宣戦布告 エルジェーベト
エルジェーベトを乗せた馬車は、驚いたことにティゼンハロム侯爵邸に到着した。
――お屋敷を血で汚すおつもりなのかしら……?
リカードはこの上彼女と話すことはないだろうと、てっきり王宮から程よく遠ざかった荒野か森の奥深くで殺されるものだと思っていたのに。
いや、単に殺されるだけならばまだ良い。側妃の子を始末することに失敗し、しかも――少なくとも子の誕生までは――手出しをしないことを約束させられたのだ。存在自体が忌々しい子に、この世の空気を肺に吸うことを許してやらねばならないとは、リカードの心中はさぞ煮えたぎっていることだろう。その憤懣を晴らすためにも、さぞや惨たらしい仕打ちを受けるのだろうと、密かに覚悟を決めていたのだが。
彼女の疑問に対する答えが与えられるようなことはもちろんなく、エルジェーベトはリカードの私室に通された。時刻は既に夜になっている。側妃の離宮での一幕の後、最低限身辺を片付け移動をしている間にそれだけの時間が経っていた。
リカードは、エルジェーベトなどより遥かに多くの――そして重要なことに心を砕いてから帰ったのだろう。跪いた体勢から窺うと、老人の顔に刻まれた皺は常よりも一層深く、肌の色もくすんで見えた。無論それは疲れだけを意味するのではなく、怒りと屈辱が表面にも明らかに見えているのだと考えるべきだろう。
その証拠に、リカードの声は朗々として明瞭で、堂々とした風格を微塵も失ってはいなかった。先ほど王の前で嫌疑を晴らした時と同じだ。
「来たか」
「はい。この度の不始末、処分は如何ようにも。覚悟はできております」
エルジェーベトはやや性急に早口に答えた。リカードは他人に任せるのではなく、自ら役立たずに罰を与えたいのかもしれない、と思い至ったのだ。暴力を振るわれるだけならばそれなりに慣れてはいるが、殺されるとなると話は別だ。しかも、死の安らぎを得られるまでにどれほど苦しむのか分からないとなればなおのこと。
だから、殺すならばどのようにするつもりなのか、早く教えて欲しかった。
「お前の不始末ではあるまい。なぜ貴重な手駒を自ら損なわねばならぬ」
「え――」
だがリカードはごくあっさりと告げて、エルジェーベトに言葉を失わせた。
――でも。だって……。
そのような理屈が通るとは思えない。エルジェーベトは、胎児とはいえ王の子の命を狙った大罪人ということになっている。それを容赦なく罰したところを見せなくては、リカードの忠誠がまた疑われることにもなろう。そうなっては、彼女が名乗り出た意味自体がなくなってしまうではないか。
「で、ですが。王には私を処分すると――」
「そのようなこと!」
まさか耄碌した訳でもなかろうと思いつつも反論すると、リカードは嘲りも露に鼻を鳴らした。
「背格好の似た女の死体を用意すればよかろう。相好も分からなくなるまで痛めつけたのだと言えば文句もあるまい」
「王が信じるでしょうか……」
「自惚れるな。お前の生死などどうでも良いのだ。全て儂の描いたことだと、どうせファルカスも分かっていよう。要は形式を整えてやれば良いのだ」
リカードが王の名を呼び捨てたことに、エルジェーベトは耳聡く気が付いた。今までは、傲慢な言動やミーナへの無配慮に苛立ったとしても王として立てる姿勢を見せてはいたのだが。
――殿様が、ここまでお怒りになるなんて。
企みを潰されたからか。自身にまで疑いをかけられたからか。夫と父との不仲を、ミーナに見せつけたからか。そのいずれもが原因であって、しかし多分決め手ではない。王に背けばリカードの野心も潰えるのだから、王の力を妨げるべく暗躍はしても、本格的に逆らうことは――少なくともこれまでは――考えていないようだったのに。
