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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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初めての秘密 ウィルヘルミナ

 ウィルヘルミナは夫の腕の中で目を覚まし――その事実に驚いた。昨夜は目を閉じても夫に抱きしめられても安らぐことなどできず、夢の世界に逃げることはできないと思っていたのに。それでも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


「あ……」


 呑気に眠り込んでいたことに恥じ入りながら半身を起こすと、既に目覚めていた夫と目が合った。


「よく眠れては――いないようだな」

「ファルカス様こそ……」


 見上げる視線の先で、夫の目は充血していた。眠れなかったのはウィルヘルミナばかりではない。夫もまた、ひと晩中神経を尖らせていたに違いない。そう思うとなおのこと、自分だけ寝ていたことが気まずくてならなかった。


「申し訳ありません」

「なぜ謝る」

「おと――父のせいで……」


 謝りたいことはひとつではない。今までのこと、昨日のこと、これからのこと。父と夫の間柄が今まで信じてきた通りではないのだ。夫の寝不足の原因は、間違いなくウィルヘルミナの父なのだと、今更ながらに気付かされたのだ。


 ――エルジー……。


 昨日の一幕も、表面通りに受け取ることはできなかった。証拠だとか紋章だとか。真偽をどうこうと言うことは彼女にはできないけれど、でも、父にとって都合が良すぎる展開だったこと、夫がひどく不快げで苛立った様子だったことが、裏にあるものを思わせて怖いのだ。

 エルジェーベトはあのままどこかへ連れ去られてしまった。父と夫にとって、それがどういう意味があるのか、信頼していた侍女の罪はどれほどなのか。――罪は、父にも及ぶのか。

 頭が覚醒するにつれて不安と恐怖が押し寄せて、寒気が襲う。すぐ傍に肌を触れ合わせているはずの夫の温もりでさえ、遠い。


「お前のせいでないことは分かっている」

「いいえ! 私のせいです!」


 そして夫の優しい言葉に、自身の卑怯さを思い知らされる。


「私の……せい……」


 父が犯した罪ならば、子にも及ぶものなのだろう。知らなかったからといって済まされることではないはず。

 いや、ウィルヘルミナの場合は知らなかったことこそが罪だ。エルジェーベトは、彼女やマリカを思ってのことだったと言った。


「私が……何も知らなくて……できないから……」


 エルジェーベトと同じことを、父も思ったのだろう。何も知らせず教えないことが最善と思わせてしまう、無知と無力。シャスティエの前から逃げ出したことで、自らその扱いが相応しいのだと証明してしまった。


「それもお前のせいではない」

「でも……!」


 涙が溢れ出るのが悔しくて悲しくてならなかった。泣いてしまうから、夫も慰めてくれるのだ。ただでさえ疲れている人に気を遣わせてしまう甘えた心根も、我ながら幼稚で情けない。


「お前と父親とは別の存在だ。父の罪をお前に問うことなど考えてはいないから安心しろ」

「ファルカス様……」


 涙を拭われて慰められるのも、心のほんの片隅だけ。やはり夫の胸の裡では、父は既に罪人なのだと思い知らされて胸が詰まる。


「父は……何をしようとしているのですか。ファルカス様にも、シャスティエ様にも……どうして……」

「マリカを擁してその子を王位に就け、王の曽祖父として権を握りたいらしい。ゆえに俺が力をつけるのも、側妃が男児を生むのも望まないのだろう」

「そんなこと……私は望みません。マリカだって……」


 夫とよく似た愛娘(マリカ)の鋭い目が、ウィルヘルミナの脳裏に蘇った。母は、ウィルヘルミナは権力など望まない。マリカも同じだろうと思いたいけれど――強い意思を秘めた娘の目は、夫と同じだと感じたばかりだ。マリカは、シャスティエやその子を疎んじることもあるのだろうか。いや、そうならないように諭すことこそ母の務めだ。その、はずだ。


「お前たちの望みになど頓着しないのだろう。あの老人が考えているのは自身のことだけだ」


 ウィルヘルミナが言い淀む間も、夫はずっと髪を撫でて彼女を宥めようとしてくれていた。だから、夫の優しさに縋ってみたくなってしまう。どうにかできるのではないか、彼女にもできることがあるのではないか、と。甘い期待を抱いてしまう。


