身ごもった侍女などは実家に下がるものなのだろうから、マリカは妊婦の腹を間近にみたことはなかったのかもしれない。
「触ってごらんになりますか?」
「……うん……」
頷いてはみせたものの、異様に見えるであろうシャスティエの腹に触れるのはためらいがあるらしい。マリカは助けを求めるように父母の顔を交互に見上げた。
「マリカ、触らせてもらいなさい。赤ちゃんにご挨拶を」
「……うん」
母親のミーナに促されて、マリカはおずおずとシャスティエの腹に手を伸ばした。子供の小さな手が触れるくすぐったさに、シャスティエの頬にも笑みが浮かぶ。
「思ったより、硬いのね」
「羊水が詰まっているのだそうですよ」
「赤ちゃんが入ってるのね……」
一度触り出すと、マリカは遠慮なくぺたぺたと腹を撫で回す。と、例によって折りよく胎児が答えるようにマリカが触れたところを蹴った。
「あ、動いた……」
「……お姉様にお会いできて嬉しいのかもしれません」
「――お姉様!」
王妃の子を側妃の子と並べるのは無礼ではないだろうか、と思うとお姉様などと言うのも躊躇いがちになってしまった。が、マリカは意外にも目を輝かせた。
「お前にとっては弟か妹になるな。よく面倒を見てやると良い」
「はい、お父様!」
――どさくさに紛れて何ということを……!
ミーナたちには気づかれないように、シャスティエは王をこっそりと睨んだ。
マリカが無邪気に喜んでいるのは、大人たちの確執を知らないからだ。シャスティエの子が男だろうと女だろうと、その子は王の唯一の子だというマリカの立場を脅かすのだ。今は良くても、いずれ疎ましく思うこともあるかもしれないのに。何を気楽に言っているのか。
「あの、やはりこの子はミーナ様のお手元で――」
この機会に、と思い切って口を開く。先日はそれどころではなくなってしまったから。シャスティエとしては、王との間の子供など身近に置くのは怖いし嫌だ。ミリアールトの血を引く子供にイシュテンの王位を継がせるためならば、王妃の後見があった方が良いはず。そのような形にした方が、マリカも母の異なる弟――あるいは妹――に、抵抗を持たないのではないだろうか。
――ミーナ様も、きっと可愛がってくださる……。
「いいえ、シャスティエ様。それはいけないわ」
誰にとっても良いことのはず。そう思っての提案だったのに、ミーナは間髪を入れずに否定した。その眼差しの、珍しいほどの真剣さはシャスティエを戸惑わせるほど。
「子供をお母様と引き離すなんて。マリカと仲良くしてくれれば十分よ。あの、私にも抱かせてくださるかしら……?」
「それは、もちろんですけれど」
とはいえ驚く程の真摯な――そして悲しげな表情は一瞬のこと。ミーナはすぐにおどおどとした不安げな口調に戻ってしまう。安心させて差し上げねば、と慌てて頷きながらも、シャスティエの胸には疑問が渦巻く。
――子供は、母親と一緒が良い……? 本当に……?
いまだに子供に愛情など持てない母なのに。ミーナの方がよほど可愛がってくれそうなのに。血の繋がりというのは、それほどに重く確かなものなのだろうか。
「シャスティエ様の御子ならきっと可愛いでしょうね」
「そう、だと良いと思います……」
「お会いできるのが楽しみだわ……」
「……ええ、本当に……」
どこかぎこちないやり取りは、お互いに自身の言葉を本心から信じることができないからなのだろう。ただ、完全な嘘でもないはず。不安で恐ろしいからこそ、そうあってほしい未来を語るのだ。
――どうか、この方と争わなくて済むように。ティゼンハロム侯爵ではなく、王を選んでくださるように。
シャスティエが母としてどうなるかは分からないが、我が子とマリカと、仲良く戯れる間柄になって欲しい。これまでと、そしてこれから起きる争いで傷つく分、ミーナたちが心安らげる未来があるように。
――それには、この子が王子であって……そして、王がティゼンハロム侯爵に勝利しなければならないのだけれど。
更に、そうなってもなおミーナに憎まれることがなければ。先のことは果てしなく遠い道のりに思える一方で、時間は容赦なく過ぎていく。
シャスティエがイシュテンに来てから二度目の新年が来ようとしていた。