数十年に渡って権力を握る時を待ち続けたリカードの忍耐をして、限界だと思わせた事態。それは――
――あの女が……許せないのね……。
ミーナは王女しか授かることができなかったけれど。それでも、マリカの子が王になれば、その曽祖父として権力を奮うことができる。それまでの我慢だと思っていたのだろうが――あの女は、あっさりと孕んだ。例え胎の子が女児だったとしても、側妃はまだ若い。ティゼンハロムを退けようとするならば、王はミーナには触れずにまたあの女と子をなそうとするだろう。
その未来をありありと見たがゆえに、リカードは王を切り捨てたのだろう。
「お心の、ままに……」
リカードは、ティグリスのように乱を起こそうというのだろうか。自ら蟄居を申し出たのは、その準備のためなのだろうか。その行動は、ミーナにどのような影響を及ぼすだろうか。彼女には何も分からない。だから、ただ一つできるのは、頭を垂れて従うだけ。娘に対してはリカードも無体はすまいと、信じるだけだ。
「お前はよくやったと思っているのだ。あの場で、よく儂の意図を汲んで動いてくれた」
そこへ、思わぬ優しい言葉が掛けられたので、エルジェーベトは思わず顔を上げた。リカードから褒められるのは非常に珍しいこと、忠誠も献身も、この男にとっては当然のように捧げられるものと思っているようだったから。
数秒の間、まじまじとして主を見つめ――無礼に気付いて顔を伏せる。どうせ気まぐれのようなものだろうから、大げさに喜ぶようなことでもないと思えた。それに、これで彼女は名前も立場もなくした。リカードの手駒であることはこれまで通りだが、これまで以上に容易に切り捨てられるようになるのだろう。何より、もうミーナの傍近くに仕えることはできなくなった。
「全て、ミーナ様の御為ですから……」
「マリカもお前が死んでは悲しもう。折を見て助けてやったのだと伝えれば儂に感謝するだろう」
「そのように存じます……?」
――マリカ様……?
ミーナではなく……なぜか、王女のマリカの名を出されて。エルジェーベトは戸惑いつつも従順に答えた。確かにマリカも懐いてくれている。いなくなったのを惜しむくらいのことは、してくれるとは思うのだが。
しかし、それはリカードの望む態度ではなかったようで――短気な老人は、わずかに目を細め、声にも苛立ちを滲ませた。
「マリカとはお前も長い付き合いだからな。これからも娘のために尽力を惜しまないな?」
焦れたように、一語一語を強調する話し方をしたリカードに、言葉の裏を読み取ろうと神経を尖らせる。そして、気付く。マリカとは、王女の名というだけではなかった。
――あ……!
王妃ウィルヘルミナ。その名は、王から与えられたものだ。嫁ぐに際して夫から新たに名を授けられるのは、貴賎を問わずイシュテンの女が等しく従わなければならない倣い。だから、今はミーナと呼ばれるあの方も、嫁ぐ前は違う名を持っていた。思えば、エルジェーベトにとってはそちらの名で呼んだ年月の方が長かった。
その、かつての名とは――マリカ。今はウィルヘルミナ、ミーナと呼ばれるあの方は、娘に父母からもらった名前を改めてつけたのだった。愛娘のその気遣いに、リカードもその時はとても喜んでいる様子だった。
「はい。必ず……!」
だが、今問題にすべきはそのことではない。夫から与えられる名――婚家名は、文字通り婚姻の証明ともなるもの。その名で呼ばないということは、婚姻を否定するということ。リカードは、王からミーナを――否、マリカを取り戻すと宣言したのだ。
それは、王への明らかな反逆の意思を示したということでもある。外戚として権力を得るという穏当な道が閉ざされたと見るや、リカードは即座に違う手段を採ることに決めたのだろう。
――でも、当然だわ……!