「私から頼んでも……? 私、お父様とファルカス様が争うなんて嫌です!」


 ウィルヘルミナが知る限り、父は娘にも孫にも甘かった。彼女が望んで叶えられないことは、なかったはず。


 ――お父様を止めることができたら……。


 それこそが、彼女にできることではないのだろうか。


「無理だと思うがやってみたいと思うなら止めはしない」

「…………」


 一縷の望みは、しかし、夫の冷たい微笑によって砕かれた。そんなことはない、やってみせる――そう言い募ることを許さない、突き放すような声だった。実の娘である彼女よりも、多分夫の方が父を知っているのだ。

 呆然として言葉を失っていると――夫の表情がふと曇った。珍しく不安げですらあるようで、ウィルヘルミナは密かに驚く。


「お前は俺よりも父親を選ぶか?」

「いえ……」


 咄嗟に答えたのは、驚きのあまり反射のように首を振っただけに過ぎない。だからウィルヘルミナ自身にもその声は弱々しくて曖昧なものに聞こえた。もちろん夫の顔も陰りを帯びたままだった。


「ティゼンハロムと争ったとしても、俺がお前を害することもない。変わらず王妃として扱うことを誓う」

「…………」

「一方で、あの男も、俺に何があろうとお前たちは守り通すだろう」

「何があろうと……?」


 父が、夫に何をすると思っているのだろう。夫は彼女が想像すらできないことを思い描いているようで、ウィルヘルミナの心臓は冷えた。一方で彼女に触れる夫の掌はあくまで優しい。


「だから、お前の心ひとつだ。俺か、父か。心のままに選べば良い。――できれば俺を選んで欲しいが」


 朝の会話はそれが最後だった。王である夫は忙しいから。身支度を整えた夫は去り、ウィルヘルミナはひとり取り残されたのだ。




 エルジェーベトがいないとなると、ウィルヘルミナの周囲は何となく全てが噛み合わないように思えて居心地が悪かった。生まれた時から一緒に過ごした乳姉妹だから、主の好みも、言葉に出さない望みやちょっとした――時には気づいてさえいない――不満も全て分かってくれた。彼女の方でも気を許しきっていたから、それは気楽に過ごすことができていたのに。


 ――エルジー……もう会えないの……?


 彼女にとってエルジェーベトはただの侍女ではなく、姉妹や友人のようだとさえ思って頼っていた。彼女やマリカには常に優しく穏やかに接してくれていた一方で、シャスティエに対しては恐ろしい企みを巡らせていたというのは、いまだに信じがたい。でも、エルジェーベト自身が罪を認めたことは紛れもない事実だった。


 残った他の侍女たちがこちらをちらちらと気にしていて、視線が刺さるようなのも落ち着かない。彼女たちもエルジェーベトに何があったかは知らないはずだが、何事かが起きているのは察しているのだ。主の心中を慮ってか、直接尋ねてくる者はいなかったが。父が口止めでもしているのか、そうでなければ――


 ――どうせ私は何も知らないと思っているのでしょうね。


 ウィルヘルミナの唇が弧を描く。けれど、口元とは裏腹に、彼女の心を満たすのは苦々しい思いだけ。今の彼女には、何もかもが自身の無知と無力を表すものにしか思えなかった。このような笑い方をすることは今までになかったから、頬も引きつって今の捻れた心を表すよう。


「はぁ……」


 何かしなければ、と思うのに何をする気にもなれず、ただぼんやりと庭を眺めるだけ。何か――いつもならば刺繍や侍女たちとのおしゃべり、だろうか。しかしそんなことをしている場合ではないと思う。

 ならば何をすべきかと言えば。父と夫、どちらにつくか考える? そう、それは多分とても大事なことだ。大事すぎて、考えるのも恐ろしいほど。できることならば決断しないままで身体を縮めてやり過ごしたいと思ってしまうほど。