王が現在の位を得たのはティゼンハロムの助力あってこそのことだった。それも、マリカの好意を得たからというだけで。その恩もマリカの想いも踏みにじられた今、王に与するべき理由など見当たらない。
「これから、私はどのようにすれば――」
「息子は王宮に置いてきたのだな」
「はい。私が母だとは口外しないようにと言い聞かせてきましたが……」
エルジェーベトは息子の鬱陶しい泣き顔を思い出していた。詳しく説明する暇もないというのにうるさく縋ってきて追い払うのが大変だった。もしも母の罪の連座を逃れさせることができれば、バラージュ姉弟の時のように良い遣いになってくれるだろうから、完全に突き放す訳にもいかなかったのだ。
「その子供は良い駒になる。折を見て手紙でも届けさせてやろう。親子の情を餌に働かせるのだ」
「はい。ありがたく存じます」
リカードの言葉は、彼女の判断が正しかったと裏付けてくれた。大丈夫、息子のラヨシュは敏い子だし、王妃と王女への忠誠を常々言い聞かせてきた。母であるエルジェーベトを慕ってもいる。直接会うことはできずとも、きっと言われるがままに動いてくれるだろう。
「良い気になっていられるのも今のうちだ。王もあの売女も――バラージュの小僧どもも。儂を敵に回すとはどういうことか、思い知らせるのだ。娼婦の子が生まれるのも許してやろう。ただしいずれ必ず母親の目の前で叩き潰してやる」
高らかに宣言するリカードは、エルジェーベトの目には誇らしく頼もしく映った。リカードの怒りと憤りは――畏れ多くはあるけれど――彼女も抱くものだから。長らく王に寄り添うマリカを見ては嫉妬に身を焦がす思いをしてきたのだ。やっと愛しいマリカを取り戻すことができる。そう思うと、命を拾った実感がじわじわと湧くのと相まって、脈打つ心臓から新たに血が全身に送り出されるような気がした。またマリカと共に生きられるということ――それは、彼女にとっては正しく生まれ変わるようなものなのだ。
「いつ、立たれるのですか」
喜び逸るあまりにリカードを急かすと、短慮を嘲るような苦笑でもって迎えられた。
「とはいえすぐに動くのは確かに拙い。……しばらくは、マリカたちを慰めるのに専念する」
「はあ」
リカードの言はいかにも悠長でエルジェーベトを少なからず失望させた。が、そこを教え諭してやるのも、老人の悦びだったらしい。
「ブレンクラーレの品などが良かろう。ミリアールトの文化など何ほどのものか。かの大国の流行には遠く及ぶまい」
「それは、そうでしょうが……」
主は何かを仄めかそうとしている。言葉通りに、娘や孫に遠国の品を取り寄せてやろうというのではない……と、思う。
――ブレンクラーレに……何が……?
幸いにというかリカードも高揚したことで苛立ちも幾らか薄まっているようだった。このまま機嫌良く、彼女に手の内を見せてくれるのだろうか。
「折りよくブレンクラーレから取引を持ちかけられたところなのだ」
「取引……?」
確かにティゼンハロム侯爵家のような名家ともなれば、珍しいものや高価なもの、様々な品が持ち込まれるものだ。例え高い文化を誇り、イシュテンを野蛮と見下す大国の者であろうとも、商人どもは客に合わせて態度を変えるものだ。内心はともかく、表面上は頭を下げて媚びへつらう姿は彼女の見慣れたものだったのだが――
「そう――鷲の巣城の強欲な女狐が、この儂を客に選んだらしい」
「――――!」
「実のところ二度目ではあるのだが。女狐め、イシュテン王に男の世継ぎが生まれるのがよほど恐ろしいらしい」
エルジェーベトの言葉が出ないほどの驚きは、リカードを充分満足させるものだったらしい。老人の低く深い笑い声が室内に響いた。
「では……では、ティゼンハロムは……」
「皆まで言うな。流石に人に知られる訳にはいかぬ。――お前だからこそ、教えてやるのだ」
リカードの物言いは、信頼を告げる時でさえ恩着せがましかった。しかし、ブレンクラーレとの取引とやらは、それも気にならないほどの衝撃だった。ブレンクラーレとの密約。それは、イシュテンの歴史によくある内紛や内乱とはまるで話が違う。他国の後援を得て王を討つなど。女の――そして、王への敵意も強いエルジェーベトをしても、その発想は忌まわしいと思ってしまう。
そして、忌避感を別にしても、ブレンクラーレの摂政王妃といえば手ごわい策略家ということではないのだろうか。
「取引とは……ブレンクラーレは何を望むのでしょうか……」
「知らぬ。知る必要もない」
リカードは、女の懸念を侮蔑も露に切り捨てた。
「イシュテンとの間に売り買いが成り立つと思っているならば女狐めも甘いことだ。求められるままに言い値を払ったのでは戦馬の民の名が廃る。気に入らぬ取引ならば奪って済ませれば良いのだ」
「そんな……」
「王を立てて搦め手にしてやろうとしたのが間違いだった。そのために娘にこのような思いをさせるとは!」
父が糾弾される様を見て顔色を青ざめさせていた娘を思い出したのだろう、リカードの顔にまた怒りの色がのぼった。
「恥は雪ぐしこの屈辱は倍にして返す。ファルカスもあの売女も、イシュテンの倣いを骨身に染みるまで教え込んでやろう」
感情のままに力を奮い、殺し奪う、という。この上なく野蛮な――しかし力強く頼もしい宣言。それは、イシュテンの王に背くためのものではあるけれど、イシュテンの気風には似つかわしいものだった。