 そうはいかないこともよくよく分かってはいるけれど。この数日あまりにも沢山のことがあったせいか、頭が上手く働いてくれないようだった。あるいはそのように自分に言い訳をしているだけなのだろうか。


 とにかく何をするにも億劫で、時間だけがのろのろと過ぎていく。冬の季節のこと、目に映る彩りがひどく寂しいものなのも悲しかった。温室に移動すれば鮮やかな花も咲いているのだろうが、もはや立ち上がることさえ面倒だった。


 鳥も蝶も飛ばず動くものもなく、雪の白だけが寒々しい光景――と、そこに黒い塊が現れた。


「お母様!」

「……マリカ?」


 突然の闖入者に慌てて焦点を合わせれば、それは娘のマリカだった。例によって狐の襟巻きをしっかり首に巻きつけて、息を白く弾ませている。雪も降る季節だというのに、構わず庭を走り回っていたのだろうか。


 ――でも、庭から入ってくるなんて。


 娘の小さな指が窓枠に掛かったのを見て、ウィルヘルミナは慌てて立ち上がった。仮にも一国の王女たる者がして良い振る舞いではないのだ。


「マリカ、窓からはダメ。扉の方へ回りなさい」

「お母様、ラヨシュがこっそりお話したいって」

「ラヨシュが……?」

「王女様、私は良いですから……!」

「お母様とお話したいんでしょ? 早く!」


 ふたつ目の声を聞いて初めて娘の背後を伺うと、泣きそうに顔を歪めたラヨシュ――エルジェーベトの息子――もそこに佇んでいた。というか、マリカは少年の手をしっかりと握っている。どうやら手を引っ張って無理に母の部屋に導いてきたということらしい。


「……どうしたの!?」


 ラヨシュの表情にただならぬものを感じて、ウィルヘルミナは窓を大きく開けた。すると、冷気と共にマリカが窓枠を踏み越えて室内へ入ってくる。マリカのドレスについていた雪片が室温で溶けて、水滴となって床に落ちた。


「ラヨシュも。構わないから入りなさい」

「ですが」

「良いから」


 雪と泥に汚れた靴で王妃の部屋に踏み込むのは憚られるのだろう、首を振って逃げようとしたラヨシュの手を捕まえて、半ば無理矢理に部屋の中へ招き入れる。侍女たちを誰も近づけていなかったのはちょうど良かった。


 ――どうして今まで……!


 ラヨシュの髪や衣服についた雪を払いながら、己の至らなさにまた気付いて恥じ入り、唇を噛む。この少年のことは彼女もよく知っていたのに。娘の良い遊び相手を務めてもらっていたのに。自分のことばかりで、今の今までラヨシュの今後について考えが至っていなかったのだ。


「お母様の――エルジーのことね?」

「は、はい……!」


 床に膝をついて少年と目線を合わせると、母親(エルジェーベト)と同じ黒い目がみるみるうちに涙で満たされた。それでも、王妃の前だからか男は人前では泣くものではないとでも思っているのか、浅く荒い呼吸を幾度かしてから、震える声で訴えてくる。


「き、昨日、母が恐ろしい顔でやって来て、もう親子ではないと言われました。どうしてですかと聞いたら叩かれて……でも、次の瞬間には抱きしめてくれて。王妃様と王女様に変わらずお仕えするのだと言い聞かされました」

「…………」


 涙がひと筋、ラヨシュの頬を伝う。慌ててそれを拭うところを見れば、確かに赤く腫れているようだった。母親に拒絶されて叩かれたこと。それは、幼い少年にはどれほどの衝撃だっただろう。でも、ウィルヘルミナにはエルジェーベトの意図が分かる気がした。


 ――もう親子ではない……。


「今日も母の姿が見えなくて。誰もどこにいるか知らないと。あの……王妃様は、何かご存知ではないかと……」


 親の罪は子供にも及ぶのではないかと、彼女も今朝方考えたばかりだ。ウィルヘルミナの父はまだはっきりと罪を問われた訳ではないけれど、エルジェーベトは。あの忠実な侍女は、ウィルヘルミナのために罪を犯してしまった。それを、夫の前で認めてしまった。


 ――これも、私のせい……?


 せめて息子だけでも逃したくて、そのようなことを言ったのではないだろうか。


「あ……無様なところをお見せして……申し訳ありません……」


 ウィルヘルミナの無言を、不快を示しているとでも思ったのだろうか。ラヨシュが俯いてしまった。床に落ちる水滴が増えたのは、溶けた雪では、ない。


「良いのよ……!」


 堪らず、ウィルヘルミナは少年を抱き寄せていた。この少年を泣かせているのも彼女の咎だと思うと、居ても立ってもいられなかった。


「エルジーは……少し、用事を頼んでいるだけなの。しばらく会えないだけだから……」


 しばらく、とは一体いつまでのことなのだろう。ラヨシュは、本当に母とまた会うことができるのだろうか。分かっていながら嘘を吐くのはほぼ初めてのことなので、ウィルヘルミナの心臓は早鐘のように打ち、後ろめたさが胸を締め付ける。


 同時に胸を貫くのは、雷に打たれたような鋭く痛みを伴う気付きだった。ウィルヘルミナは今まで何度、侍女や使用人が突然姿を消すのを経験してきただろう。遠方に嫁ぐことになったとか、親族が病を得たとか。……遣いでしばらく旅に出ているとか。口実はその都度違ったけれど、彼女はろくに別れを惜しませてくれなかったその者や周囲の大人を恨んだものだった。


 でも、彼女はしばらくすると消えた者たちを忘れてしまっていたのだ。遠くでどのように暮らしているのか、親族は快復したのか。誰も教えてくれなかった。それは――そのようなことなどなかったから。教えられることではなかったからではないのだろうか。

 全員が全員とは言わないけれど、消えた者たちは粗相をして叱責されていた、ような気がする。何もなかったように見える者も。今回のエルジェーベトのように、ウィルヘルミナの知らないところで何かが行われていたのだとしたら。


「これまで通りマリカの相手をしてあげてちょうだい。誰か、親代わりになってくれるように頼むから。いえ、私をお母様と思って良いから……」


 自分は、思った以上に何も知らなかったのかもしれない。そうと気付くのは、足元の大地が崩れ落ちるかのような恐怖だった。ウィルヘルミナは、自身を誰よりも幸せな女だと思ってきたけれど、それが他の者たちの犠牲の上に成り立っていたのだとしたら。


 (やま)しさがラヨシュを抱き締める腕に力を込めさせ、彼女の決意を固いものとしていた。知らず知らずのうちに、多くの者を傷つけていたのかもしれない。少なくともラヨシュが母親と分かれることになったのは紛れもなく彼女のせいだ。ならば、償いをしなくては。


 ――ファルカス様も……シャスティエ様も。子供は許してくださるはず……!?


 この子だけでも、罪に問われることがないように。最初に浮かんだのは、夫に相談して許しを乞うことだった。だが――


 ――ダメ。お父様にも容赦なさらないのだもの。それに、きっとエルジーのことを怒っていらっしゃる……。


 昨夜の記憶が今朝の夫とのやり取りが、ウィルヘルミナの勇気を挫く。父と夫の対立はとても深刻なようだから。それに、エルジェーベトはシャスティエの――夫の子の生命を狙ったのだ。子供の生命は子供で償えと言われたらどうしよう。


 ――だから、見つからないようにしなくては……。


 シャスティエもラヨシュの存在は知っている。エルジェーベトの息子であるということも。でも、顔を合わせたのはほんの数回のはず。わざわざ見つけ出して罪に問おうとはしないのではないだろうか。ウィルヘルミナが、しっかりと守ってあげれば。賢いこの子のことだから、出歩いて良いところを言い聞かせておけば、大丈夫、なのではないだろうか。


「私が守ってあげるわ……」


 ラヨシュをしっかりと抱きしめながら告げると、よほど神経が張り詰めていたのだろう。少年も嗚咽を噛み殺すように喉を鳴らしてウィルヘルミナに抱きついてきた。その背を優しく撫でながら、繰り返し同じことを囁く。大丈夫、守ってあげる、と。




 ウィルヘルミナがやっと見つけた自分にもできること。それは同時に、夫に対して初めて持った秘密でもあった。

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